※某家庭内害虫嫌いさんは見ないほうがいいかと。 「?」 夕食前の、いい香りの漂う工房で、何故か硬直しているネルを見つけて。 つまみ食い…もとい、食事の用意の進行具合を見に来たアルベルは怪訝そうに首をかしげた。 彼女は包丁を右手に、大きな林檎を左手にまな板に向かっていた。 が、いつものように軽快なテンポで野菜を切っている様子ではない。 何か考え事をしているのかそうでないのかはわからないが、完全に動きが止まっていた。 そんなネルの後姿を見て、アルベルが声をかける。 「おい」 返事はない。 「…おい?」 気づいていないのかと、今度は肩を叩く。 反応はない。 ますます怪訝そうにアルベルがネルの顔を覗き込むと、彼女は軽く目を見開いて、何かに驚いたような表情のまま固まっていた。 アルベルは硬直しているネルの目の前に手をやって、ひらひらと横に振ってみる。 やはり反応はなかった。 「どうしたんだよアルベル。ネルさんに何かあった?」 夕食当番の一人のフェイトが、しゃもじを片手にご飯をよそいながら訊いてくる。 アルベルは相変わらず反応のないネルを見ながら何事かを考えている。 「…。…!」 急に何かに気づいたように、アルベルはネルのまわりをきょろきょろと見回した。 「アルベルさん?」 じゅうじゅうといい音を立てるフライパンを片手に、ソフィアも首をかしげている。 「どうしたっていうんだよ」 フェイトが訝ってアルベルにもう一度訊くと。 「…こっちに来ねぇほうがいいぞ」 何やら真剣そうな、だがどこか疲れているような返答が返ってくる。 「はぁ?なんで」 「いる。ヤツが」 誰。 フェイトはそう聞こうと口を開きかける。が。 「…!!! あ、あ…、あ…!」 その直前に、ソフィアが"何か"に気づいたようで怯えたような声をあげる。 フェイトは何事かとソフィアの視線の先を目で追った。 そこにいたのは。 黒くて小さくて素早くて、人類が滅亡しても生き残るのではないかと言われているほどしぶとく根強く生命力の強い、 「い、いやぁぁぁぁっっ!ゴキブリ――――ッ!!!」 かの有名な家庭内害虫だった。 寄るな触るな… 「…っ!!」 硬直していたネルがソフィアの叫び声で正気に戻り、叫ばれた害虫の名前を聞いて顔を引きつらせる。 当のソフィアはきゃぁきゃぁ叫びながらフェイトの後ろに隠れていた。錯乱しているように見えて、しっかりとフライパンの火をちゃんと消していたりする。 意外なところで冷静なのは家事慣れしている証拠だろうか。 盾にされているフェイトは、エリクールにもいたんださすがぁ、と別の意味で驚いていた。 アルベルはやれやれと首を振っている。 「やっぱりいやがったか。お前が硬直するなんてこれしか有り得な」 「そんなこと今はいいんだよっ!…うわぁ近づくんじゃないよ!」 ネルはアルベルの台詞をさえぎって言い放ち、さりげにアルベルの後ろに隠れる。 喋っている最中に、またあの家庭内害虫がカサカサと音を立てて移動しているのを見て顔色を青くした。 家庭内害虫はカサコソ動き回りながら、フェイトとソフィアのほうへ進路をとる。 「こ、来ないでぇぇぇっ!エクスプロージョ…」 「ま、待ったソフィア!それはさすがにやばいだろ!」 紋章術を唱えようとしたソフィアを、すんでのところでフェイトが止める。 「おいどうした?何かあったのか?」 「何?今の叫び声は…ってきゃぁぁぁぁぁっ!」 様子を見に来たらしいマリアも、家庭内害虫を見つけて甲高い叫び声をあげる。 クリフは急に大声を出され、耳を押さえて顔をしかめている。 と、急にマリアに胸倉を掴まれ、 「早くあれ退治して早く早く早くぅぅっ!」 「ちょ、うわ、やめ、おい…」 がくんがくんがくんと揺さぶられる。 自分の約二倍の体重の男を軽々と揺さぶる彼女は一体どう言う体の作りをしているんだろうか。 怖くて誰も突っ込まなかったが。 家庭内害虫はそんな大騒ぎにも構わず、カサコソ動き回っている。 今度はマリアの方に突進してきた。家庭内害虫の例に漏れず元気だ。 「いやあぁぁぁっ!」 半分ほど錯乱しているマリアは、咄嗟に手に持っているものを投げつけた。 「あ」 誰かのつぶやく声が聞こえた。 マリアの持っていた"モノ"は。 「うおぁぁぁぁ!!」 ちょっと情けない叫び声をあげながら投げ飛ばされ。 家庭内害虫に向かって顔から…。 …突っ込む寸前、空中でなんとか体勢を立て直して。 「…!!! …うわっ、と!」 家庭内害虫を踏まないギリギリの地点に着地した。 クラウストロ人の彼でなければできない芸当だっただろう。 「…っぶねーな!」 着地してすぐにバトルステップで家庭内害虫から逃げ退り、とりあえず家庭内害虫からは逃げ延びて生還したクリフが即行でマリアに怒鳴る。 「…だ、だって怖かったんだもの!しょうがないじゃない!」 ようやく落ち着きかけたマリアが言い返す。 そんなことをしている間に。 家庭内害虫は今も活発に動き続け、急にネルの方に向かって突進してきた。 「………!!」 ネルは声にならない叫びをあげながら完全にアルベルの後ろに隠れる。 そんなネル(と盾にされているアルベル)に向かって、家庭内害虫はその黒い体の中にしまっている羽をはばたかせて…。 飛んできた。 さすがのアルベルも嫌そうに顔を歪める。 先ほどから家庭内害虫を見て顔色を悪くしていたネルは顔を引きつらせながら咄嗟に叫んだ。 「…っ!!寄るな動くなくたばれ阿呆!」 「は?」 ネルの前にいるアルベルが怪訝そうにつぶやき。 「「「「…え?」」」」 聞いていた周りの四人が呆気にとられてつぶやいた。 ネルははっとなって、口を押さえる。 が、すぐに目の前に迫り来る恐怖(=家庭内害虫)に気づき、顔色を青くする。 そんなネルを見てアルベルはまたやれやれと肩をすくめ、おもむろに腰の刀を抜き。 「寄るな動くなくたばれ阿呆」 先ほどネルに言われた台詞を言い放ちながら、向かってくる黒い物体に向かってぽいっと刀を投げた。 ざく。 まるで、紙くずか何かをゴミ箱に投げるかのような気軽さで投げられたそれは。 黒い小さい何かを貫き、そして床に音を立てて突き刺さった。 「「「………………………………………………………」」」 それを近くで見ていた、アルベルの後ろに隠れていたネル、フェイトにしがみついていたソフィア、ソフィアにしがみつかれていたフェイトの三人は、思わず無言になる。 そんな三人に構わず、アルベルは床に刺さった刀を抜く。 三人は刀に刺さったままの黒い何かをできるだけ見ないようにしながら、アルベルの行動を目で追っていた。 アルベルはすでに息絶えている黒い何かをどうするか一瞬悩み、めんどくさそうにゴミ箱まで移動する。 ゴミ箱の前で軽く刀を振ると、刺さっていた黒い何かは反動で飛んでゴミ箱へと入った。 それを見て。 ネルは安心したようにふーっと息を吐き、ソフィアは尊敬の眼差しでアルベルを見て、フェイトはそんなソフィアを見て少しむっとなっていた。 「アルベルさんすごーい!今、始めてアルベルさんのこと強いって思いました!」 褒めているようでさり気に貶しているソフィア。 「やるわね!さすが歪のアルベルってとこかしら」 遠くで見ていたマリアも、もう大丈夫だとわかって安心したように近づいてきた。 ってか、こんな時だけ呼ばれる通り名ってどうなんだろう。 「…なんであんな虫を退治したくらいで…」 「あんな虫、じゃないですよ!…あぁ怖かったぁ…アルベルさんよく平気でしたね」 「ある意味、断罪者や代弁者を倒すよりもすごいわよね」 「確かにね。アレに比べたら断罪者のほうがまだ可愛げがあるってもんさ」 いやそれはないんじゃないでしょうか。 フェイトはそう突っ込もうとするが、ネルが本気で嫌そうな顔をしているのを見て言わないでおいた。 「そういえば、ネルさんってゴキブリ嫌いなんですか?」 意外そうにソフィアが問いかける。 ネルはどこか疲れたような顔をしながら口を開いた。 「…あれだけは、どうにもね…。蜘蛛とか芋虫とかは平気なんだけど」 「そうなんですか?そういえばアルベルさんは知ってたみたいでしたけど」 ネルが硬直していたときすぐに事態を察知していたアルベルを見て、ソフィアが問いかける。 アルベルはまぁな、と一言返す。 「この間工房で一匹出たときも大騒ぎしてな…こっちとしては大迷惑だった」 「…うっ…悪かったよ」 心当たりがあるのか、ネルは素直に謝る。 「それにしても…ネルさん、さっき言った台詞…」 フェイトが面白そうに言う。 言われたネルはうっと詰まって、視線をそらす。 「そうそう!さっきネルさんアルベルさんの台詞言ってましたよね!」 「相変わらずさりげに仲良いですよねーネルさんとアルベル」 「ちょっと待った。なんでそうなるんだい?」 「だって、咄嗟に出てくるってことはそれだけその台詞を聞いてるってことじゃないですか」 「イコール、それだけアルベルさんと一緒にいることが多いってことでしょう?」 「…いや、そうでもないと思うんだけど…まぁ、忘れてよ。さ、料理の続きしようか」 「…あっ!そうでした!ハンバーグまだ生焼けだったですっ!」 慌ててフライパンに駆け寄るソフィアと、軽く流されてあまり面白くなさそうなフェイトが夕食作りを再開する。 マリアとクリフは、じゃあできたら呼んでね、と言って隣の部屋に戻っていく。 …切り替えの速い人達だ。 各自散らばるように自分の仕事に戻っていったフェイトとソフィア、隣の部屋に戻っていったマリアとクリフを横目で見ながら、アルベルがネルに声をかける。 「…なぁ、お前さっき…」 「…なんだい」 さっき切りかけだった林檎の皮を包丁でむきながらネルがそっけなく答える。 「…俺の台詞叫んでただろ」 「…」 言い返せずにネルは口ごもる。 アルベルはにやりと笑んで、さらに問いかける。 「何でだ?」 「…なんとなく耳に残ってたんだよ」 視線は林檎に向けたままネルが答える。 「? は?」 「だから、何故か耳に残ってたんだってば」 「何でそれが咄嗟に口から出てくんだよ」 「わからないよそんなの」 ネル自身よくわかっていないので、そう返すしかなかった。 …それにしたって。 楽しそうに笑いながら敵を血みどろにする寸前の台詞が耳に残るなんて。 「…どうなんだろうね」 「は?」 「いや、こっちの話」 「…独り言言い出すとはな。とうとうボケたか?」 「うるさいよこの阿呆っ!」 「…は?」 「…あ」 前言、撤回。 どうやら、ただ耳に残っていたのではなくて。 「あんたの口調がうつるとはね…私もとうとう末期かな」 「…俺の口調は病原菌かよ」 「直るかなー…直るといいけど」 「聞けよ阿呆」 「あんたと会話してると口調うつるかもしれないからね。聞かない」 「…何ガキみたいなこと言い出してんだよお前は。現に今会話してんじゃねぇか」 「あぁ、そうだね。じゃあこれから会話なしにしようか?」 「…やってみるか?」 「嘘だよ」 即答する。 会話しない、なんて生活は成り立たないほどに一緒にいる時間が長いのだ。 やってもどうせすぐに終わるだろう。 そんなことを考えながら、先ほど言われたことを思い出す。 "だって、咄嗟に出てくるってことはそれだけその台詞を聞いてるってことじゃないですか" "イコール、それだけアルベルさんと一緒にいることが多いってことでしょう?" …その通りだったみたいだね。 そう思って、思わず苦笑した。 その時。 「っきゃぁぁぁぁぁ!また出たぁ―――っ!」 耳を突き抜けるような悲鳴が、背後から聞こえた。 ネルは思わずびくりと反応する。アルベルは嫌そうにため息をついた。 ネルが恐る恐る振り返ると、 「嫌ぁぁぁっ!来ないでっ!」 と叫びながら逃げているソフィアと。 …先ほどより一回りほど大きい、黒いナニカがいた。 「………!!」 ネルはまたアルベルの後ろに避難する。今度は必死の形相で。 アルベルがやれやれと刀を抜こうとする。が。 ネルが右手に思い切りしがみついてきて、動きが取れなかった。 「おい、しがみつくな」 「………!!!」 …なんで虫が少しでかいくらいでそこまで怯えるんだよ! アルベルは心の中で思い切り叫ぶ。 「退治できねぇだろうが」 本気で放してもらえず、少し焦りながらアルベルが声を荒げる。 が、ネルはいつになく怯えて首を横にふるふると振っている。 その様子はとてつもなく可愛らしいものだったが、今の状況ではかなり困る。 アルベルが家庭内害虫に視線を向ける。 カサコソ動き回っているそれは、まぁとりあえずこちらに来る気配はなさそうだった。 「…ん?そういえば」 "あれ"にまつわる嫌な話を聞いたことがあるような。 そう思い、なんだったかを思い出そうとした瞬間。 ぶちっ。 形容するのならまさにそんな感じの音が、前方から聞こえた。 その音は目を背けていたネルにも聞こえたらしく。 二人は恐る恐る前を見た。 そこには。 「まったく、探すのに手間取っちゃったよ。やっぱりすぐ目に付くところに置いとかないといけないね」 とか言っている、フェイトの姿があった。 顔に浮かんでいるのは、実に爽やかで晴れやかで満足げな、達成感溢れる表情。 その右手には、強化に狂化に凶化された鉄パイプ(血糊付)。 ついでにその隣には、「フェイトかっこいいv」と目をキラキラさせているソフィア。 その鉄パイプの先には。 無残にも潰れている元家庭内害虫。 その様子は…。 説明しないほうがいいだろう。てかしたくない。 「アルベルー。これ、さっきどうした?燃えるゴミでいいんだっけ?」 そう言いながら、潰れた何かが付着した鉄パイプを持ったままこちらに向かってくるフェイトに。 青ざめたネルと、顔を引きつらせたアルベルは同時に叫んだ。 「「寄るな触るなくたばれ阿呆っっっ!!!」」 おまけ。 「ねぇ、あんたさっき何か思い出そうとしてなかったっけ?あれなんだったのさ」 「あぁ…あれか…。聞かねぇほうがいいと思うが」 「? 何?気になるじゃないか」 「…いや…マジで聞かねぇほうが…」 「いいよ、言ってってば」 「…"あれ"は…」 「…何さ」 「…"一匹見かけたら三十匹いると思え"って誰かが言ってた気がするんだよな…」 「…え……」 「いやぁぁぁぁ!こ、今度は何十匹もいるぅぅぅぅ!」 「…うわー……これはさすがに嫌だなぁ」 「…!!」 「…マジかよ」 「…ふ、ふふふふふ」 「…ソフィア?」 「…け、……を……、……なる……」 「? どうしたんだいソフィア?」 「…あの家庭内害虫を貫く、裁きの矢を放て…」 「!!!!???? ま、待ったソフィアぁ!」 「メテオスォ――――――――ムッッッ!」 「「「うわ――――――っ!!!!」」」 工房は見事に半壊した。 半壊で済んだのは、咄嗟にソフィアが使ったリフレクションと、駆けつけたマリアが使ったアルティネイションのお陰だった。 今日の教訓。 掃除はこまめにしっかりと! |