空はからっと晴れて青い色に染まっています。
暖かい暖かい、誰もがあくびをしてしまうような心地よい日のことです。
一人の女の人が、カルサアの町のとある一本の木の下に立っていました。





木漏れ日





女の人は菫の花びらのような色の瞳の、とても綺麗に整った顔の美人さんでした。
紅い短い髪が、時々吹く風で揺れています。
紅い髪の女の人は、両手に小さな花束を持っていました。
今の季節では花屋さんでしか見ることのない、真っ白な花が何本も綺麗に束ねられた小さな花束です。
女の人は、葉っぱの隙間から木漏れ日の差し込む木の下で、少しの間立ち止まって何かを考えていました。
木の下、つまり樹の根元には、砂埃をかぶったひとつの石が置いてあります。
置いてある石の下には、盛り上がっている土と、枯れてぱりぱりになり、色がなくなった花が数本ありました。
それをしばらく見下ろした後、やがて女の人はゆっくりとしゃがみこみ、片手で小さな花束を抱え、片手で石の砂埃を払います。
石があらかた綺麗になった後、女の人は枯れてしまった花を避け、両手に抱えていた小さな花束を木の根元にそっと置きました。
優しく穏やかで、でもどこか寂しそうな、そんな顔で。
女の人はしゃがんだまま、俯いて目を閉じていました。
少しの時間が流れて、女の人は目を開けました。
立ち上がり、樹の反対側に周り、根元に背を向けて幹にもたれるように座ります。
女の人は空を見上げました。
葉っぱが遮ってくれるお陰でまぶしくはない太陽の光がさんさんと降り注いでいました。
女の人はもう一度俯き、目を閉じます。
何かを考えているような、そんな表情でした。





何かを考え込んでいる女の人は、ふと前方の茂みの向こうから人の気配を感じました。
誰かが、女の人のいる木の下に近づいてきます。
自分に敵意を持っている気配ではなかったので、女の人はそのまま目を閉じていました。





「おねいさま!」



茂みががさりと音をたて、同時に明るく弾んだような声が前から聞こえて、何かが女の人に飛びついてきました。
気配を少し前から感じ取っていた女の人は驚くこともなく目を開けて顔を上げます。
自分を"おねいさま"と呼びそして急に飛びついてくるような誰かさんは今のところ一人しか思いつかないので、女の人は誰がいるのかすぐに予想がつきました。
顔を上げた先には、女の人の思ったとおりの人物がいました。
こげ茶色の髪と、同じ色の動物の耳と尻尾を持っている、小さい男の子がそこにいます。
男の子は座っている女の人の膝の上にいつものようにごろごろと擦り寄ってきました。
今日はバカチンいねーから邪魔されねーじゃんよラッキー、と聞こえたのは気のせいではなさそうです。
擦り寄ってくる男の子に、女の人は呆れたような顔でしょうがないねぇ、とつぶやきました。
「あぁ、ロジャーか」
「…あれー、おねいさま全然驚いてないですね?びっくりさせようとそ〜っと歩いてきたのに」
「何かが近づいてくる気配は結構前から気づいてたからね。職業柄、こういうことにはよほど気を抜いてない限り敏感なのさ」
「さっすがおねいさま!」
男の子は、まるで女の人を崇拝するようなキラキラとした眼差しを向けます。
「ところでどうしたですか、こんな町の外れで?」
確かに男の子の言うとおり、そこは街の真ん中からかなり離れた位置にある、言い方を変えると僻地にあたるような場所です。
男の子が不思議に思うのも、無理はありません。
「お昼寝ですか?だったらオイラもご一緒させてほしいです〜」
「…あぁ、いいけど…でも、」
「ほんとですかやったー!」
男の子は、女の人の台詞の前半を聞いて歓声をあげました。
そのおかげで、女の人は言おうとした台詞の後半を遮られてしまいます。
「おねいさまと一緒に昼寝昼寝〜♪」
「…あのさロジャー、一応言っておくけど、昼寝しようと思ってここに来たわけじゃないよ」
「へ?じゃ、どうしたですか?」
それはそれは嬉しそうに、女の人の太ももにごろごろと甘えていた男の子は、素っ頓狂な返事を返しました。
「うん。ちょっとね」
女の人はにこりと微笑み、ちょっと誤魔化すように答えました。
いつもはっきりと物を言う女の人がそういう曖昧な言い方をするのは珍しかったので、男の子は首を傾げます。
そこで男の子は、女の人が座っている樹の裏に、一つの花束があることに気づきました。
「…花束?」
女の人はまた微笑んで、でも今度はちょっぴり寂しそうに微笑んで、口を開きました。
「あぁ。これかい?」
「…お供え物、ですか?もしかして、ここには誰かのお墓があるですか?おねいさま」
お花を供える場所、というのは、誰かの亡くなってしまった場所、もしくは亡くなった誰かの眠る場所であるということは、小さな男の子にもわかったようで。
ちょっと言いにくそうにそう尋ねた男の子に、女の人はゆっくり口を開きました。
「…あぁ。そうだよ」





「ここにはね…私の小さな友達が眠ってるんだ」
感慨深げにつぶやいた女の人の声が、どことなく寂しそうで。
男の子は思わず動きを止め、腹這いになった状態から女の人の顔を見上げます。
「小さな、友達?ですか?」
「あぁ。友達って言っても、子猫の事なんだけどね」
友達、とはちょっと違うかもね?と女の人は僅かに笑います。
「おねいさま、猫飼ってたんですか?」
「ううん。飼ってた、とは少し違うんだ。たまにここにきた時、面倒見てた、って程度だから」
あぁ、おねいさまがこの街に来る度姿が見えなかったのはそれか。
そう思って男の子は納得しました。
「小さくて、可愛い黒猫でね。最初はひっかかれそうになったりもしたけど、最後は懐いてくれて。とても、良い子だったんだ」
まるで、その猫と過ごした事を思い出すように、ゆっくりゆっくり女の人が喋ります。
男の子は、ただ黙って聞いていました。
「でも…やっぱり、別れなきゃいけない時ってのは、来てしまうものなんだよね」
寂しそうにそう呟いて。
女の人は悲しそうに微笑みました。





「…あの、おねいさま。元気、出してください」
しばらくして、黙っていた男の子がぽつりと言いました。
「おねいさまが元気ないと、オイラまで悲しくなるです」
言われた女の人は、一瞬目を丸くします。
そして、ふわりと微笑んで、苦笑するように微笑んで。
「…そうだね。私がしょげてると、他の皆まで気を遣わせてしまうよね。…ごめんね、心配かけたかい?」
その表情が、いつも男の子の見ている女の人の笑顔に戻っていたので。
男の子はほっとして、そしてなんとか上手く慰めることができてちょっと嬉しくなりました。
「オイラはだいじょーぶです。おねいさまはだいじょうぶですか?」
「うん、平気だよ。ありがとう」
「えへへー、おねいさまの為ならなんだってするですよ!」
「そう?じゃあ、今日の夕食当番変わってもらおうかな」
「うぇ!?え、えーと…」
女の人はくすくすと笑って、
「ごめん、冗談だよ」
「ひどいですよおねいさま〜」
「あはは」
明るい口調で会話が穏やかに進みます。
やがて、ぽかぽか陽気につられたのか、男の子がふわあぁと大きなあくびをしました。
片手の握りこぶしがすっぽり入ってしまうような大きなあくびでした。
「眠くなってきたのかい?いいよ、昼寝しても。時間が来たら起こしてあげるから」
「あっ、じゃあおねいさま、膝枕して下さい!」
目をきらきらと輝かせながら、男の子が手を組んでお願いポーズをとりました。
女の人は苦笑して、
「しょうがないね…特別だよ?」
「ほんとですか!やった〜おねいさまの膝枕じゃんよ〜!」
男の子はその答えを聞いて、楽しそうにそして安心したようにぽてりと横になりました。
女の人の膝の上に頭をこてんと乗せ、男の子は目を閉じます。
にまにましながら眠りにつこうとすると、女の人の手が男の子の頭をぽんぽんと撫でました。
男の子が目を半分開けると、女の人はにこにこと笑いながら男の子を見下ろしています。



女の人に"特別"と言われて浮かれている男の子は、それはそれは幸せそうににひひひと笑い、
「…あとでバカチンプリンに自慢してやろーっと」
ぼそりと小さくつぶやき、男の子は幸せいっぱい胸いっぱいといったようなとろけた笑みを怪しく浮かべ、目を閉じました。





男の子が眠りについてから数十分経ってからの事です。
女の人は相変わらずそのまま座っていました。
男の子は実はぼんやりと目覚めていましたが、女の人の膝枕が余程嬉しいのか、離れずに寝たフリをしていました。
文字通り狸寝入りをしていた男の子が、ごろりと寝返りを打ちました。
もし薄目を開けても女の人に寝たフリがバレないように、女の人に背を向ける格好になります。
と、そのとき。
「あ」
男の子の頭の上から、女の人の声が聞こえました。
声の調子が心なしか嬉しそうで、声もほんの少しだけトーンが高くなっています。
男の子は思わずどうしたですかおねいさま、と声をあげそうになりました。
が、寝たフリがバレてしまうことに気づいて慌てて口を閉じます。
男の子は、どうしたのかと薄目を開けてみました。
するとそこには、
「…なんで、そのガキがここにいる?」
仏頂面の、金色と黒のへんてこな髪をへんてこな風に縛った男の人が立っていました。
男の子は、女の人との二人っきりの時間を壊されたことに少なからずむっとなりましたが、とりあえず寝たフリを続けます。
「さっき偶然会ったんだよ。眠そうだったから寝かしておいてやろうと思って。…こんな小さいのに私達と同じ旅を続けてるんだ、やっぱり疲れてたんだろうね」
「…こいつがねぇ…」
男の人は、女の人と男の子のいる木のすぐそばまで来て、二人を見下ろすように立っています。
男の子は女の人に見えない位置で薄っすらと目を開けました。
見下ろしている男の人が、憮然とした、面白くなさそうな顔をしているのが見えます。
男の子が女の人に膝枕してもらっているのに苛ついているようで。
それに気づいた男の子は、ニヤリと笑います。



へへーん、おねいさまの膝枕だぞ羨ましいだろ〜!



そんな事を思いながら、男の子は男の人を薄目で見上げていました。
その視線に気づいたのか、男の人が男の子の顔を見下ろしました。
目が合って、男の子はニヤリと笑ったまま舌を出してあかんべーをします。
いつもならここで、男の人が、てめぇこのクソチビダヌキが!と男の子を蹴って、ぎゃーす何すんだよバカチン!おねいさま、バカチンがオイラを苛めるです〜と男の子が女の人に擦り寄って、子供相手に何やってるんだい大人気ないねこの馬鹿!と女の人が男の人を叱る、というパターンです。
今回も同じような事になると思いきや。
「…ふん。夕飯までには戻れよ。あと明日もこの町にいることになったから、そのつもりでいろ、だとよ」
「え?」
「賢者の石をどうしても作りたいんだと」
男の人は急に態度を一変させ、くるりと踵を返しました。
女の人が驚いて、男の人の背中を見ます。
「俺は宿屋で寝る」
「あ、ちょっと…」
女の人が何か言う前に、男の人はその場所から立ち去っていきました。
男の子は、いつもと違うリアクションをとった男の人を不思議に思いましたが、女の人との二人っきりの時間が戻ってきた事で浮かれているのであまり気にしませんでした。
女の人が男の人の背中を見ながら、残念そうな寂しそうな顔をしていたのには、男の子はまったく気づきませんでした。








それから、時計で言うと長い針が二十五周、短い針が二周と少し回った頃。
つまりは一日とちょっとの時間が経ちました。
その日もとてもよい天気で、遮る物のない日差しはやはりさんさんと世界に降り注いでいます。
男の人の言葉通りもう一日滞在する事になったその町の中を、男の子がスキップをしながら歩いていました。
男の子の、跳ねた足取りが向かう先は、街の外れの大きな木です。
昨日は、男の子がうっかり二度寝してまた起きるまで、女の人は膝をまくらとして提供し続けてくれていました。
足は痺れていないですかと慌てる男の子に、女の人は全然大丈夫だよ、それより良く眠れたかい?と笑ってくれました。
それが嬉しくて、また甘えさせてもらおうと男の子は女の人が今日もいるであろう大きな木の下に向かいました。
宿屋の部屋は覗いたのですが、誰もいませんでした。
工房を覗いても、錬金をがんばっている雇われクリエイターと、機械をがちゃがちゃやっている仲間しかいません。
機械が苦手な女の人は当然そこにはいなかったので、きっと昨日と同じでまる一日休憩と言われているのでしょう。
ちなみに、男の子はそこそこの機械レベルではありますが、そこそこの機械レベルでしかないので、今回も休憩を言い渡されていました。





男の子が、ぴょこぴょこと道を歩いていきます。
今日も急にぴょーんと飛びついて女の人に受け止めてもら…いえいえ、びっくりさせてみようと思い、男の子は茂みから頭が出ないように姿勢を低くしてそろそろと忍び寄ります。
バレバレだろうことはわかっていますが、バレているということは男の子が飛びついてくるのをわかっているということで。
オイラが飛びつくの、ちゃんと待っててくださるって事だよな!
そう解釈して、男の子はうきうきしながら木に近づきます。
これでもし女の人がその木の下にいなかったら、男の子の気分は急降下することでしょう。
男の子は息を潜めてそろりそろりと茂みに近づきました。
女の人がいるかどうか、茂みの隙間からそっと覗きます。



「!!」



男の子は思わず息を呑みました。
そこにいたのは、





「おい、…重い」
「いいじゃないか別に。いつもの事だろう?」
「…ったく」



こてん、と。
幹に背を預けて木の根元に座っている男の人の肩に頭を乗せて、寄りかかっている。
穏やかな表情の女の人でした。





今日の風は、カルサアの街独特の乾いた風は、ちょうど大きな木の方向から、男の子のいる茂みの方へ向かって吹いていました。
つまり木の下の声は、風下である茂みまでよく聞こえる位置です。
そしてその茂みにいた男の子には、風に乗って二人の声がはっきりと届いていました。





「………」
男の子は茂みを出るタイミングを逃し、匍匐全身のままの体勢で止まっていました。
茂みの隙間から見える女の人は、そんな男の子に気づいた様子もありません。
男の子はそこで、昨日女の人が言っていた台詞を思い出します。



職業柄、こういうことにはよほど気を抜いてない限り敏感なのさ。





つまり。
今は女の人にとって、"よほど気を抜いている状態"になるのでしょう。
男の人の肩に寄りかかって、穏やかな顔をしている今は。





なんで?
昨日、オイラの事特別って言ってたじゃん。
なんでアイツの隣で、そんなに幸せそうな顔してるんですか?





男の子は目を見張ったまま、そんな事を考えていました。
風に乗って、また二人の会話が聞こえてきます。





「…珍しいな。確かに僻地にぽつんと立ってる木の裏側っつぅ目立たねぇ場所とはいえ、誰かが来るかも知れん場所でお前から寄りかかってくるなんて」
「そうだっけ?」
「屋外ではマジで珍しいと思うが」
「…大丈夫、こんな街外れ誰も来ないよ。それに…ここは、特別な場所だからね」



女の人は、傍らにある花束を見ました。
昨日置かれたそれは、切り口に水を含んだ紙を巻かれているのでまだ生き生きとしています。
女の人は次に、花束の置かれた場所のすぐ傍の、盛り上がった土の上に置かれた石を見ました。



「あの子の…眠る場所だから」
「………」
「ここに来ると、懐かしいし、あの子と過ごした色々な事思い出すよ。でも、…やっぱり、ちょっとは寂しくなるから…」
「………」
「だから、…少しくらい甘えたっていいだろう?」



ね?と女の人が男の人の顔を見上げて。
男の人は苦笑して、しょうがねぇなとつぶやきました。





「…なぁ」
「ん?」
「…ちょっとは寂しい、とか言ってたが。甘えたくなるっつぅことは、実際は相当寂しいんじゃないのか?」
「………、そんな、こと…」



言葉を詰まらせた女の人は、顔が少し赤くて、焦ったような表情になって。
こそりと覗き見している男の子にもはっきりと見えていました。
それは今まで、男の子が見た事もないような。
いつもの凛々しい彼女からは想像もつかないような、可愛らしい顔でした。





「…無理すんな」



ぽん、と女の人の頭に手を載せて。
男の人が呟きました。



「無理して、笑うな」



「泣きたければ泣けばいい」



「笑いたければ笑えばいい」



「だが、…泣きたいときには、笑うな」





流れるようなゆっくりとした、男の人の低い声が。
すぐ傍の女の人の耳に、そして風に乗って男の子の耳に届きます。





「…ありがとう」



女の人は呟いて、そして笑いました。





「…あ」



男の子は思わず、ぽつりと小さな声を漏らします。
女の人のその笑顔は、昨日男の子が元気出してくださいと言った後の、笑顔と。





まったく違うものでした。





とてもとても、穏やかで、優しげで。
そして幸せそうな笑顔でした。





そこで男の子は気づきました。





昨日、女の人が言った、"特別"という言葉は。
自分だけ、"特別"ではなく。
今だけは"特別"という意味だったであろうということを。





そして。
女の人の"特別"が、誰であるかということを。








「…おい。…おい?」
男の人が女の人に声をかけました。
が、まったく反応がありません。
男の人が、肩の位置をずらさないように首から上だけ動かして女の人の顔を覗きこみます。
反応のなくなった女の人は、すやすやと眠っていました。
「…ったく」
男の人は口ではそう言っていますが、表情は緩んでいました。
ちなみにこんな男の人の顔も、男の子は見た事がありませんでしたが、女の人しか見えていない男の子はまったく気づきませんでした。



女の人は、男の人の肩ですぅすぅと眠っています。
安らかで穏やかで、幸せそうな表情でした。








空はからっと晴れた青い色に染まっています。
暖かい暖かい、誰もがあくびをしてしまうような心地よい日のことです。
一人の女の人と、一人の男の人が、カルサアの町のとある一本の木の下に寄り添って座っていました。
女の人は整った寝息をたてていて、男の人はあくびをしながらうとうとしていました。
大きな木の、茂った何枚もの葉っぱ達が作り上げた影の下に、乾いた温かい風が吹いています。
葉っぱの隙間から木漏れ日の差し込む木の下で、風と葉摺れの音だけが聞こえます。





がさり、と。
大きな木の近くにある茂みが、不自然に揺れました。
男の人がそれに気づいて、視線を向けます。
茂みの向こうからは、小さな男の子が出てきました。
男の子を見て、男の人はあからさまに嫌そうな顔をしました。
男の子も相当に不機嫌な表情をしながら、口を開きます。



「バーカチンが」
「は?」
「バカだからバカっつったんだよバカチン」
「…てめぇ喧嘩売ってんのかクソガキ」



寝ている女の人を配慮してか、男の人は怒鳴る事はしませんでした。
男の子は悔しそうな顔をして、呟きます。



「…おねいさま、ちゃんと幸せにしろよ」
「は?」
「なんでもねーよバカチン」
「なんなんだお前」



ふん、と鼻を鳴らして。



「おねいさま幸せにしなかったら承知しねーからなバカチンが!」





男の子は男の人を睨み付けたまま言い放って。
くるりと後ろを向いて、だーーっと走っていきました。



ぽかんとした男の人が、ぽつりと呟きました。
「…確かあの方向には茂みの奥直進すると池があったような」
冷静に呟く男の人の耳に、激しい水音と男の子の悲鳴に似た叫びが聞こえたような気がしましたが。
男の人はなにもなかったかのようにあくびをして、どうせ動けねぇし昼寝でもするかと目を閉じました。





悔しいけど。
あいつには、勝てないから。



「男らしく引き下がってやろーじゃねえかちくしょー…ぶぇっくし!」



ずぶ濡れになって、顔もずぶ濡れなのは池に落ちたからだ、決して涙や鼻水じゃない、と呟きながら。
男の子はある意味男らしく、…というか親父臭く、ぶぇっくしょーいとくしゃみをしながら、ずぶ濡れのまま鼻をすすってずかずかと宿屋への道を歩いていました。





翌日。
何故か男の子は四十度以上の熱を出して寝込み、何故か男の人がいつになく親切に看病してやっていたことに。
女の人は首を傾げたりもしましたが、その理由は謎のままなのでした。