抑えていた感情が、溢れ出しそうになって。



思わず、俯いて唇を噛み締めました。
膝の上にある手を握り締めて、肩で、ゆっくりと大きく息を吐きました。



そうでもしないと、感情が今にでも溢れてしまいそうでした。








「…俺は」



困ったような表情のまま、言いにくそうに彼が口を開きました。





「泣きそうな人間の相手なんか、あんましたことねぇから」



「最善の対処法なんて知らねぇし、慰めの言葉なんつーものも、よく解らねぇけど」





そこで彼は一旦言葉を止めました。
次に何と言おうか、迷っているようでした。





私が何か言おうと、口を開きかけた時。
ようやく彼が言いました。





「…けど、な」








「―――こんな時は、ガキみたいにわーわー泣いたって、誰も文句言わねぇと思う」








言われた言葉に一瞬驚いて、私は顔を上げようとしました。
でも、その拍子に涙が零れてしまいそうで、寸前でそれを止めました。





「…なんだい、それ。あんた、前に私の泣き顔なんて見たくないって、言ってたじゃないか?」



言い返す言葉が見つからず、とりあえず私はそう呟きました。
それを聞いて、彼が苦笑する気配がしました。



「…見ねぇよ」



俯いたままでいると、隣に座っている彼の動く気配がしました。
と、同時に、肩を掴まれて、ぐい、とひっぱられました。



「え、」



驚いて思わず声を出してすぐ、私は彼の腕の中にいました。
背中には、彼の左腕が回されていました。





彼が唐突なのはいつもの事とはいえ、どうしたのかと思って私は彼の顔を見上げようとしました。
でも、



「こうすりゃ見えねぇ。だから―――」



彼の右腕が、ゆっくり動きました。
そして、








「…こんな時くらい、気の済むまで、泣け」





そう言って、彼が私の髪を撫でた、右手が。








悲しいくらい優しくて。








私、は。



瞳から溢れ出るものを、堪えることができませんでした。








彼はそんな私を見て、またぽんぽんと頭を撫でました。
その手はやっぱり優しくて。
また、涙が出ました。








こんなに泣いたのは、父さんが死んだ時以来だったように思います。
それからは、隠密として、父さんの後を立派に継げるようにと、
ただ気を張り詰めて感情を表に出さないように、振舞っていた気がします。
敵味方問わず、どれだけの命が失われても、無感動に眺めていました。
ただ、感情を抑えなければいけない、と自分に言い聞かせて。





命というものの大切さ。
そんな、当たり前で単純で、それ故にとても大事なことから。
ずっと、目を背けていました。
隠密にそんな感情は必要ない、そんな感情があれば躊躇や同情が生まれてしまう。
そうなれば、自分も仲間も危ない。
そう思って、ずっとそんな考えから逃げていました。







それが。
心に溜め込んできた感情が。
すべて、溢れ出たのかな。





次から次へと溢れ出る涙に、そんな事を思いました。










ひとしきり泣いた後、私はようやく涙が止まった瞳を手で拭いながら、呟きました。



「ねぇ」



かろうじて涙声ではなかったので、少しほっとしながら私は続けました。



「桜は、何かを残すために生きてる、ってあんたは言ったよね」



「あぁ」





「…命も、一緒だよね。あの子は、私にとても楽しい、思い出をたくさん残してくれた」





初めてここで逢って、ひっかかれそうになって、でも懐いてくれたこと。



宿屋でお風呂に入れようとして、追い掛け回して、ようやく捕まえたこと。



料理をあげたらひっかかれたこと。



その後、いつの間にかまた懐いてくれたこと。





どれも、今思うと、とても楽しかったように思いました。





「…それに」





「私に、…忘れかけてた、命の大切さを、教えてくれた」








「―――ねぇ、アルベル」



「私は、あの子に何か、残してやれたのかな」



「…あの子が、私に残してくれたものに見合うだけの、何かを…」



「思えば、…名前すら、つけてあげられなかったんだよね」





「………」



彼は何も言いませんでした。








「ごめん。困らせたね」



そう言うと、彼はゆっくりと首を横に振って、





「…"別れる時が必ず来るとしても…一緒に過ごした時間は、無くならない"んだろう?」





「え?」





覚えのある、台詞を言われて。
少し戸惑いながらも、それは少し前、自分が言った台詞だと。
この子と会ってしばらくして、私が彼に言った台詞だと、思い出しました。








「お前があいつと過ごした時間は、お前だけじゃなくあいつの過ごした時間でもあるだろうが」



彼の声は至近距離で私の耳に届きます。



「だったら、残せたものは少なからず何かあるんじゃねぇのか」



「…お前がそんな風に自分を責めても、あいつは喜ばねぇだろ。あまりに未練がましいのも、あいつにとって酷だぞ」



「…うん」








私は彼の肩に頭を乗せて、彼に体を預けました。
彼はもう一度、私の頭を撫でました。





しばらくの間、二人言葉も無く、そうしていました。








「…行こうか」





私がそう言うと、彼は僅かに頷きました。
彼の腕が私の背中から離れて、私は立ち上がりました。
それからすぐに、彼もゆっくりと立ち上がりました。





ふたり並んで、桜の木に背を向けて歩き出して。
しばらくして、私は立ち止まりました。
隣の彼は、そんな私を振り向いて、同じように立ち止まりました。





「どうした」



「…うん。未練がましいって、思われるかもしれないけど」





私は先にそう言って、桜の木を振り返りました。





「でも、これだけは…言っておきたいんだ」





変わらない、薄紅の花が、咲き乱れていました。








私は一呼吸置いて、口を開きました。





「…あんたのお陰で、とても楽しい思い出ができた」



「大切な事も、また改めて教えられた」



「あんたは私のこと、どう思うかはわからないけど、少なくとも私は、あんたと一緒に過ごせて、楽しかった」



また出そうになる涙を堪えながら。
でも、これだけは言わなければならない言葉だと。
そう、自分に言い聞かせました。



俯いて、また顔を上げて。
桜の木を見据えて。








「ありがとう」



そして、



「―――さよなら」






なんとか言い切って、私はまた桜に背を向けました。
少し前にいた彼は、どこか優しげな表情をしていました。





「…帰るか」
「うん」



頷いて、また私は歩き出しました。








ふと。
顔の横の髪に、薄紅の色が見えました。
手で髪を掴むように触ると、一枚の桜の花びらがついていました。



しばらくの間。
それを眺めて。





私は手を広げて、桜の花びらを離しました。
それは春風に吹かれて、すぐに手から離れて舞い上がりました。








「桜、綺麗だったね」
「あぁ」
「きっと、すぐに散っちゃうんだろうけど」
「あぁ」
「来年も、綺麗に咲くだろうね」
「…あぁ」





「…また、来ようね」
「…そうだな」








私は最後に一度だけ、後ろを振り向きました。
大きくて立派な樹には、薄紅色の桜が綺麗に咲いて。
柔らかい薄紅色の花びらがひらひらと舞って。
その様子は、まるで空から舞い落ちる雪のようで。





本当に、本当に―――綺麗でした。