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夕暮れ時、誰もいない静かな部屋の中。 真っ赤に染まる世界を眺めて、ああ美しいなぁと一人考えていた。 097:夕暮れ 「夕陽の色って、見ていると落ち着きますよね」 そう呟いて微笑んだのは、茶髪の少女。 冒険の途中、宿を取る為に街へ向かっている時の事。 「え?」 小さく驚きの声をあげて、赤毛の彼女が振り向いた。 彼女が振り向いた先の、穏やかに微笑む少女の視線のさらに先には、世界を染め上げながら沈み行く太陽。 明日の晴天を約束する夕焼けが、夕暮れ時の空に広がっていた。 「暖かくって、穏やかで。見ていると心が落ち着くんです」 風が吹いて、少女の髪をさらさらと揺らした。 「昔、夕方暇な時は、ちょっとずつちょっとずつ沈んでいく夕陽を、ずーっと眺めてました。フェイトにそんなの見てても面白くないって言われても気にせずに、陽が完全に沈んでしまうまでずっとずっと」 真っ赤な世界で、赤く照らし出された少女は微笑んでいた。 「へぇ…」 少女につられたのか、それとも少女の言った光景が目に浮かんだからか。彼女の表情にも自然と笑みが浮かんだ。 「どうしてかはちょっと説明できないんですけど、私この時間帯が大好きなんです。曇ってたり、雨が降ってたりすると、夕焼けも見られないですけど…。でも、夕暮れ時ってなんだか穏やかな気分になれて」 無邪気に笑って少女が言った。 「世界に光や暖かさを与えてくれる、太陽の色だから。だから、こんなに落ち着くんでしょうかね?」 「…そうなのかもしれないね」 彼女は微笑したままにそう答えた。 「太陽の、色、か」 彼女の斜め後ろ、歩く皆の最後尾。 先ほどの会話に入っては来なかったが内容は耳に届いていたらしい、黒と金の髪を持つ彼が小さく呟いた。 彼女が振り向く。彼女の隣にいる茶髪の少女は、前を歩く青髪の少年と違う話題で会話を交わしていて気づかない。 振り向いたついでに、彼女が彼の隣に並んだ。話を聴く、または会話をするという意思表示に、彼女が口を開く。 「あんたが独り言言うなんて珍しいね?」 不思議そうな表情をする彼女の視線を感じたのか、彼は僅かに彼女を見た後、ゆっくりと口を開く。 「お前は、夕焼けの色が何に見える?」 思いがけない質問に彼女がきょとんとすると、彼は答えを待たずにまた口を開いた。 「俺には、炎の色に見える」 淡々と呟いて、彼はまた視線を前に投げた。 だがその視線は、前を歩く仲間の誰も捉えておらず、紅に染まる世界をただ眺めていた。 「何もかもを焼き尽くして灰に変える、炎の色に」 そして続けられた小さな声は、やはり淡々としていた。 彼女はふと浮かんだ、太陽は炎の塊みたいなものなんだから当然じゃないのかい、という言葉を、飲み込んだ。 何もかも、と言いつつ、彼の心の中で、焼き尽くされたもの、は、きっと。 当然彼女はそれも口に出さず、代わりに口から出たのは、 「そう」 小さな相槌だった。 「だから夕暮れ時は嫌いだ」 ぽつりと、やはり淡々と。続けられた言葉に、また彼女は、 「…そう」 小さく相槌を返した。 「私もね、夕暮れ時は嫌いだよ」 会話が途切れてから少しの間が空いてから呟かれた言葉に、もう話は終わったのだと思っていた彼が視線をまた彼女へ遣った。 先ほどの彼と同じように、淡々とした口調で視線を前に向けたまま、彼女は続けた。 「あんたは初めて人を殺した時の事を覚えてるかい?」 問いかけている対象は彼であるはずなのに、彼女の視線はやはり前に、夕陽に照らし出された紅い世界へと向けられていた。 「…さあな」 それに気分を害するでもなく、彼が答えた。 相変わらずな彼に、彼女が小さく、微笑した。 「そう。私はね、どうしてだかわからないけど、はっきりと覚えてるんだ」 そう言ってから、くす、と声に乗せて微笑を漏らし、彼女は首を横に振った。 「いや、どうしてだかわからない、なんて嘘だね。あんなに鮮烈な記憶、忘れようと思っても忘れられないよ」 彼は無言のまま、彼女の淡々とした声を聞いていた。 「殺らなきゃ殺られるって悟った時の恐怖とか、相手の喉笛を掻き切った時の感触とか、吹き出てきた真っ赤な血だとか」 彼女も淡々と、ただ言葉を紡いでいた。 「…その日、呆然としながら帰還した時見た、真っ赤な真っ赤な空だとか。全部鮮明に思い出せる」 小さく彼女が微笑した。 「あんたはさっき、私に夕焼けは何の色に見えるかって訊いたよね。私には、血の色に見えるよ」 「………」 「初めて人を殺めた日から、ずっとそう見える。それにしか、見えなくなった」 彼女は真っ赤な世界をどこともなく眺めながらそう言った。 「…そうか」 彼はそう一言だけ、相槌を打った。 遠い昔と呼ぶには近く、でも最近と呼ぶには遠い、そんな曖昧な少し前のちょっとした会話。 ふと記憶の淵から蘇ってきたその会話が、何故か脳に焼き付いて離れない。 「何で今更思い出したんだろう」 誰もいない部屋でそうぼんやりと呟いた。 窓の外から差し込む、紅い光を見遣って。 「…今までも、あれからも、夕焼けなんていくらでも見てきたっていうのにねぇ」 自分にしては珍しく、誰に聞かせるでもなく独り言を続けた。 座っていた椅子から立ち上がり、窓際へと歩く。 差し込んできた光の紅さから予想はできたが、やはり真っ赤な夕焼け空と、照らされて真っ赤に染まった世界が広がっていた。 いくらでも見てきたと言いつつ、ここ最近は雨や曇り続きだった所為か久しぶりに見た夕焼けは、やはり紅かった。 窓辺に立った私も、透明な硝子越しに差し込んでくる光に紅く照らされた。 人を殺めて以来、どうしようもなく嫌いになってしまったこの時間帯。 真っ赤に染まり、血の色にしか見えなくて目を逸らしたくなる空。 今は、嫌悪感も何も感じなかった。 原因が何かなんて、考えなくてもわかっていた。 それが妙に悔しくて妙に気恥ずかしくて、だけど妙に嬉しかった。 夕焼けを見ていると思い出す。 どんな赤よりも鮮やかでどんな紅よりも深い、彼の瞳。 彼をかたち作る色のひとつ。 私の夕焼け空に対する認識を変えた原因のひとつであり、大部分。 夕暮れ時の空を眺めながら、あのあたたかい色を思い出した。 …彼の瞳の色は、夕焼けの色よりも綺麗だけれども。 そんなことを当然のように考えてしまった自分が悔しかった。 実際にそうなのかは、隣に彼がいるわけでもないので確認のしようがないのだけれど。 あの時夕暮れ時は嫌いだと、淡々とだがはっきり言った彼は、今もこの時間帯を憂鬱に過ごしているのだろうか。 彼がいなければ、私は今でも毎日訪れる夕暮れ時を陰鬱に過ごしていただろう。 いつまでもいつまでも、罪悪感に苛まれながら、この色は自分の罪を忘れない為の色だ、と勝手に決め付けて。 もちろん、今でも私が何人もの人間を殺してきたという事実は、事実でしかないけれど。 だけど何の関係も無いこの美しい色を自分の都合で、ただ血の色と似ていたというだけで忌まわしい色だと思い込んで。 夕焼けの認識を変えてくれた彼には、感謝しなければならないと思った。 彼自身にそんなつもりはなかったのだろうけど。 彼自身はまだ、夕焼けや夕暮れ時が嫌いなのだろうけど。 夕暮れ時、誰もいない静かな部屋の中。 真っ赤に染まる世界を眺めて、ああ美しいなぁと一人考えていた。 だけど一人で見ているのは、つまらないと、そしてほんの少しだけれど、寂しいなとも思った。 また彼と一緒に見ていたいと思った。 彼は夕焼けが嫌いだと、今も同じように思っているだろうと、知っているけれど。 いつか彼も、この色を綺麗だと、嫌いではないと思ってくれる日が来ればいいと。 彼が私の認識を変えてくれたように、私が彼に夕焼けの美しさを教えてあげられるといいなと、そう思った。 彼女が彼と会ったのは、それからしばらく経ったある日の事だった。 二つの国の大体中間地点の村で、魔物討伐についての会議を終えた後。 「久しぶりだね。十日ぶり…くらいかな?」 「そうだな」 「そっちは変わりないかい?」 「さっきの会議でも大体の話は聞いただろう。特に変わった事はねぇよ」 「アーリグリフじゃなくて、あんた自身の話だよ。また無茶して怪我したりしてないかい」 「………。あぁ、変わりない」 「そっか、良かった」 「お前は」 「あぁ、こっちも変わりないよ」 「そうか、ならいい」 二人は他愛も無い話や近況報告をし合い、宿への道を歩いていた。 時刻は、丁度夕暮れ時を指していた。 空は紅く染まり、世界もまた紅く染まっていた。 「見事な夕焼けだね。明日も晴れかな」 「…あぁ、そうだな」 ぽつりと呟いた彼女に、彼もぽつりと相槌を打った。 「…そういえば、前あんたと夕焼けについて話した事があったね」 「ん? …あぁ、そうだったな」 その時も確かここに向かう途中だったな、と彼がぽつりと呟いた。 曖昧そうな口調だったが、その事を忘れてはいなかった彼に、彼女が小さく微笑む。 「みんなと冒険してた頃の話だから…。かなり、とまでは言わないけど、結構前の事だね」 「そうだな」 「なんだか不思議だな、つい最近の事みたいに思えるよ」 「そうか? 俺は随分と昔の事のように思えるが」 「へぇ、そうなんだ?」 やはり他愛もない話をしながら、彼女は夕焼けの話題にこのまま触れ続けていいのだろうか、と密かに考えていた。 しかし、夕焼けの事を話題に出しても彼は嫌そうな顔をしていなかったので、多少の不安はあったものの 大丈夫かなと思い直す。 「あぁ、そうか…。ちょっと前に夕焼けを見ててその時の事を思い出したから、つい最近の事みたいに思えるのかな」 数日前、一人きりの部屋で過ごした夕暮れ時を思い出しながら、彼女が言った。 「…ちょっと前?」 「うん。つい最近のこと」 微笑みながら、彼女が思う。 一人で見た真っ赤な夕焼けの事。 真っ赤な空を見ながら考えた事。 ほんの少しだけれど寂しいと思った事。 今度は彼と一緒に夕焼けが見たいと思った事。 そして、小さな願いが今密かに叶った事。 いつになく微笑みを絶やさない彼女に、彼が少しだけ不思議そうな表情をした。 「今日は機嫌がいいんだな」 「え? そうかな」 そう答える間も微笑んでいる彼女に、彼が小さく苦笑して。 「前、夕焼けは嫌いだとか言ってたからな。不機嫌になるかと思ったが」 「あぁ…、そのことか」 くす、と彼女が笑う。 「今は、そうでもないからね」 「ん?」 「嫌いじゃなくなったからさ、夕焼け」 視線を上げて、彼を見ながら彼女が言った。 「ほぉ…? あれだけ血の色だのなんだの言ってた割に、随分な心境の変化だな」 「そうだね。自分でも驚いてるよ」 言いながら、彼女の視線は彼の紅い瞳をまっすぐ見ていた。 彼女が何か会話をする時に視線を合わせるのはさほど珍しくもないので、彼も気に留めずに続ける。 「確かに珍しいな、頑固で自分の意見を曲げられないお前にしては」 「うるさいな、確かに本当の事だけどさ。…まぁ、いろいろと、思うところもあって、ね」 彼の瞳をじっと見て、彼女が意味ありげに笑う。 彼が少しだけ怪訝そうな顔をして、彼女が今度は楽しそうに笑った。 「まぁ、わからないんだったらいいよ。それにしても、あんたもよく覚えてたよね」 「あ?」 「私が夕焼け…まぁ性格には夕暮れ時だけどさ、とにかく夕焼けが嫌いとか、血の色に見えるとか言った事」 素直に彼女が疑問を口にすると、彼がいつも通りの仏頂面に戻りながら答える。 「別に不思議な事でもねぇだろうが。実際にはさほど昔の事でもないしな」 「でも、あの時興味なさそうに聞いてたから、すぐに忘れるんじゃないかと思ったよ」 「あぁ…」 歩きながら、彼は視線を夕焼け空へと向けて。 「お前と同じようなもんだ」 「え?」 「こないだ、久々に雨雲が消えて夕焼けになった日があっただろう」 「…え、」 彼は相変わらず紅い空へと視線を向けながら、続ける。 彼女は目をぱちりと見開いて、彼の言葉を聞いていた。 「その時ふっと、お前が夕焼けは血の色に見えるから嫌いだっつってたこと思い出したからな」 彼の隣を歩いていた彼女の足が止まった。 「久々に雨が止んで、夕焼けになった日?」 「あぁ。シーハーツでも同じような天気だったろう、覚えてんじゃねぇか?」 急に立ち止まった彼女に気づいて、彼も不思議そうな顔で足を止める。 目を軽く見開いたまま、彼女は彼を見ていた。 「それ、私の記憶が正しければだけど、四日前の事?」 「ん…。あぁ、確か四日前だったな」 「今くらいの、昼の空の青も夜の空の黒も見えない、本当に真っ赤になってるくらいの時だった?」 「は? …確かあの時は強烈に紅かったからな、多分そんくらいじゃねぇか」 急な彼女の質問攻めに驚きつつも、彼は記憶を手繰り寄せつつ答えた。 彼女はまだ目を軽く見開いたまま、もう一つ質問を口にする。 「…あんた、夕焼け嫌いだったんじゃ、なかったっけ。しかもその時強烈に紅かったんだろう、いつもなら興味も持たずに目を逸らしてるじゃないか。なんでそんなにちゃんと覚えてるんだい? 私の話に合わせてるだけ、とかじゃ、ないのかい?」 「はぁ? そんなことして何になるんだよ。それにお前と同じで、俺だってもう夕焼けを嫌ってなんかねぇよ」 「…え、」 どうして、と彼女は口にはしなかったが表情に出ていたのか、彼は訊かれた訳ではないがすぐにその疑問に答えた。 彼女を見て、まっすぐに見て、小さな風に吹かれて揺れる彼女の紅い髪を見て。 「お前の色でもあるからな、あか」 「あ、はは、はははは」 彼女は困ったように嬉しそうに、だけど少しだけ泣きそうな笑みを浮かべて、笑った。 目元を覆うように手のひらを顔にあて、そしてすぐに手を上へずらし、自分の赤毛をくしゃりと掴んだ。 「…参ったなぁ…」 「…何だ」 「…どうしてだろうね、もうどうしようもなく嬉しいよ」 「はぁ?」 困ったように笑いながら呟く彼女に、彼がまた怪訝そうな表情になって。 「さっきから何だ、急に立ち止まったり突然わけわからんこと言い出したり」 「…ちょっとね」 彼女は笑いながら、それは嬉しそうに笑いながら。 「あんたさっき、久々に夕焼けを見て、前私と夕焼けについて話した事思い出したって言ったよね」 「あぁ」 だからそれがなんなんだ、と怪訝そうに続ける彼に、彼女が笑う。 「さっき、ちょっと前に夕焼けを見て私もその時の事を思い出した、って言ったよね。あんたと同じで」 「あぁ」 「それが四日前の事。四日前、私もあんたと同じ夕焼けを見て、あんたと同じような事思い出して、あんたと同じような事考えてた、それだけ」 楽しそうに答えた彼女に、彼がますます怪訝そうな顔をする。 「…それだけか?」 「うん、それだけだよ」 「…それのどこに、突然立ち止まったりよくわからん事言い出したりする理由があるっつうんだよ」 心底不思議そうに訊いた彼に、彼女は、 「一人じゃなかった」 小さく小さく、囁くような声で呟いた。 「…今何か言ったか」 「さぁね?」 彼女が楽しそうに笑う。笑いながら、また歩き出す。 少しだけ遅れていた距離を埋めてまた隣に来た彼女に、彼が相変わらずの不思議そうな視線を向ける。 彼女は気にせずに、彼を見上げて。 「ねぇ」 「ん」 「さっき私、今は嫌いじゃないって言ったよね、夕焼け」 「…あぁ、言ったな」 「どうしてだと思う?」 彼が、少しだけ考えて。 「…さぁな、わからねぇよ。それよか、さっき結局言わなかった質問の答えはどうなったんだよ」 彼女は楽しそうに幸せそうに笑う。 「…気になるかい?」 その後すぐに、一瞬だけイタズラをする子供のような表情をして。 「そりゃ、ここまで言われりゃ気にならんものも気になるだろう」 「じゃあ教えるから、耳貸して」 ちょいちょい、と彼女が指を動かして、彼に屈んでほしいと動作で伝える。 別に誰に聞かれる訳でもあるまいし、と彼はまた不思議そうな顔をするが、彼女の言うとおりに体を僅かに屈めた。 彼女はくす、と小さく笑って、彼の肩に手を乗せて顔を近づけて、 「、」 彼女の唇は内緒話をする訳でもなく、顔が近づいた事で反射的に閉じられた彼の瞼の上に寄せられていた。 閉じていない方の彼の紅い瞳が、ぱちりと見開かれる。 「…夕焼け、もう嫌いじゃないよ」 彼から離れて、彼女が言った。 「あか。あんたの色だから」 夕暮れ時、照れているのか不意打ちが悔しかったのか仏頂面をしている彼の隣で笑いながら。 真っ赤に染まる世界を眺めて、ああ美しいなぁと一人考えていた。 隣にいる彼もそう思っていてくれたら嬉しいと、そう思った。 |