"今日も遅くなる。先帰っとけ" ―――ふぅ。 手に持った携帯電話の画面に表示された、簡潔な文章を見て。 ネルは思わずため息をついた。 少し、ほんの少しだけ寂しそうな表情で、 "そう、わかった。じゃ、先に帰るね" そう打ち込んで返信した。 画面に映し出される送信完了の文字を確認して、ぱちんと携帯を二つ折りに戻す。 制服のポケットへ携帯を入れ、鞄に机の中の教科書とノートを仕舞い、無言で席を立った。 (また一人、か) 心の中で呟いて教室の扉を開ける。 いつもと同じ教室の扉が、やけに今日は重く感じた。 恋文 「最近、元気ないのね」 クレアにそう言われたのは、アルベルと一緒に帰らなくなってちょうど一週間経った日の朝だった。 「え?」 クレアを見ると、心配そうな顔でこちらを見ている。 心配そうな表情のまま、クレアの口が開いた。 「あなた、この頃ため息ばっかりついてるわ」 「え、そうかな」 口ではそう言いつつも、心当たりは数え切れないほどあって。 クレアに心配かけるほどため息ばかりついてたのか、と自分の無意識の行動を少し恨んだ。 「…アルベル先輩と何かあったの?」 ぽつり、と親友の口から出てきた自分の恋人の名前に、一瞬表情が強張った。 クレアにばれていなきゃいいけど、と思いながらも目を逸らしたまま答える。 「…何かあったわけじゃないよ」 「嘘。じゃあどうしてそんなに元気ないのよ。私に隠し事はできないわよ?」 真っ直ぐに見据えてくるクレアの橙色の瞳にに、これは口を割らずに通すのは無理だと今までの経験から判断して。 「何もないから沈んでるんだよね…」 「え?…どういうこと」 眉をひそめて訝るクレアに、力なく本音を呟く。 「ここのところ一緒に帰ってない、それだけ」 "悪い。部活長引きそうだ" "待つ?何時に帰れるかわかんねぇんだ、どう時間潰すんだよ" "だから今日は、先に帰れ" そんなメールが来たのが一週間前。 今日も遅くなると言う内容のメールが来たのが、その翌日。 しばらく居残りが続くだろうから先に帰れというメールが来たのが、そのまた翌日。 次の日はメールすら来なかった。 それから"しばらく"が経ったのに、やっぱり送られてきたメールの内容は一週間前と同じ。 彼がいつも通りの時間に帰らなくなって、一週間。 彼と一緒に帰れなくなって、一週間。 彼と一緒に過ごす時間がほとんど失われて、一週間。 学年も所属する部活も委員会も何もかも違い、さらに教室の階も離れている二人だから。 二人の共有できる時間は、下校の時くらいで。 一週間といえば、両手の指で数えて収まる程度だけど。 片手の指では足りない日数。 ロクに会っていない日数としては、どうなんだろう。 長いのか短いのかは、色恋沙汰に疎い自分には判断がつかなかった。 「まぁ、そんなに大した事じゃないんだけどね」 クレアはそれを聞いて、一瞬肩を落として、 「それは十分大した事だと思うわよネル…」 そう呟くのが聞こえた。 その日も帰り道に響く足音は一人分で、夕日と反対方向に長く伸びる影も一人分だった。 最後に一緒に帰ったのは、いつだったっけ…。 あぁ、確か珍しく運動系の部活がすべてなかった日だ。 何十年かぶりに体育館や剣道場や弓道場の床の張替えがあるって、珍しくとても早い時刻に帰れた日。 青い空の下で、 「まだ、"昼"って呼べる時間帯に帰れるなんて思わなかったね」 「そうだな」 「いつも、夕方か夜に帰ってたから、空が青いうちに帰れるのがすごく不思議」 なんて会話を交わしたのをよく憶えている。 でもあの日以前も、彼と一緒に帰れない日が多かった。 高校での最高学年に進級する直前の冬、つまりは今の時期に彼は部長業を本格的に引き継いで。 口は悪いが統率力もリーダーシップもある、そんな彼もやはり忙しそうで。 一緒に帰れない日が続いた日々。 一週間連続で続いたのは初めてだったけど、一緒に帰れない日は何度かあった。 というか、頻繁にあった。 きっと今指折り数えても、両手じゃ足りないくらいに。 ふ、と自分の右側を見る。 鞄の取っ手を握っている自分の右手と、ゆらゆら揺れる鞄。 さらにその先を見やると、見慣れた通学路、毎日通っている道。 じっと見つめる先には、誰もいない。 自分の見つめる先に彼がいてくれればいいのに。 「―――私も女々しくなったもんだね」 そう、冗談めかしてぽつりと独り言を呟いて。 それきり口を開かずに、ぼんやりとしながら重い足取りで家へと向かった。 吐く息は白く、頬が赤く染まる。 寒々しい季節が、不安定になった心に拍車をかけたような気すらした。 不意につんと鼻の奥が痛くなって、目が熱くなった。 (…気の、せい) そう自分に言い聞かせて、一人夕暮れの道を歩いた。 次の日。 登校してから、どうにも喉が痛かった。 頭もぼんやりとする。 まずい…昨日ぼんやりしながらゆっくり歩いて帰って、風邪でもひいたかな。 ぼんやりする頭をすっきりさせようと、頭を二、三度横に振った。 クレアの姿が視界に入ったのは、その時だった。 「どうしたの?なんだかぼんやりしてるわ」 「え?」 「ネルらしくないわよ。…また昨日も一緒に帰れなかった?」 無言で苦笑して頷くと、クレアが顔をしかめるのがわかった。 「しょうがないさ。本格的に部長の仕事が始まって、大変なのはあいつなんだし」 「………」 「忙しいのを邪魔するのも嫌だし、重荷になるのもいやだし、ね。ま、別にちょっと一緒にいられなくなったくらい、なんでもないさ」 まるで自分に言いきせるように言うと、クレアがすっと顔を上げる。 「本当に?」 「え?」 「本当に、それはあなたの本心なの?」 「………」 言われて、心臓がどくん、と鳴った。 本心? そうだよ、本心だ。 あいつに迷惑かけたくない。 だから、一緒に帰れなかったり、二人でいられる時間が減るのも、しょうがないんだ。 しょうがないこと、だから。 だから―――… 「…本心、だよ」 「嘘よ」 呟いた小さな言葉は、あっさりとクレアに一蹴された。 「だったらどうして、そんなに辛そうな顔してるの?」 「………」 二の句が告げなかった。 一緒に帰れなくて。 一緒にいられなくて。 私のことはどうでもいいんじゃないか、とか。 会いに行きたい、とか。 でも会いに行って今日も帰れないと目の前で言われるのが嫌だ、とか。 そもそも会いに行くことが忙しい彼の迷惑になるんじゃないか、とか。 いろいろ考えていた。 不安で。 もどかしくて。 そんな自分が痛々しかった。 「―――寂しい?」 控えめにクレアの声が耳に届く。 ―――あぁ。 私は寂しかったのかな? 「…寂しくないって言ったら嘘になるけど…」 「だったら、」 「でも」 クレアの言葉を遮るように言う。 「あいつに迷惑かけたくない」 「え…」 「ただでさえ忙しくて大変なんだから、あいつに迷惑になるようなことなんかしたくない」 「………」 「会いに行くことが迷惑だなんて、彼思ってないと思うけどね…」 「あれだけ忙しいんだ、迷惑になるよ」 「そんなことないわ。絶対に」 クレアの微笑みは何故か妙に説得力があった。 予鈴が鳴って、またね、と言ってクレアは席へ戻っていった。 そこでその話は終わったのだけど。 私はずっと気になっていた。 それから一日、私はぼんやりとした頭で過ごした。 あぁ…なんだか何かを考えるたびに頭がずきずきする…。 その度に気のせいだと自分に言い聞かせていたのだけど。 「ネル、あなた顔赤いわよ…って、熱あるじゃない!もう、なんでこんなふらふらの状態で今まで授業受けてたのよ!ほら、先生には言っておくから保健室行きなさい!拒否権は無いからね」 六時限目が始まる前に、さすがにクレアにバレた。 有無を言わさず教室を追い出される。 というか、熱あったんだ、私。 ぼんやりする頭でそんなことを考えながら、大人しく保健室へ向かった。 しかし、昨日は寒かったとはいえ、風邪をひくなんて。 あいつが見たら、自己管理もできてないのかって笑うかな? でも、それはないね。あいつは今頃授業中で。 きっと今日も、部活で遅くなって一緒に帰れなくて会えないだろうから。 「…はぁ」 またため息をついてしまう。 重い気分で、重い足取りで。 授業中のために静かで人気の無い廊下を歩く。 さて、あの角を曲がって真っ直ぐ行けば保健室だ。 のろのろと歩いて角を曲がる。 「……ネル………?」 後ろから。 久しく聞いていない、低い声がした。 「え?」 思わず間の抜けた声を出しながら、振り返る。 そこには驚いたように私を見ている、右手に救急箱を持ったアルベルがいた。 「アルベル…先輩。どうしてここにいるんですか?」 思わず名前を呼び捨てしそうになって、ここが学校ということを思い出して慌てて先輩とつける。 本当に会うのが久しぶりな彼は不機嫌そうに半眼になって、 「…二人きりの時はその呼び方やめろっつっただろう」 「あ…はい」 二人きりとはいえ、ここは学校だし。ちょっと気が引けるんだけどな。 そんな私の心中を知るわけも無く、久々にあった彼はやはり不機嫌そうに、 「敬語もやめろ。他人行儀な気がして気に食わん」 「うん…」 とりあえずこくりと頷いた。 頷いてから、彼を見上げる。 紅い瞳とばちりと目が合った。 …一週間かそこら、会えなかった彼が目の前にいる。 それが嬉しくて無意識に微笑む。 会えたら言おうと思っていた言葉が、何も出てこなかった。 会えただけで十分だと思えた。 「なんだ」 「ううん、何でも」 …会えて、嬉しかったなんて。 悔しいから言ってやらないよ。 「そういえば、どうしてここにいるんだい?授業中だよ?」 今度はちゃんと普通の言葉で、先程の問いをもう一度言い直した。 「…六時限目の体育の自習、なんて真面目に授業やる奴いねぇよ、阿呆」 とどのつまり、サボリか。 思ったが口には出さずにおく。 まぁ、理由は違えど授業に出ていないのは私も同じだから、人のことは言えない。 「ふぅん…じゃあ、その手に持ってる救急箱は?」 よく見ると、"剣道部"と書かれているので、彼の部活の備品だろう。 でも体育をサボっている彼が、わざわざ部室に取りに行くのも不自然だ。 不思議に思って問いかけると、彼は何故かあさっての方向を向いて、 「…包帯と湿布が切れてたからな。サボリついでに保健室で補充しようと思って持ってきただけだ」 「ふぅん…」 そんなの、部活中に後輩にやらせればいいのに。 そう言おうとしたら、彼が先に口を開いた。 「お前は?何故ここにいる」 「私は…体調が悪そうだから保健室行きなさいってクレアに言われて」 「…体調悪そう?そういやお前顔赤いな」 彼が訝って、左手を私の方へ伸ばしてきた。 ひやり、とした彼の手が頬に触れて、気持ちよかった。 思わず右手を上げて彼の手に触れる。やはり冷たくて気持ちいい。 …ということは私は相当熱が上がっているのだろうか。 そんな事を思っていると、彼が元から不機嫌そうな顔をさらにしかめながら口を開いた。 「お前…体調悪そうなどころか熱高いじゃねぇか。ったく、こんな状態で授業受けてやがったのか?締め出されるわけだ」 呆れたような彼の声が聞こえた。 「クレアと同じこと言うんだね」 苦笑いをすると、彼は私の頬に置いた手を離して今度は私の手を掴む。 「ほら、ついでだ。保健室行くぞ。行ってとっとと寝とけ」 ぐいぐい引っ張られて、保健室へ二人で向かう。 …せめてここが、もう少し保健室から離れていれば一緒にいられる時間が長くなったのに。 そんな事を考えてしまったのはきっと熱の所為だ。 保健室には誰もいなかった。 保健室の奥の、ベッドのある休養室も誰もいない。 「…なんだ、養護教諭出払ってんのか?」 「あー…まぁしょうがないよ。名簿に名前書いて大人しく寝とけば楽になるだろうし」 言って、奥にある白いベッドに座る。 座ったことで、今まで歩いてきた疲れがどっとでてきた。 変だな、ちょっとしか歩いてないのに。 そんなことを思うと、椅子を引いて彼が私に向かい合うように座った。 紅い相貌と目が合って。 彼はしばらくそのまま微動だにせず、こちらを見てきた。 「…なに?」 ぼぉっとこちらを見てくる彼に首を傾げると、彼の手が伸びてきて、 「うわ!?」 瞬く間に引き寄せられた。 そのまま、彼の腕に絡めとられるように抱きしめられた。 あまりに急だったので、熱の所為ではない赤みが顔に集まってくる。 「ちょっ…アルベル?」 「………」 当の本人は無言のままで、声をかけても反応しない。 「ねぇ、一応授業中っていっても誰が入ってくるか分からないじゃないか。それに風邪うつったら大変だろ」 「…いーからじっとしとけよ」 「…どうしたのさ」 「…久しぶりだからな」 「え?」 彼は小さくため息をついて。 「部活長いし」 「…え」 「帰るの遅くなるし」 「…」 「お前に毎日先帰れって打ちたくもねぇメール打たなきゃならんし」 「…」 「何より一人で帰らなきゃなんねぇし」 「…」 「いろんな意味で疲れたからしばらくこうさせろ」 言って、彼の腕に力が入った。 嬉しいけど、苦しいんですけど…。 「苦しい、よ」 「………」 少しだけ、力が弱まる。 それきり彼は押し黙って、声をかけても何も言わなかった。 しばらく―――正確には、時計の長針が次の数字に進むくらいの時間が経って。 「…おし」 彼が唐突に呟いた。 「なんだい?」 「充填完了」 「はぁ?」 「なんでもねぇ」 そう言って彼は離れた。 ベッドに座ったままの私の肩を軽く押してくる。…あぁ、寝ろって事? 大人しく横たわり、布団をかぶる。 「…お前が風邪ひいてなきゃ押し倒したんだがな」 「バカな事言うんじゃないよ!」 「結構本気だが」 「………」 体が楽になったら一発殴っておこう、と、とんでもないことをしれっと言う彼を見ながら思う。 「…でも、私はある意味風邪ひいてよかったなって思うよ」 「あァ?」 何言ってやがる、とでも言いたげな目で見られるが、構わずにこりと笑った。 「だって風邪ひいて保健室行ってなきゃ、あんたに会えなかったもん」 「…私だって、」 「………」 「…あんたと一緒にいられないの、つまらなかったから」 そう呟くと。 彼はベッドに腰掛けてこちらを見下ろして、私の頭をぽんぽんと撫でた。 「…今日は、」 「え?」 「今日は、待ってろ」 今日は…って、放課後の事? あれ、部活休みの日…じゃないよね。 「…今日も普通に部活あるだろ?」 「あぁ」 「…ま、さか、私が風邪ひいてるから抜け出してサボる、なんて言わないよね」 「んなことするか。…つか、んなことしたらお前が逆に戻れって怒るだろう」 「じゃあ、なんで…」 そう呟くと、彼はにやりと笑って。 「今日は部活が早く終わる気がするからな」 「…根拠は?」 「さぁな。勘」 勘? そんなの、休日ですら完全オフの日がほとんどないような忙しい時期に。 貴重な平日部活が早めに終わるなんて、有り得ない気がするんですけど。 「いいから。…待ってろ」 「…うん」 その根拠の無いセリフを。 何故か無条件に信じてしまうのは。 きっと、私がこいつに惚れているから。 「ねぇ」 「あ?」 「…待ってるから」 「…あぁ」 「…もう寝ろ。寝て休んで早く治せ」 言いながら、彼の大きな手が髪を撫でる。 「うん」 言われるがままに目を閉じた。 彼はしばらく、私の髪を撫でてくれていた。 やがて手が離れ、彼が立ち上がる音がする。 彼が休養室を出て保健室へ歩く足音と、保健室の棚を漁る音が聞こえた。 …あぁ、忘れてたけど、あいつの当初の目的は救急箱の中身の補充だったっけ。 そんなことを思いながら、とろとろと眠りに着いた。 しばらくして、私は自然に目を覚ました。 どれくらい寝ていたのかわからなくて、時計を見ようとむくりと起き上がる。 ガラガラッ 「あ、ネル。良かった、もう起きられるようになったのね」 休養室の扉が開いて、入ってきたのはクレアだった。 クレアは既に部活のパーカーを着ていて、もう部活が始まっている時間なのか、と少し驚いた。 「あ、クレア」 よく見るとクレアの手には私の荷物があって。 わざわざ持って来てくれた事に気づいて申し訳なくなった。 「ごめん、荷物…」 「あぁ、いいのよ。それより、顧問の先生や部長には言っておいたから、今日はもう帰りなさい」 「え…う、うん」 クレアは私の荷物を近くの机に置いて、先程まで彼が座っていた椅子に腰掛けてこちらを見た。 「そうそう。良かったわね、ネル」 急にクレアがにこにこと笑顔になり、私は不思議そうに首を傾ぐ。 「何が?」 「アルベル先輩のことよ」 え? 彼がさっきまでここにいたことは誰も知らないはずなのに。 そう不思議に思っていると、クレアは私の予想外のことを口にした。 「今日、剣道部休みになったんですって。一週間ぶりにアルベル先輩と一緒に帰れるわね、ネル」 「………はぁッ?」 目を思い切り見開いて、我ながらひっくり返った声を上げる。 ま、さか。あいつが部長の権力行使して強制的に休みに…。 いや、顧問のウォルター先生がそんなこと許すはずが無い。 でも、剣道部が休みになるなんて滅多に無いことで。 混乱した頭でそんなことを考えていると、クレアがそれを察したのか口を開く。 「なんだか、部活開始直後にウォルター先生が急にぎっくり腰になったそうよ」 「えぇっ?」 「それで、最初は湿布でも貼っておけば大丈夫だって仰ってたらしいんだけど、あいにく剣道部の救急箱の湿布が切れてたらしくてね」 「―――え」 どうして? さっき、部長である彼が。 直々に補充していた、はずなのに。 「それで保健室に来たら、養護教諭の先生が病院に行ったほうが良いって仰ったらしくて。ほら、顧問の許可と監督がないと、剣道場使えないでしょ?剣道は意外に怪我の多い部活だし、なにかあったら困るからって」 「………」 「気づかなかった?ついさっきまでウォルター先生が隣の保健室にいらしたそうなんだけど」 「…」 全然全く気づかなかった。 …ということは、相当深く眠っていたのだろう。我ながら珍しく。 「で、ウォルター先生が今日は休みだ、って決めたそうよ。まぁ、この頃休みが無かったからって部員達は喜んでたみたいだけど。…ネル?」 途中から黙りこくった私を不思議に思ったのか、クレアが私の顔を覗き込んできた。 「大丈夫?まだ頭がくらくらするの?」 「あ、いいや、大丈夫だよ」 そう答えながら、私は多少混乱した頭で事の次第を考えた。 さっき、彼は救急箱を持っていて。 私が目を閉じた後、確か保健室の棚から補給らしきことをしていたはずだ。 でも、私は実際に補充するところは見ていない。 さらに、補充したはずの救急箱から、普通ならあるはずの湿布が切れていたらしい。 まるで、あいつがわざと補充しなかったみたいに。 むしろ―――故意に、抜き取ったみたいに。 ということは。 ―――と、いうことは? 「あいつ…」 「え?」 まさか。 剣道部が今日休みになった、本当の原因は。 「…なんでも、ないよ」 「そう?あ、それとさっき部活が休みだって聞いて教室に向かってたアルベル先輩とすれ違った時、ネルは休養室にいますよって伝えておいたから、きっと今頃ここに向かってるわ」 「…そ、そう」 彼は私の居場所を知っているだろうけど。 クレアがそれを知る由もない事だろうから、言わずにおく。 「じゃあね、ネル。お大事にね」 「うん。ありがとう」 手を振って、クレアが休養室を出る。 それから程なくして、制服に着替えて荷物を手にした彼が来て。 本当に久しぶりに、二人で帰路に着いた。 その日の帰り道に響く足音は二人分で、夕日と反対方向に長く伸びる影も当然二人分だった。 ふ、と自分の右側を見る。 鞄の取っ手を握っている自分の右手と、ゆらゆら揺れる鞄。 さらにその先を見やると、見慣れた通学路、毎日通っている道。 そこを歩いているのは、コートを着込んで鞄を手に持ち、歩くたびにゆらゆらと揺れる妙な髪の彼。 彼の横顔を何と無しに見つめていると、彼がこちらを向いた。 「なんだ?」 「ううん、なんでも」 「…?そうか」 「うん」 そんな何気ない会話が妙に嬉しい。 一週間と二日は、意外と短いようで長かった。 「ねぇ」 「あ?」 「さっき、さ。救急箱、補充してたよね?」 「…あぁ」 「でも、クレアから聞いた話によると、剣道部の救急箱、湿布が切れてたんだって」 「…」 「………どうして?」 見上げながら問いかける。 歩きながら、彼はバツの悪そうにそっぽを向いた。 「…嘘、ついたんだね」 「………」 「沈黙はいつも通り肯定と見なすよ」 そう言っても反応がないということは。 やっぱりそうだ。 彼は嘘をついた。 「まったく、バカだね。そんな嘘ついてまで部活休みにするなんて」 「…いんだよ。ウォルターのジジイは腰痛めてんのに無理して部活やろうとするし…今までだって湿布があるからって保健室も病院もロクに行かなかったんだ。いい機会だろ」 「…でも、忙しい時期なんだろ?」 「阿呆。大会中に腰痛めて病院送りになるよりはマシだろ。…あぁでもしねぇと病院にすらいかねぇからな、あの頑固ジジイ。それに根詰めすぎて体調崩しても困るしな。たまには休みも必要だろ、部員の奴らも喜んでたしな」 「…まったく」 だからってこんな方法取るなんて、バカなんだから。 そう続けようとした私の耳に、 「…俺だってお前といられねぇのはつまらねぇんだよ阿呆」 小さく呟いた彼の言葉が聞こえた。 「…え?今なんて…」 「知らん」 「…」 …なら、彼は。 私のために嘘をついたの? 私と一緒にいたい、って、そのために? 「…バカ」 「はいはい」 会えなかった、少しの間に。 彼はどこか変わった。 前は、こんな強引な嘘をついてまで私との時間を作ってくれるなんてこと、なかったのに。 「あんた、変わったね」 「は?どこが」 「いろいろと、だよ」 そう思うと。 この一週間ちょっとは無駄ではなかったのかもしれない。 「ねぇ。明日はきっと一緒には帰れないね」 「…そうだろうな」 「…でも、さ。たまには一緒に帰ろう」 「………」 「待ってるから」 「…あぁ」 毎日じゃなくても。 たまに、でいいから。 自分の見つめる先に。 これからもずっと彼がいてほしい。 |