それに気づいたのは、宿屋を一歩出た時だった。
「…?」
甘くて、ほのかな香り。
何の香りだっただろうか?
気になったので思い出そうと彼女が記憶の糸を手繰っていると、
「おい、何出入り口のど真ん中で突っ立ってんだよ」
後ろから彼の不機嫌そうな声がかかる。
「あぁ、ごめん。買出し行くんだったね」
そう答え、一、二歩移動して彼女は道を空ける。
移動したお陰で視界が少し変わって、彼女の目に淡い薄紅が映って、
「あ」
そこでようやく彼女は、このほのかな甘い香りが何か思い当たる。
「桜だ…」
「ん…?」
彼女の小さなつぶやきに反応して、彼も彼女の視線の先を見遣る。
薄紅色の小さな花が咲き乱れる、見事な桜並木が広がっていた。





013:桜





「もうそんな季節なんだね…」
感慨深げに、嬉しそうに。彼女が小さく呟く。
「このむせかえりそうな匂いはそれか」
彼が無感動に呟き、彼女が苦笑する。
「あんたって本当に情緒とか感慨とかないよね。まぁ、あんたらしいと言えばらしいんだけど」
「悪いかよ」
「そんなことはないけど」
そんな風に会話しながら二人は歩き出し、宿屋の前から桜並木へと移動する。
街道の両側を埋め尽くす薄紅に、彼女は楽しそうに、彼は変わらぬ表情で歩く。
「綺麗だね」
「…そうか?」
「綺麗じゃないか。満開の桜がこれだけ咲いてて、風に乗って花びらがふわふわ舞って…見事な景色だと思わないかい?」
「別に」
相変わらず素っ気無い返事しか返さない彼に機嫌を悪くすることもなく、いつもの事だと言わんばかりに彼女が苦笑して。
「相変わらずなんだから。ま、あんた花とかそういうの、興味なさそうだしね」
一歩踏み出すたびにふわりと少しだけ舞い上がり、また足元に落ちる花びらを楽しそうに眺め、彼女が呟く。
「興味なさそうも何も、まったくねぇよ」
「だろうねぇ。でも、興味の有無はいいとしてさ、桜、綺麗だろう?」
相変わらず楽しそうに桜の花を眺めながら歩く彼女が、ふわりと微笑んで。
彼は表情を変えないまま少し視線をずらして、桜の樹を見遣る。
「…さぁな」
「またそんな事言って。桜嫌いなのかい?」
こんなに綺麗なのに、と続ける彼女に、彼は視線を前に戻して歩きながら答える。
「どちらかと言うと嫌いだな」
「え?」
いつもなら、さぁな、とか、どうだか、とか曖昧に答える彼が、どちらかと言うとという前置きつきとはいえ嫌いと言った事に驚いて、彼女が彼を見る。
彼は相変わらずの無表情で、続ける。
「なんつぅか…未練がましく見える」
「未練がましいって…散り方が?」
「そうだ」
言って、彼は風に舞いひっきりなしにひらひらと落ちている桜の花びらを見ながら続ける。
「ちんたら舞いながら落ちやがって」
「別にいいじゃないか」
「俺は好かん。…散ることを拒んで、生に執着してるように見える」
「………」
ぶっきらぼうに言う彼を見て、彼女が思わず口を閉ざした。
「桜として生まれた限り散るのは定めじゃねぇか。…今更散り際になってそれを拒んでどうする」
「…」
「未練がましいじゃねぇか」
彼がはっ、と鼻で笑った。



「…それで、いいじゃないか」
「あ?」
彼女がぽつりと呟いて、桜並木と舞い散る花びらを見ながら、呟いて。
「未練がましくても、いいじゃないか。生に執着して足掻いたって、いいじゃないか」
「…」
彼が僅かに眉をしかめて、彼女を見る。
「足掻こうが何をしようが、結果は同じだろう」
「あぁ、同じだろうね。でも、足掻いた分だけ、散るまでの時間は少しだけれど…延びてるじゃないか」
風に煽られ、何度も回転しながらゆっくりと地面へ落ちていく花びらを見ながら、彼女が言う。
「伸びるのはせいぜい数十秒だけだろ」
「数十秒だけ、だけれど、数十秒も、だよ」
彼女が笑って、続ける。
「いいじゃないか。足掻いて生にしがみついて舞い落ちる間、桜は私達の目を楽しませてくれるんだからさ」
「…楽しいか?」
「私は楽しいよ。桜の花びらがひらひらふわふわ舞い落ちるのを見てて」
彼女がくす、と笑って。
「それでいいじゃないか」
桜並木を歩きながら、呟いた。



「…そんなもんか」
「そんなものだよ。…それに、桜だってさ、好きで未練がましく散ってるわけじゃないんだしさ。散り際が気に入らないからって嫌いになるなんて、勿体ないよ」
「…」
彼が数秒沈黙して、そしてふ、と僅かに微笑して。
「…そうかもな」
舞い散る花びらを一枚掴み取って手のひらに載せながら、彼が呟いた。



「桜のこと、少しは好きになったかい?」
「…さぁな」
「言うと思った。…そうだね、じゃあ椿なんてどう?」
「椿?」
「散る時は潔く花ごと落ちるよ」
「…ほぉ? それはなかなか面白い花だな」
「だろう? 家に咲いてるから、今度見にきなよ」
「潔く花ごと散る様をか?」
「…そうだね。でも、咲いてる間も綺麗だよ? 桜に負けず劣らず、ね」
「…そうか」
「うん。他には…そうだね、何かあったかな」
「…別に、花の散り様談義をしたいわけではないんだが?」
「そう? でも、この際だからあんたに花は綺麗で良いものだってこと、わからせてあげようと思って」
「はぁ? なんだそりゃ」
「えー…情操教育の一環?」
「…俺はガキか」
「似たようなものだろう?それに―――」
「…なんだよ」
「…なんでもないよ」
「あぁ?」
「何でもないってば」
「言いかけたことは最後まで言え」
「それ、あんたが言えた台詞?」
「細かいことは気にすんな。おら言えよ」
「言わない」
「………」
「ほら、道具屋見えてきたよ。早く行こう」
「おい、はぐらかすな…、逃げ足の速いヤツだ」



―――私が綺麗だと思うものを、あんたも同じように綺麗だって思えるなら、思ってくれたなら。
嬉しいだろう?



声に出さずに、心の中でそう呟いて。
彼女は後ろを振り向き、追いかけてくる彼と、彼の後ろに伸びる桜並木を見る。
透き通るような青空に、薄紅の小さな花びらが風に揺られて舞っていた。