しばらく経って。
アルベルの部屋の扉が外からがちゃりと開いた。
入ってきたのはアルベルで、顔色はそれほど良くはなかった。
部屋に入るなりソファに倒れるように座り込み、アルベルは盛大にため息を吐く。
少し前、マリアに連れられて行った星の船での会話が、耳に蘇る。



「診断結果ですが…特に声帯や喉に異常はありませんし、舌も何ともありませんでした。…こう言ってしまうと心苦しいんですけど、原因不明の状態です」
「…紋章術関係のスキャンはしてみたの?きっかけはモンスターにかけられた紋章術の所為だと思うんだけど」
「はい、そちらの方でも念入りにチェックしたんですけど…紋章術の効果はとっくに切れている状態ですし、それが原因とも思えなくて」
「…そう…」



スキャンだのなんだの先進惑星用語は理解できなかったが、声帯や喉にも異常は見られず原因不明と言うことくらいは会話から解った。
「ごめんなさいね。役に立てなかったわ」
そう言うマリアに(筆談で)気にするなとは答えたが、原因が解らなかったことは正直困った。
相変わらず声は出ないが、アルベルは息だけで深いため息をついた。
そんな時。
こんこん。
控えめなノックの音が聞こえた。
ノックだけして何も声をかけない人間はパーティにいないので、誰かと一瞬思案する。
…。
なんとなく誰かわかった気がして。
入って構わねぇぞ、と言おうとしても声が出ないのでそれもできず。
アルベルは急いで立ち上がりドアを開けた。
ドアの向こうにいたのは、アルベルの予想通りネルだった。
「その様子だと、声、戻ってないんだね」
苦笑したネルに、アルベルは目を伏せながら頷いた。
「拗ねてるんじゃないよ。いくらマリア達だって、できる事とできない事があるんだから」
別に拗ねてるわけじゃねぇよ。
言おうとして、口をつぐむ。
声が出ないことには慣れたつもりが、やはり今までの癖で口を開いてしまうらしい。
そんなアルベルを、ネルは複雑そうに見ていた。
「部屋、入ってもいいかい?」
ネルは小さく呟いた。
いつもならそんなことを確認しないのに、と疑問を持ちながら、アルベルはこくりと頷いて入るよう促す。



パタンとドアを閉めて。
何か話があるのかと立ったままネルに向き直ったアルベルに、
「何畏まってるのさ。いつも通りにソファに座ってなよ」
ネルがそう言って、アルベルが促されるままにソファに座る。
当のネルは立ったままで、アルベルがお前も座れよと文字を書こうとした。
が、その前にネルはアルベルの正面に立って、軽く俯いて口を開いた。
「…ごめん」
アルベルがネルの顔を見る。
「最初の喧嘩で、声聞きたくないなんて言ってごめんなさい」
声の調子がいつものネルと違って。
思わず、アルベルは声をかけようとして。



お前が謝る必要なんてねぇだろうが





どうして。
どうしてこんな時にも声が出ないのかと。
アルベルはぎり、と奥歯を噛みしめる。





「売り言葉に買い言葉だった、なんて言ったら言い訳にしかならないけど」



そんな顔させたいわけじゃない



「言いすぎだった。…あんなこと言うつもりなかったんだ」



お前が悪いわけじゃない





小さいネルの声は、微かに震えていた。





「―――ごめんなさい」



今にも泣きそうな顔なんかするな―――…





「―――…」



声にならない言葉だけがアルベルの喉に張り付く。





たまらなくなって、アルベルはネルに手を伸ばした。
そのまま引っ張りいつものように強引に腕の中に収める。
ネルは無言のまま、アルベルの服を軽く握り締めた。





「…ねぇ、あんたは今、どんな気持ちで私を抱きしめた?」
ぽつりと声が響く。
「私が泣きそうな顔したから、しょうがなくそうしたのか、それとも他意があるのか…。私には、解らないんだよ」
消え入りそうな声が聞こえて、アルベルの顔から表情が消える。





"別に声が出なくとも会話はできるしお前が好都合ならこのままでもいいのかもな"





…どこが、声が出なくとも会話はできるんだ?
こんな時ですら、こいつに声をかけることができないのに。



自分が書いた文章を思い出して。
アルベルは背筋が冷える感触を味わった。





何か失敗をして、一番辛いのは許してもらえないことではなく、謝る事すら叶わない事だ。
謝る事すら出来ないことだ。



謝罪の言葉すら紡ぐ事の出来ない、
声を為さない自分の喉や舌がこの上なく恨めしかった。





こいつがこんな弱々しい声を紡いでいるのを聞いたのは久しぶりだ。
アルベルは酷い自己嫌悪の中、ぼんやりそんなことを思う。



いつもなら、大声出してお互い子供のように口喧嘩して。
"いつもの事"になるくらい、頻繁に口喧嘩していた。
それが、―――嫌ではなかった。





"いつもなら"
いつもなら、こんな状況になった時、どうやって解決していたんだろうか。
喧嘩して気まずくなってお互いに無視していても。
そんな状況が嫌で、自分から
"悪かった"
―――そう、言って。



"あんたが素直に謝るなんて、明日は雨かな?"
"…まぁ、あんたがそう言うなら許してやらないこともないけど"
"私も、…悪かったよ"





そんな会話が。
軽口の言い合いが。
そして、ただの口喧嘩が。





楽しいと感じていたはずなのに。





紙の上のやり取りは。
楽しくもなんともない。








「…聴きたい」
ネルがアルベルの服に顔を突っ伏したまま、呟いた。
「あんたの声が聴きたい」








あの時は。





あんたの声なんかもう聞きたくない!





元々それほど喋る方ではなかったし、声が出なくとも不都合ないだろうと、最初は思っていた。
紙に書いて見せれば、意思の疎通はできるだろうと。
こいつがそう言うのなら、声など必要ないとすら思った。



だが。





私には、解らないんだよ





紙の上に並べられた文字では。
意思の疎通など到底無理だ。
こんな簡単なことにどうして気づこうとしなかったのだろうか。





紙の上じゃ。
会話も言い合いも軽口の応酬も口喧嘩すらも。
何もできやしねぇじゃねぇか。





―――冗談じゃねぇ。
そんなのは。
つまらない。





そう思った瞬間。
何かが吹っ切れた気がした。










「…阿呆」
大喧嘩をして以来聞こえなかった声が、部屋に、響いた。








「―――え」
ネルが顔をがばりと上げる。
「…あ?」
アルベルがはたとなって瞬きを繰り返す。



「今…声。出たよね?出た、んだよね?」
「…あぁ」
「っていうことは…な、治った…?」
「…な、治った」
同じ台詞を繰り返す。
ニュアンスはまったく違ったが。





呆気に取られていたネルの表情が、くしゃりと緩んだ。
「良かった…本当に」
その表情があまりにも嬉しそうで。
アルベルも釣られるように表情を緩めた。
「…あぁ」





「ねぇ」
「あ?」
「もっと、喋って」
「んあ?」
「あんたの声、もっと聴きたいから」
「………」
「…なんで喋ってって言った直後に黙り込むのさ」
「や、…不意打ち食らったっつぅか…」
「?」





「…それにしても、なんだったんだろうね」
「…お前が俺の声聴きたいって言ったから戻ったんじゃねぇか?」
アルベルがくく、と笑いながら揶揄するように言った。
「え、あ、違、あれは…」
「冗談か?」
「……っ」
思わず口ごもるネルをアルベルは面白そうに眺めている。





「……冗談じゃないけど」





ぼそりと呟かれた言葉に。
アルベルはぽかんと呆気にとられる。



てっきり肯定されると思っていたようで。
不意を突かれて、かなり嬉しかったらしい。
「ちょ、痛いよ」
ぎゅうぅぅぅと抱きしめられて、ネルが思わず声を上げる。
「何だい、急に…」
アルベルは緩んだ表情で口を動かす。
「いや、お前がそんな事言うとは思わなくてな」
「…な、何さ。あの時は本当にそう思ったんだからしょうがないだろう!」
「お前耳まで真っ赤だぞ」
「うるさい!」
顔を背けて見られないようにしつつ。
赤くなった顔では覇気がない事は解っていたが、ネルは精一杯の抵抗で言い返す。
が、アルベルはネルの台詞に表情を歪めた。
「…うるさい、か」
「あ…」
「考えてみれば、この一言から始まったんだよな、今回の騒動」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃ…」
はっとなって、焦ったように謝るネルに、アルベルは苦笑する。
「今更お前が謝ることじゃねぇだろ。それに、さっきお前の口から直々に俺の声聴きたいっつぅ本音が聞けたわけだしな。もう気にしねぇよ」
「…ほ、本音って、そりゃ本音だけど、別に深い意味は…」
照れ隠しか、もごもごと小さな声で呟くネルを面白そうに見ながら。
アルベルは口を開いた。





「…俺も」
ぽつりと呟かれ、ネルは背けた顔を戻す。
そんなネルの耳元で、アルベルが囁いた。



「お前の声が聴きたい」




一度冷めた顔に、また熱が戻ってくるのを感じて。
ネルはまたアルベルの服に顔を突っ伏した。





「…って、ちょっと何で手がこんな位置にあるんだい」
背中に回った、いつの間にかきわどい位置にあった手をネルが叩こうとして。
「言ったろ?お前の声が聴きたいって」
さらりと言い返され、意味を理解してネルが慌てる。
「ちょ、別にそんなことしなくても声くらい…っ」
全部言い終わる前にソファに押し倒される。
「俺も売り言葉に買い言葉で妙な事口走った…いや、書き殴ったからな。謝罪くらいはしねぇとなァ」
「これがあんたの謝罪かい!」
「正解」
「正解、じゃない!冗談は顔だけにしろ―――っ!!」








それから。
あの沈黙事件が嘘のように、急にアルベルの声は元に戻った。
「なんだったんだろうね?」
「なんだったんだろうな?」
首を傾げるフェイトとソフィアに、
「…ディプロで解析しても原因不明なんて、本当になんだったのかしら」
「さぁな。まぁ、無事戻ったんだから良かったじゃねぇか」
不思議そうな顔のマリアとクリフ。
四人が見ているのはいつもいつもの事で巻き起こる口喧嘩。



「機嫌直せよ意地っ張りだなお前は!」
「あんたは謝罪すらまともにできないのかい!」
「お前だってまんざらでもなさそうな顔してたじゃねぇか!」
「…、このセクハラ男っ!」



言い争っている内容はどーでもいいこととか、相手を心配して言われたこととか、あるいはただの惚気だったり痴話喧嘩だったりとか。
「まぁ、あのお二人は口喧嘩してるくらいが自然でいいよね」
「今回みたいな険悪な雰囲気はもう勘弁してほしいって話だよな」
「まったくね」
「まったくだな」
やれやれと会話する四人を気にせず、今日も後ろで喧嘩が起こっている。





「大体機嫌悪い原因わかって言ってるのかい!?」
「あーはいはい俺が悪かった悪かった」
「何だいそのどうでもよさそうな返事。ちゃんと私の話聞いてたのかい?」
「聞いてたっつの」





―――お前の声聞き逃すわけねぇだろ。





アルベルが無意識にそう呟いたら。
ネルの顔がまた赤く染まって。
それを見てアルベルが笑ったら。
黒旋鷹が飛んできた。





「…冗談は顔だけにしときな!」





そう言い放って少し怒った風に歩いていくネルの様子が。
照れ隠しだと言うことがわかって少し自惚れる。





「冗談でもねぇんだけどな」








呟いた声が届いたかどうかはアルベルにはわからなかったけど。
それを冗談と受け止めるかどうかは、彼女次第で。





今日も二人は楽しそうに、大声で喧嘩中。