「………っ」 ぱしん。 声にならない叫びと、手をはたかれる軽い乾いた音と。 「…あっ……ご、ごめん」 慌てたように申し訳なさそうにそれだけ言って、踵を返して部屋から出て行く後姿。 記憶に新しい、いつもと違う赤毛の彼女の態度。 距離 それから。 彼女の態度は、変わらないいつもの調子だった。 仲間達とも普通に接しているし、彼とも普通に会話…というか口喧嘩をしている。 彼があの時の態度はなんだったのかと問いただすことすらどうでもよくなってしまうような、"普通"の態度だった。 ただ。 仲間達がいないとき、ついでに言い加えると彼と二人きりのとき。 彼は、彼女に距離を置かれているような気がなんとなくしていた。 時折ぼーっと何事かを考えているし、声をかけると気まずそうに目を逸らされた事も何回かあった。 抱き寄せようとしたらさり気なく逃げられた覚えもある。 それはすべて、あの手をはたかれた日から始まった事で。 自分が彼女に何かしたかと彼は考えるが、心当たりはまったくない。 だが、…彼女に距離を置かれているのは、認めたくはないが事実らしい。 その事実は勿論、周りの仲間達にもあっというまに感づかれ。 「何したのさアルベル?」 「何したんですかアルベルさん?」 「何したのよアルベルちゃん!」 「何しやがったんだこのバカチン!」 …こっちが訊きたいっつぅの、阿呆。 小さく呟いた声は、ぶーぶーとヤジを飛ばしている彼らには聞こえていなかった。 思い起こされるのは数日前の記憶。 座っていた彼女を立ち上がらせようと、手を掴んだ直後。 声にならない叫びと、手をはたかれる軽い乾いた音と。 慌てたように申し訳なさそうに謝って、踵を返して部屋から出て行く後姿。 記憶に新しい、いつもと違う彼女の態度。 …思えば、あの時からだった。 彼女と距離を感じるようになったのは。 何故だか知らないが。 無性に、腹が立った。 とにかくこのわけのわからない状況を変えようと、彼は彼女の部屋へ行った。 いつも通りノックもせずに扉を開ける。 「…あんたか」 ノックをせずに入ってくるのは(多分)彼くらいしかいないので、部屋の中にいた彼女は苦笑して声をかける。 彼は答えずに、無言で彼女に歩み寄る。 不審に思ったのか、彼女が顔を軽く傾げた。 「…どうかしたかい?」 彼女の言葉にはやはり答えず、彼は何の前触れもなく彼女を抱きしめた。 「…っ!?」 途端に彼女は声を詰まらせ、反射的に彼から離れようとする。 大して力の入っていなかった彼の腕は簡単に解かれたが、逃げるのを許さないとでも言うように彼は彼女の腕を掴む。 「…やはりな…お前、俺と距離を置こうとしてるだろう」 両腕を掴まれた状態で尚も離れようとしている彼女に向かって、彼がつぶやく。 「なっ、そんなこと…」 反射的に言い返す彼女だったが、言葉に詰まって言いよどんだ。 無言で俯いている彼女を見て、彼は一旦手を離した。 「急に態度変えられると調子が狂うんだよ。…俺が何かしたならそう言えばいいじゃねぇか」 「べ、別にあんたは何も悪くないよ」 「…なら、何故態度を変える?」 「…」 「何故距離を置こうとする?」 「…」 「…何で、らしくねぇ顔してやがる?」 「…え?」 そこでようやく彼女は顔を上げた。 彼は少し間を置いて、もう一度言った。 「言えよ」 「…言わない」 「…言えないことなのか」 「別にそんなことはないけど…」 「なら言え。言えないことじゃないなら言えるだろ」 「………」 言葉遊びは、どうも苦手らしい。 しばらく沈黙が流れ、ややあってから彼女は観念したようにため息をついた。 「最初に言っておくけどね」 腹を決めたのか、先ほどとは違う口調で彼女が言う。 彼は次の言葉を待つように彼女を見ている。 「…別に、あんたが何かした訳じゃない。さっきも言ったけど、あんたが悪い訳じゃないんだ」 「なら、何で…」 あのような態度を取ったのか、と言おうとした彼の台詞は、 「だからそれは、…今からちゃんと言うから」 困ったような彼女の声が遮る。 台詞を遮られてばかりの日だ、と彼は思う。 「…ふう」 苦笑を漏らし、彼女は再度口を開く。 「…ねぇ、握手と抱擁の起源、って知ってるかい?」 「は?」 何故今の会話からそんな話題に結びつくのか。 思いっきり怪訝そうに眉をしかめた彼を見て、彼女はまた苦笑する。 「まぁ、聞きなよ。握手とか抱擁とかって、友人とか、…恋人、とか、まぁとにかく親しい人と交わす、一種の…そうだな、フェイト達の言葉を借りるとスキンシップってやつ?そんなイメージがあるよね?」 確認するように訊いてくる彼女に、彼は一瞬の間を置いて頷いた。 「一般的にはそうだろうな」 「一般的、って…あんたはそうは思わないのかい」 「思うには思うが、…俺が友人に実行してたら気色悪い以外の何者でもないだろうに」 「うわぁ想像したくない」 わざとらしく引きながら彼女が顔をしかめる。 「…で?その続きは」 言って自分で馬鹿らしくなったのか、彼が話題を戻す。 「はいはい。で、最初に言った台詞に戻るけど」 そこまで言って。 彼女はふ、とどこか悲しげな笑みを浮かべる。 それに気づいて彼が何か言う前に、彼女は口を開く。 「まずは握手の起源から話そうか」 「…手を握って、相手の手の中に武器がないのを確認する為の行為なんだよ、握手って」 「………」 「次は抱擁の起源だね。こっちも同じような理屈で、相手が武器を隠し持っていないか確かめる、身体検査みたいな意味を持ってるんだって。…今は、さっき言ったみたいに信頼の証とかの意で行われてるけど。最初は、当初の目的は相手が危害を加えないかって疑いを晴らす意味と目的を持ってたんだよ」 「それを知ったのはちょっと前。…暇つぶしで偶然手に取った本に書いてあったんだ」 「ほぅ」 「…それを読んで…今まで、信頼の証とか、友情の表れとか、そういう意味の行為だと思ってた事が、全部否定された気がした」 「…」 「…怖いよね。知っているか知らないか、ただこれだけの差だよ?数日前の私と今の私の違いは」 そこまで言って彼女はくす、と笑う。 楽しくて笑っているような笑みではなかった。 「その文献を読んだだけでここまで動揺するなんて自分でも馬鹿と思うけどね。ただ、私は職業上…って言ったら言い訳になるかもしれないけど、常に相手を警戒する癖があったように思うんだ。常に相手と距離を取って、自分の領域に踏み込まれないように警戒して疑って…。自分を守るために誰かを常に疑って、結果的に最後にはそんな自分が嫌になってさ。自己防衛も過剰すぎると自傷行為だね。いや、自虐行為って言ったほうがいいのかな?」 「…」 彼は無表情かつ無言のまま、独白のような彼女の言葉を聞いている。 「…本題に戻すね。まぁ端的に言うと、そんな事を考えてたら、手を握ったり抱きしめたりする事に躊躇を感じた。"私は、どういうつもりで手を繋いだり、抱きついたりしてるのか?"って考えたら、答えが出せなかった。だから変な態度取ってたし、あんたを拒絶するような行動もとった。わざと、距離も置いてた」 「…阿呆か、お前?」 簡潔にすぱっと言い放たれ、彼女が苦笑する。 「うん。阿呆だったよね。結局は全部私の我侭だったんだ」 「…」 「ごめん」 そう呟いた彼女の表情は、反省しているを通り越して自己嫌悪に陥っているように彼の目に映る。 今までにも何度かその彼女の表情を見てきた彼は、やれやれと肩をすくめた。 「あのな」 彼が珍しく自分から口を開く。 俯いていた彼女は顔を上げて、彼を見た。 「俺の性格は知ってるだろ」 「え?」 「俺が相手の手の内を探るだの身体検査だの、んな面倒な事考えながらお前と接してるとでも思ってやがったのか?」 怒っているというより呆れたような表情で彼が言う。 彼女は一瞬目を見開き、くす、と笑った。 今度は少し、嬉しそうに。 「…思わない」 「なら何で疑問なんぞ感じるんだよ。どっから出てきやがったんだそんな考え」 「うーん、どこからなんだろうね?」 「おい」 くすくすと笑いながら答える彼女に、彼が少々不機嫌そうに呟く。 「冗談だよ。…何でこんな考えが浮かんだかって言うと、フェイトやソフィア、それにロジャーとスフレを見たからなんだ」 「はぁ?」 言われて、そういえばあいつらもこいつに関して何か言ってたな、と今更ながらに彼は思い起こす。 「あの子達は純粋に、手の内を探りあうような意はまったくなく相手と接してたから…。余計、こんな事気にしてる自分に嫌気が差してね」 今思うと本当に馬鹿みたいだよね。 そう付け加えて、彼女は笑った。 「確かに、お前ら隠密は手の内を探り合って少しでも自分を悟られないように振舞う必要があるだろうな。相手の手や身体の内に何か自分を害する物がないか確認するっつぅ発想も、頷けなくはねぇか」 「え?」 「だったら、」 彼はそこまで言って、また彼女を抱き寄せる。 突然の事で、彼女は驚く間もなく彼の腕の中にぽすりと収まった。 「え?」 「ほら、確認したけりゃどんだけでもすりゃいいだろ」 くく、と喉で笑う声が聞こえて、彼女は少しむっとなりながら反論した。 「あんたが武器なんて隠し持ってるはずないだろ?私やクレアじゃあるまいし」 「だったら警戒する必要も皆無じゃねぇか。これで問題解決だろ」 「………いや、確かにそうかもしれないけど…」 「まだうだうだとつまんねぇ事で悩んでんのか?いいか。俺が今お前にこういう事してるのは、俺がしたいからしてるんだ。武器の確認?んな事考えてしてるんじゃねぇんだよ」 そう言った彼の表情は、気のせいでもなんでもなく少々照れているようで。 その顔が子供っぽくて、彼女は彼に気づかれないように笑った。 「…それでもお前は俺を警戒して武器を所持してるかって疑うのか?俺がこうしてる意味に疑問を持つのか?」 彼にあっさりとそう言われて。 あれだけうだうだと悩んでいた彼女が、なんだか拍子抜けしたような気分になる。 同時にもやもやと考えていた心が、す、と晴れるのを感じた。 ついでに、彼に距離を置いていた自分に少し腹が立ってきて。 無意識に苦笑した。 「…」 そんな彼女の表情を、彼はどうやら逆の意味に受け取ったようで。 「まだ何か気にしてるのか」 「えっ?」 「…ったく」 呆れたように、彼が彼女を抱いていた腕を解いた。 離れた体温が、妙に哀しい。 「…あ……」 彼が腕を解いたのは、自分があんな話をした所為だ。 そう思って、彼女は何かを言おうとした。 その前に、彼の右手が動いた。 頭の後ろに回され、引き寄せられる。 「!」 気づいた時には彼の紅い瞳が目の前にあった。 同時に唇に慣れた柔らかい感触。 口付けられたと気付いて、途端に恥ずかしくなって慌てて彼女は目を閉じた。 「…これなら文句ねぇだろ?」 手を握っても抱きしめてもねぇからな、と言って彼は意地悪くにやりと笑う。 「…馬鹿」 顔が熱くて、紅く染まっているだろう事が自分でもわかったから。 そっぽを向いて彼女はそう言った。 結局。 どれだけ距離を置いても、彼にかかれば一瞬で縮められてしまうんだろうな、と。 でもそれを嬉しく思う自分もいて。 胸の奥がなんだかくすぐったいような温かいような不思議な気持ちになった。 不思議だったが嬉しかったので、なんとなく彼に自分から抱きついた。 「?」 さっきまで抱きつかれるのを拒んでいたのになんなんだこいつ切り替え早ぇな。 おそらくそんな事を思っているだろう彼の顔を見ながら、今の自分の頭の中に警戒とか疑いとかそんな類のものはあっただろうかと彼女は考えた。 答えは考えなくてもすぐに出た。 "否"。 ああそうかそうなんだ。 例え最初の起源がどうであったとしても、それが物騒な意味だったとしても。 誰か大切な人と一緒にいたいと思った時にこの行為が為されるんだ。 誰か、大切な人との距離を少しでも縮めたくて。 この、行為が為されるんだ。 自分で考えて照れくさくなって、彼女は顔を伏せて彼の服にうずめた。 「あ」 「なんだい?」 「そう言えばお前、さっき常に相手と距離を取ってたとか言ってなかったか」 「言ったよ」 「どこがだ?」 「は?」 「俺の目から見たお前はあいつらと接してる時に距離を置いてるようには見えんが」 「あぁ、あいつらは特別」 「……」 「何拗ねてるのさ」 「言っとくけど。あんたはもっと特別」 「だって私と一番距離が近い奴はあんた以外思いつかないんだからね」 「………」 「不満?」 「…いや。気分いい」 そう言った彼の腕が、再び彼女の背中に回った。 互いの距離が縮まっているのは、彼らも気付かない。 だが、紛れもない、事実。 |