雪が降っていた。 白く冷たい、数え切れないほどの小さな塊が、空からひっきりなしに舞い降りている。 ふわふわと舞い落ちてくる冬の象徴達。 ―――この数多の雪を初めて見た時は、なんて綺麗なんだろうと思った。 私が生まれ育った町では、こんな大雪が降ることなんてまったくなかったから。 信じられないくらい綺麗で、いつになくはしゃいだことを憶えている。 そして、一緒に来ていた父さんとはぐれてしまって、迷子になってしまったような気がする。 よくは憶えていないけど…独りぼっちになってしまって、とても怖かったのはかすかに記憶に残っている。 そうだ。これは私が初めてこの町に来た時の記憶だ。 懐かしくて温かい、忘れたくないけれど忘れてしまった、…大切な、思い出。 思い出 アーリグリフの宿屋の二階。 小さいが手入れの行き届いているこざっぱりした個室の中、ベッドの上で寝転がってうたた寝をしていた私は、ゆっくりと瞼を開けた。 ぱち、ぱち、と暖炉の薪が爆ぜる小さな音が、耳に入ってきた。 いつの間にか眠ってしまったことを不覚に思いながら、ゆっくりと起き上がる。 まだはっきりとしない頭で、さっきの夢のことを思い出す。 遠い、昔の夢だった。 まだ自分が、幼い少女だった時。 父さんの仕事についていって、初めてこの町を訪れた時。 そこに来るまでには、馬車に乗っていたから雪なんて気付かなくて。 馬車から降りて、町に足を一歩踏み入れた時。満面の雪景色を見て、すごく驚いた。 私は何気なく、窓の外を見る。 今日もアーリグリフの空からは、白い雪が次々に舞い降りてきていた。 ―――ああ、そうだ。あの時も、こんな風に雪が降っていた。 私はベッドから立ち上がり、暖炉の火を消して部屋を出た。 懐かしい夢を見て感傷的になっていたのか、そうではないのかよくわからなかった。 が。なんとなく、だけれど…外に出て、舞い落ちる雪を眺めたい、そんなことを思った。 階段を降りて、ロビーを横切り、がちゃり、と大きな扉を開ける。 扉を開けた途端、冷たい空気が肌を刺す。が、もう慣れてしまったのか、そんなに気にならなかった。 人もまばらな、閑散とした街路を、わずかに積もっている雪を踏みしめながら、歩く。 少し歩いて、門の前に出て。なんとなしに振り返って、雪降る町を眺めた。 そこから見えた、雪の積もった町並みが。 見覚えのあるような気がして、少し戸惑った。 ―――あの時。 "わたし"はこの門の前に、父さんの手を握って立っていた。 広がっている銀世界に感動しながら、父さんに 「遊びに言ってもいい?」 と跳ねるような勢いで訊いた気がする。 父さんは確か苦笑しながら、 「いいよ」 と言ってくれた覚えがある。 そして、喜びながら駆け出したわたしの背中越しに、何かを言っていたような。 その、"何か"がなんだったかまでは、思い出せなかった。 少しだけ思い出した記憶を頼りに、あの時自分が駆け出して、走り回って"探検"した道筋を辿ってみる。 あの家の屋根からつららが落ちてきて驚いたっけ。 あの店の前には、大きな雪だるまがあった気がする。 そうだ、ここで右に曲がって、坂道を思いっきり駆け上がって、上り終えたと思った途端に滑って転んで、痛い思いをしたな。 かなり昔のことのはずなのに、もう町並みもずいぶんと変わっているはずなのに。 どうしてか、鮮明に思い出せて、しかもその記憶と今の町並みはほとんど変わっていなくて。 何故か、嬉しくなった。 あの時、滑って転んだ坂道を上り終えて。 分かれ道に差し掛かったとき。 この分かれ道を見て、自分がどっちから来たのかわからなくなってしまったんだった、とかすかに思い出した。 べしゃっ、と見事に転んで、顔から雪に突っ伏して。 少し痛かったけど、なんとか我慢して起き上がったとき、自分がどちらから来たのか分からなくなってしまって。 そこで初めて、頭が真っ白になった。 走り回って火照っていた体も、冷水をかぶったように血の気が引いた。 帰れない。どうしよう。どうしよう。 そんなことばかり考えて、呆然と立ちすくんでいた。 まわりの人に聞こうとしても、誰もいなくて。 寒くて、寂しくて、怖かった。 その後、どうしたんだっけ。 …ああ、そうだ。すごく寒かったから、偶然見つけた寂れた教会に入ったんだ。 教会は私の生まれ育った町でも、誰でも入れる開放された場所だったから、入ってもきっと大丈夫だと思ったんだろう。 子供心に、もしも追い出されたらどうしよう、と不安だったのを覚えている。 少し歩くと、その教会はすぐに見つかった。 やっぱり今も寂れているその教会は、幼い頃来た時よりもずいぶんと小さく見えた。 …自分も小さかったのだから当然か、と思い、扉に近づく。 その教会の扉をそっと押すと、ぎぃぃぃという音をたてながら、扉はゆっくりと開いた。 中には誰もいなかった。 そうだ。あの時も、ここには誰もいなかった。 「…誰か、いますか?」 わたしは恐る恐るそう問いかける。 返事は返ってこなかった。 「…入っても、いいですか…」 返事は返ってこないとわかっていたのに、そうつぶやいて、わたしは中に入った。 扉をぱたん、と閉めて、教会の奥へとことこと歩く。 ところどころに明かりがあって、中は結構明るかった。 奥に行くと、長い椅子がきれいにまっすぐ並んでいた。 あぁ、わたしの知ってる教会といっしょだ。と安心しながら、一番前にある椅子の端っこにちょこんと座った。 膝を抱えて、下を向く。 建物の中に入っても、やっぱり少し寒くて。 はしゃいでいた時はぜんぜん寒くなんてなかったのに。 そう思いながら、自分を抱きしめるように体を縮ませる。 手袋も何もしていなかった手は、真っ赤になって冷たくなっていた。 とても冷たくなっていて、自分の手じゃないみたいだった。 外が寒かったから、髪もわずかに凍って硬くなっていた。その髪が頬に触れて、少しびくりとする。 …ああ。わたし、もしかしてこのままここで死んじゃうのかな。 考えが一度沈むと、マイナス思考にしか考えられなくて、そんな突拍子もないことを考えた。 いつか誰かに聞いたおとぎばなしのように、氷の女王にさらわれた子供のように、生きたまま凍って、死んじゃうんだ。 そう思った途端、じわりと熱い涙が目に浮かんできた。 「…う……」 泣いちゃだめだ。前、お父さんが言ってた。 …あれ…お父さん、なんで泣いちゃだめだって言ってたんだっけ。 そんなことも思い出せないくらい、頭は混乱していた。 そして…。 「お前、何やってんだ?」 聞こえてきたのは、閉まっていた扉が開く重々しい音と、小さな子供の声。 わたしは驚いておそるおそる振り向いた。 そこには、長い金色の髪を二つに分けて三つ編みに編んだ、わたしよりも少し背の高い子が少し驚いたような顔をして、立っていた。 暖かそうなふわふわの服を着ていて、頭には毛糸の帽子、首にはマフラーを巻いている。 …男の子かな、女の子かな。 その子は扉を閉めて、わたしの近くにとことこと近寄ってきた。 「見かけない顔だけど、この辺に住んでんの?」 そして、白い息を吐きながらそうやって聞いてきた。 「え、あ…ううん」 わたしはシランドから来たんだ、そう言おうとした途端、 「…え、お前髪凍ってんじゃん!寒くないのか?」 その子はぎょっとした顔になって、ぱたぱたとわたしに駆け寄ってくる。 凍って冷たくなっているわたしの髪を見ている。 「えと…。うん、すっごく寒い」 そう答えたわたしに、その子は少し呆れたような顔になって、こう言った。 「そんなカッコしてたら寒いに決まってるだろ!」 確かに、わたしはコートを着ていたけど、この雪の中では薄着かもしれない。 だってこんなに寒いなんて思わなかったんだもん。 その子は自分のしていたマフラーを外し、長椅子に座ったわたしの前に立ってわたしの髪を拭いて溶かしてくれた。 初めて会ったのに、いい子だな。そう思ったので、お礼を言うことにする。 「ありがとう」 「いいよ。それに、女の子は髪が命なんだから大切にしなきゃいけないんだって、俺の親父言ってたぞ」 自分のことを俺、と言ってたので、あぁ男の子だ、とそこで気付く。 アーリグリフでは、男の子も三つ編みしたりするのかな。 シランドじゃ、女の子がしてるのしか見たことなかったけど。 でも可愛いしこの子に似合ってるから、いいか。そんなことを考えながら、返事をした。 「…そうかなぁ?じゃあ男の子は髪の毛がヘンでもいいの?」 「えー…さぁ。知んない。でも親父はいちいち俺の髪構って楽しそうにしてるんだよなー」 少し乱暴だったが、それでも親切に自分のマフラーでわたしの髪を溶かしてくれてる男の子は、どうでもよさそうにそう言った。 しばらくわしゃわしゃと拭いて、そして、 「はい、こんくらいでいいだろ。まだ髪冷たい?」 男の子は手を止めてそう訊いてきた。 わたしの髪の毛はもうかなり溶けていて、冷たくはなかった。 「ううん」 「そか」 男の子はそう言って、わたしの頭に載せていたマフラーをわたしの首元まで持ってきて巻いた。 不思議そうにするわたしに、 「今だけ貸してやるよ」 そう言って照れくさそうに笑った。 確かに首がすごく寒かったから、そのマフラーはすごくあたたかかった。 「ありがとう!」 「いーよ、それさっきも聞いた」 「それでもありがとう」 「…どーいたしまして」 照れたようにそう言う男の子がおもしろくて、わたしは少し笑った。 男の子は笑うな、とでも言いたげにこちらを見て、わたしのとなりに座った。 「そいえば、さ。お前どっから来たの?この辺に住んでるんじゃないんだろ?」 さっき言いそびれていたことをちょうどよく訊かれたので、わたしはすぐに答えた。 「シランドから来たんだ。お父さんの仕事についてきたの」 「え、シランド?すげー、そんな遠くから来たの」 「うん」 「そっか。いーなー、シランドってあったかいんだろ」 「うん。ここは寒いねぇ。びっくりしたよ」 「ほんとだよ。俺寒いの嫌いなのに」 口を尖らせてそう言う男の子に、わたしはあれ、と思う。 アーリグリフに住んでる子も、寒いのが苦手なのかなぁ。 そう思ったのでそのまま訊いたら、男の子はふるふると首を横に振った。 「俺ここの町に住んでないんだ。カルサアってとこに住んでんの」 カルサア。その町の名前は聞いたことがあった。 確か、ここにくるまでに馬車を止めて一休みしたところだ。 「そうなんだ」 「うん。で、お前なんでここにいんの?お父さんと一緒にいなくていいのか」 「あ、えと…あの、迷子になっちゃって」 それを訊いた男の子はかくっと力が抜けたように首を傾けた。 「…なーるほどな。じゃなきゃこんなところ誰も来ないよな」 「…あはは…っくしゅっ」 苦笑いをしたわたしが小さくくしゃみをすると、男の子は少し慌てた顔になった。 「あーそっか、お前寒そうなカッコしてるし、ここ寒いよな。あったかいとこ行くか」 そう言って男の子は立ち上がり、行こうぜ、と言ってわたしの手を握って立たせようとして、ぎょっとした。 なんで驚いてるのかわからなくて、わたしがきょとんとしてたら、男の子は少し怒ったような顔になって、こう言った。 「お前なんでこんな冷たい手してるんだよ!俺手袋してんのに握ったら冷たかったぞ!」 言われて、はじめてそこでわたしの手が冷たいことに気付く。 ぱっと見たら、真っ赤になっていて、自分でもびっくりした。 後でお父さんに見せたら、「手の感触なくなるまで遊んでたのか?」とちょっと呆れられた。 かんしょくってなんだろう。 「ほらこれも貸してやるよ」 そう言って男の子は、自分のしていた手袋を外す。 慌ててわたしは首を振った。 「いいよいいよ、あなたマフラー貸してくれたでしょ、もっと借りたらあなたが寒くなっちゃうよ」 わたしも立ち上がって、そう言っていいよいいよ、と両手を振った。 「俺は一応慣れてるからいいの。いいから使えよ」 「いいって、今度はあなたの手が冷たくなっちゃうじゃない、そんなのいやだよ」 「気にすんなって、ほら」 そう言って手渡してくる手袋を、焦りながら返す。 「気にするよ!」 「俺も気にするの!お前そのままにしてたらしもやけになるだろ!」 また手渡されて、わたしもまた男の子に返す。 しばらくそうやって言い合って、少し疲れてきた。 「…いつまでもこうやってたら本当にカゼひくよな」 男の子も同じことを考えたみたいで、少しげんなりしてそう言った。 「うんうん。だからあなたが使ってってば」 「いいっつってんのに。…じゃあこうしよう」 男の子は左手の手袋を自分の手にはめて、右手の手袋をわたしにずい、と差し出した。 「はんぶんこ。これならいいだろ?」 「…うん」 また言い合いになるのはわたしもいやだったから、うなずいておとなしく手袋を受け取った。 「んで、」 男の子は、わたしの手袋をしていない左手をきゅっと握って、にかりと笑った。 「これで寒くないだろ」 つないだ手はとても暖かくて、わたしもなんだか嬉しくなった。 「うん!」 わたしも笑って、そして一緒にその教会を出た。 それから少し歩いて、暖炉のある武器屋さんまで行って。 あったかいねって話してたら、男の子のお父さんが来たみたいで。 「こいつ、迷子なんだって」 男の子は自分のお父さんを見上げながら、そうやってわたしを指差した。 男の子のお父さんは、長い髪を後ろできれいにまとめてリボンでくるくる縛っていた。 よくクレアがやってる髪の縛り方とちょっと似てて、かっこいい人なのに髪はかわいいんだなぁと思った。 こんなに寒いのにあまり厚着していなかった。ちょっとすごいなぁ、と感心する。 「あ、もしかしてネーベルの娘さん?」 男の子のお父さんはわたしを覗き込んでそう訊いてきた。 言われたことがその通りだったから、わたしは何度もうなずいた。 「ネーベルなら今ちょうど城門のほうに向かってったぜ。早く行ったほうがいいんじゃないか?」 男の子のお父さんにそう言われて、もう帰らないといけないんだ、と思った。 「お前、もう帰るのか?」 男の子に残念そうな顔でそう言われた。 わたしも男の子ともっと遊びたかったから、帰るのはいやだった。 「また、アーリグリフかカルサアに来いよ」 男の子は少し寂しそうに言った。わたしは絶対行くよ、と答える。 「そしたら…今度は、たくさんたくさん遊ぼうな」 わたしは大きくうん、とうなずいた。 そして、首に巻いていたマフラーを、名残惜しかったけど、外して…男の子に返した。 手袋も外そうとして、男の子に止められた。 「いいよ。持ってて」 え、とわたしは男の子を見る。 だって手袋はかたっぽだと使えないよ、と訊くと、男の子は照れくさそうにこう言った。 「記念、ってヤツだよ」 そのときはその言葉の意味がよくわからなくて、わからなかったけどなんだかいい意味の言葉みたいだったから、ありがとうと言ってかたっぽの手袋をきゅっと握った。 何かお返しをしたかったから、ポケットの中とかを探したら、ちょうどよく飴が一つあった。 それをはい、と言って差し出す。 その飴はわたしの大好きなイチゴ味で、好きなものだから最後までとっておいたんだけど、男の子にあげるのはいやじゃなかった。 男の子は少しびっくりして、そしてありがとな、と言って受け取った。 それから、男の子のお父さんにありがとうございました、と言ってぺこりと頭をさげる。 男の子のお父さんはにっこりと笑って、こっちこそ、うちの息子と遊んでくれてありがとな、と言った。 言いながらしゃがみこんで、わたしの頭をぽんぽんと撫でてくれた。 武器屋さんの外に出て、外はやっぱり寒かった。 でも、手袋をはめ直した右手だけはとてもあたたかかった。 男の子と、男の子のお父さんにさよなら、と言って、 ちょっといやだったけど、城門へ向かって走った。 「また会おうなー!」 後ろから、男の子の声が聞こえた。 振り返ると、男の子がぶんぶんと大きく手を振っていた。 「うん!絶対会おうね!絶対だよ!」 わたしも手を振り返して、そしてまた城門に向かった。 少し寂しかったけど、でもあの男の子が、また会おうなって言ってくれたから。 だから、また絶対会えるよね。 そう思って、嬉しくなった。 心が温かくなった。 それから、お父さんを見つけて、安心したような顔をされて、少し怒られて。 ごめんなさいと言ってしゅんとなるわたしに、心配したんだぞとお父さんは言った。 それからまた馬車に揺られて、わたしは帰った。 それが、この町に初めて来た時の記憶。 あの男の子は、まだ元気なのかな。 名前も知らない、あの男の子は。 あれから、結局一度も会えなかった。 すぐに戦争が始まって、あの男の子がどうなったかも分からなかった。 今も元気にしてるといいんだけど。 できれば、また会ってみたいな。 あの子は今、どこで何をしてるんだろう? あの時と同じあの場所で、寂れた教会の長椅子に座りながら。 そんなことを考えていたら、 「お前、何やってんだ?」 扉の開く音がして、聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。 私は驚いて振り向いた。 「…何を驚いてんだよ」 私に声をかけたのは、黒と金の変な髪の男、アルベルだった。 「声をかけられたことに驚いたんじゃないよ」 私は首だけ振り向いたままそう言った。 「へぇ?じゃなんでだ」 「…いや…。あんたが、ちょっと聞き覚えのある台詞を言ったから」 「聞き覚えのある台詞?」 反復して聞いてくるアルベルに、私は懐かしげに口を開いた。 今思い出したばかりの、幼い記憶を。 「さっき、たまたま思い出したばかりなんだけどさ……昔…本当に小さい頃、初めてアーリグリフに来た時の事でね」 アルベルは表情を変えずに聞いていた。 私は続ける。 「それで、確か迷子になって…この教会の中でぼぉっとしてたら、一人の男の子に言われたんだよ、その台詞を」 「ふぅん…それで?」 アルベルはどうでもよさげにそう言った。 私はつぶやくように続きを言った。 「それから、武器屋に行って暖まって、しばらく経ったらその子のお父さんが来て私の父さんの場所を教えてくれたんだ。それから…」 「…"その男の子は手袋を片方くれて、私はそのお返しに飴をあげた"」 私の台詞を遮って、アルベルはそう言った。 「…え……?」 「違うか?」 にやりと笑んで、アルベルはそう言った。 え。 どうして。 どうしてアルベルがそんなこと知ってるんだ? 私は今、手袋のことなんて一言も言ってない。勿論、飴をあげたことも。 まさか。 …まさか? 「あんた…まさか、あの時の…」 目を見開いたまま私が言うと、アルベルは、 「思い出すのが遅ぇんだよ、阿呆が」 呆れたようにそう答えた。 「…あんたは…憶えてたのかい?私の事」 呆然としながら問いかける。 「お前みたいな印象の強いガキは忘れようと思っても忘れねぇよ」 「…なんだいそれ」 「そのままの意味だろ」 「…ったく、あの時はあんなに親切で可愛いかったのに、どこをどう間違ってこんなひねくれたヤツになったんだい?」 今のこいつとの差がすごくて、私は思わずそう言った。 「うるせぇよ」 アルベルは鼻を鳴らしてそう答える。 …言われてみれば。 あの男の子の瞳はこいつと同じ、紅い色だった気がする。 それに、カルサア出身だとも言っていた。 髪の色は金色だったとしか憶えていないけど、…もしかして、あの時は帽子をかぶっていたから、髪の一部が黒いことに気付かなかったのだろうか。 「…あんた、なんで三つ編みなんてしてたんだい」 その男の子の髪型を思い出して私は聞いた。 似合っていたし可愛かったけど。こいつが三つ編みしていたと考えると少し笑える。 アルベルは少し嫌そうな顔をして言った。 「親父がやったんだよ」 「へぇ…そういえば、あんたのお父さんも可愛い髪型してたよね」 あの、髪を一つに細くまとめてクレアのようにリボンでくるくると巻いた、可愛らしいが彼の父親には似合ってるのか似合ってないのかわからない髪形を思い出し、私は言った。 「…あいつ、自他問わず髪構うの好きだったんだよ」 なんだかため息までついて嫌そうにアルベルは言う。 呆れているようだった。 そんな様子がおかしくて、私は笑った。 「…っくしゅっ」 ずっとこの寒い教会にいたせいか、私は小さくくしゃみをした。 アルベルはそれを見て、くく、と笑う。 「なんだい?」 「…いや、あの時と同じようなことしてやがるな、と思った」 言われてみれば、"あの時"もこうやって私はくしゃみをしたような。 そしてアルベルは笑いながら、 「"ここ寒いよな。暖かいとこ行くか"?」 わざとらしくそう言った。 「あはは」 アルベルが、あんなに昔に言った台詞を憶えているのには驚いたが、その芝居がかった言い回しが面白くて、笑った。 アルベルは長椅子に座っている私の前に立って、私の左手を掴んでぐい、と引っ張って立たせようとした。 私はにやりと笑い、掴まれた腕を逆に思い切り引っ張った。 「ぅわ!」 アルベルが焦ったような声をあげる。 不意打ちで引っ張られてアルベルの体が傾いだ。 私は傾くアルベルの後ろ頭を掴んで、彼の耳元に自分の口を近づける。 そして、 「…憶えててくれて、ありがとう」 そうつぶやいた。 小さなその声は、ちゃんとアルベルに届いたようで。 彼は少し笑っていた。 今度は、嬉しそうに。 あの時と同じように、右手と左手を繋いだまま。 そのあたたかさを思い出しながら。 唇を重ねた。 繋いだ手の暖かさも、教会の寒さもあの時と同じで、何も変わりはしない。 違うのは、 思い出の中の懐かしい人が、大切な人になったということ。 |