優しくて遠い、幸せだけれど切ない夢をみた。 「ねぇお父さん。雲ってすっごく足がはやいんだね」 「? どうしてそう思ったんだい?」 「だって、ずっとずっと追いかけても、全然追いつけないの。昨日ね、雲を追いかけてずっとずーっと走ってたんだけど、置いていかれちゃった」 「…ああ。それで迷子になったんだね?」 「…うん」 「まったく、シランドから一人で外に出てはいけないって言っただろう? よりにもよってサーフェリオ水中庭園まで行くなんて…まぁ、無事で良かったけど」 「ご、ごめんなさい」 「うん、次からは気をつけるんだよ? …でも、雲を追いかけて行くなんて、何かあったのかな?」 「んー…。えっと、何かあったんじゃないんだけど…」 「うん」 「雲の向こうには、何があるのかなぁって」 「雲の向こうか…」 「クレアのお家で見せてもらった絵本にね、"雲は、空と太陽が大切なものを見せたくなくって、だからそれを隠すためにあるんだ"って書いてあったの」 「へぇ…。面白い事が書いてある本だな」 「うん。だからね、雲の向こう側には何があるのかなって思って」 「なるほど」 「お父さん、雲の向こうには何があるの?」 「そうだなぁ」 「お空やお日様があるのは知ってるよ。でも、何を隠してるの?」 そう尋ねられた青年は、少し困ったような顔をしていたが、やがてにっこりと笑ってこう言った。 「…雲の、向こうにはね」 010:雲の向こう 「おい」 アーリグリフでおそらく一番見晴らしが良くて、一番高い位置にある場所。 街全体が見渡せる見張り塔の天辺に彼女はいた。 背後からかけられた聞き覚えのある声に彼女が振り返る。いつも通りに仏頂面の彼が立っていた。 「あぁ、あんたか」 「またここに来てたのかよ」 「うん、ここは見晴らしもいいし空がよく見えるし、気にいってるんだ」 あんたが教えてくれた場所だろう?そう言って微笑む彼女に、彼はそっぽを向いて照れ隠しのように口を開く。 「アーリグリフで自由行動になる度に来てんじゃねぇか。飽きねぇのか」 「自分がまだよく知らない街を眺めるのは割と飽きないもんなんだよ」 彼女が微笑む。彼はそうかよ、と素っ気無く答えながら彼女の隣に立った。 「あんたがここに来るのは珍しいよね。またフェイトか誰かからの伝言かい?」 隣で城壁にもたれかかる彼に彼女が何気なく尋ねる。彼は少し間を開けてから、ぽつりと答えた。 「…いや、別に」 「そう? あんたが用もないのにここに来るなんて珍しいね」 不思議そうな顔の彼女がそう口にするが、彼は答えずに黙りこくる。 「まぁ、いいけど」 そう言って彼女はまた空を眺める。彼はちらりと視線を遣るが、空をぼんやり見ている彼女を見て何も声をかけることなくまた視線を戻した。 元から良く喋る性質ではない二人は、生まれた沈黙がまったく気にならない。しばらくの間風の音だけがその場を支配していた。 「ねぇ」 先に口を開いたのは彼女だった。 「雲の向こうには、何があると思う?」 「は?」 唐突とも言える彼女の問いかけに、彼は怪訝そうに隣の彼女を見る。 彼女は空から視線を彼に移し、謎かけをする子供のように笑う。 「雲の向こうだよ。あんたは何があると思う?」 彼は怪訝そうな顔のまま眉を顰め、何かを考える間もなく答えた。 「空。それかあいつら流に言うなら、宇宙」 あまりにも簡潔な答えに彼女が笑う。 「はは、そうだね、あんたならそう答えるよね」 「何か他の答えを期待してたのか?」 「いや、別に。ただなんとなく聞いてみたくなってね」 そう言って微笑む彼女の表情がほんの少し寂しそうで、彼は怪訝そうな顔に少しだけ心配の色を混ぜながら彼女を見る。 「…お前は、何があると思ったんだよ」 「え?」 質問を返されるとは思っていなかったのか、彼女が意外そうに目を瞬かせた。 返事を待つように視線を向けてくる彼を見て、困ったように彼女が苦笑する。 「私、か…。そういえば結局、考えた事なかったな」 「結局?」 今の会話から考えるとどこか不適切な表現に彼が反応する。 彼女は笑って、空を見上げた。 「子供の頃にね、父さんにも同じ事訊いたんだよ」 「…ほぉ」 ―――雲の向こうには、幸せがあるんだよ。 「…あいつらしい」 苦笑する彼に、彼女が少し不満そうに彼を見る。 「…父さんにあまり会った事ないのに、なんで父さんらしいなんてわかるのさ?」 「さぁな」 はぐらかした彼に、彼女はまぁいいか、と追求を止めて。 「その時はただ、そうなんだ、って納得しちゃったんだよね。他の人に言われたんなら不思議に思ってたかもしれないけど、あの頃の私にとって父さんは絶対的な存在だったから」 「今だって変わりないだろうに」 「…まぁ、確かにそうかもしれないけど」 からかうように彼が言って、彼女が拗ねたように視線を逸らす。そっぽを向いてしまった彼女を見て彼が苦笑した。 「ガキかお前は」 「うるさいな、どうせ子供の頃から私は偏執的思考だよ」 「別に悪いとは言ってねぇだろうが。ガキの頃なんて誰でも親や周りの人間の言う事簡単に信じるじゃねぇか」 「でも、あんたは素直じゃないから簡単に信じたりしなかったんじゃないかい? それ以前に、絵本の内容に興味を持って親に訊いたりとかしなさそうだけど」 「…さぁな。本はよく読んだが、内容は覚えていてもそれ興味を持ったかどうかまでは覚えてねぇよ」 「ああ、そういえばあんた読書好きだったっけね、意外に。やっぱり小さい頃は絵本とかも読んでたのかい?」 「それなりに」 その答えに驚いたのか、彼女がへぇ、と呟きながらそっぽを向いていた視線を戻し、彼を見る。 「なら、もしかして私が読んだ絵本も読んだ事あるんじゃないかい?」 「絵本?」 「あぁごめん、私が父さんに雲の向こうの話を尋ねたきっかけは、クレアが持っていた絵本を読んだからだったんだよ。確か…雲は大切な物を人間達から隠している、とかっていう内容だったかな」 表題は覚えてないけど、それだけはぼんやり覚えてる、そう付け足した彼女の問いかけに、彼は少しの間沈黙して。 「…いや、覚えがないな」 「そっか。やっぱりシーハーツとアーリグリフじゃ、売られてる絵本も違うだろうしね」 残念そうに視線を下げて小さく息をついた彼女に、彼はぽつりと呟いた。 「…雲の話じゃねぇが、似たような話なら読んだ事あるけどな」 「え?」 俯き加減だった彼女が顔を上げる。 興味を示した彼女が視線で続きを促しているのを感じ取ったのか、彼は面倒くさそうにだが口を開く。 「虹のふもとには宝物が隠されてる、っつぅどこにでもありそうな御伽噺」 「虹…?」 復唱した彼女に、彼はあぁ、と相槌を返す。 「宝物の中身は幸せ、だそうだ。お前が言った話と似てるだろ」 「うん…確かに」 頷いてから、彼女がくす、と笑う。 「なんだか少し嬉しいね。国が違っても同じような事を考えて絵本にしてくれる人がいるんだなって」 「…そうか? 肝心の内容は空しいもんじゃねぇか」 「え?」 彼女の笑顔が不思議そうな表情に変化する。隣の彼は理由も無く空を見上げ、呟く。 「"雲の向こう"も"虹のふもと"も、どっちも"絶対に辿り着けない場所"を指してんだろ」 「………」 「ガキに読ませる絵本にしちゃ、夢のない内容じゃねぇか。幸せは絶対に辿り着けない場所にある、手に入らないものだ、っつってんのと同じなんだからな」 はっ、とつまらなさそうに笑う彼を見て、彼女の脳裏に忘れかけていた遠い記憶が蘇る。 「―――じゃあ、おっきくなってもっと足が速くなったら、雲に追いつけて、幸せが捕まえられるの?」 「うーん…雲に追いつくのは、さすがのネルでも無理かな」 「じゃあじゃあ、ずっと幸せを捕まえられないの? 幸せになれないの?」 じわりと目尻に涙を浮かべる少女を安心させるように笑って見せて、青年はゆっくりと首を横に振る。 「いいや。そうじゃなくてね―――」 「…それは、違うよ」 「ん?」 やけにきっぱりとした否定の言葉が返ってきて、彼が視線を空から彼女へ移す。 「幸せは、どこにもない、手に入らないものなんじゃなくて…。どこにでもあるものなんだよ」 「…は?」 彼の怪訝そうな声。彼女は外壁から続いている見張り塔の柵に両肘を置きながら、遠くの空を見ていた。 「例えばさ。ここにいる私達から見える雲は…そうだね、トラオム山岳地帯の辺りかな? とにかくその辺りにあるよね」 彼女がアーリグリフとカルサアの境にある高山にかかる白い雲を指差す。彼がつられるようにそちらを向いた。 「…それがどうかしたのか」 「ってことは、カルサアは雲の向こう側ってことだろう? そこに住んでる誰かが、きちんと雲が隠した幸せを手に入れてるんだよ」 「………」 彼が表情を変えないままに彼女を見ている。 「…山岳地帯にあるあれは雲じゃなくて霧じゃねぇのか」 「絵本に書いてあることなんだから、細かい事は気にしなくていいんだよ、きっと」 「んじゃ、上空に浮かんでる正真正銘の雲はどうなるんだ?」 「空のもっと向こうには沢山の星があって人が住んでるんだろう? その中の誰かがちゃんと幸せを見つけたんだよ」 くすくす笑ってそんな事を言う彼女に、毒気を抜かれたように今度は彼が苦笑した。 「ね。雲の向こうなんて人それぞれ違うものなんだよ。虹のふもとだってそうだろう? 見る人が見ればアーリグリフだってシランドだって虹のふもとになるかもしれない。だから、誰だって幸せを見つけられる。…その絵本は、そういう事を伝えたかったんじゃないかな」 「………」 そう言って彼女は彼に笑顔を見せた。 彼は無言のままに彼女を見て、そして遠くの空を見る。 「…そうかもな」 「だろう? 幸せはどこにもないけど、どこにでもある。そういうものなんだと思うよ。…半分くらいは、また父さんの受け売りなんだけどね」 「またかよ」 「…別にいいじゃないか」 もう半分はちゃんと私の持論だし、とむくれる彼女に彼が笑う。 珍しく、苦笑混じりとは言え笑った彼を見て、彼女が意外そうに軽く目を見開いた。 「どこにもないけどどこにでもある、か」 ぽつりと呟いた彼に、彼女が小さく頷いてみせる。 「うん。言葉遊びみたいだけどね」 「………」 何か思うところがあったのか、彼は無言で虚空を数秒見つめた後。 「…お前の、その一見矛盾した考えを昔聞いてたら、昔の俺は虹を追いかけたりはしなかったんだろうな」 「え?」 意外な彼の呟きに彼女が目に見えて反応したので、彼が少し気まずそうに視線を逸らす。 「…ガキの頃、カルサアで珍しくでかい虹を見たんだがな。もの珍しさも手伝ったんだろうな、虹のふもとがどこにあるのかって興味本意でシランドの方へ向かって探しに行った事があったんだよ」 「…あんたも?」 「ん?」 複数形で尋ねられて、今度は彼が不思議そうな顔をした。 彼女は驚きつつも、どこか嬉しそうに微笑みながら口を開いた。 「偶然だね。私も子供の頃、雲の向こうには何があるのかって思ってずっと追いかけた事があったんだよ」 「…」 「シランドから…確か、サーフェリオ水中庭園のあたりまで行ったんだっけ。空ばかり見て歩いてたからうっかり迷子になって、母さん達に怒られたよ」 「…なんでそこまで同じなんだよ…」 「へ?」 「いや、何も」 明らかに何か呟いたというのに、彼はしれっとそう答える。彼女も不思議そうな顔をするが、言及する事も無く話題を元に戻す。 「今思うと無茶な事したなぁとは思うけどね。まぁ、その頃は危険なモンスターとかもいなかったし」 「お前が無茶な事やらかすのはガキの頃からかよ」 「じゃあ、あんたはどうだったのさ。虹を探しに行った事があったんだろう? カルサアから見たら…虹が見える方向ってシランド方面だよね。どこまで行ったんだい?」 「…。アリアスだよ」 「へぇ、あんたも結構冒険したんだねぇ。私の事無茶やらかすとか言ったけど、人の事言えないじゃないか」 「うるせ」 そっぽを向く彼に、彼女がくすくす笑って。 「あの時探しに行った宝物は、誰が見つけたんだろうね」 彼女が何気なく言った。 「………」 彼は答えず、彼女をちらりと見遣る。 どちらかと言うと無口に近い彼が相槌や返答を返さない事に慣れている彼女は、気に留めずに続ける。 「ずっと追いかけたら、私にも見つけられたのかな」 「…さぁな」 「あんたの探してた虹のふもとの宝物も、誰か見つけたのかな?」 「俺は別に宝物とやらを探してたわけじゃねぇぞ」 「虹のふもとがどこかって気になったんだろう? だったら探してるものは大体同じじゃないか」 面白そうに彼女が言って、否定する気は起きなかったのか彼がどうだろうな、と返す。 適当な彼の返答に、彼女が苦笑する。 「どうでもいいや、って言いたげだね。まぁ、ただでさえ物欲乏しいあんたが宝物だの幸せだの、抽象的なものに興味を示すとは思ってなかったけどさ」 興味がなさそうな顔をしている彼に、彼女がほんの少し嫌味を含めてぼやいた。 珍しく彼女が拗ねているように見えて、彼が気づかれないように苦笑する。 「そりゃそうだ」 「はいはい、わかってるよ。どうせあんたはそんな話に興味はないんだよね」 「そうだな。もうとっくに手に入れてるからな」 「え? 今なんて」 彼の呟き、特に後半の部分は本当に小声だったので、耳のよい彼女ですらきちんと聞き取れずに思わず聞き返す。 呟いた彼は答えず、彼女をじっと見てから、おもむろに手を伸ばす。 「ちょっ、わ、何」 伸びてきた彼の手で赤毛をわしゃわしゃと掻き回され、彼女が肩を竦めながら慌てると訝るの中間くらいの表情をする。 彼は面白そうに彼女の髪をぐしゃぐしゃにしていたが、やがてぴたりと手を止めて代わりに口を開いた。 「いや、別に」 脈絡のない行動の理由としてはどう転んでも正当に成り得ない答えが返ってきて、彼女がますます訝しそうな表情をする。 彼は彼女の頭からひょいと手をどけて、もう大分空の真ん中から沈んでいる太陽を見て。 「そろそろ戻るか」 「えっ…。あ、うん」 彼女は一瞬驚くが、吹く風も冷たくなってきた時刻であると気づいてとりあえず頷く。 「あ、ちょっと。さっき言ってたのってどういう意味だい」 踵を返し、螺旋階段の前まで来ていた彼が振り返る。 「どういう意味も何もそのままだ。俺が見た虹のふもとはシランドだったって言ったじゃねぇか。お前、自分が住んでる街も忘れたのか?」 「は? …それが何なのさ」 「ここまで言ってまだわかんねぇか激鈍女。それくらい自分で考えろ」 訝しそうな表情だった彼女が、ふと自分をじっと見ている彼の視線に気づいて。数秒後目をまん丸く見開いた。 次の瞬間にはみるみるうちに真っ赤になっていく。 彼が意地悪く笑って、耳まで赤いぞ、とからかった。 「う、うるさいよ」 彼女はなんとかそれだけ言い返して、彼からぱっと顔を背ける。 その慌てた様子が面白かったのか、彼がくつくつと喉の奥で笑った。 彼女は彼を赤いままの顔でちらりと見遣って、小さな声で問いかけた。 「…あんたにとって宝物みたいな存在になれたって、自惚れていいんだよね」 本当に小さな問いかけだったが、隣の彼にはきちんと聞こえていたようで。 「自惚れとけよ」 あっさり返って来た肯定の言葉に、収まりかけていた彼女の頬の熱がすぐに舞い戻った。 「…まぁ、俺はお前にとっての"タカラモノ"ではなかったらしいがな」 「えっ?」 「なんでもねぇよ」 彼はそれだけ答えて、螺旋階段へ足を向けた。 なんでもねぇよと撤回されてしまった彼のぼやきを、実はきっちり聞き取ってしまった彼女が困ったように照れくさそうに苦笑する。 あの日サーフェリオ水中庭園に迷い込んだのは、イリスの野を早く通り抜けたくて近道しようとしていたからで。 近道をしようとして迷い込むほど急いで追いかけていた雲は、本当はカルサアの方へと向かっていたと言ったら彼は何と言うだろうか。 ふとそんな事を考えて、彼女が笑った。 「おい、帰らねぇのか」 足を止めていた彼女に、螺旋階段を数段降りていた彼から声がかかる。 「あ、うん」 彼女は反射的にそう返事をして螺旋階段へと足を向けた。 不意に彼女の視界に、小さな雲が空にぽつんと浮かんでいるのが映った。 彼女は何となしにそれを見つめて、そして口を開いた。 「…父さん。雲の向こうには、本当に幸せがあるんだね」 父さんの言ってた事、間違ってなかったよ。 小さく呟いて、遠い空に向かって微笑んで。 彼女はせっかちな宝物に置いていかれないように、螺旋階段を降りて行った。 「いつかネルも、きっと雲の向こうへ辿り着けるよ」 「…そうなの? じゃあ、宝物も見つけられるかな?」 「うん。絶対に」 「そっかぁ…。お父さんが絶対って言ってくれたから、きっと絶対見つかるね! すてきな宝物だといいな」 「大丈夫だよ。きっと素敵な宝物が見つけられるから」 「本当?」 「うん。―――だって」 「ネルが頑張って見つけた宝物なんだから、素敵なものに決まってるだろう?」 |