「お前、髪が伸びたな」
何気なくそう言われたのは、前髪が目にかかって少し視界が悪いな、と思い始めていた時だった。
人のことなんか何一つ観察してなさそうな彼が真面目な顔して言うものだから、珍しくも少し嬉しかった。
確かに最近伸ばしっ放しだったしな、と思いながら、肩よりほんの少し長い位置にある紅い髪先を摘んでみる。
仕事柄、伸ばすと目立つ色だったし、長い髪というのも特別好きではないから、今までもずっと短くしていた。
だから。
当然、赤毛の彼女はこう思った。
「そうだね。そろそろ切ろうかな」



宿屋の一室で、赤毛の彼女はすっくと立ち上がる。
「あんたハサミ持ってたりしないよね」
「長旅でハサミを常に携帯している男がいたらむしろ変だろ」
「はいはい、持ってないんだね」
どうしようかと考えている彼女に、ソファに埋もれるようにだれている彼が声をかける。
「…自分でやんのか?」
「え?うん。クレアが仕上げしてくれたこともあったけど、大体は自分でやってるよ」
「そうか。ところでハサミくらい誰かが持ってんじゃねぇか」
「あぁ、いいよ借りるほどのものでもないし。んじゃ、これでいいか」
そう言って彼女がすらりと抜いたのは、腰に挿しているダガー。
「いや、よくねぇだろ」
かなりの勢いでがばりと顔を上げて、彼が即座に突っ込んだ。





髪結い





「なんで」
きょとんと言い返す彼女に、さりげに必死になりながら彼が言った。
「阿呆かお前は。ダガーは髪を切るためにあるんじゃねぇだろが」
「いいじゃないか別に。そうハサミと変わらないよ」
「よくねぇ」
軽い頭痛を起こしている頭を押さえながら、彼がさらに続ける。
「大体においてダガーでどうやって髪を切るんだよ」
「伸びた髪を片手で持って髪の下にダガーを入れて上にざくっと」
「阿呆か!どんだけ不揃いに切るつもりだ!」
「いや、別にそんなの気にしないから」
「俺が気にするんだよこの阿呆」
本日何度目かわからないくらいに連呼された彼の口癖に腹をたてるより、台詞の前半部分に拍子抜けして彼女はぽかんと目を見開く。
あまりにも意外で、思わず彼女の口から無意識に言葉が滑り出る。
「何で?」
「は?」
「だから、なんで私の髪のことであんたが気にする必要があるんだい?」
彼は気だるそうに彼女に視線を向けて、そしてしまったと言う風にすぐに顔を逸らす。
彼にとって言わないほうが良かったらしい言葉を言ってしまったようで。
その動作が面白くて、彼女は彼の座っている方へにじりよって声をかける。
「ねぇ何でだい?」
「…さぁな」
「答えなよ」
「………、お前の髪は嫌いじゃねぇって前言っただろうが」
早口に、しかも小さな声で言われて、彼女は思わず聞き返す。
「え、何だって?」
「…別に。とにかく、ダガーで切ったりすんな。必ずだ」
そう、わけのわからないままに念を押されて、その会話はとりあえず終わった。





それから少し経って、彼女は一人で彼の部屋にいた。
今日一日と明日少々この部屋の主である彼は、律儀にもハサミを探しに行ってくれていて不在だった。
自分が行く、と彼女は言ったのだが。
「お前に任せたらその辺の錆びたハサミやら折れたハサミやら挙句の果てにハサミはハサミでも植木用とか布切り用とか持ってきそうだから大人しく待たされとけ」
となんだか失礼な理屈で押し戻された。
そんなわけで彼女は暇そうにソファにもたれて自分の髪を構っていた。
こんな機会でもなければそうそう構ったりしない自分の赤毛を、摘んでは離し離しては摘みながら、彼女はぽつりと独り言を漏らす。
「別にそんなこと気にする必要ないのに」
でも、普段他人に興味なさそうどころか自分の事にすらおざなりな彼だから。
…まぁ、気にしてくれるのは正直嬉しいのだけど。
そんなことを思いながら、また髪を摘んで横目で見る。
変わらない紅色がそこにはあった。



「何言ってんの。気にする必要、あるだろ」



…あまりにも突然に思いも寄らない方から答えが返ってきて。
彼女はソファからずり落ちそうになった。





「………。心臓に悪いじゃないか」
とりあえず体勢を軽く立て直して、彼女は声の聞こえた方を見やる。
少しミルクを入れたコーヒーのような色の髪の、誰かさんとよく似た顔立ちな、見覚えのある透明の青年が。
「あははは、悪い悪い」
ちっとも悪かったと思っていなさそうな表情で、窓の外のバルコニーの手すりに座っていた。





「なんでそんなとこにいるんだい?こっち来ればいいのに」
風が吹きすさぶ屋外で手すりに座ってわざわざ遠いところから声をかけてきた透明な彼に、彼女が尋ねる。
彼は軽く肩をすくめて答えた。
「だってれでぃーの部屋に勝手に入ったら失礼じゃねぇか」
「…ここは私の部屋じゃないんだけどね。それにしても意外だね、そんなこと気にするなんて」
「なんでー?」
軽く首を傾いで聞いてくる透明な彼に、小さく笑いながら彼女は答えた。
「いや、あいつあんまりそういう事に頓着しないからさ。あんたもそうなのかって思って」
「あっひでー、あいつはただの悪ガキなの。俺はちゃんとした紳士」
「自分で言う?…あっそうそう中入ってきても構わないよ」
「いーじゃねぇか別に。…あぁ、んじゃお言葉に甘えて」
台詞の前半と後半を使い分けて器用に会話した透明な彼は、ひょいと手すりから降りて閉まったままの窓に向かって歩く。
すぅ、と窓を通り抜ける際に小さく「失礼します」と呟いているのが聞こえて、また彼女は小さく笑った。
「何?」
気づいた彼が尋ねる。
「いや、あいつとはえらい違いだなと思って」
人の部屋に入る時だってノックもなしに入ってくる誰かさんを思い浮かべながら答えた。
軽く笑って答えた彼女に、透明な彼が少し真剣な顔になって問いかけた。
「なーなー。あいつそんなに傍若無人なわけ?」
「え?うん」
ためらいも何もなく即答されて、透明な彼が渋い表情を作る。
「どのくらい?」
「そうだね…」
彼女は何事かを考えて、口を開きかける。
その時。



ばたーん。



形容するのならそのような感じの音が響いた。
部屋の入り口付近から聞こえたそれは当然扉の開く音。いや、正確には扉を蹴り開けた音。
小さな一人掛けの椅子に後ろ向きに座っていた透明な彼は驚いて目を見開き、ソファに座ったままの彼女は驚く素振りも見せずに淡々と言った。
「まぁ、こんな感じ」
「…納得」
こくこくと首を縦に動かしてこれ以上ないくらい合点がいったような顔をしている透明な彼に、扉を蹴り開けた張本人は不機嫌そうに口を開いた。
「何を勝手に納得してやがる、阿呆親父」
探し当てたらしいハサミを片手に言う様子は彼の不機嫌さも相まってそれなりに物騒だったが、睨まれた本人は軽く笑いながら答える。
「久しぶりバカ息子。お前がしつれーでぼーじゃくぶじんだ、ってネルが言ってたからさー、どのくらいなのかって訊いてたんだけど、今のでよくわかった。それで納得」
「一応言うけどそこまでは言ってないよ。まぁ常日頃そう思ってるけど」
ネルと呼ばれた彼女が付け足すように言った。言われた彼は仏頂面のまま答える。
「うるせぇよ阿呆」
「ところで、何持ってんの」
右手に握られた、小さいが切れ味は良さそうなハサミを指差されて、アルベルは一瞬狼狽した。
ネルはそんなアルベルをどうしたんだろうと眺めている。
「…二対の薄い細い金属を組み合わせて作られた道具」
「いや、普通にそれってハサミじゃん。何でそう言わないの」
「………」
何故か沈黙するアルベルと、何で何でと訊き続ける彼を見比べながら、ネルが補足するように言った。
「髪が伸びたから切ろうと思って。それであいつが持ちに行ってくれたんだけど―――」
「え!?なになに誰が髪切ろうと思ったって!?」
途端、透明な彼がぱぁぁっと表情を明るくさせる。
アルベルは苦い顔をしてまた始まった、などと呟いていた。
「私だけど」
何気なく答えたネルの台詞に追いかぶさるように、間髪入れずに彼は言った。
「俺切りたい!つーか切らせて!」



…これが嫌だったんだ。
アルベルは小さく呟く。





「無理だろうが阿呆。ハサミすら握れないくせに何言ってやがる」
これ以上なくキラキラきらきらした瞳の彼に、アルベルが簡潔にすぱっと言い放つ。
途端に悔しそうにアルベルを睨みつける彼の表情は、おやつをとりあげられた子供のようだった。
「あーうるせー!そーだバカ息子、体貸せよ!」
「はぁ!?無理に決まってんだろうが!」
「いいじゃねぇか憑依させろ憑依!とーりー憑ーいーてーやーるー」
「ふざけるなこの阿呆親父!」
そんなぎゃーぎゃーとした会話を聞きながら、ネルがくすくす笑う。
まったく、騒がしい人達だ。
でも、もしも彼が生きていたら多分毎日こんなんだったんだろうな、と。
そんな少し物悲しいことを考えていたら。
「そうだ!お前が切ってやれよネルの髪」
いつのまにやら口論は進んでいたようで、そんな彼の声が聞こえた。
「「は?」」
ユニゾンで聞き返したアルベルとネルに、彼はうわぉ息ピッタリじゃん、と少し笑う。
「だからさ、お前が切ってやればいいんだよ。俺指示するから」
うわー名案!とはしゃぐ彼をよそに、ネルは思い切り嫌そうな表情をする。
「こいつに切らせたら、私明日から外を歩けないような髪型にされそうなんだけど」
「戦闘用のダガーで適当に切ろうとしてた奴が言うな」
「だいじょぶだいじょぶ、こんな奴でも一応髪切るくらいはできるから」
へらりと笑う彼の笑顔は微妙に説得力に欠けていたが、まぁ確かに自分でざっくり切るよりはいいかもしれない。
ネルはそう思いなおして、ふぅ、とため息をついた。
「…じゃあ、お願いしようかな」
「ぁあ!?お前本気かよ」
「いいじゃないか。どうしても嫌ならいつもと同じようにダガーでばっさりやるけど」
「…。ったく、わかったよ」
やけになったように言い放つアルベルを見て、彼がうきうきと表情を明るくさせる。
「じゃーやるか!ほらアルベルでかい布持って来い、ネルは櫛と鏡と髪止めれる物持ってきて」
てきぱきと指示を出すところを見ながら。
…あぁそういえばこの人は髪をいじるのが好きだとか聞いたな。
そんなことを思いながら、ネルは言われた物を探すために荷物を探った。





「はい次もちょっと右切って。―――あ、いいよそのくらいそのくらい」
「んじゃ、次は右から二個目のピン取って。んでさっきやったみたいに長さが揃うように切って」
「わ、ちょっと切りすぎ!…お、なんとか寸止めしたか。偉い偉い」
「そうそう、その辺髪の量多いから多めに切ってやって。うん、上手いじゃん!さすが俺の息子」
ある、風の強い昼下がり。
アルベルの部屋で、楽しそうな彼の声と、ハサミが髪を切る小さな音が響いていた。
そこにいるのは荷物の中から引っ張り出してきた大きめの布を首に巻いて縛っているネル。
首に巻いた布は髪が服につくのを防いでいる。
それと、椅子に座っているネルの後ろに立って、ハサミ片手にネルの髪をさくさく切っているアルベル。
そして、そんなアルベルに意気揚々と指示を出している彼。
「…こっちは冷や汗ものなんだけど…」
あっとかうっとかやべっとか彼が連呼するものだから、髪を切られているネルはかなり疲労していた。
「こいつは表現が大げさすぎるんだ」
やべっとか連呼されている割には何気に一度も失敗していないアルベルが、ネルの髪を一房掴んで揃えて切りながら淡々と言った。
ネルは正面に持った鏡を凝視しながら、肩を落としてため息をつく。
「そうだといいんだけど」
そんなことを言いながら、鏡に映った自分の髪型はまともな形をしているので実は安心しているネルだった。
それに。
「…他人に髪切ってもらうって、やっぱりなかなかいいもんだよね」
「やっぱりっつぅことは、今までも切られたことあんのか?」
一応は彼の指示どおりに手を動かしながらアルベルが尋ねる。
ネルは頷こうとして、動けないのを思い出したのか慌ててそれを止めて答えた。
「あぁ。クレアがよく仕上げしてくれてた」
「………例の、あの剣でばっさり切る方法で切った後、か?」
「そうだよ」
…あいつも苦労したんだろうな。
少し、あの笑顔の裏に一物も二物も抱えていそうな銀髪の彼女に同情して、アルベルは苦笑した。
テーブルの上の櫛を取って、切り終えて止めていた跡が残る髪を梳いてやりながら違うもーちょっと丁寧に梳いてやれよバカとうるさい彼を軽く無視する。
あらかた切り終えたのだが、髪のことについてはとことんこだわる彼がそれはもう四方八方あらゆる角度からチェックしているもんだからまだ終わってはいないのかもしれない。
「…ん、ごーかっく!お疲れネルー」
朗々と合格を言い渡されたので、ネルはずっと首に巻いていた布を取ってはずした。
ふぅ、と軽く首を動かして、切り終えられたばかりの自分の髪を鏡で見る。
「あまり切った量は多くないのに、随分と時間がかかったね」
「こいつの注文が多すぎるんだ。ったく、一房切るのにどれだけぎゃーぎゃー言われたことか」
「だってとーぜんじゃん、ヨソのおじょーさんの髪型だぜ!もしも変に切ったりしたら土下座する勢いで謝ってカット代全額返してさらにケーキもつけてお詫びしねーと」
「…そこまでしなくても」
「つか、カット代?」
「あっいや待て口が滑った、今の気にしないで」
とか言われたら気になるのが筋だろう。
二人は奇しくも同じような事を考えたが、それほど興味も沸かなかったらしくそれ以上言及はしなかった。





その後。
「ついでだから髪いじらせろ!」
とのたまった彼の要望で、ソフィアやマリアからヘアピンだの髪に絡まらないゴムだのリボンだのを借りてきて。
まだまだネルの髪いじりは続いていた。実際構っているのはアルベルだが。
めんどくさがり屋のアルベルと、そこまでしてもらわなくても、と遠慮したネルだったが。
「俺さ、たまにしかこっち来れねぇの。だから今日くらい好き勝手させろ」
とのことで渋々了承せざるを得なくなった。
よくはわからないが、いろいろと制約があるらしい。
「幽霊ってのも不便だね」
「あっまた幽霊とかいったなこいつ」
ぐりぐり、と頭を押さえる真似をして、彼が不機嫌そうな顔をする。
「ったく、相変わらずガキだな」
「ガキにガキって言われたかねーよ!」
噛み付くような勢いで彼が言い返す。





また、しばらく経って。
「かんせーい!」
彼の楽しそうな声が聞こえて、されるがままにしていたネルははっとなる。
彼の指導の下、渋々やったであろうアルベルが無言で鏡を渡してきた。
どうなっているか確認しろ、とのことらしい。
確かにどうなっているのか気になったので、大人しく受け取って鏡を覗き込む。
「………」
思わずネルは沈黙した。
「ど?可愛いっしょ?」
にこにこ言ってくる彼の言うとおり、ネルの髪型は確かに可愛らしかった。
耳の上辺りで小さく三つ編みが成されており、それはピンで軽く止めてある。
両側が同じようになっていて、正面から見ると左右対称で三つ編みの形も同じだった。
目立たないが、三つ編みはよくできている。
「…でも、普段しないからちょっと照れくさいかな」
女らしくない自分には似合わないよ、とネルは笑う。
「なら取れ」
と、素っ気無い返事がアルベルから返ってきた。
ネルは首を横に振る。
「いや、このままにしておくよ。…不器用そうなあんたがやったにしては、綺麗にできてるしね。勿体無い」
「あ、やっぱり気に入ってんじゃねーの?」
彼が会話に入ってきて、ネルは別にと素っ気無く答えた。
が、その表情はどことなく嬉しそうで。
「良かったなアルベル、気に入ってもらえたみたいで」
冷やかすように彼が言って、アルベルがふん、と鼻を鳴らす。
…が、その表情はやっぱり、どことなく嬉しそうで。
彼は二人に気づかれないように、笑った。





その後。
これ、ソフィアに返してくるね、と言って使わなかったピンやらをネルが返しに行った。
一仕事終えた、とばかりにどかりとソファに座るアルベルと、ネルにいってらっしゃーい、と手を振る彼。
ネルの背中を見送って、彼はすぐにアルベルににじりよってにひひ、と笑う。
「お前さ、ネルの髪実は大好きだろ」
「はぁっ?」
にたぁ、と笑みを湛えながら言われ、アルベルは半眼になって言い返す。
「髪切ってる最中も、必要以上に手櫛で梳いてたもんなー?」
「何の事だ?」
素っ気無くアルベルが返す。が、視線は逸らされている。
その仕草で図星だと解釈し、彼はさらに追い討ちをかける。
「ネルの髪さらさらだもんなー。触ってて気持ち良いんだろ?」
「お前、触れねぇんじゃなかったのか?」
今までとはちょっと違う感情のこもった目でぎろりと睨まれる。
「親をお前呼ばわりすんなっての。あー触れねぇけどさ、見た目でなんとなくわかる」
「…ふぅん」
アルベルがそう答えた。
「だからさ、お前がもっとネルの髪触れられるようにと思ってだな、わざわざ切り終わった後も髪の毛いじらせる口実作ってやったんだぜー?」
「お前が面白がってただけだろ」
ぴしゃりと言い放たれ、彼はさぁなーと軽く返す。
「でもさ。楽しかったろ?」
ネルの髪、触れて。
反応を伺うように、にまにまと笑っている彼を横目でさり気に睨んで。
「さぁな」
そう一言だけ。アルベルは答えた。
「そうそう。お前、明日もちゃーんと髪縛るか括るかしてやれよ」
「あ?なんでわざわざ明日もやんなきゃいけねぇんだよ」
その返答に、彼はにやりと笑ってつぶやく。
「ひーみつ」
口元に人差し指をたてながらそう言われて、アルベルは憮然とした表情を作る。





ソフィアにピンやらを返しに行って、ネルはすぐにアルベルの部屋へ戻ろうとした。
が、途中で切った髪の掃除の為にほうきを取りに進路を変更する。
確か小さいほうきが自分の部屋にあったな、と思い出し、ネルは自室に向かった。
部屋の中に入り、荷物の中からミニほうきを探していると。
「なーなー、ちゃんと明日もアルベルに縛ってもらいなよ?」
背後から突然声が聞こえ、ネルは一瞬固まった。
「…心臓に悪い」
さすがに慣れてきたが、やっぱり驚くものは驚く。
「で、どうしてそんなこと言うんだい?めんどくさがりのあいつがそんなことするわけないだろう」
荷物を広げたまま、ほうきを探す手は止めずにネルが言った。
「実はさ、女の子が髪を急に縛ったりするのって、好きな人ができましたって意味なんだぜ」
「…は?」
ネルは不思議そうな面持ちで首を傾げる。
「なんだいそれ」
「なんだって言われると困るんだけど、ジンクス?みたいなもんじゃねーの?」
「………」
ネルは何かを考えて、自分の髪に手を伸ばす。
彼が何をしているのかと覗き込む前で、ネルは右側の小さな三つ編みを解こうとした。
「わーなんでなんでそーなんの!」
慌てて彼が止めようと声をあげる。
「…だって、髪を急に縛ったら好きな人ができたって意味なんだろ?」
「そーらしいけど」
「なら、既にいる人は縛る必要ないじゃないか」
だから取ろうとしたんだけど、と付け加えるネルの台詞に、彼は呆気に取られる。
変な顔をしてぽかんとしている彼を見て、今度はネルが訝って表情を変える。
「どうしたんだい」
「…お前って………」
「ん?」
「変なところで妙に可愛いな…」
「はぁ?」
言われた言葉が理解できずに、怪訝そうに聞き返す。
「愛されてんな、あいつ」
ネルに聞こえないように彼が呟く。
「って、違う違う。既に好きな奴がいる人は縛っちゃだめとか、そーいうこと言ってるんじゃなくて、さ」
逸れた話題を元に戻しながら、楽しそうに彼が続けた。
「いいこと教えてやるよ」
にこにこ笑いながら、これ以上ないほど楽しそうに、彼が何かを言った。



「―――え?」





「遅かったな」
アルベルの部屋のドアを開けた瞬間、アルベルの言葉が聞こえた。
相手が誰かも確認せずに背中越しに言ったところが彼らしくて、ネルは気づかれないように微笑む。
「掃除しようと思ってね、ほうきを取りに行ってたのさ」
言いながら、早速ミニほうきとついでに持ってきたちりとりを使って、ネルが掃除を始める。
「あいつ知らねぇか?」
その背中にアルベルが声をかけて、ネルが答える。
「あぁ、帰ったよ。バカ息子によろしくなーって言ってた」
「…もう来んなあの阿呆親父」
吐き捨てるかのようにアルベルが言って、その様子がリアルに想像できてネルがまた笑う。
「ところでさ。…風呂に入ったら、どうせこれ取っちゃうけどさ…」
アルベルが縛ってくれた紅い髪を指差し、ネルは床に落ちている髪を集めながら言う。
「明日もまた縛ってくれないかい?」
「…あぁ?」
思わずぐるりと振り向いて、アルベルが放ってあった白い布をたたみながら聞き返した。
「なんでお前まであの阿呆と同じ事言いやがる」
「あ、あんたも彼に言われたのか」
「…"あんたも"?つぅ事はあいつが何か言ったんだな。ったく、あのでしゃばり幽霊…」
何気に酷い事を言いながら、アルベルが呆れたように言った。
「で。この髪型、気に入ったしさ。また明日も縛ってよ」
「めんどくさい」
「言うと思った。いいじゃないか、慣れればすぐだろう」
「慣れれば…って、まさか明日からずっとやらせる気か」
「おや、よくわかったね」
「誰がやるか」
「代わりにあんたの髪も縛ってやるからさ」
「…。何でそこまでするんだよ」
いつになくこだわるネルに、アルベルが怪訝そうに問いかけた。
「え…」
聞かれたネルは、一瞬答えに戸惑う。





―――女の子が急に髪を縛るのは、好きな人ができたって意味だけど。
縛り続けてるのは、"今、恋してます"って意味なんだぜ?





さっき。
彼にこうやって言われたからだ、なんて。



…誰が言えるか恥ずかしい。





ネルは少し困ったように、でも楽しそうに口元に人差し指を立てた。
「秘密、だよ」





その仕草が誰かさんとまったく一緒で、アルベルが不愉快そうに半眼になる。
ネルは苦笑して、ヒントを出すように言った。
「…まぁ、女の髪には、いろいろあるのさ」
「なんだよそれ」
「今度、彼に会った時にでも聞いてみたら?」
「…?」








そんな二人を見ながら。
「ま、確かに女の髪にはいろいろあるわな」
「…お前は本当に、髪の知識にかけてはアーリグリフ一だな」
「どーせなら大陸一って言ってくれよな」
「…はいはい」



「話戻すけど、髪ってほんとにいろいろあるよな」
「例えば?」
「…急に髪切るのは失恋、とかな」
「ふぅん。それは次に会った時に教えるつもりかい?」



言ったらきっと、多分気にして一生髪を伸ばし続けるだろうから。
これは、次に会った時訊かれても、教えてやらないことにしよう。



「教えねぇよ」
「そうだな。ネルは意外とそういうこと気にするから」
「さっすが、娘のことよく知ってるねー」
「…はいはい」





お空の上で。
そんな会話が楽しそうに続いていた。








彼と彼女の朝の日課が一つ増えて、仲間達が不思議そうにしているのは、それからしばらく経ってから。