その日。 赤毛の彼女は日の出と共にぱっちりと目を覚ました。 目を開けて体を起こし、床へ足をつける。 ひやりとした感触が気持ちいい。 朝の涼しい過ごしやすい気候が心地よくて、赤毛の彼女は我知らず微笑んだ。 薄いカーテンを開けると、日の出直後の柔らかく控えめな陽射しが部屋に差し込んだ。 「うん。今日もいい天気だね」 日中のあのうだるような暑さは勘弁願いたいが、天気の良い日は嫌いではない。 寝巻きから着替えていつもの服に着替える。この辺の作業は慣れたもので、さすがに手早い。 カーテンを全開にして、窓を開ける。涼しい風が部屋の空気を循環してくれる。 顔を洗いに洗面所へ行こうと、赤毛の彼女は部屋のドアを開けた。 ドアを開けて。 最初に目に入ってきたとあるものは。 「……………」 毛布の敷かれた小さなカゴに入った、小さな茶色い毛玉のようなもの。 それにはふわふわの耳があって、ふわふわの尻尾があって、 「……犬?」 何でこんなものが私の部屋の前にあるんだ? そんなことを考えながら、赤毛の彼女は目の前の毛玉のような動物を見つめた。 犬 「きゃぁ〜v可愛い〜vv」 眼をキラキラさせた茶髪の少女がとけたような表情でうっとりとつぶやいた。 あの後、赤毛の彼女はとりあえずカゴを部屋の中に入れて全員が起きるのを待った。 その後皆が集まった時に実は…と話を始めたのだが。 子犬が珍しいのか、皆は観察するほうに興味が向いているようだった。 「可愛いわね。これ、耳の形からしてパピヨンかしら?」 「確かに耳の形が蝶っぽいけど…へぇ、よく知ってるね」 「お前、どうせゲームの知識ばっか無駄に豊富なんだろ」 「…うるさいよクリフ」 先進惑星組四人は興味深そうに子犬を見ながら雑談している。 ふと、カゴに子犬と一緒に入れられていた紙切れを青髪の少年が見つけた。 「"諸事情によりこの子を手放さなければならなくなりました。どなたか拾ってあげてください"だって。これが捨て犬ってやつ?」 「えぇっ、せっかく飼ってたのに手放して捨てちゃうなんて…子犬が可哀想すぎるよ!」 「心無い飼い主もいるものねぇ…」 ちょっとしんみりした空気がただよって。 「この国ではよくあることだが?」 今まで一回も発言のなかった黒の混じった金髪の彼が口を開いた。 「えっ…」 「自分らの食べる食料もままならねぇ奴等が、犬の食い物まで手が回るわけねぇだろうが。戦争中はもっと酷かったぜ?その度に薬殺する身にもなれってんだ」 さらりと言われた台詞に、茶髪の少女が青ざめた顔で反応した。 「薬殺って…捨てられた犬達は殺されちゃうんですか!?」 「…野犬になって住民を襲うことも有り得るからね。どうしても引き取り手が見つからなかったら、捨て犬の運命は殺されるか飢え死にか、二つに一つしかないんだよ」 「そんな…」 ちょっとどころかかなりしんみりした空気が漂い始め。 うぉこういう空気苦手なんだよな、と金髪の青年が口を開く。 「まぁ、引き取り手が見つからなかったら、の話だろ?」 その場を和ませるつもりで言った台詞に、沈んでいた三人(遺伝子改造トリオ)ががばりと反応する。 「そうですよ!引き取り手が見つかればいいんですよね!」 「僕らが飼おう今すぐ飼おうそうしよう!」 「こんな可愛い子が殺されるのなんて見過ごせないわ!」 「…いや、ここじゃ無理だろうが他の町なら犬を欲しがる奴もいるかもしれねぇ、って事を言いたかったんだが…」 慌てて付け足す金髪の青年の台詞は、当然のように軽く無視られた。 「ちょっとそこの三人―――飼うのは無理だよ―――旅続けられないじゃないか―――…って、聞いてないな」 「…あんな話した俺が阿呆だったぜ」 冷静なエリクール組は揃ってため息をついた。 とりあえずその後説得に説得を重ね、 「じゃあこのコの引き取り手をなんとしても見つけないと!」 という結論にまで 目覚めた子犬は明るい茶色と白のまだら模様の長い毛を持つ、真っ黒なまん丸の瞳の犬だった。 蝶の羽のような形の耳がへのんと垂れている。 大きさは20pほどしかない小さい犬で、成人男性の手のひらにちょこんと乗るくらい。(クリフで試したので一般的ではないかもしれないが) とりあえず健康状態だけでもスキャンできないかと、青髪の少女がクォッドスキャナーを犬に向けた。 「種類・パピヨン。性別・メス。健康状態・良好。年齢・0歳二ヶ月…。犬にしたら二ヶ月って育ってるほうなのかしらねぇ…」 「餌どうしようか?ソフィア、お前猫の飼育に詳しいけど犬のほうはどうなんだ?」 「え?えっと…とりあえず、ドッグフード用意しなきゃ…」 「…ここはエリクールだぞ、ソフィア。ディプロから送ってもらえば手に入るとはいえ、未開惑星の犬の口に合うかわからないしさ」 「あぅぅ」 犬の飼育には慣れていないようで。 というか、既製品のドッグフードやらに頼りすぎていたようで。 先進国組は困ったような顔で犬を見ている。 当の犬は視線を浴びる事に慣れていないのか、くぅ?と鳴いて首をちょんと傾げた。 とたんに表情が無意識に緩む三人。 「可愛いなぁ可愛いなぁ…」 その場の空気を代弁するかのように茶髪の少女がつぶやく。 犬は首を傾げたまま、くぅ〜くぅ〜と小さく鳴いている。 が、やがて泣き声もあげなくなり、ぺたんと毛布に伏せてしまった。 「機嫌悪ぃんじゃねぇか?」 「うーん、クリフがとって食べるんじゃないかって怯えてるんだよきっと」 「…おいおい」 「でも本当に元気なくなってるけど…はしゃぎすぎたかしら?」 毛布に伏せたままの犬を見ながら、三人が心配そうに覗き込んだ。 「…とりあえず、何か食べさせないとね。どれくらい放置されていたかはわからないけど」 赤毛の彼女が言って、三人が頷く。 「…でも、子犬って何が好きなんですか?」 「地球じゃ既製品ばかり食べさせてたからなぁ…」 「…先進惑星にいるとこういう時不便だわ…」 しばらく沈黙が流れて。 「なんなら、私が世話してようか?子供の頃犬を飼ってた事があるから、世話くらいはできるし」 赤毛の彼女が申し出て。 ほっとしたような青髪の少年が、それなら、とこう提案した。 「…じゃ、さ。こうしよう。僕、マリア、ソフィア、クリフは引き取り手探し。んで、ネルさんとアルベルは子犬の世話」 「おい、どうして俺まで世話組に入ってんだよ」 「ネルさんだけに任せたら大変だろ?子犬って手がかかるし、もし必要なものがあったら買い物にだって行かなきゃならないし。僕たちよりは犬の世話に関して慣れてるだろうし」 当然そうに答える。 何を言ってもどうせ結果は変わらないだろうと、黒の混じった金髪の彼はため息をこぼした。 「ってわけでよろしくネ」 言うが早いが。 さぁ引き取り手探しだ絶対見つけなくちゃねこの町じゃ見つからないかもしれないから別の町に言ったほうがいいかもしれないわねと会話しながら、三人は部屋を出て行った。 「…ま、頼むわ。俺も犬には詳しくないんでな」 そう言って苦笑した金髪の青年が後を追いかけて行って。 残ったのは二人になった。 「…強引な奴等だ」 「ま、犬の世話に慣れてないんならしょうがないだろ」 赤毛の彼女はソファに座りながら、黒の混じった金髪の彼は机を挟んでソファの向かい側にある椅子に後ろ向きに座りながらそれぞれつぶやいた。 子犬は机の上でちょこりと座り、尻尾を振っている。 荷物の中から適当な食材を選び、離乳食を作って与えると、子犬は嬉しそうに食べ始めた。 彼女は牛乳を温めて皿に移したものを、離乳食の器の横に置いてやる。 程なくして離乳食を食べ終わった子犬は、そちらに気づいて飲みだした。小さな水音が部屋に響く。 「可愛いもんだね。犬なんて、ここの所まったく触れる機会がなかったけど…」 感慨深げにつぶやく彼女に、 「…そういえばお前は、犬を飼ってたことがあるんだったな」 彼が確認するように言った。 彼女は頷く。 「あぁ。さっきも言ったけど、子供の頃にね」 くす、と笑って。 そう呟いた彼女の表情がどこか寂しげに見えて。 思わず彼は押し黙った。 「…その犬は…」 「え?」 「…いや、なんでもねぇ」 「………」 会話が途切れて。 彼女が子犬に視線を移した。 ミルクを飲み終わった子犬は、満足したのか最初に入れられていたカゴの方に戻り、毛布の上に寝そべった。 体を小さくして目を閉じる。どうやら満腹になって眠ったようだった。 宿屋の二階にあるこの部屋の窓から差し込む少し熱いがぽかぽかとした日差しも、眠気を誘う一因かもしれない。 「…この子犬、やっぱり飼い主が残してくれた毛布が好きなのかな」 ぽつりと彼女が言って。 彼が彼女に視線を向けた。 「…棄てられた、っていうののにね。…やっぱり、元の飼い主が一番好きなのかな?」 彼女が手を伸ばし、子犬にそっと触れる。 ゆっくりと一回だけ撫でて、また手を戻した。 「…ねぇアルベル。この子犬は、飼い主に愛されていたと思う?」 「あ?」 唐突な彼女の問いに、彼が聞き返した。 答えを待っているような彼女の表情を見て、少し考えるような素振りを見せて。 「…いいや」 「そう…」 「愛されてたんなら棄てられねぇだろ」 「………」 彼女は無言のまま、俯く。 「私はね」 「あ?」 「この子は、少なくとも飼い主に愛されていたと思うんだ」 「………」 「さっき。マリアが言ってたよね、この子は生後二ヶ月くらいだって」 「あぁ。クォッドスキャナで調べた時、そう言ってたな」 「…子犬はね…。生まれてから二ヶ月経ってから母犬と離すのが、ちょうどいいんだってさ。犬の社会のルールを学ぶために、少なくとも生後二ヶ月まで母犬とともに暮らす必要があるんだって。子犬と、母犬との接触時間が少ない環境で長く暮らしてしまうと、どうしても人間に対して警戒心を抱きやすくなる。そうしたら、新しい飼い主にも懐きにくくなる…」 「………」 「そうならない為に。この子が誰かに拾われたとして、その誰かに可愛がってもらえるために。この子の飼い主はこの子が生後二ヶ月を過ぎてから棄てたんじゃないかって、そう思うんだ」 「そうだとしても…棄てられたことには、変わりねぇだろ」 「うん。でも、勝手な推測だけど。この子は飼い主に愛されていたんじゃないかって、そう思う。そう、思う」 「………」 沈黙が流れた。 二人とも、何も喋らなかった。 子犬の、微かに聞こえる小さな寝息だけが部屋に響いた。 「戦争は」 その沈黙を破ったのは彼女だった。 「…愛されていたのに。幸せだったはずなのに。しょうがなく、どうしようもなく棄てられてしまった子犬を、何匹生み出してしまったんだろうね…」 「………」 「捨て犬だけじゃない。他の、捨てられてしまった動物達も。幸せだった人、幸せになれるはずだった人、幸せを望む人…。そんな人達から、一体どれだけのものを奪ってしまったのかな…」 彼女が、眠っている子犬に目を向けた。 「この子も、」 彼は何も言わなかった。 ただ、独白のような彼女の声を聞いていた。 「幸せに、飼い主と暮らせるはずだったのにね…」 彼女は力なく呟いた。 「…お前が、気に病む必要はまったくねぇんだぞ」 久しぶりに彼が口を開く。 「え?」 「もし自分の所為だっつって気に病んでるんならそれは違う。戦争を起こしたのはお前じゃねぇ。アーリグリフだ」 「それは…」 「…それに、この犬が捨てられたからって、お前が落ち込む事じゃねぇだろう。この犬を捨てたのは、どうしようもならねぇ事情があろうとなかろうと飼い主だ。戦争が直接的な原因であるという確証もない。…なのに何をそこまでお前は気に病んでいる?」 「………」 「さっきも言った気がするけど」 「…あ?」 急に顔を上げ、声の調子を明るくさせて。 彼女が彼に向かって、言った。 「昔ね。犬を飼ってたことがあるんだ」 「………」 「可愛くて優しくて人懐っこくて。とてもいい犬だったよ」 「ほぅ…」 「…って、言えたら、素敵なんだろうけどね」 「は?」 怪訝な顔をした彼に、彼女は僅かに微笑して答える。 「可愛げなくて凶暴で全然懐かない、人間を嫌ってる態度全開な。やんちゃな犬だったんだよね」 「なんだそりゃ」 「…あんたに似てたような気もするね?」 「…喧嘩売ってんのか」 彼女はまた笑って、続ける。 「それでね…。その子は生まれてすぐに飼い主だった誰かに棄てられて、それでもどうにかして生き延びて。でも、人からはいい扱いを受けなかったみたいで、ある日人間を襲ったらしいんだ。当然、その子は兵士に捕まって、薬殺処分になることが決まった」 「………」 「でもね…その子は、毒薬が入ってる餌を、どうしても食べなかった。きっと匂いでわかったんだろうね。毒が入っている事が。兵士達も、わからないように工夫して毒の種類を変えたり、量を減らしたりしてみた。後から聞いた話だけど、暗殺の時使うような特殊な毒の入れ方も試したらしいけどね。でもどれだけお腹が減ろうとも、餓死寸前になっても、その餌を食べようとはしなかったんだ。その当時すでに隠密だった父さんは、その犬を気に入って。薬殺処分を取り消して、引き取る事にしたんだ」 「…は?」 彼が思い切り不審そうな顔をして。 「どうしてその犬を気に入ったかわからないって顔してるね?」 彼女が言って、彼が頷く。 「父さんはね、その犬の、毒を見事に嗅ぎ分けて絶対に口にしなかった事を高く評価したから、って兵士に言った。 "これだけの能力を持っていれば、不審者が毒物を持っていてもすぐに見つけてくれるだろう。この犬はまだ利用価値が十分ある。だから薬殺処分は取り下げてほしい" ってね。でもね。本当は違ったんだ。 "このまま餌を食べなくても死ぬと、あの犬もわかっているはずなのに、それでもギリギリまで生き延びようとしているんだ。だから気に入った。生き延びてほしいって思った" って、こっそり後で教えてくれたのを、憶えているよ」 「…相変わらず、甘い奴だ」 「ふふ。…そんなわけで、その子は私の家で引き取る事になったんだけど。それからは大変だったよ。何せ餓死寸前まで追い詰めたのは紛れもない人間だからね。元から人間を嫌う子だったから、私の家に来てもいつも暴れて。何度噛み付かれそうになったか数え切れないくらいだったよ」 「…その犬と、俺が似ていると?」 「そっくりじゃないかい?」 「………」 「まぁ、それはいいとして…。父さんは、"大丈夫、いつか絶対に懐いてくれる"って言って。でも、私は正直信じられなかったんだ。こんなに凶暴な犬が懐いてくれるはずなんてないって。父さんも母さんも忙しかったから、世話をしてたのは主に私だった。だから、そんな凶暴な奴の世話にうんざりしていたのも、確かだったよ。実際、半年くらい世話しつづけてたけど、まったく懐かなくてね。餌を食べる時くらいしか私に寄り付いてこなかったよ」 「………」 「そんな態度にも慣れてしまったある日の事なんだけどね。いつも、その子は決まった時間に一人で…いや、一匹で散歩に行ってしまうんだけど、その日はたまたま私もついていったんだ。雲の少ない、いい天気の日だったよ。だから、私も外に出たい気分だったっていうのもあったかもしれないね。しばらく歩いて、ムーンリット…シランドを流れる大きな川についた。私はちょっと休憩しようと思って、橋の欄干にもたれて空を見てた。そしたらね…欄干が、急に崩れたんだ。脆くなって亀裂が入っていたのに、私は気づかなかった。そのまま川に落ちて…。なんとか浮き上がって顔を水の上に出したけど、慌ててた私はただもがく事しかできなかった。まずい、死んじゃうかも、って思ってもがいてたら―――橋の上にいたその子が、こちらに向かって飛び降りてきたんだ」 彼女の声の調子が変わった。 明るい口調が、どんどんと沈んだものに変わる。 「今まで全然懐いた様子もなかったから…助けに来てくれるなんて思いもしなかった。その子は水に落ちてすぐ浮き上がって、大声で吠えながら私の所まで来てくれて…。大声で吠えてたお陰で人が来てくれて、私は助かった。でも―――吠えていた所為で、水を多く飲んでたその子はぐったりしてて。すぐに、死んでしまった」 「………」 「医者の話だと、水以外にも、何か悪い物を飲んでしまったんじゃないかって。その時私はそんなのどうでも良くて、ただ泣きじゃくってた。私の所為で、私が川に落ちた所為でその子が死んでしまったんだ、って…。そしたらね…駆けつけて、私とその犬を助けてくれた人が、言ったんだ。 "自分が駆けつけるのが遅かったからだ。ごめんなさい" って…。そう言いながら、死んだその子を見て、泣いてくれてた」 「………」 「その人だけじゃない。その場にいた医者も、 "自分の力が足りなかったから。だからこの子を死なせてしまった" って…。実際は、駆けつけてくれた人が私達を助けてくれた時、もうその子は死んでた。呼吸もなかったし、心臓も止まってた。どう考えても、医者や、駆けつけてきてくれた人の所為なんかじゃないんだ。でも―――その二人は謝って、そして泣いてくれてた。今思うと…もしかして…泣いてた私を慰めるためだったのかもしれないね…」 「………」 「私も泣いて、その後の事はよく憶えてないんだ。後から父さんに聞いたら、私は泣き疲れてその場で眠ってしまったみたいだったけど。目が覚めてまた、あの子が死んでしまって、いろんな人が泣いた事を思い出して。また泣いてたら、父さんが言ったんだ。 "あの子は、ネルに、そしていろんな人が自分のために泣いてくれて、幸せだったと思うよ。棄てられて野垂れ死ぬより、ずっとずっと幸せだったんだよ" って」 「………」 「その時は泣いてばかりで、何も考える事ができなかったんだけど…。後から、色々考えたんだ。捨て犬や捨て猫はもっと辛い思いをして、もっと辛い死に方をしてる。野犬になる恐れがあるからって薬殺された動物達も、きっと沢山いる。大人になったら、…辛い思いをする動物達がいないような事をしよう、って。そう、その時は思った。思って、たんだ。でも…」 「…それが実行できなかったから、お前はそこまで落ち込んでやがるのか?」 「………」 彼女は答えない。 ただ、悲しそうな顔をして笑った。 彼が椅子から立ち上がった。 彼女がどうしたのか見ている中、彼は彼女の座るソファの前まで歩いて、隣に座って、 「…え?」 彼女を引き寄せてぎゅうぅ、と抱きしめた。 「…ちょっと?いきなりなんだい?」 彼の胸の辺りから、彼女の声が聞こえる。 彼は少しの間黙って、 「理由はよくわからねぇが…なんか、無性にこうしたくなった」 言われた言葉に、彼女が笑って。 「そっか」 彼に体重を預け、つぶやく。 「…ありがと」 「…ふん」 くぅん、と小さな可愛らしい声が聞こえて。 二人は視線をそちらに向ける。 見ると、寝ていた子犬が目を開けて、こちらを見ていた。 「起きたのかい?」 彼女が優しい声でそう言うと、子犬は小さな声で一声鳴いて。 カゴから出て、机の端まで歩いて、軽い動作で彼女の膝の上に飛び降りた。 「…どうかしたのかい?」 彼の腕を一旦解いて、彼女が子犬を抱き上げる。 …その時彼がむっとした顔をになったのは、どうやら彼女は気づいていないようだった。 子犬は彼女の手の中で、きゅぅ、と小さく鳴いた。 彼女が子犬を自分の膝の上でゆっくりと撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めた。 「…可愛いね」 「………」 何も反応を返さない彼を不思議に思って、彼女が彼の顔を見上げる。 機嫌が悪いだろう事は彼女にも察しがついたが、理由までは彼女にはわからなかった。 「もし、さ。戦争の事後処理が全部終わって、両国が安定して、両国民共に平和に、幸せに暮らせるようになって、少しは暇になって…。一日の半分くらいを、家で過ごせるようになったら、さ…」 膝の上の子犬を撫でながら、彼女が呟く。 「何だ」 「私、捨てられて引き取り手がいなくなった動物達を引き取って、一緒に家で過ごしたいな」 「…」 「…まだ、だと思うんだよね。まだ、辛い思いをする動物達のためにできることは、沢山あると思う。それが可能なら、今からでも…遅くはないんじゃないかって思うんだ…」 「…そうか」 「うん。…だから、今はできる事を、少しずつやっていけたらな、って思う」 彼女はまた、膝の上の子犬に視線を落とした。 「この子の引き取り手、見つかるといいね」 「………」 彼は答えず、視線を横にそらした。 やはり、機嫌が悪いようで。 原因がわからない彼女は、首をかしげる。 「…なんだい?もしかしてあんた、犬、嫌いなのかい?」 「別に」 「だったらどうして機嫌が悪いのさ」 「………」 無視する彼に、彼女は困ったように口を開いた。 「あんたが犬嫌いだとこっちも困るんだけどな」 「あ?」 押し黙っていた彼は、彼女の小さな呟きに反応して声を上げた。 「あ、聞こえてたんだ」 「…なんでお前が困るんだよ」 「え?」 彼女はきょとんとして、そして答えた。 「…私、さっき言ったよね?いつか、捨てられた動物を引き取って世話したいって」 「…あぁ」 「必然的に、家には犬がたくさんいる事になるよね」 「そうだろうな」 彼女は困ったように、少し口を尖らせた。 「あんたが犬嫌いだったら、私の家に犬引き取れないじゃないか」 「あァ…?」 「だって将来、そこにはあんただっているかもしれないだろう?」 つまりは。 彼と一緒に同じ家に住んでいるかもしれないと。 当然そうにそう言った彼女に、彼はたっぷり十秒ほど沈黙して彼女を凝視した。 「…な、何さ」 「………人の事天然確信犯とか言う割に、お前も俺の事言えねぇじゃねぇか……」 「え?」 「…別に、何でも」 「で、質問に答えなよ。犬、嫌いなのかい」 「別にそういうわけでもねぇが…、………」 彼はそう言ってから、何事か考えて。 「…前言撤回。犬は好きじゃねぇ」 「は?」 どうして、と彼女が訊く。 彼は嫌そうに視線をずらして、 「…お前、犬ばっか構うじゃねぇか……」 「………え?」 「何でもねぇ今の聞こえたんなら忘れろ」 「………」 「妬いてたのかい?」 「………」 彼は答えず、さらに憮然とした面持ちになる。 「…沈黙は肯定と見なすよ、いつも通りに」 「ふん」 拗ねたように鼻を鳴らす彼に、彼女が笑って。 「…まったく…しょうがないヤツだねぇ…」 くすくす笑って、彼女が子犬を膝の上から持ち上げ、カゴに戻す。 彼が彼女に視線を向けると彼女は彼の首の後ろを掴んで、ぐいと引っ張り引き倒すように彼の頭を自分の膝の上に乗せた。 急に視界が九十度回転して、彼が驚いたように彼女を見上げる。 彼女は、膝の上にある彼の頭をゆっくりと撫でながら、 「これで、この子と一緒だろう?」 笑いながらそう言った。 「………。俺は犬と同じ扱いなのかよ」 彼が、さらに拗ねたようにそう言って。 「馬鹿」 彼女がまた笑う。 笑って、彼女の顔を見上げている、拗ねた顔の彼に口付けた。 「これで満足?」 「とりあえずはな」 「…まったく」 「…二度目だが前言撤回再び」 「は?」 「…こんな待遇があるんなる犬がいる暮らしも悪くねぇかもな」 「………。調子いいんだから、まったく」 「言ってろ」 その後。 引き取り手が見つかったと告げにきた青髪の少年が来た時、最初は犬の世話を押し付けられて不機嫌そうだった彼の機嫌が異様に良かったのは。 多分、いろいろな意味で、この子犬のお陰なのかもしれない。 |