彼の頭からは、今日も二本の尻尾のような長い髪が伸びてゆらゆらと揺れている。





流れる髪





朝。
いつも通りの一悶着あってようやく目覚めた彼は、宿屋の廊下に設えられたソファに座っていた。
かろうじて服は寝巻きのままではなくいつもの服を着ていたが、長い金と黒の髪は括られる事なくぼさぼさのまま彼が動くたびにゆらゆらと揺れる。
彼はそんな流れるような長い髪を、慣れた手つきでざかざかと櫛で梳き、すんなりと櫛が通る程度になってから紐でくるくると括り始めた。
半分に分けた長い髪を、やはり慣れた手つきで紐でまとめていく。
右側の髪を縛り終えて紐を結び、結び目と余った紐を上手くぐるぐる巻き状態の紐の下に隠し、目立たないようにする。
さて左側もやるか、と彼が括られていない髪を纏めて掴んだ時。
「あっれー珍しいね、アルベルちゃんが部屋から出てきた後に髪縛ってるなんて」
偶然廊下を歩いてきたらしい、銀髪の少女が声をかけてきた。
彼は億劫そうにゆっくりと声が聞こえてきた方向を向く。
朝から元気いっぱい、な銀髪の少女のにこにこ笑顔が、彼の紅い瞳に映った。
「いつもなら、部屋から出てきた時にもうカンペキに縛り終えてるよね?」
不思議そうに、銀髪の少女の碧眼が触手のように括られた髪を見た。
銀髪の少女の言うとおり、いつもなら既に結ばれているはずの彼の長い髪は、片方だけ縛られた状態でソファに散っている。
彼は銀髪の少女から視線を外し、半分閉じられている眠そうな目のまま答えた。
「別に…たまたまだ」
「え〜?でもあたし、アルベルちゃんが自分で縛ってるの見た事…あっ!」
銀髪の少女はぱちりと目を見開き、合点がいったと言わんばかりにぽんと手を打ち鳴らした。
「わかった〜!いつも縛ってくれる人がやってくれなかったから、アルベルちゃん自分でやってるんだ〜!」
その台詞に、髪を縛ろうともう一本の紐を取り出した状態のまま彼の動きが止まって、
「…何でお前、ネルがいつも俺の髪縛ってるってこと知ってんだ?」
「あれ、本当に?カマかけてみただけなのに。しかもあたし、ネルちゃんなんて一言も言ってないよ〜?」
「………」
寝起きのせいか、頭がいつもの半分も回転していない彼は、自分の失言に気づいてちっと舌打ちした。
彼の舌打ちに気づいているのかいないのか、銀髪の少女はにこにことした笑みを浮かべたまま、うんうんと何度か頷く。
「そっかそっか、さてはネルちゃんとケンカして口も聞いてもらえずに一人寂しく髪縛ってるんだね…カワイソウに」
「何でそうなる阿呆!」



ぐるっと銀髪の少女の方を向いて、彼が寝起きの機嫌の悪さをぶつけるように怒鳴る。
括っていなかった長い髪が、色素の抜けた金髪が、彼が振り向いた動作に合わせてふわわっ、と宙に靡いた。
怒鳴られたことより、むしろその金色の動きに目が入って。
思わず目で追ってしまう。
銀髪の少女はほぇー、と感嘆のため息を漏らした。



「…何呆けてやがる」
ぽかんとしている銀髪の少女に怪訝な目をして、彼が問いかける。
はっとなった銀髪の少女は、慌てたように口を開いた。
「あ、えっと、うん気にしないで」
とりあえずそう言って、彼が納得したかどうかは気にせずに銀髪の少女はさらに口を開く。
「それで、何でネルちゃん今日は髪縛ってくれなかったの?さっきネルちゃんがアルベルちゃん起こす声聞こえたから、起こしてはもらったんでしょ?」
「…今日はあいつ朝食当番なんだと。ただでさえ時間無ぇんだから手を煩わせるなっつって言い残してどっかいった」
そういえばさっき宿屋の廊下を通ったとき、工房へ向かう赤毛の彼女を見たような。
銀髪の少女は納得して、ふぅんと呟く。
彼はそれから何かを言うことも無く、また黙々と慣れた手つきで残りの髪を括り始めた。
てきぱきと括られていく彼の髪を見て、銀髪の少女はふと思いついて問いかける。
「ところでさ、アルベルちゃんの髪って、すっごくキレーだね!」
「は?」
今度は縛っている手を止めずにそのままの体勢で彼が呟いた。
「さっき、アルベルちゃんが勢いよくこっち向いたとき、さらさらさらぁって髪が靡いたの見ちゃったんだ〜。髪がキレイじゃないと、あそこまでふわって靡かないもん!」
力説する銀髪の少女が話している間も、彼は髪を括る手を止めずに続けている。
手早いもので、もう半分以上が括り終わっていた。
「…そんなもんか?」
「そんなもんだよ。ねぇねぇ、髪の毛触らせて〜?」
「阿呆か。もうそろそろ括り終えるってのに」
「もっかい解いてよ」
「面倒」
マリアかソフィアの髪でもいじってろ、と言い残して。
髪を括り終えた彼はソファから立ち上がって、食堂へと歩いていった。
ゆらゆらと揺れる二本の彼の長い髪を見ながら、銀髪の少女の瞳がキランと光った気がした。



「…サラッサラのキレイな髪見たら、構ってみたくなるのがオンナのサガってやつだよね」
企み顔をした銀髪の少女は、そう呟いてぱたぱたと何処かへ駆けていった。





それから。
ターゲットロックオンされた彼の長い髪は、隙さえあらば銀髪の少女と、何故か増えている茶髪の少女に狙われる事になった。





戦闘中。
舞うように楽しそうに敵を斬り捨てていく彼の背後に、兵士系の大きな剣を持ったエネミーが現れた。
エネミーは手に持った剣を振りかぶり、彼に向かって斬りかかる。
彼は身を交わしたが、片方の髪がエネミーの剣の切っ先を掠めた。
紐が切れて、髪と共に思いっきり解ける。数本の髪も一緒に切れてしまい、何本かが宙に舞った。
彼はそんな事気にもせずにエネミーを斬り続け、すぐに戦闘は終わった。
彼の長い髪が、片方だけほどけて背中に流れている。
「だいじょうぶ、アルベルちゃん?紐、切れちゃったみたいだけど」
何気なく銀髪の少女がそう訊いて、彼はどうでもよさそうに答えた。
「別にさほど支障はねぇよ。切れた紐結び直せばいいことだ」
言いながら、千切れた紐を拾い上げて、残っていた紐と結ぼうとする。
「ダメですよ!紐結んだら、、その部分が結び目になって縛りにくいじゃないですか!」
「そうだよ〜。あ、あたしちょうど長ーいリボン持ってるから、縛ってあげるよ!」
「私も丁度良いことに、長いリボンもう一本もってるんです。ですからもう片方も縛りなおしましょうか?」
便乗した茶髪の少女と共に、銀髪の少女が鮮やかな紅いリボン(ちなみにかなりの長さだどこから調達したのやら)を取り出す。
彼ははぁ?と二人を軽く睨む。
「次の戦闘がすぐに始まるかもしれねぇ移動中に、既に縛ってあるものをわざわざ解いて縛りなおす阿呆がどこにいる」
素っ気無くそう言って、彼は千切れた紐を残っていた紐に結んであっという間に髪を縛り直した。





風呂上り。
濡れた長い髪をタオルで乱暴にがしがし拭きながら、ロビーでコーヒー牛乳を飲んでいた彼のところに。
「アールベルさんっ♪髪ちゃんと乾かさないと、風邪ひいちゃいますよ?」
「だから乾かしてあげるよ!ついでに、梳かしてキレイにしてあげる!」
例の二人がどこからともなく現れて、声をかけた。
「あ?」
何だこいつら、と言わんばかりに振り向いた彼の目には、後ろ手に櫛やら色とりどりのリボンやらを持ってにひひひと微笑んでいる二人が映った。
何やら不穏な空気を感じ取ったらしく。
「…いらん」
彼は素っ気無く答えた。





「む〜。アルベルちゃん、ガード固いな〜」
むぅ、と頬を膨らませながら、むくれた表情の銀髪の少女がぼやいた。
「ほんとほんと。髪いじられるの嫌いなのかなぁ?」
アルベルちゃんの髪ってすっごいサラサラなんだよ!と銀髪の少女から聞いて、なら私も構ってみたい!と便乗した茶髪の少女が不思議そうに呟いた。
「あーでもそれあり得るよね。他人に好き勝手されるなんてうざい!って思ってそう」
「こうなったら、毎朝アルベルさんの髪縛ってるネルさんに頼んで、朝の寝起き直後の寝ぼけてる時を狙ってみようか?」
それなら抵抗されなさそうだし、と茶髪の少女が呟く。
銀髪の少女が表情を明るくさせて同意する。
「それいいかも!アルベルちゃん、寝起きサイアクで意識が覚醒するのに十分くらいかかるって、前ネルちゃん言ってたし!」
新たな作戦(?)を思いついた二人は、明日早起きしてネルさんに頼んでみようそうしよう、と話し合って。
「じゃ、明日は髪いじり道具持ってアルベルさんの部屋の前集合だね!」
「うん、じゃあ早く寝ないとね。おっやすみ〜」
楽しそうに計画をたてて、各自部屋へと戻った。





「…というわけで、アルベルさんのサラサラストレートな髪を構いたいんです」
「ネルちゃんいっつもアルベルちゃんの髪縛ってるんでしょ?一日だけでいいからさ、その役あたし達に譲ってくれない?」
朝。
いつも通り夜が明けると同時に目を覚まし、数分もしないうちに身だしなみを整えて。
大体皆の起きる時間になってから、さてあいつを起こしにいくか、と部屋を出て目的の人物に割り当てられた部屋へ向かった赤毛の彼女は。
目的の部屋の前で待ち構えていた二人に奇妙なお願いをされて、思わずぱちくりと目を瞬いた。
「? 全然構わないけど」
「やったぁ!ようやくこれでアルベルちゃんの髪を構えるんだね!」
ぴょん、と飛び跳ねる銀髪の少女と、ちょっと不安そうな茶髪の少女。
「でも、大丈夫かなぁ?もし寝起きに機嫌悪くて暴れられたりしたら…」
「それは大丈夫だと思うよ。あいつ、私が起こしてから十分くらいベッドで胡坐書いて座ったままぼーっとしてるから。その間私が髪縛ってるんだけど、何の抵抗も無くただただぼぉっとしてるだけだからさ。ちょっとくらいいじったとしても絶対に気づかないよ」
笑いながら彼女が言って、彼の部屋の扉を開ける。
後ろを、嬉しそうににこにこ笑っている二人が、髪いじり道具を両手に持ってついて行く。





眠っている彼は、やはり三人が部屋に入ってきたくらいでは起きなかった。
「…すごいですね。私も寝起き良いとは言えないですけど、誰かが部屋に入ってきたらさすがに物音とかで気づいて目を覚ますくらいはしますよ」
茶髪の少女が感心したように呟いた。
「こいつはね、命の危険を感じるくらいの大事でもない限り起きないよ。殴っても蹴っても起きない事もあるくらいだから」
やれやれ、と呆れたように肩をすくめるネルを見て、銀髪の少女の大きな瞳がきょとんと見開かれる。
「えぇ〜?だったら、殴っても蹴っても起きなかったらネルちゃんどうやって起こしてるの?」
「………。さ、起こすか」
一瞬固まって。
彼女は即座に寝ている彼にくるりと向き直って、何事もなかったかのようにベッドに向かった。
「え?え?ねーねーネルちゃん教えてよー」
「…スフレちゃん、世の中には詮索しちゃいけない大人の事情ってものがあるんだよ」
「??」
首をかしげる銀髪の少女と達観した表情で呟いている茶髪の少女を尻目に、彼女は彼の胸倉をひっつかんで空いた手でぱしぱし顔を引っぱたいて起きろ!と連呼した。
予想以上の容赦のなさに、傍観していた後ろの二人は思わずぎょっとなる。
「…んぅ」
うめくようなもごもごした声が彼の口から出てきたのは、彼女が起きろと十三回怒鳴った直後。
閉じられていた目がぎゅっとしかめられて、安らかで穏やかだった表情が鬱陶しそうに歪む。
「起きな」
十四回目の台詞を彼女が言った後、数秒の間を置いて彼の目が半分だけ開いた。
むくり、と起き上がって、だがベッドから降りる気配はなく、ただただぼぉっと座っている。
半分寝ていて、意識もはっきりとせず、うつらうつらと首が宙を漕いでいる。
彼の背中にそして白いシーツの上に、長い金と黒の髪が散らばった。
「はい、OK。これで下手にうるさくしなきゃ十分はこのままだから、好きに構っていいよ」
後ろの二人にそう言って、彼女はベッドの傍から退く。
「はぁい!よし、アイロン駆使してソフトウェービィにしてみようっと!」
「わーい!じゃああたしはおちょー婦人みたいにくるくる縦ロールにしてみようかな〜?それとも、長い長ーい三つ編みにしてみようかな?」
楽しそうにベッドに近寄る二人に苦笑して、あまり遊びすぎるんじゃないよ覚醒した後キレるかも知れないから、と一言言い残して。
彼女は部屋を出て行った。
彼女の背中を見送った後、二人は意気揚々と座っている彼の髪を手に取った。
「ソフィアちゃん、左側ね。あたしは右側やるから!」
「うん。よーし、可愛くしちゃうぞ!」
彼が目覚めないように小声で話し合って。
二人は背中に流れている綺麗な彼の長い髪を手にとって、まず櫛を片手にとった。
梳いてまず寝癖を真っ直ぐにしようと、茶髪の少女が先に櫛を入れた瞬間。
「んー…」
今まで反応の無かった彼から、うめくような声が漏れる。
思わずびくりと肩を震わせて、茶髪の少女は手を引っ込めた。
「…え…起き、た?」
恐る恐る、銀髪の少女が彼の顔を覗き込む。
彼の目は相変わらず閉じられていて。覚醒した様子は微塵も無かった。
「そんなことない、みたいだけど…寝言かな?」
「うー、タイミング悪いなぁもぅ」
気を取り直して。
今度は銀髪の少女が、三つ編みにしようと右側の髪を三つに分けた。
「…んぅ」
もぞもぞもぞ。
また彼から声が漏れて、半分寝ているはずの彼の体がよじられた。
彼が肩を大げさによじったものだから、つられて髪も動いたため銀髪の少女は驚いて思わず手を離す。
だがやっぱり彼は覚醒した様子もない。
「…なんなんだろうアルベルさん?髪いじられるの嫌なのかな?」
「え〜でも、ネルちゃん言ってたよね、何の抵抗もなく大人しくしてるって」
「たまたま?なのかな…」
困ったように、でもまだ髪いじりたい願望が消えていない二人は、今度は同時に彼の髪を掴んで、できるだけ髪を引っ張らないように、いじっていると感づかれないようにそぉっと髪を掴んでみる。
「んーうー…」
ぶんぶんぶんぶんっ!
今度は、はっきりと拒絶の意志が取れるほど大げさに、首が左右に振られた。
長い髪も左右に振り乱され、二人はわぁとかひゃぁとか悲鳴を上げて手を離した。
手を離した直後、また彼は大人しくなる。
「………」
「………」
二人は同時に沈黙して、顔を見合わせた。








「え?抵抗がひどくてロクに構えなかった?」
がっかりした様子の二人が彼の部屋から出てくるのを見て、どうしたのかと声をかけた彼女が。
二人の証言に驚いて声をあげた。
「…いつも私がやると大人しくしてるのに…変だねぇ?」
「うぅう…でも、私たちが行ったらキョヒられましたものすんごい勢いで」
「アルベルちゃん、頭の後ろに目ついてるんじゃない?それか、髪の毛にも神経通ってるとか。だってあたし達が触った瞬間に髪の毛振り乱して首ぶんぶん振るなんてさ〜」
えぐえぐとぼやいている二人を、困ったように見ている彼女。
「…しょうがないね…様子見てくるよ。もしかして、寝覚めが悪かっただけかもしれないし」
そう言って、彼女は彼の部屋に入って行った。
ぱたり、と扉が閉まって、やることのなくなった二人は顔を見合わせた。
「…ネルさん、どうやってアルベルさんを大人しくさせて髪結ってるのかなぁ?」
「うんうん、気になるよね。その理由だけでも突き止めたいなぁ」
「でも、今中に入るのも間が悪いし…」
「しょーがないね、部屋に戻っとこうか」
二人はそう言い合って。
部屋の前から立ち去った。





部屋に入った彼女は、相変わらずベッドの上でぼおっとあぐらをかいている彼を見てため息をついた。
流れるような彼の髪は、相変わらず白いシーツの上に散らばっている。
彼女は彼の様子を伺うために、ベッドに腰掛けて彼の顔を覗き込んだ。
閉じられた目は開くことなく、口は半開きのまますぅすぅと寝息をつむいでいる。
「…なんだ、いつもと一緒じゃないか」
なのにどうして抵抗したのだろう?
不思議に思いながら、彼の顔をぼぉっと見ていると。
「………」
何の前触れもなく、彼の腕が彼女に伸びた。
「は?、うわ!」
急なことでろくな抵抗もできず、彼女は彼の腕に絡めとられるように引き寄せられる。
数秒後、彼女はあぐらをかいた彼の足の上に座る体勢で、彼に抱きしめられていた。
彼女の肩口に、彼の頭がずしりと乗っている。
「…なんだい一体」
彼女が驚いたようにつぶやくと、半分寝ぼけた彼がうめくように口を開いた。
「…なんで今日は、あいつらが髪構ってたんだよ…」
寝起きのせいで舌足らずな彼の声に、彼女は驚いたように答える。
「え?」
「無駄に櫛入れてさらに髪引っ張りやがって…」
「…あの子達があんたの髪構ってみたいって言ったからだよ」
簡潔に答えを述べた彼女に、彼の赤い瞳がすぅっと細まる。
まだネルの肩口に突っ伏しているため、その表情を見る者はいなかった。
「いいじゃないか。彼女達の方が手先器用だから私がやるより綺麗にできると思うよ?」
宥めるように、半分寝ている彼に彼女が呟く。
「………い」
「え?」
ただでさえ聞き取りにくい声が、肩口に突っ伏しているせいでさらに聴こえづらくなって。
思わず彼女が聞き返した。
彼は億劫そうにめんどくさそうに、だがもう一度はっきりつぶやく。





「お前がやったのが、いい」





「…は?」
今度はきちんと聞き取れたはずの彼女が、素っ頓狂な声を出す。
その反応に、また聞こえなかったのかと彼は気だるそうにもう一度。
「お前がやったのがいい…」
呟いて、そのまま彼女の腰をぎゅぅぅと抱きしめて。
彼は目を閉じた。
次に聞こえてきたのは、すぅすぅという規則正しい、寝息。





「…って寝るなこの馬鹿!」
彼女は赤くなったままの顔で、彼の頭をべしべし叩く。
うーうー唸っている彼は、起きる事はなかった。





彼女は脱力して。
「…ていうか…この体勢で縛れ、って…」
はぁ、とつぶやいて。
彼女はベッドサイドに置いてある櫛と長い紐を一本手にとった。
少し考えて、彼の背に腕を回すように髪を掴み、長い髪を丁寧に梳く。
彼の突っ伏した顔が肩に乗っていて、髪が縛りづらい事この上ない。
でも彼女はその体勢のまま、彼の体の前から手を回して片方の髪を慣れた手つきで縛り終えた。
さすがに彼には劣るものの、あのみょうちくりんで縛りにくそうな髪型を仕上げるにしては十分に手早い。
続いて、もう片方の髪に櫛を入れる。
半分寝ている彼は抵抗することなく、されるがままになっていた。





「ほら、できたよ。だからそろそろ起きな」
「…」
「…ったく、あの子達は髪触っただけで跳ね除けられた、って言ってたのに、なんでいざ起きろって言っても無反応なのさ」
「髪触られるのは好きじゃねぇ…寝てても妙な感じがして不快だ」
「は?じゃ私が触ってるのは」
「お前ならいい…」
「………」








「アルベルちゃんに質問でーす」
ご丁寧に挙手して。
銀髪の少女が、起きて大分覚醒したであろう彼に声をかけた。
「は?」
「アルベルちゃんは、半分寝てても誰かが近づいたとか近くにいるとか、分かりますか」
「…?寝てんのに分かるかよ。そりゃ、敵が来れば一発で分かるが」
「…、…。じゃあもう一個。その"誰か"が、誰だか。分かりますか」
「さぁ」
「………そっか。うん、ありがと!」
そう言って何かを一人で納得して、ぱたぱたと駆けて行った銀髪の少女を見やって。
「何だあいつ」
彼は不思議そうに呟いた。





「…つまりは、さ。アルベルちゃんはネルちゃん以外に髪触られたくないんだね」
「だね。じゃなきゃ、無意識に抵抗するなんてあり得ないもん」
「ちぇー、アルベルちゃんの髪いじりは諦めるしかないかぁ」
「残念だなー。まぁ、しょうがないか」








朝。
白いシーツに散らばっている、手入れはずさんなくせに何故かまったく痛んでいない、長い変な色の髪を櫛で丁寧に梳きながら、
「まったく、自分で縛るのが面倒だったら、すっぱりと切ってしまえばいいのに」
髪を洗う時も、乾かす時もラクだろう?と呟く彼女に、
「別に…」
とろんとした、半分以上閉じている目で彼はいつもそう答えていた。
ベッドの上であぐらをかいている彼の後ろに腰掛けている彼女は苦笑して、
「まったく、毎朝毎朝縛ってやってるこっちの身にもなってみなよ」
言葉ではそう言いながらも、彼女は楽しそうに彼の髪を二つに分けて、手際よくまとめる。





きっとそれは、彼女にだけ許された行為。
彼が無意識に気を許している彼女にだけ許された、特権。








彼の頭からは、今日も二本の尻尾のような長い髪が伸びてゆらゆらと揺れている。