今まで生活していた環境がガラリと変わるのは、予想以上に精神が疲れるものだと。 今初めて理解した。 宇宙 ぺたぺたぺたぺた。 「…どうしたの、ネル?」 宇宙船ディプロの廊下。 デッキから出て階段を下りてすぐの所で、紅い髪の女性が壁を手の平で叩いていた。 「あぁ、マリア」 振り向いた彼女が手を止める。さっきから小さく響いていたぺたぺた音が鳴り止む。 振り向いた先にいたのは青い髪の少女。不思議そうな顔で赤毛の女性を見ていた。 「この、壁とか天井とか床とか、何で出来てるのかなって」 「あぁ、そうよね。エリクールにはない素材だものね」 それを聞いて、ネルと呼ばれた赤毛の女性が納得したようにふぅん、と呟く。 「やっぱりね。光沢があるからどう見ても石ではないし、鉄や銅とも違うみたいだし…」 「ええ。まぁ、平たく言えばいろいろな物質を合成して人工的に作られた物質なんだけど…説明するといろいろとややこしくなるかもしれないし…」 「あぁ、うん。それは構わないし、多分理解出来ないから」 苦笑した彼女に、マリアと呼ばれた青い髪の少女が複雑そうに微笑む。 「技術を伝えてしまうと後々問題になるから…あまり込み入ったことは話せないの。ごめんなさいね」 「気にしないでいいよ。元はといえば強引に着いてきたのは私の方なんだから」 「あら、そんなことないわ。私たち全員、あなたが来てくれたことをとても心強く思ってるもの」 「ふふ、そう言ってくれると嬉しいよ」 だから早くこの環境に慣れなきゃね、と呟く彼女に、 「…やっぱり正解だったわね」 マリアが小さく呟く。 「ん?何がだい」 マリアはゆっくりと首を横に振る。 「気にしないで。そうそう、ネルの部屋はそこの角を右に曲がってすぐの部屋よ」 「あぁ、ありがとう」 「まだ時間もあるし、ゆっくりしておくといいわ」 にこ、と微笑むマリアに、彼女はありがとう、と答えて踵を返した。 先ほど言われた方向へ歩いていく後ろ姿を見送りながら、 「さてと。これからどうなるかしらね?」 青髪の女王は楽しそうに微笑んだ。 右に曲がって、すぐの部屋。 ここだな、と確認してドアの前に立つ。 しゅん、と音を立てて勝手にドアが開いた。少し驚いて一歩後ずさる。 室内にいた誰かが、自分が開けるより先にドアを内側から開いたのかと思って前を見るが、誰もいない。 「…あぁ、そうか…自動で開くんだったっけ…」 慣れなければいけないと思った矢先にこれか。 彼女は苦笑して、中に入った。 中も相変わらず、見たことのない物質で構成された、見たこともない物体が設えてある、見たこともない間取りの部屋だった。 観葉植物らしき物があって、近づいてみる。 周りに輪のようなものがくるくる回りながら浮いていて、それも人工の機械か何かだった。 きっと植物を枯らさないように、そして必要以上に成長させないように調整している機械なのだろう。 かつかつ、とエリクールでは聞くことの出来ない足音を立てながら、ベッドまで歩いた。 腰掛けてみる。柔らかい布の感触がして、少し安心した。 しゅん。 ドアが自動で開く音がして、彼女はそちらへ視線を向けた。 開いたドアの向こうにいたのは、妙な色調の髪をした彼。 「アルベル?」 「…あ?」 部屋の中にいる彼女を怪訝そうに眺めて、アルベルと呼ばれた彼は部屋の中に入ってきた。 また扉の閉まる機械的な音がする。 「何故お前がここにいる?」 「はぁ?それはこっちの台詞だよ。何であんたがこの部屋に来るんだい」 「この船に乗ってから、ずっとここが俺の部屋だと指定されているんだが?」 彼女が目を瞬かせる。と同時に、マリアに言われたことを思い返してみる。 角を曲がって、すぐの部屋。 「私の部屋もここって言われたんだけど」 「ほぅ。まぁ、この際どうでもいいことだな」 そう言ってずかずかと近づく彼に、彼女は眉を顰める。 「どうでもいいって…」 「どうでもいいだろ。どうせ宿で別室になろうが、結局同室みてぇなもんだったし」 「それはそうだけど」 「なら何も問題はねぇだろ」 そう言って、どかりと椅子に座る。 左腕のガントレットと椅子がぶつかって、硬質な音が鳴った。 「まったく、いつもいつも強引な男だね」 口ではそう言っているものの、顔は微笑んでいる。 彼はそれを見て、機嫌でもいいのか珍しい、と首を少し傾いだ。 「目的地に着いたらアナウンス…あ、船内放送って言えばいいのかな?とにかく部屋に音声流すから、それまでゆっくりしてて。結構時間あるから仮眠とってもいいし」 フェイトにそう言われていたので、早速彼はガントレットや刀の調整を始めた。 彼女はベッドにうつ伏せに寝転んで枕の上で組んだ両腕の上に顎を乗せ、単調作業を続ける彼をぼんやりと眺めていた。 かちゃかちゃと金属音が鳴り響く。不意にその音が止まって部屋に沈黙が訪れた。 「…おい」 一言も話さず、ただじっと見られていることに居心地の悪さを感じたのか、彼が口を開く。 「何」 「…凝視すんな。気が散る」 そう告げて、また彼は作業を再開する。 「別にいいじゃないか」 「…こっちはよくねぇ」 「気にしないでよ」 「気になるっつの。何だ?何か言いたいことでもあるのか?」 外したガントレットを調整していた手を再度止めて、彼が彼女に向き直る。 ぼんやりとした目の彼女は、視線を上げて彼と目を合わせた。 「うーん…あると言えばあるのかもしれないけど」 「は?」 彼女は困ったように笑う。 彼は怪訝そうに目を細め、調節途中のガントレットを置いて立ち上がる。 数歩歩いて、ベッドに寝転がっている彼女の傍に来て腰掛けた。 ベッドのスプリングが、彼の重みで一瞬きしむ。 「言いたいことがあるなら言え」 「うん…」 「溜め込むな。何かあったら吐き出せ。でないとお前その内胃に穴が開くぞ」 「それは困るね」 くすくすと笑いながら、彼女が顔を上げた。 うつ伏せで体の力を抜いた体勢のまま、口を開く。 「異質、だね」 「あ?」 唐突に単語だけ述べられて、彼が聞き返す。 「この船の中の雰囲気だよ。本来なら、私達が異質なんだろうけど。環境がここまでガラリと変わると、周りの何もかもが異質に思えてくるんだ」 ぼんやりとした瞳で、彼女が言葉を紡ぐ。 「この床とか天井とか機械とか…全部、私達が理解できないような物質で作られてるんだよ?信じられる?」 「どれだけ疑問に思おうと事実そうなんだから、信じるしかねぇだろ」 「はは、そうだね。あんたはそういう性格だったね」 くすくすと笑って、彼女が顔を下げて両腕に口元を埋める。 「ねぇ、そこの観葉植物に近づいた?」 彼が、首を近くの観葉植物に向ける。 「いいや」 首を横に振って否定した彼に、彼女が続ける。 「そう。…だったら、気づかなかったろうけど…あの植物には、命が感じられないんだ」 「は?」 観葉植物から視線をずらし、再び彼は寝そべる彼女を見る。 彼女は依然としてぼんやりとしたまま、答える。 「命が感じられないんだ。自分で生きているんじゃなくて、あの装置に"生かされて"る。…なんとなく、そんな気がしたんだ」 「……」 「この床や天井もそう。何かよくわからないものが人工的に合成された、自然界には有り得ない物質らしいんだ」 彼女は組んでいた手を伸ばし、ベッドの枠の部分に触れた。 つるつるとした、無機質で冷たい慣れない感触。 「命と言うより…自然、かな。ここには、自然なものが存在していないんだね」 人工的に作られた無機質なもの。 贅沢や便利さを追求するためには、致し方ないのだろうけど。 今と同じような気持ちを、彼女は知っている。 紋章兵器研究所でそうは見えないが博士である、いつもおっとりしている女性にサンダーアローの製作途中の物を見せてもらって。 まずその外形に驚いて、触感に驚いて。 「この、わけのわからないカタくて尖ったへんなかたまりで、人を何十人も一瞬で殺せるのよ」 そう説明されて、怖気が立った。 「さすがはエレナ博士ですね」 震える声をなんとか抑えて、答えた。 「…こんなものを生み出したくはなかったけどね」 ふ、と達観したような微笑が、いつものおっとりした彼女らしくなくてひどく哀しそうだったのを、憶えている。 「ここに来たことを後悔してるわけじゃないけどね。それにフェイトやマリアや、あんた達に着いてきてここに来て、それが結果的に良いか悪いかなんてわからない」 「でも、お前は今ここにいる。現にあいつらに着いていくことを選択したんだろう?」 「…うん」 「何故だ?と聞くのは愚問か」 くく、と彼が喉で笑う。 彼女は再び視線を上げる。 「私がそうしたいと思ったからさ」 自分達の世界を壊そうとしている、創造主。 宇宙や、その外にあるもっと大きな世界を守るためなんて大それた目的じゃない。 ただ、自分の大切な物や大切な人達が在ることが出来る場所を、失いたくない。 その為なら。 「少しくらい無機質だろうが冷たかろうが、怯んだりしないよ。あの子達が生きてきた世界だ。…きっと好きになれるさ」 「そうか?お前は故郷だの国だのなんだのってうるせぇから、違う世界を受け入れるのを拒むかと思ったが」 「そこまで狭量じゃないさ、私も。あんた私をなんだと思ってるんだい」 「頭固い頑固な国一筋一直線女」 「…うるさいよ」 こう反論するのは認めている所為だと自覚はあったが、彼女は小さく言い返した。 「でもさ」 凛としていた彼女の声が、少し弱まる。 彼が思わず彼女を見る。 「やっぱり、…冷たい世界は、慣れないと違和感が拭えないね」 ぽふ、と枕に突っ伏し、ふぅ、と彼女はため息をつく。 よく考えれば、この枕も敷布もすべて絹や綿と似せて作ってある人工物なんだろう。 感触はまったく変わらないから、違和感はほとんどないけれど。 「…そのうち慣れんだろ」 「だといいけど」 苦笑して、またベッドの枠や壁に手を伸ばす。 ぺたぺたぺたぺた。 音を立てていると、短気な彼から苦情が来た。 「うるせ」 ぱし、と壁を叩く手を掴まれる。 「何やってんだ」 「いや、慣れようと練習」 「阿呆かお前」 呆れたように彼が言って、彼女が少しむっとなる。 その彼女の表情にまた彼が苦笑した。 「…で?練習の結果はどうなんだガキ」 「ガキって何さ!」 「環境に慣れずにうだうだ言う奴なんぞガキで十分だ」 「…」 たまに、こいつのこのあっけらかんとした性格が羨ましくなる。 と同時に、付加されてくる毒舌に腹立たしくもなるのだけど。 彼女は思って、同時にはっとなる。 でもこうやって言い合いをしている間、少なくとも彼女は違和感とか不慣れ故の不快な感情とかは一切感じていなくて。 「…なんだ。自然なものって、こんな近くにあったんだ」 「は?」 彼の声もあまり気に止めず、枕に突っ伏したまま、彼女はこの船に乗って初めて笑った。 「ねぇ」 「あー?」 ベッドに座って後ろに両手を付いて、くつろいだ様子の彼が聞き返す。 「背中、借りていいかい?」 「背中?」 彼が反復して聞き返す。彼女は何も答えずにむくりと起き上がった。 彼女はベッドの上を移動して、彼が座っている後ろにぽす、と座り込んだ。 「?」 頭の上に疑問符を浮かべている彼が振り向こうとする。 とん。 彼の背中に、何かがもたれかかってきた。 感触から、その何かが彼女の背中であることを察知した彼は首だけを後ろに向ける。 振り向いたすぐに、彼女の紅い髪があった。 彼の髪と彼女の髪が触れ合って、さら、と微かに音を立てた。 「…おい?」 それから何も反応が無く、まさか寝てねぇだろうなと彼が声をかけた。 「ちょっとだけでいいから。このままじっとしててくれるかい」 「…何のつもりだ?」 唐突な彼女の行動に、彼が何気に言われたとおりじっとしたまま問いかける。 「あんたの背中、広いね」 「は?」 「私の肩まで余裕でもたれられるだろ」 「普通だろ」 「そうかもね」 「…で?さっきの質問は無視するつもりか?」 彼女は(彼からは見えないが)くす、と笑んで、答えた。 「あんたの背中借りて。目、閉じてるとさ」 穏やかな声だった。 彼はじっとしたまま聞いている。 「…ここが宇宙だなんて、気にならなくなるんだ」 目を閉じて。 視界に入るものは何も無い。 感じるのはシーツの柔らかい感触と、背中のぬくもりと。 微かに感じる、髪にかかる自分の物ではない髪の毛の感触。 「あんたがここにいてくれて良かった」 安心しきったような声を聞かされて。 彼も我知らず表情が緩んだ。 彼がゆっくり、目を閉じる。 視界が暗転して、周りの状態を感じ取れるのは触覚と聴覚と嗅覚のみになって。 「…本当に、良かった」 安らいだ彼女の声と、背中に感じる彼女の体温と、ふわりと香る彼女の香りと。 感じるのはそれだけ。 あぁ、確かにここがどこかなんて関係ないな、と思った。 無機質で冷たい世界で。 だからこそ、いつも以上に背中のぬくもりが温かい。 宇宙でもエリクールでもどこでも、変わらない感覚。 |