冬の天気で一番タチが悪いのは霙だと思う。鈍色が一面に広がった空を見上げながら、彼女はそんな事を取りとめも無く考えていた。



085:痛ぇ



雨は確かに濡れるし厄介であることには変わりないが、彼女は元々雨が嫌いではない。
それに水滴となって落ちてくるということはそこまで気温が低くは無いということだ。雨が降っていれば気温の変化も少ないから、あまり暖かくはならないが極端に冷え込むことも無い。実はそれなりに寒がりな彼女にとってそれは歓迎すべき日だった。
雪の日は確かに冷え込むが、気温自体が低くとも外を歩く事を考えると服に積もっても解けるまでに時間があるので雨よりも濡れる事が少ない(比較的という話だが)。それに温暖な地で育った彼女にとっては物珍しさも手伝って、雪を見るのは嫌いではなかった。
だが霙は雨と雪、双方の悪い部分だけを取って空から降りてくる。なんとも中途半端な存在だと思う。
雨の日ほど暖かくない、かと言って雪のように解けるまでのタイムラグがないので服が濡れて体力を消耗する。 どうせなら良い部分も合わせ持っていればよかったのに、と彼女は今も空から降り続けている雨と雪の融合した中途半端な氷晶を恨めしげに見上げた。
職業柄天候に文句を言うような彼女ではなかったが、心の中で愚痴るくらいは許されるだろう。
「やみませんねぇ」
隣に座ってココアのカップを両手で持ち、暖を取っていたソフィアが何気なく呟く。そうだね、と彼女が返した。
宿屋の玄関から入ってすぐ傍に設けられている、休憩所や待合所を兼ねた場所のソファに腰掛けていた二人は、数分前からそうやって揃って窓の外を見ていた。
「いつもならもう帰ってこられてる時間ですよね、今日は買うものも少なかったはずですし。どこかで雨宿りしてるんでしょうか」
「そうだね…。雨宿りしてるならともかく、雨降ってるのをいいことに買出し放り出して武器屋や酒場に寄り道してなきゃいいんだけど」
口ではそう言いつつも、彼女の視線はちらちらと窓の外へ向けられていた。なんだかんだ言って心配なんですね、とソフィアが心の中だけで呟いた。
そもそもソフィアが今ロビーのソファに座っているのは、彼女が帰りの遅い彼を待っていたのを見つけたからだ。心配してるんですね、と問いかけたら彼女はそれらしい理由を並べた上で頑なに否定をしていたのだが。
態度に出さないようにしているのだろうが、彼を心配しているのが何気ない視線や動作で見え隠れしている。
最近ポーカーフェイスが崩れてきている、隠密のくせにそんなでいいのかとぼやいていた彼の台詞をソフィアは思い出す。彼女が表情を崩す原因は彼がらみの事が多いのに自覚ないんだなぁと微笑ましくなったのも思い出して、ソフィアはカップを両手に持ったままくす、と微笑んだ。
「どうかしたかい?」
思い出し笑いを不思議そうな顔で指摘されてソフィアは目をぱちりと見開いた。緩んでいた口元を自覚して、慌ててなんでもないですよ、とソフィアが苦笑いしたところで、第三者の声が二人の耳に届く。
「あれ、ソフィアにネルさん、二人してどうしたんです?」
声の主は階段を下りてきたフェイトだった。二人の視線がそちらへ向く。
「あ、フェイト。ちょっとね、買出し行ってくれてるアルベルさんの帰りが遅いからどうしたのかなって話してたの」
実際のところは、心配している彼女にソフィアが付き合って一緒に待っていた、と言うのが正しいのだろうが、そのまま告げれば彼女は照れて否定するだろうし、ソフィア自身もまったく心配していないわけではない。隣の彼女も肯定して、フェイトもその説明で納得したようだったのでこの説明で妥当だろう、とソフィアは言い直すことはしなかった。
「そっか、確かに天気悪いし風邪ひかれたら困るしなぁ。買出し頼んだ時は降ってなかったのに」
間が悪いなーあいつ、と苦笑するフェイトにそうだねとソフィアが相槌を打った。隣の彼女は苦笑しつつ、窓の外から視線を外して壁にかかった時計を見やった。
ソフィアもつられて時計を見る。先ほど、そろそろ帰ってきてもおかしくない時間だ、と話していたときからさらに数分経っていた。



それからしばらく、風邪ひいたら自分がしんどいだけじゃなくて他の皆にも迷惑がかかるのに、とか、そうですよねあいつほんとに自分を大事にしないんだよな、とか、前も雨の日に一人で修行に行って風邪ひいてましたよね、とか、その場にはいない彼の話題でひとしきり盛り上がった。
話題の中心は帰りの遅い彼の事だったのにも関わらず、彼の無鉄砲さや変なところでの自己管理能力のなさを言う事で盛り上がってしまい、フェイトが彼が戻ってこない、という話の発端でもある事を軽く忘れ去った頃。
無言で、しかし傍にいた者が驚く程度には唐突に彼女が立ち上がった。一瞬遅れて彼女の顔を見上げたフェイトの耳に、彼女の小さな声が届く。
「…あの、馬鹿」
小声で、しかもどこか押し殺したような声だったが、フェイトの耳が拾い上げた彼女の声は確かにそう言った。一瞬その隠しきれていない怒りに体を固くしたフェイトだったが、どうしたのかと問いかける前に彼女は足早にフロントの方へと歩いて行ってしまった。
突然の彼女の行動に同じように驚いているソフィアも一緒に彼女の背中を目で追っていた。二人分の視線を背中に受けている彼女は早足でフロントへ近づき、受付嬢に声をかけて何事かを話している。大して距離もないのでタオルか何か、とか、お持ちします、とか言う声が聞こえてきて、さらに先ほどまで彼女が眺めていた窓の外を見てフェイトは合点がいったようにああ、と呟いた。
「アルベル…。ネルさんが心配してくれてたのに、最悪の形で戻ってきちゃって」
つられるように外を見たソフィアも否定できずに苦笑した。二人の視線の先には、小さな紙袋を二つ抱えた見覚えのある後姿が玄関の外で肩に積もった霙をはたいて落としていた。
特徴的な色の髪が彼の動きに合わせて揺れるのが曇った窓越しに見える。窓の外は相変わらず霙が降り続けていて、傘もささずに帰ってきた彼がびしょ濡れとまではいかないもののそれなりに濡れているであろうことがソファに座っている二人にも容易に想像できた。
呆れを含んだ眼差しで見られているとも知らず、あらかた服についた水滴を落とし終えたらしい彼が扉を開いて中へと入ってくる。屋外よりも随分暖かい室温に彼が小さく息をついて、それからようやくロビーにいる仲間達に気づいたように視線を向けた。予想通り髪も服も湿って色が濃くなっている彼に呆れた顔を向けて、フェイトはおかえり、と声をかけようとしたが。
「何やってんだいあんた」
平淡な、だがそれゆえに静かな迫力のある彼女の声が響き、声をかけようとしたフェイトの動きが止まる。声をかけられた彼は静かに怒りオーラを放っている彼女へ不思議そうに視線を遣り、何が原因かわかっていないらしい彼の表情にまた彼女の目が細まった。ソファに座ったままのソフィアもひゃーネルさんこわいーと体を縮める真似をしてみせていて、それにフェイトが相槌を打つ前にフロントでタオルを借りられたらしい彼女が彼へとずかずか近づいていって。
「何が…」
彼が何事か問おうとする前に、彼女は無言で手に持ったタオルを彼の頭に押し付けるようにかぶせた。不自然に途切れた彼の疑問の声を言いなおさせる暇も与えず、彼女は背伸びをしながら14センチ上にある彼の頭をタオル越しにぐしゃぐしゃかき混ぜた。
「この馬鹿、雨宿りするっていう選択肢すら持ってないのかい」
「おい、何すんだやめ、」
「こんなびしょ濡れになって帰ってきて、風邪でもひいたらどうするのさ」
「痛ぇっつのこら、わかったから離、」
「わかってないだろう、風邪ひいたら誰が看病すると思ってんだい、誰があんたの穴を埋めて戦闘に出ると思ってんだい」
「人の話聞いてんのか、おい、痛ぇっての!」
「聞いてないのはあんただろう、髪濡れるどころか凍りかけてるじゃないか! 風邪ひいて人に迷惑かけたくなかったら大人しくしてな!」
「………」



何度か反論や抵抗を試みようとした彼だったが、静かに怒っている彼女に淡々と返事をされて結局押し黙った。身長差のある彼女にタオルごと頭を引っ張られて上体を小さく前に傾けたまま、無言でされるがままに髪をわしゃわしゃ拭かれている彼の姿が可笑しかったのか、フェイトがくく、と笑う。つられたのか隣にいるソフィアもくすくすと微笑んだ。
しばらくぐしゃぐしゃがしがしとタオルで彼の髪をかき混ぜていた彼女だったが、やがて手を止めて彼の目をじっと見上げた。ほぼ睨みつけるに等しい視線を向けながら口を開く。
「荷物貸しな、持って行くから。ついでにあんたの部屋の暖炉つけてきてあげるから、部屋が暖まるまでロビーの暖炉で髪と服乾かしときな。服が乾くまで暖炉の前から動くんじゃないよ」
有無を言わせぬ口調で言い放ち、タオルを彼の頭にかぶせたままにして彼女が荷物を半ば奪い取るように受け取る。無言のままの彼にさっさと背を向けて彼女は階段へと足を進め、一言の反論も許されなかった彼は彼女がなぜ怒っていたのかもよく理解できないままにその場に取り残された。



「あはは、アルベル髪の毛ぐっしゃぐしゃだよー」
「ふふ、アルベルさん、早く暖炉の方行かないと風邪ひいちゃいますよー」
一部始終を見ていたフェイトとソフィアが笑い混じりに彼へ声をかける。彼は憮然とした面持ちのまま二人を見て、そして観念したようにため息をついて暖炉へと向かった。
「…なんなんだあいつ」
実際に体が冷えて寒かったのだろう、大人しく暖炉の前へ向かった彼がぽつりと呟いた。
「わかんないのかよ鈍感だなー。心配だったんだろ、アルベルのこと」
「は?」
「ネルさん言ってたじゃないですか、風邪ひいたらどうする、って。なのにアルベルさんびしょ濡れで帰ってきちゃうから怒られたんですよ」
「…」
ソフィアが笑いながら、だがからかう意味での笑みではなくあくまで微笑ましげに笑いながら言う。頭にタオルをかけたままの彼が怪訝そうに振り向いた。その拍子にタオルがぱさりとずり落ちるが彼の肩にひっかかって止まる。
「ただ単に、面倒を押し付けられるのが嫌だったんじゃねぇか」
ぐしゃぐしゃになるまで拭かれて一部からまっている髪を適当に手櫛でなでつけながら彼がそう吐き捨てた。言っている内容はともかく声音はいつも通り淡々としていたが、自分が風邪をひいたら誰かに面倒をかけるという自覚はあったんだなぁと聞いていたフェイトはほんの少し感心した。
「もしそうだとしても、心配してなきゃあそこまで怒らないよ」
「そうそう、心配してなきゃそんなくしゃくしゃになるまで頭拭いてくれないですよ?」
鳥の巣とまではいかないものの、軽く手櫛で撫でたくらいでは直らない程度には絡まっている彼の頭を見てソフィアが笑う。一緒になってフェイトもくすくすと声に出して笑っていると、さすがに気に障ったのか彼がぼそりと低い声を漏らす。
「…人が痛い目に遭ってんのに笑うとはいい度胸だな」



一瞬の沈黙を挟んで、先に声を発したのはフェイトだった。
「…は? 痛い目って」
「髪引っ張られるわ絡まるわ…」
「…。そんなの、別に痛い目のうちに入らないじゃないですか?」
「あいつそれなりに握力あんだぞ、マジで力込めやがって」
「いや、だってそれにしたってさぁ」
「別に俺も好き好んで濡れて帰ってきたわけじゃねぇっつうのに」



不機嫌とまではいかないが、不満そうな顔をしてぐちぐちと文句を言っている彼を見て、フェイトとソフィアは呆れとも困惑ともつかない複雑な表情をしていた。



え、何こいつ、ネルさんがあれだけ心配してたってのにまったく気づいてないのかよ。
ネルさんがわざと力込めてぐしゃぐしゃに拭いてたのも、アルベルさんへの心配の裏返しっていうか、照れ隠しみたいなものだって傍から見てた私たちからでもわかったのに?
痛い目に遭ったとしか認識してないわけ? ネルさんが面倒押し付けられるのが嫌だから怒って髪の毛ぐしゃぐしゃにしたと本気で思ってんのか?
第一、面倒押し付けられるのを嫌がるような人が、わざわざタオル用意して荷物も運んでくれて、さらに部屋の暖炉つけてくれるわけないじゃないですか。
だいたい僕らが笑ったのだっていつもの事っていうか、微笑ましくて笑ってたのに。ていうかあんなん見せられたら誰でも笑うって、ほらタオル貸してくれた受付のおねーさんも遠巻きににこにこ微笑んでるよ。
戦闘中の判断とか、一部の人間の心理に関しては鋭いのに、なんでご自分のことになると鈍感なんだろうなぁあの人…。



言いたい事はそれはもう山ほどあった二人だったが、あえてそれらをぶつけることはせず。
「…お前一度、痛い目にあうって言葉を辞書でひいてみたら?」
「はぁ?」
不可解そうに発せられた呆れたような声にまた呆れた声が返されて、だがフェイトはそれに答えることなく隣のソフィアと顔を見合わせて苦笑いした。



話の流れで、彼が濡れるのも頓着せずに戻ってきた理由が、"早く戻らないと彼女が寒い中探しに来ると思ったから"だと知ったフェイトとソフィアは、結局のところ二人とも行動理由は似たようなものじゃないか、と微笑ましいを通り越して生暖かい苦笑いを向けることになる。