誰かが自分の領域に踏み込んでくるのは嫌いだった。
精神的な領域にはもちろんの事、物理的な領域、自分の部屋や家などに他人を入れることも嫌いだった。
誰も理解しなくていい。誰も自分を理解しようとしなくていい。そう思っていた。
一人でいることが楽だったから、今までずっとそうしていた。
そうすることが一番気が楽だった。
―――昔は。



085:殻



それ程分厚くないカーテンは、それでも窓の外からの明るい陽射しをやんわりと遮っていた。
空の真上にある太陽は眩しい陽射しを撒き散らして大気を暖めている。
太陽に暖められた大気を、吹き抜ける風が上手く循環して人間にとって過ごしやすい気温に保っていた。
そんな、誰もが快適だと答えるであろう過ごしやすい気温のある日。
窓の外からの暖かい陽射しをふてぶてしくカーテンで遮断して、ほの暗い部屋の中で布団にくるまっている人間が、ひとり。
黒と金の入り混じった長い髪をシーツの上に散らした彼は、寝返りすら打たずにベッドの上で熟睡していた。
―――こんこん
しばらくして、彼の眠る部屋のドアがノックされる。
彼は当然気づかず、微動だにしない。
返事のない事で部屋の主が眠っている事を感じ取ったのか、やがてドアが開く音が響いた。



―――やっぱり寝てた



女性の、少々呆れ気味の声が小さく響く。



こんないい天気の日に部屋の中に閉じこもって惰眠を貪ってるなんて、不健康なんだから…



声の主である赤毛の彼女が、彼の眠るベッドに近寄りながら呟いた。
途中、窓を覆うカーテンを勢いよく開けて、部屋に陽の光が差した。
かなり明るくなった部屋を歩いてベッドの傍まで近づいた彼女は、すぅ、と息を吸って口を開く。



ほら! 起きな! もう昼過ぎだよ!



寝起きの悪さは筋金入りの彼は、やはり起きない。
彼女のため息が小さく響き、また部屋に大声が響く。



たまの休みだからって寝てたら勿体ないだろう? 起きなったら!



穏やかな寝息が途切れることはなく、彼は普段と比較すればあどけない顔ですーすーと眠り続ける。



こんな時間まで寝てるから夜寝付きが浅くなって、結局また明日の朝も寝坊するんじゃないか!
いい加減に起きないとまた明日も寝過ごすよ、ほら、起きなったら!



聞いているのか聞いていないのか、やはり彼はひたすら眠り続ける。
彼女の数秒の無言の後、ぱきりと関節を鳴らすような音が小さく聞こえた。





誰かに自分の行動について口うるさく言われるのは嫌いだった。
自分が決めた事を他人にとやかく言われる筋合いはないし、いつも鬱陶しく思っていた。
自分以外の誰もが、自分の行動を決められる筈がない。
だから誰かに何かをとやかくしつこく言われるのは、嫌いだった。



何かが何かに勢いよくぶつかってがつんと鈍い音がして。
数秒後、眠っていた彼がようやくほんの少しだけれども覚醒して呻き声をもらす。
頭に残るずきずきとした鈍痛に呻く彼に、彼女が悪びれもなく言った。



おはよう。いや違うね、おそよう



寝起きの所為でいつもよりもさらに不機嫌そうな目を向けてくる彼に、彼女が続ける。



いつまで寝てるつもりだい、もう昼だよ



休日なんだからいつまで寝ていようが勝手じゃねぇかと反論する彼に、彼女が呆れたように肩をすくめる。



こんないい天気の日に部屋で寝てたりしたら勿体ないじゃないか。あんたって本当に出不精だよね



うるせぇほっとけとつぶやいて、またうとうとしだす彼に。



もう一発殴られたいのかい?



彼女が小さく呟いて、寝付く寸前だった彼は渋々閉じかけの重い瞼を上げる。
半分しか開いていない目を閉じないようになんとか保ちながら彼がゆっくりとした重い動作で起き上がって。
のっそりと上半身を起こした彼を見て、彼女が彼の閉じかけの瞳に目を合わせる。



まったく、いい大人なんだから、叩き起こされるまで起きないってのはいいかげん直した方がいいと思うけど?



呆れと少々の怒りの混じった表情で言われ、彼はむすっとしたままふん、と鼻を鳴らす。



ほら、起きて髪括って着替えて顔洗ってきな



と言いつつも、かなりの低血圧な彼が目を覚ました直後に意識をはっきりとさせられるわけもないと、彼女もわかっているらしく。
上半身を起き上がらせた体勢のままうーとかんーとか唸りながらぼぉっとしている彼を見て、ため息をひとつ。



まったく…本当に世話が焼けるんだから



そう言いつつ、嫌そうな顔はせず彼女は髪留めの紐と櫛を持ってきて。
ベッドに腰掛け、彼の背後から甲斐甲斐しく髪を梳いてやる。
大人しくされるがままになっている寝ぼけた彼の髪を、慣れた手つきで手際よく束ねていく。





誰かに触れられるのは嫌いだった。
火傷を負った左手は言うまでもないが、体の一部に他人が触れてくる事が嫌だった。
それは神経が通っていない故に触れられても何も感じない髪であろうと同じで。
どこであろうと、他人が触れてくるのは嫌いだった。



―――はい、できたよ



彼の髪を束ね終わった彼女が、彼の肩をぽんぽんと叩いてそう告げる。
なんとか二度寝せずに頑張って瞼を保っていた彼だが、まだ覚醒しきっていないらしく何も反応を返さない。
彼女は眉根を僅かに寄せながら、彼の肩に手をのせたままに後ろから彼の顔を覗き込む。
とろんとした目つきではあるが、なんとか目を開けている彼に、もう一度声をかける。



ねぇ、ちょっと?
…まだ目覚めてないのかい、まったく…



呆れた、と言わんばかりの表情で呟いて。
彼女はしょうがなく、彼が目覚めるまで待つことにして彼の背中を背もたれにしてこてんともたれる。
彼女の体重がかかっても彼は相変わらず半眼のままぼぉっとしていた。





誰かと同じ空間にいることは嫌いだった。
同じ空間を共有する相手に気を遣う気などさらさらないし、その相手もそんなこと期待などしていないだろうが。
それでも誰かが近くにいるという事はそれだけで鬱陶しかった。
隣に、傍に。誰かがいるということは、嫌いだった。



―――はず、なのに。





「…どうしてだろうな」
「え?」
彼がちゃんと覚醒するのを待っていた彼女は、ぽつりと呟いた彼の台詞に思わず驚きの声をあげた。
さっきまでうつらうつらしていたはずなのに、思いの他しっかりとした口調で呟いた彼に、彼女が意外そうな顔をしていると。
「―――誰かに」
「え…?」
「誰かに、自分の領域に入られる事」
「…何の、話だい」
「…誰かにとやかく言われる事、誰かに触れられる事、誰かが傍にいる事…」
「………」
「昔は嫌だったはずなのにな…」
「………」
独白のように、独り言のように。
ぽつりぽつりと呟き続ける彼の声を、彼女は静かに聴いていた。
彼は覚醒しているのかしていないのか判断のつかない口調で、続ける。
「どうして、だろうな」
「…何が、さ」
「今は嫌じゃない」
「………」
「…お前は、嫌じゃない…」



そう、ぽつりと呟いて。
彼は声を発さなくなった。
「…ちょっと?」
まさか言うだけ言って眠ってしまったのかと、彼女が彼に声をかける。
「………」
彼はしばらく何も言わなかったが、やがて。



「お前だから、なんだろうな」
「な…」
「…何もかも許せるのは、お前だから、なんだろうな」



ゆっくりとした穏やかな口調で、彼が呟いた。
彼女は彼の背に体重を預けたまま思わず背中を丸めて膝を抱え、頬を僅かに染めながら口を開く。
「…なんだい、急に…」
「んー…、別に、なんとなく」
「…なんとなくでそんな恥ずかしい事言うんじゃないよ」
「いいじゃねぇか言いたかったんだよ」
「…もう」



彼女が苦笑いをこぼして。



「あんたって、本当閉鎖的で排他的な性格してたんだねぇ」
「…悪いか」
「さぁね。…でも、そんなあんたがさ、私なら何もかも許せるって、思ってくれたんならさ…」
丸めていた背中を、再び彼に預けて。
「…嬉しいな。本当に」
彼女は幸せそうに微笑みながら、呟いた。
その呟きをしっかりと聞き取って、彼は小さく笑って。
「、わ」
彼女がもたれている自分の背をすっとずらして、驚く彼女をひょいと片手で抱きとめて。
笑いながらぎゅうと甘えるように抱きしめる。
「…ちょっと? あんた、実は寝ぼけてるんじゃないのかい?」
いつも言わない事を言い始めたり急に甘えてきたりする彼に、彼女は思わずそう尋ねて。
「寝ぼけてねぇよ」
彼は相変わらずどこか楽しそうに答えた。





誰かが自分の領域に踏み込んでくるのは嫌いだった。
誰かに自分の行動について口うるさく言われるのは嫌いだった。
誰かに触れられるのは嫌いだった。
誰かと同じ空間にいることは嫌いだった。



―――そう、ずっと思い続けていた自分は。
ずっと殻にこもり続けていた自分は、もういない。



「…じゃあ何さ? 急に甘えてくるなんて」
「お前だからな」
「………」



くつくつ笑う彼に、彼女が思わず無言になる。
きっと、自分でも気づかないうちに少しずつ少しずつ彼の殻を剥がしていった彼女を、彼はまた抱きしめて。
彼女は困ったように苦笑しながらも、口を開く。



「…。じゃあ、私も、"あんただから"甘えさせてあげるよ」
「…そりゃ、どうも」



返ってきた彼女の声に、彼がまた笑った。