「…い、……おい!」
声が聞こえた。
同時に、肩を掴まれて揺らされる感覚。
がくがく揺さぶられて、はっと気づいた。
いつの間にか閉じていた目を、勢い良く開く。
目の前に、見覚えのある紅の瞳が見えた。
「アル…ベル?」
目の前にいる人間の名前を呼ぶ。
シーハーツの黒い式服を纏った、妙な髪の色の男が目の前にいた。
彼は私を何故か睨んでいて、なんだろうと思った次の瞬間怒鳴られた。
「この阿呆が!こんな時間までどこほっつき歩いてたかと思えばこんなとこで寝てただと!?」
「は、…え?」
我ながら間の抜けた声を出す。彼はそれを快く思わなかったようで、顔を不機嫌そうに歪める。
「非常識も程々にしとけ阿呆!どれだけ捜し回ってやったと思って…」
彼はそこまで言って、はっとしたように口を噤む。
事態はよく飲み込めないが、どうやら彼は祭りの最中急にいなくなった私を捜し回ってくれていたようで。
「…心配……してくれたんだ」
「…してねぇよ」
「でも、捜してくれたんだろう?」
「………」
そっぽを向く仕草が彼らしくて、自分でも無意識に表情が緩んだ。





ぼんやりとした思考がなんとか元に戻ってきて、私は自分の状況を確認した。
私は、どうしてだか眠っていて、そしてここはあの紅の花の草原のようだった。
周りには、先ほどの紅蛍がふわふわと飛び交っている。
あの後そのまま眠ってしまったのだろうか。
なら…あれはまさか夢だったのだろうか?
あの、少女に会った事は。





夢だったのだろうか?








「ったく…こんな時間にまで墓参りか?ご苦労なこった」
彼が言って、一瞬何の事だかわからず当惑する。
「…あぁ、父さんの墓の事かい?でも、今日はそれが目的でここに来たわけじゃ…」
「何言ってやがる阿呆。今まさに後ろに墓があんじゃねぇか」
言われて振り向く。
そこには、言われて初めて気づいたのだが…父さんの、墓があった。
「え」
さっき少女がいなくなった場所には、なかったのに。
「は?墓参りに来たんじゃなきゃ、何してたんだよ」
「………」
答えに困って黙り込んだ私を不思議に思ったのだろう、彼がまた怪訝そうな表情をする。
「用もなくこんなところ来るわけねぇだろうが」
「あ、いや…ちょっとね」
「は?…とにかく、用がねぇんなら帰るぞ」
彼が、私の手を掴んで立たせようとして、ふと何かに気づく。
「……? …おい、お前手に何持ってんだ」
そう言われて、自分が手に何かを握っていたのに私も気づく。
手を広げて見てみる。
私の手の中にあったのは、折り紙で折られた、―――折鶴だった。
「…何でこんな物持ってるんだろう」
「あぁ?なんだお前本気でわけわかんねぇな」
そうぼやく彼を、ぼんやりと見ながら、思う。
どうして折鶴なんて持っているのだろう。
あの子は、一体…誰だったのだろう。





"…それはきっと、君の一番大切な人が知ってるよ"





先ほど言われた言葉が、頭をよぎった。





「ねぇ、一つ質問をしていいかい?」
「は?」
面倒くさそうにこちらを見る彼は、そんな事をいちいち確認とる必要はないだろ、と当たり前そうに言った。
それを承諾の印ととって、訊ねる。
「…シーハーツの白い式服を着た、十歳前後位の紅い長い髪の子供のこと、知らないかい?」
「あー?」
彼は怪訝そうに目を半眼にしてこちらを見た。
こんな曖昧な情報でわかるわけないか、そう思って、知らないんならいいよ悪かったね、と言おうとする。
「…あぁ…お前も、逢ったんだな」
納得したように言われて、意外な返事に驚いた。
「えっ?」
「訊いといて何驚いてんだお前」
「いや、だって、まさか本当に知ってるだなんて思わなかったから…」
「…? ならなんで訊いたんだよ、妙な奴だな」
そんな事を言いながら、彼は周りにふわふわ浮かんでいる紅蛍を見遣った。





「…この蛍がなんて言われてるか、知ってるか」
違う話題を唐突に出した彼を、少し不思議に思う。
彼の無駄を嫌う性格からして、まったく関係ない話題を切り出すはずはないのに。
ということは、私の質問に何か関連性のあることなのだろう。
そう思って、素直に答える。
「知ってるよ。紅蛍。"昔に帰らせてくれる蛍"だろ?」
「…あぁ、シーハーツじゃ確かそういう謂れがあったか…なら、知らねぇのも無理ねぇか」
「アーリグリフでは違うのかい?」
「あぁ。アーリグリフの方じゃ、こう呼ばれてる」





彼が小さく頷き、答えた。








「"死者を導き、再び逢わせてくれる蛍"」








「―――え」








「昔っから、紅蛍の出るこの時期に、幽霊に逢ったっつぅ奴等が何人もいたらしくてな」



「しかもそれが肉親だとか親友だったとかって話で、だったら紅蛍が連れてきたんじゃねぇかって事になったそうだが」



「…お前の見た"紅い髪の子供"も、死んだお前の肉親か誰かだったんじゃねぇのか」





―――――私の。
死んだ、肉親?








"お家?前はシランドに住んでたけど、今は違うよ。今は、ここからとっても遠いところにいるの"



"シランドに住んでた時に見つけて、それからずっとお気に入りの場所"



"だってわたしはあなたのこと、よく知ってるからね"



"あなたも、昔に戻れるかもしれないよ?"








なら。
まさか。
まさか。





さっきの少女は。
…いや、さっきの"少年"は。








―――父さん?








だとしたら。
この折鶴は……





呆然としたまま、まさかと思って折鶴の折り目を戻して丁寧に広げる。
すぐに折鶴は正方形の紙になる。





その紙には、流れるような綺麗な字で、こう書かれていた。





"墓の近く、樹が三本寄り添ってるところの真ん中の樹の穴の中を見てみて?"





見覚えのある筆跡。








「何だこれ。その樹に何かあんのか?」
隣から覗きこんだ彼が、私が思った事を代弁するようにつぶやく。
「つか、これお前の所有物じゃねぇのかよ」
「え、ううん…知らない間に握ってた」
それを聞いて彼は一瞬不思議そうな表情をしたが、何かに気づいたかのように目を軽く開いて、押し黙った。
「………。で?行くのか、その樹んとこ」
無言で、頷いた。
立ち上がり、辺りを見回す。月明かりに照らされた草原はひどく幻想的で美しい。
森の方へ目をむけ、目に留まった紙に書かれていた特徴と同じような外見の樹に、近づいてみる。
彼も立ち上がり、興味があるのかただついてきているだけなのか、隣に並んで樹に向かった。








しばらく歩いて、呆気なくその場所にたどり着く。
三本ある樹はそれぞれ中々な大きさと太さを持っていた。
真ん中にある樹に近づいて、ぐるりと回りを一周してみる。
本当に、樹の幹に穴があった。多分自然にできた物だろう。
ゆっくりと、中を覗きこむ。
中は微かに施術の気配がした。
そして、
「…手紙?」
施術で護られた、小さな手紙が置いてあった。
どれくらいここにあったのかは判らないが、風化もしていないし保存状態は完璧そうだった。
手にとって、封を開けてみる。
中には薄い水色の手紙が入っていた。
「誰が、書いたんだろう…?」
呆然と呟く。
「読んでみりゃ解んだろ」
隣で私の手元を覗きこんでいる彼が答える。
月明かりの下、綺麗に三つに折りたたまれている手紙を開いて、字面を追った。










この手紙を読んでいる、君へ。





君がこれを読んでいるということは、きっともう俺はこの世にはいないんだろうね。
そんな生活に、君はもう慣れたかな?
もしかしてまだ俺の事引きずっていたりはしないかな。
そうでないといいんだけど。



相変わらずの性格で、きっと君はいつも色々な事に悩んでるんだろうね。
その性格を悪いとは言わないけど、たまには肩の力を抜いて休まないと駄目だよ。
まぁ、クレアちゃん辺りがその辺を上手くやってくれてるんだろうけど。



そろそろ恋人はできたかい?
昔から君は恋愛事に疎そうだったから、ちょっと心配してたんだ。
でも、もしかしたらもう俺には孫ができてたりしてね。希望としては女の子がいいな。





きっと君は今からいろんな事に遭うだろうね。
でも、君が決めたことなら俺は何も文句言わないよ。
頑張って自分の決めた事を突き進むといい。
後悔はしないはずだから。





俺は君の夢が、いつか叶う事を祈ってる。
君が大切な人とずっと一緒にいられる事を願ってる。
そして…



君が幸せになれることを、望んでる。





だって君が幸せなら、それで俺は十分幸せだからね。





だから、



幸せになれよ。ネル。





父さんの分まで。








―――――ネーベル・ゼルファー








ぱたり。
手紙の上に、水滴が落ちた。
雨でも降っているのかと最初思って、手紙に落ちた雫を払う。
だがその水滴は一粒に留まらず、後から後から落ちてくる。
なんだこれ。そう思うと同時に、隣の彼が右手を伸ばして私の頬を包むようにそっと触れてきた。
「…世話の焼ける奴だな。自分の涙くらい自分で拭え、手紙が濡れて字が読めなくなっても知らねぇぞ」
言われてようやく、私は自分が泣いているのだと気づいた。
気づいたところで、その涙は止まりはしなかったけど。





今までずっと。
自分は、心のどこかで幸せになってはいけないと、そう思っていたのかもしれない。
でも、やはり心のどこかでは、幸せになりたいと、思っていたのかもしれない。





結局は。





幸せになる資格なんかない。
幸せになる権利なんてない。
そう、思っていたのかもしれない。





でも、








私が幸せになることを、望んでくれる人がいる。








"私は今幸せなのかな"





もう一度、自分に問いかけた。








まだ流れている涙を、優しい手つきで拭ってくれていた彼に、手を伸ばす。
手を伸ばして、彼の背に腕を回すと、彼は私の顔に置いた右手を離し抱き返してくれた。
彼の左手が私の髪をゆっくりと撫で、右手はふわりと背中に回される。
ぎゅ、と抱きしめられる心地よい感覚に支配され、心に暖かいものが生まれる。
満たされた気分になる。
涙が溢れているのに、表情が柔らかく緩んだ。





さきほど会った少年の声が、頭の中でまた響く。





"わたしは、昔も今もすごく幸せだよ?"





"きっと、その"亡くなってしまった人"は、あなたがそうやって悩んでも、喜ばないと思うよ"





"その人も、あなたには幸せになってほしいと思うんだ"





"幸せになれない人間なんて、いないんだから"





"だから、幸せになって。絶対に"








"…俺も、それを望んでるよ。―――ネル"








「―――私は、幸せだよ?」








父さん。










しばらくそのまま、二人で何も言わずに抱き合っていた。
やがて、彼の耳に規則正しい寝息が聞こえてくる。
腕の中にいる彼女は、涙に濡れた頬のまま、幸せそうに眠っていた。
こんな時間までうろうろしてるからだ阿呆。
彼が言おうとして、そして何かに気づいてそれを止めた。
前方に、誰かの気配。
彼が顔を上げる。
白い、シーハーツの式服を着た、十歳前後の赤毛の子供が立っていた。
「男冥利につきるね、アルベル。腕の中でそんなこと言われるなんて」
くすくすと白い服の子供の口元が笑っている。
「愛されてるなぁ」
「…また覗きとは相変わらず良い趣味をお持ちのようで」
「言うね、お前も」
相変わらず小さな子供の口元は柔らかい笑みを湛えている。
目の前の小さな子供と、腕の中の彼女と、そして彼女の手に大事そうに握られている折鶴と手紙を見て、呆れたように彼は言った。
「お前も妙に手の込んだ事をしたもんだな」
「まぁね。直接会うと、なんだか色々感慨深くなって彼女に悪影響を及ぼしそうだったからね。お前や、グラオはそういうこと双方ともに気にしてない…というか、もう吹っ切ってるみたいだから気楽なんだろうけど」
「まぁな」
「ま、女の子は色々あるのさ。そうそう、君はグラオには会ったかい?」
彼はくく、と笑って答える。
「あぁ。こいつ捜してる途中な」
腕に抱いている彼女を見ながら彼が呟く。
「そう。だから、ネルがこのかっこした俺の事言ったとき、すぐに反応したんだね」
小さな子供が呟いた。
そして、頭に手を遣ってヴェールを取った。
ふわり、長い髪が揺れる。
ヴェールの下から現れたのは、碧の瞳に精悍な顔立ちをした、赤毛の子供。
「…それはお前がガキの頃の姿か?」
「え?うん。そのまま逢ったら瞳の色ですぐバレそうだったから一応あれこれ言い訳してヴェールで隠してみた。あと最初の方は口調適当に変えてみたけど、功を奏したみたいで良かったよ。ついでにレナスちゃんにちっこくしてもらったからバラすまで気づかれなかったしね」
「…何だそれ」
「あっ口が滑った。気にしないでね」
「………」
ふわりと笑う小さな子供に、彼は呆れたように苦笑した。





「なぁ。これは望みじゃなくて願いだけど…」
「あ?」
「ネルを、幸せにしてやって」





―――きっと、お前にしか出来ないと思うから。








「…善処する」
小さな子供は彼のそんな遠まわしな答えに満足したのか、微笑む。
「頼んだよ」
「…あぁ」





「じゃあな、アルベル。ネルの事よろしくな。それと…」
何か言い募ろうとする小さな子供に、彼がまた苦笑する。
「何だ?まだ何かあるのか」
「あぁ。俺はもちろんネルに幸せになってほしいけど、―――お前にも、幸せになってほしい」
「………」
「…でなきゃネルも、幸せにはならないだろうし」





「…それも、善処する」
「ありがとう」
またふわりと微笑んで。





「幸せになれよ」





ふたりで。





とても綺麗に微笑んで、呟いた。





「さよならだね、アルベル」
「…こいつには言わなくていいのか」
腕の中の彼女を視線で指しながら彼が呟く。
小さな子供は、その外見にどこまでも相応しくない深い、悲しげな微笑を浮かべながら答えた。
「…いいんだよ。あの手紙で言いたいことはほとんど言ったし…それに」
「?」
「さよならなんて言わないよ。…強いて言うなら、"またね"かな」





「…だな。心配性のお前の事だ、どーせまたちょくちょく様子見に来んだろ」
「ふふ。そうかもな」





「じゃあ、…またね。二人とも」
「あぁ。今度は手土産くらい持って来いよ。あの阿呆親父にも言っとけ」
「了解。"彼"にだけ肝に銘じるように言っておくよ」
「性格悪」
「お互い様」





最後に笑って、手を軽く振って。
小さな子供はゆっくりと消えて行った。
後に残ったのは、一匹の紅蛍。
それはゆっくりと飛び立って、そしてすぐに見えなくなった。
彼は紅の光が見えなくなるまで、ずっとその場で光を見送っていた。
光が消えたのを見て、ふ、と微笑して。
腕の中の彼女を抱きかかえて、立ち上がった。
涙の跡が残っているが、幸せそうな顔で眠っている彼女を愛おしげに見つめて。





「安心しろ。―――俺も今、充分に幸せだ」





誰にともなく、呟いた。








紅色の草原に敷き詰められるように咲いた、紅い花が風に揺れる。
夜空は数多の星を抱きながら時折瞬く。
人気のなくなった草原に、紅い光を灯した蛍達が妖しく美しく佇んでいた。
夜空はどこまでも遠く、蛍のそれによく似たぼんやりとした光が散らばる。