毎日毎日、まったく同じ日が来ることはありえない。
単調で平々凡々とした日々の中にも、昨日とは何かが絶対に違う何かが。
日常の中に紛れ込んだ非日常な出来事が、毎日必ず起きていて。



きっとそれは、誰もが予想できないこと。





「大変大変!」
「どうした、ソフィア?」
「さっき、プレス使ったらちょうど狙った真下に麻痺したアルベルさんがいて…!」
「…。エネミーもろとも直撃?」
「さらに出てきたバーニィに蹴っ飛ばされて踏んづけられてもみくちゃに…」
「…うぉ」
「頭から血がどばどば出てるし、ヒーリングかけても目が覚めないのー!どうしよう!」



「とりあえず宿屋に運び込んだはいいけど、まだ目覚めないの?」
「ええ。見たところ、軽い脳震盪だと思うんだけど…頭の怪我はバカにできないから、少し心配ね」
「うわーんごめんなさいアルベルさん、冥福を祈りますから化けて出てこないでくださいー!」
「…ソフィア…、アルベルはまだ死んでねぇぞ…」
「大丈夫だよ、殺しても死なないような奴だし」



予想できるわけない。



「ん…」
「あ、起きた」
「あら、意外にすぐに回復したのね。大した事なくて良かったわ」
「はぁぁぁ良かった…轢死させちゃったかと思ったぁ」
「ま、無事で良かったな」
「大丈夫かい?他に怪我は?あんたいつも隠そうとするんだから」



「…お前ら誰だ?」
「…え?」
「つか、…俺、誰だ?」



…こんなことが起きるなんて。






キヲク。





宿屋の一室。
大急ぎでチェックインして部屋を確保し、アルベルを運び込んだその部屋で。
五人の男女がぽかんとした、呆気に取られたような顔をしていた。
「…は?」
フェイトが思わずそう呟く。
五人の視線を浴びているアルベルは、上半身を起こした体勢のまま怪訝そうな顔をしている。
「つーかここ何処だ…頭は痛ぇしくらくらするし、わけがわからん」
ぼんやりとした目のままのアルベルのセリフに、呆気にとられている五人が顔を見合わせた。
「何それ…」
「まさかさっきのショックで記憶喪失に…」
「え、えぇ!?確かに頭に直撃しましたけど、そんなことって…」
「…けど、冗談言ってるようには…、見えねぇ、よなぁ?」
「………。あぁ…」
心持ち小声で話し合う五人を、先ほどと変わらないぼんやりとした表情のままアルベルが見ている。
「なんなんだ、お前ら」
「何言ってんだよ!お前はアルベルって名前で、僕はアルベルの唯一無二の弟じゃないか!」
「はぁ?何言ってるのよフェイト」
急にアルベルに詰め寄り事実無根の事を言い始めたフェイトを、マリアがじろりと睨む。
フェイトはまったく気にせずにさらに言い募る。
「思い出してよ兄さん!たった二人の家族じゃないか!ね、そうだよねクリフ!」
急に話を降られ、クリフは困惑しつつもフェイトの視線に何かを感づいて、合わせるように口を開く。
「そうだぞアルベル。ずっとこいつと二人で過ごして来たんじゃねぇか、忘れちまったのか?」
そうクリフからも言われて、アルベルは難しそうな顔をして口を開いた。
「…そうだったのか?」
詰め寄られたアルベルは、眉を寄せて不思議そうにフェイトを見る。
フェイトはしばらくアルベルをじぃぃぃっと見ていたが、やがて根負けしたかのようにため息をついて、
「…って、僕が大嘘ぶっこいても反論してこないってことは、どうやら本当みたいだよ、"記憶喪失"」
「しかしすっげぇ確認の仕方するもんだな、オイ。しかも急に話振られて片棒担がされるしなぁ」
「まわりくどいよ、フェイト…」
「直球でいいだろ?」
感心したような呆れたようなクリフと、呆れているソフィアと、簡潔に答えるフェイト。
そんなやり取りを目で追っていたアルベルが、口を開く。
「嘘っつーことは、違うのか」
「ええ、違うわ。彼は君の仲間で、ここにいる皆もそう。君は私達と一緒に旅をしてたのよ」
次はマリアに静かに真剣な顔でそう言われ、今度は周りにいる誰も反論しなかったので。
これは本当に本当のことなのだろうとアルベルは判断して。
「…本当に覚えてないの?」
問われてしばし思案する。
「…あぁ」
本当だろうとわかっても、まったく身に覚えはなくて。
「覚えていない」
きっぱりと言い切られて。
周りにいる皆は困ったように、再度顔を見合わせた。





「…押し問答しててもしょうがないわ。とりあえず、記憶を取り戻す方法を考えないと」
「うーん…。やっぱり、頭を打ったのが原因だよね?」
「だったら、同じだけのショックを与えれば思い出すんじゃない?」
「お、おい。またプレスで潰す気かよ…」
「さすがにそれはやめたほうがいいんじゃないかい?…当たり所が悪かったら困るし」
「じゃあ僕が鉄パイプで後頭部に一発すこーんとかませば…」
どこからともなく鉄パイプを取り出して、心なしか目を輝かせているフェイトに、
「無理だと思うよ。フェイト力加減ミスりそうだもん」
ソフィアがすぱっと突っ込んだ。
「…あいかわらずさらっとキツイね、ソフィア」
「ショックを与えりゃいいんだろ?なら、驚かしてみるとか」
「しゃっくりじゃないんだから…」
「でも、ある意味いいかもしれないわね。…クリフにバニースーツ着せてセクシービームでもさせたら驚くかしら?」
「…俺はお断りだからな本気で!全力で!」
「冗談よ」
大人気ないわねぇと苦笑するマリアに、
「…冗談に聞こえなかったよマリア…」
フェイトがさりげにぼそりと呟いた。さすがにはっきり言う勇気はなかったようだ。
「…ブレアに頼めば、なんとかならないかな?よくはわからないけど、彼女らは私達の世界を操作できるんだろう?」
ネルが提案して。困惑していたマリアとソフィアの表情がぱぁっと晴れる。
「そうね、その手があったわ」
「だったら、セフィラを通じてお願いしてみましょうか?」
「んー。そだね、てっとり早いよね」
「ちょっと反則かもしれねぇが、確実性もあるしな」
「じゃ、行ってきますね。アルベルさん、大人しくしててくださいよー」
ソフィアが失礼します、と部屋を出て。
「じゃあ私は、ブレアでもなんとかできなかった場合の事を考えてディプロに連絡しておくわ。ただでさえ頭の怪我は心配だし、一応精密検査を受けたほうがいいでしょうしね」
マリアが通信機のある自室へ(今は耳につけていないようだ)向かって、部屋を出た。
「んー、じゃあ僕らはどうしようか?アルベルに一応の事情説明しとく?」
腕組みをしながらフェイトがちらりとアルベルを見る。
「だがなぁ、お前や俺が言っても説得力ないと思うぜ?」
「…確かに。嘘ついた前科あるしね」
クリフとネルに言われて、フェイトは心持ち拗ね気味にぼやく。
「だってあれが一番手っ取り早いじゃんかー」
「まぁ、そうだけどね…。でも記憶混乱してる相手にあれはなかっただろ?もう少し何か他の確認の仕方もあったろうに」
そう言って苦笑するネルの肩に、クリフがぽん、と手を置いた。
「じゃ、お前が事情説明しといてくれよ。こいつや俺じゃ信用されないだろうしな」
「え?」
「俺はフェイトと荷物整理や部屋割り決めとかしとくから、な?…もしフェイトが荷物整理でこっからいなくなったら俺とお前とアルベルだけが残るわけで俺思いっきり邪魔者じゃねぇかボソボソ」
「そうだね。僕らにはやる事もないし、そうしよっか?…よくわかってるじゃんクリフポソポソ」
小声でぼそぼそ会話した二人は、そういうことで、じゃっ!とか言いながら右手をびしっと上げて、すたこらと部屋を出て行く。
「あぁっ!?ちょ、ちょっと待ちなよ!エターナルスフィア云々の話は私じゃ説明できないじゃないか!」
慌ててネルが、二人を止めようと声をかけて。
後ろからそれを阻むように手首を掴まれて、振り返る。
「…待てよ」
ネルの手首を掴んでいるのはアルベルで。
上目遣いに見上げられて、紅い射抜くような瞳に思わずどきりとする。
「…な、なに」
「俺、よくわからねぇが記憶喪失なんだろ?実際何も思いだせねぇし、ここがどこかもわかってねぇんだから…」
少し言いにくそうに、普段のアルベルらしくなくどこかもごもごとした口調でそう言われて。
ネルは何度か目を瞬いて、きょとんとアルベルを見返す。
「…だから、…」
言うのを迷っているような、そんなアルベルの困った表情を見るのは珍しくて。
ネルは動きを止めたまま、アルベルが口を開くのを待っていた。



「…一人にすんじゃねぇよ……」





「え…」
まるで、置いていかれるのを嫌がる子供のような。
そんな寂しそうなアルベルの表情を垣間見たような気がして。
ネルは思わず固まって、アルベルを凝視する。
アルベルは心持ち拗ねたように、
「…さっきの青髪と金髪が、お前に説明任せたじゃねぇか。お前までいなくなったら俺は俺自身の状況をどうやって理解しろってんだ?」
まくしたてるように言った。
だが、その口調がどことなく寂しそうで。
「…どうしたんだい?あんたらしくないよ」
思わず呟いたネルの台詞に、アルベルは顔を歪めて苦々しげに口を開く。
「……俺らしいって何だよ、覚えてねぇよ…」
「あ…そ、そっか…」
寂しそうな、いつもとは本当に打って変わっているアルベルの様子に、ネルまで困り顔になって。
自然と気遣わしげな表情になるネルを見て、アルベルは口を開く。
「…まぁ俺はお前とどんな間柄だったかも覚えてねぇし、わからねぇが。お前が俺を毛嫌いしてたとか顔見るのも嫌っつぅんなら、しょうがねぇだろうがな。大人しくしてる」
「あ、ううん、そんなことはないよ」
慌ててネルが否定する。
いつもよりも素直で、お得意の毒舌も発揮されていないアルベルに少し違和感を覚えながらもネルは答えた。
「…わかったよ。説明するし、ここにいる」
「ならいい」
安心したように、握られていた手首が解放されて。
先程不安そうな面持ちだったアルベルに、まるですがりつくようにぎゅうぅと握られていた手首を一瞬見て。
ネルは苦笑してベッドに腰掛けて、説明を始めた。



「あんたの名前はアルベル。アルベル・ノックスっていって、アーリグリフっていう国の重役やってる」
「…んじゃ、ここはアーリグリフっつぅ国なのか」
「ううん。ここはアーリグリフの隣国のシーハーツっていう国の中にある、ペターニっていう町。の、私達がいつも利用してる宿屋の一室だよ。…見覚えは、ないかい?」
確認するようにつぶやいて、ネルがアルベルの顔を見る。
アルベルは説明をしていたネルから視線を外して、部屋の中を見回す。
ゆっくりと首を左から右に回して、部屋を見回したアルベルはやがて首を横に振った。
「あぁ。…覚えがない」
「そっか…」
残念そうにネルが言って、また説明を続ける。
「ちなみにあんたは私達との旅の途中で魔物との戦闘中に頭を打って倒れて、ここに運び込まれたんだ」
ネルは、多少髪で隠れているが、包帯で巻かれているアルベルの頭を指差した。
アルベルが頭に手をやって、包帯を確認する。
…どういう経緯で頭を打ったかは、ネルは言わないでおいた。
「…戦闘?俺は何かと戦ってる最中にこうなったのか」
「あぁ。…あ、そうだ、あんたの得物は刀って言う武器なんだけど、覚えてないかな」
アルベルは首を横に振って、ネルはやっぱりねぇ、とつぶやきながら続ける。
「じゃあ、持ってきてあげるから握ってみなよ。感触に覚えがあるかもしれない」
言うが早いが、ネルは部屋の隅に固められていた荷物から、クリムゾンヘイトを取ってきた。
はい、と手渡されて、アルベルは躊躇いがちに受け取る。
鞘からすらり、と抜いた瞬間、アルベルの表情に変化があった。
「…なんか…」
「え?」
「馴染みのある感じがする」
「それはそうだよ。あんたが愛用してた武器なんだから」
記憶にはなくても、体は覚えているようで。
完全に忘れているわけではないと知って、ネルが緩く微笑んだ。
アルベルはクリムゾンヘイトを握ったまま、いろいろな角度から見たり、峰に手を当てたりしている。
「ところで」
クリムゾンヘイトを鞘に戻して、ベッドの脇にとりあえず置いて。
アルベルがネルを見た。
「ん?」
「お前は誰だ?」
「、………」
問われて、ネルの息が詰まった。
アルベルはその様子を見て、まずいことを訊いてしまったかと少し焦る。顔には出なかったが。
「…さっきの会話で、俺の仲間?の奴らの名前はなんとなく分かったんだが。…お前の名前だけ会話に上らなかっただろ」
「…そうだったっけ?」
「頭打って目覚めた直後の記憶だからそうアテにはならんがな」
「じゃあ、青い髪の、線の細そうな男の子の名前は?」
「フェイト」
「茶髪の可愛らしい顔立ちの女の子は?」
「…ソフィア」
「じゃあフェイトとよく似た顔立ちの、青髪の女の子は?」
「…マリア?いや、アリアか?」
「マリアで合ってるよ。金髪で体格のいい男の人は?」
「ク、リフ…?」
ネルは質問をしながら、感心したように驚いたように意外そうな顔をした。
頭を打った直後でふらふらしていた時の記憶にしては、間違いがなく正確だ。
「…あんたさ、本当に覚えてないの?」
「あぁ。…悪いが覚えてない」
自分が悪いわけでもないのに素直に謝ったアルベルに、少し違和感を感じながら。
ネルは目を伏せる。
「…じゃあ……」
ネルがどこか寂しそうな顔のまま、口を開きかけて、



こん、こん



唐突に部屋のドアがノックされた。



「どうぞ?」
ネルが答えて、ドアがきぃぃと軽く軋みながら開いた。
「失礼しまーす」
「しまーす」
まず入ってきたのはソフィアで、続いてソフィアの真似をしながら入ってきたのはフェイト。
その二人の後ろには、マリアと何冊か本を抱えているクリフ。
「どうしたんだい、皆揃って」
「あぁ、私とソフィアが一緒に来たら、途中で二人に会ってね」
「そこで合流したんです。どうせ行き先は一緒だろうって」
「そっか」
「で、ですね。ブレアさんにお話してきたんですけど…」
「どうだったんだい?」
「それが…記憶に関することは日々変わっていくから、あちらでもそう簡単にはいじれないらしいんです」
「よく考えてみれば、それもそうだよね。もし簡単にいじれるものだったら、ルシファーは僕達の記憶を操作してFD世界の事を完全に記憶から抹消することだってできたんだし。そっちの方がウィルス駆除だーとかってプログラム作るより手っ取り早いだろうしね」
「そうならなかったってことは、スフィア社でもそう簡単にはいかない範疇だってことよね」
「一応、なんとかできるかもしれないから、調べてみる、とは仰ってたんですけど…」
「そう…それじゃ仕方ないね」
残念そうにネルが呟いて。
ソフィアは申し訳なさそうにアルベルに向き直ってぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、お役に立てなくて」
「…。よくはわからねぇが、お前のせいじゃねぇだろ。気にするな」
「………」
ソフィアは顔を上げてから、意外そうにその大きい目を見開いた。
「…なんか、アルベルさんじゃないみたい…」
「あ?」
「え、だっていつもはそんな事言わないじゃないですかぁ…って、"いつも"の状態じゃないんですっけ…」
困ったように言うソフィアを、アルベルがじろりと見て。
「…なぁ、以前の俺ってどんな奴だったんだ」
「えっ?」
驚いたようにソフィアが顔を上げる。
「…さっきもこの赤毛の女に言われたんだよな、今の態度が俺らしくねぇって。…なら、以前の俺はどんな奴だったのか、気になってな」
そう告げたアルベルに、黙り込んでいた皆が次々に口を開いた。
「んーと、そうだな、態度悪い」
「目つきも悪かったよね」
「服のセンスも悪かったわ」
「口も悪かったな。つか、毒舌入ってた」
訊いたアルベルは思わずうっと口ごもる。
「あとはー、短気?」
「意地っ張りでしたね」
「とんでもない負けず嫌いだったわ」
「偉そうでもあったな。自信家だったし」
「………。俺、んなに嫌な奴だったのか?」
さりげなくへこんでいるアルベルを見て。
慌てたように四人がフォローにまわる。
「…あっでも、白黒はっきりついてるさばさばした性格だったよ」
「あと、結構努力家だったよね?」
「正論をはっきり言える人だったわよ。その点ではちょっと尊敬してたくらいだし」
「戦闘能力もなかなかだったしな」
「…ふぅん……」
先に印象の悪い事を言われていたので、どこか不審そうに、怪訝そうな顔でアルベルが小さく呟く。
「まぁ…少なくとも、悪い印象だって事を言われて、へこむような奴じゃなかったってことは確かだね」
今まで黙っていたネルが言って、他の四人が同意するようにうんうんと頷く。
「ところで、さっきディプロに連絡してみたんだけど、今手が離せないらしくて…。脳波とかのスキャンは明日にならないと無理みたい…」
「でぃぷろ?」
「あぁ、ごめん。まだ説明してなかったね。ディプロっていうのはこの子達が乗ってきた空飛ぶ船のことだよ」
「…よくわからねぇが…まぁ、俺なら大丈夫だろ。話せるし動けるし。心配すんな」
しゅんとしていたマリアをフォローするように言ったアルベルを見て、
「………。やっぱり性格変わったわね…」
口元に指を当てながら、何故か感慨深げにマリアがつぶやく。
「でもさ、良い感じに変わってるよね。毒吐かないし、あの口癖もないし」
何気なく言ったフェイトに、ソフィアがうんうん、と頷きながら口を開く。
「いっそのことこのままの性格で記憶が戻れば、優しい好青年☆っぽくっていいんじゃない?」
「前に比べたら確かに性格良くなってるしな」
「周りが混乱しそうだけどね」
ソフィアに続いて同意したクリフとマリアの台詞に、複雑そうな顔をしながらネルが話を変えるように呟いた。
「………。ところで話は変わるんだけど、クリフの抱えてる本はどうしたんだい?」
「あ?あぁ、これか」
問われたクリフは、抱えていた本を思い出したようにベッドのサイドボードに置いた。
「結局お役に立てませんでしたから、記憶を取り戻すために役立ちそうな医学書とか脳に関する本とかをマリアさんに頼んでディプロから送ってもらったんです」
「彼にも読めるように、ちゃんとエリクール語の本をレプリケーターで作って、ね。それを、ちょうどいたクリフに持ってもらったのよ」
「ふぅん…」
「アルベルさん、暇だったら読んでみてくださいね。…まさか、字も読めなくなった、なんてことはないですよね」
アルベルは一瞬黙り込んで、置かれた本の一冊を無言で手に取った。
表紙を眺めて、
「…"脳の構造 "……」
表紙に書かれているタイトルをきちんと読み上げたアルベルを見て、周りからほっとため息が漏れた。
「あ、大丈夫だね。良かった」
「だがなぁ、こいつ活字慣れしてなさそうじゃなかったか?本読んでるうちに寝るタイプに見えたが」
クリフがからかうように言って、
「そうでもないよ。こいつは意外に本読むと周りが見えなくなるほどのめりこむタイプだから」
ネルがそうやんわりと否定した。
「へぇ、そうなんですか…」
「確かに意外ね」
「アルベルって勉強嫌いそうなタイプに見えるもんねー」
その場がちょっと和んで、会話が途切れた頃。
「そういえばですね、さっきコミュニケーター使ってちらっとその記憶に関する本読んだんですけど、記憶喪失や記憶障害は、普段その人がやってることをさせてあげると体が思い出してそれがきっかけになって思い出す事があるそうですよ?」
「あぁ…、でもさっき刀を握らせてみたんだけど、思い出してないみたいだったよ」
「そうですか…あと、これはさっき話題に出ましたけど、何かそれなりのショックを与えるとか」
「ならやっぱり僕が鉄パ」
「却下」
またもやソフィアにすばっと切り捨てられて、フェイトがつまらなさそうにちぇ、と舌打ちする。
「じゃあ、ブレアさんから何か連絡があるかもしれないので私はこの辺で。安静にしてくださいね?」
「私はもう少し情報を送ってもらえるようにディプロに手配しておくわ。さっきは取り急ぎで数冊しか持ってこれなかったから」
そう言って二人が退室して。
「…いつもやってる事、と、何かそれなりのショック、か…」
フェイトがつぶやいて、そして何かを思いついたように目を軽く見開く。
「どした?」
「あのさ、それならいつもネ…」
「待った!」
ネルさんが、と続けようとしたフェイトのセリフを遮るように、ネルが声をあげる。
「…あ、ご、ごめん」
思わず大声をあげてしまったことを詫びて、ネルは気まずそうな顔をする。
「…どうした?」
見ていたクリフも、ベッドに座っているアルベルも不思議そうにネルを見ている。
ネルは少し気まずそうに、フェイトとクリフだけに聞こえる程の小声でつぶやく。
「あの…。…あいつの前で、私の名前を呼んでほしくないんだ」
「へ?」
きょとん、とする二人に、ネルは少し言いにくそうに続ける。
「…自分で思い出してほしいんだ、私の名前。変な意地張ってることはわかるんだけど…。忘れられたことがちょっと悔しくて、ね」
もごもご言うネルに、フェイトがにこにこと笑って。
「…はい、わかりました。…じゃあ、これからアルベルの記憶が戻るまで姐さんとでも呼びましょうかね?これならさっき、"ネ"まで言っちゃった事のフォローもききますしー」
「…ははは」
「あ、"ねえさん"より"あねさん"の方がいいかなぁ」
「…いや、もうどっちでもいいよ…」
「じゃあ"あねさん"で」
どこか楽しんでいる風なフェイトを見て、クリフが少々げんなりしながら口を開いた。
「…つか、名前呼ばなきゃいいんだろ…」
「呼ばなきゃいけないときだってあるだろ?」
「…すまないね。面倒なことさせて」
申し訳なさそうに目を伏せるネルに、フェイトがにこりと笑って答える。
「いえ、いいんですよ。…実言うと、僕もちょっと悔しかったですから。頭打ったくらいで忘れちゃうくらい、僕らの存在ってどうでもよかったのかなぁって」
悔しそうに苦笑したフェイトを見て、ネルもつられたように少し表情を暗くさせた。
「フェイト…」
「…ま、事故ですし、アルベルがそうしたくてそうなったわけじゃないですし。誰も責められないってことは、わかってるんですけどね」
そう言って、フェイトが部屋の扉に向かう。
「じゃ、いい加減アルベルもぼそぼそ内緒話してるのに不審がってるだろうから、僕らもこの辺で。…死なない程度に"いつもみたいに"、"ショック与えて"、思い出させてあげてくださいね?姐さん」
「…あぁ、朝たまに、どうしても起きねぇアルベルを起こす時とかにしてたあれか…まっ、宿屋が壊れない程度にな」
んじゃなーとか早く思い出しなよーとか言いながら、二人が出て行く。
…今から起こるかもしれない"死ななくて宿屋が壊れない程度"の何かに巻き込まれないように出て行ったのかもしれないが、定かではない。





「何、人の目の前でぼそぼそ話してたんだ」
フェイトの言ったとおり、不審そうにアルベルが問いかけてきた。
「あぁ、ちょっとね」
ネルがつぶやいて、アルベルが反応する。
「…そういえば、さっき会話の最後の方でどうしても起きねぇとか聞こえたんだが…俺は寝起きが悪かったのか?」
「あぁ。呼んでも怒鳴っても揺さぶっても起きなかったよ」
困ったもんだよね、と笑うネルに、アルベルがすまなさそうに呟く。
「そうか。面倒かけたな」
「………」
ネルが黙り込んで、アルベルが不思議そうに彼女を見る。
「なんだ」
「…いや…。本当に、性格も変わったなって思ってね」
「………」
それを聞いて、今度はアルベルが押し黙って。
「…なぁ、お前から見た俺って、どんな奴だったんだ?」
「えっ?」
「さっき、お前だけは俺の読書の時の癖?とやらを知ってるような口ぶりだったからな」
「………」
「それに、…さっき、俺がお前呼び止めた時―――」



理由はわからないけど。
一緒にいてほしいと、そう強く思った。



という言葉を。
アルベルは口にしなかった。





「…なんだい?」
「…いや…なんでもねぇ」
そう言って目をそらすアルベルを見て。
ネルは腕を組んで、少し何かを考えて。
「…そうだねぇ…私から見たあんたは、」
くす、とネルが笑う。





「短気で、素直じゃなくて、意地っ張りで、偉そうで、負けず嫌いで」
「………そーかよ」
「気まぐれで、天然確信犯で、寝起き最悪で、無鉄砲で」
「………」
「そして、」



「誰よりも、…強くて脆くて、優しい」
「………」





「そんな奴だったよ?あんたは」
「………」
ネルは、じっと見つめてくる紅の瞳を見る。
「…皆も、あれだけ好き放題に言ってたけど。それだけあんたを見てるってことだよ。だってどうでもいいような嫌われ者だったら、そこまで性格を把握することなんてできないだろう?このままのほうがいいかもしれないなんて、皆言ってたけど…。あんたに元に戻ってほしいって、そう思ってると思う」
静かに続けるネルを、アルベルがゆっくりと瞬きながら見ている。
「それにね…他の皆があんたをどう言おうと、私は、あんたがどんな奴かって、ちゃんと知ってるから。あんたが忘れようと、他の誰が忘れようと、…私は、忘れないから」
ネルの穏やかな声を聞いて。
紅の瞳が、少し悲しそうに揺れた。





「…なぁ」
「なんだい?」
「さっき、朝どうしても起きない時、"いつもみたいに"、"ショック与えて"思い出させるとか言ってなかったか」
「え?…聞こえてたのかい?さっきの会話」
「そこだけ聞こえてたんだ。…フェイト、が妙に強調して言ってやがったからな」
「ふぅん…。まぁ、確かに。そんなようなこと言ったよ」
ネルが答えると、アルベルはネルの瞳を見上げながら口を開いた。
「それ、やってみろよ」
「は?」
「思い出すかもしれねぇだろ?…俺だって、周りが俺を覚えているのに俺は覚えていないのは、心苦しいというか癪だからな」
ぼやくアルベルに、ネルが困ったように笑って。
「そっか…」
「それに…」
アルベルがにやりと笑う。
「…それだけ俺の事を知ってるお前が誰で、俺の何なのかも、思い出したいしな」
「えっ」
目に見えて反応して、ついでに顔が赤くなったネルを見て、アルベルが不思議そうに問いかける。
「…何か変な事言ったか?」
「…う、ううん別に!、じゃ、じゃあ、目閉じて歯食いしばってじっとしてるんだよ」
「な、…そんな強力なのかよおい」
「さぁ?」
先程のわたわたした様子とまったく違う表情でにやりと笑うネルに、アルベルは一瞬顔を引きつらせて、やがて諦めたように目を閉じて軽く俯いた。
「じっと、してなよ?」
目を閉じたアルベルの耳に、ぱき、と指を鳴らす音が聞こえて。
「…あぁ」
これで思い出さなかったらどうしてくれようとか考えながら俯くアルベルの、





頬を包み込むように指が触れて。
引き上げるように俯いた顔が上に向けられる。
アルベルが不思議に思って目を開けようとした時、唇に柔らかいものがぶつかった。





「…!?」
相当に驚いて、アルベルが眼を見開いた。
目の前には、目を閉じたネルの整った顔。
その目がぱちりと開かれ、顔が離れた。
「…私、は」





「そんなあんたのことが好きだよ」








「不意打ち食らって驚いてるみたいだけど、私は嘘は言ってないよ?言っただろう?"いつもみたいにショック与えて"って。朝、どうしても起きないあんたを起こすときも、こうしたことあったもの。もちろん殴ったこともあったけどね」
ぽかんとしているアルベルに向かって、ネルは悪戯っぽく微笑む。
「…私が、あんたの何なのか、わかったかい?少しは何か思い出した?」
「………」
呆気にとられていたアルベルは、へらりと笑って。





「…あぁ、十分思い出した」
「えっ」
「ネル」





「………、…あ……」
思わず目を見開いて、アルベルを凝視するネルを。
手を伸ばして引き寄せて、アルベルはにやりと笑う。
ネルがえ、と思う間もなく、唇にアルベルのそれが触れた。



「俺に不意打ち仕掛けるなんて十年早ぇんだよ、阿呆」



記憶を失ってから、ずっと聞こえる事のなかった彼の口癖が。
彼の口から紡がれた。





「思い出したんだ…」
「あぁ」
「…て、ことは、ちょっと待って?記憶を失ってた間の事は…」
「覚えているが?」
「………え、」



と、いうことは。





"短気で、素直じゃなくて、意地っ張りで、偉そうで、負けず嫌いで"



"気まぐれで、天然確信犯で、寝起き最悪で、無鉄砲で"



"誰よりも、…強くて脆くて、優しい"



"…私、は"





"そんなあんたのことが好きだよ"





「…〜〜〜っ」
自分の言った言葉を思い出して。
ネルの顔が真っ赤に染まる。
それを面白そうにくく、と笑いながらアルベルが眺める。
「"普段そんな事言わない"、"素直じゃない"のは、お前のほうじゃねぇのか?」
「う、うるさいよ!」
「言ったじゃねぇか、"私はあんたのこと…」
「言うんじゃないよ恥ずかしい!」





そしてそして。
「元はといえば、あんたが記憶喪失になるから!」
「あぁ!?俺の所為じゃねぇだろ阿呆!」
「いいや、あんたの責任もあるね!ちょっと頭打ったくらいで忘れるなんて、脳細胞足りてないんじゃないかい!」
「なんだとてめぇ!」
あの出来事が嘘のように。
しっかりきっかりとアルベルの記憶は元通りになっていた。
「お、久しぶりの口ゲンカだね」
「やっぱりアルベルさんはああでないと!」
「ネルも元気になったし、メデタシメデタシ、だな」
「脳の方も異常ないみたいだし、すぐに解決して良かったわね」
周りの皆が、そんな二人を微笑ましそうに見ていた。



「ったく、もし次記憶喪失になったとしても、知らないからね!」
「ほぉ?」
口喧嘩の最中、アルベルがにやりと笑い。
他の仲間たちから見えない位置で一瞬だけ、かすめるようにネルの唇にキスをする。
「お前が思い出させてくれんだろ?こうやって」
くくくと笑うアルベルに、ネルの顔が真っ赤に染まる。
「…この馬鹿!」
ぼごっ!
そして容赦ないネルの鉄拳が飛んだ。





きっと。
もし彼がまた記憶喪失になったとしても。
きっと、大丈夫だろう。
彼女がいる限り。





「ってぇ…」
「自業自得だよ!」
「…あぁ?つか、お前誰」
「…はぁ!?」





…たぶん、きっと。