六日目、つまり彼女の帰宅予定日の前日。 「明日もバイト入ってたか」 書類から目を上げもせずに尋ねられ、一瞬問いかけられているのが自分と気づけなかったフェイトは、そういえば今この執務室には彼と自分しかいないのだと気づいて慌てて答える。 「え? うん、ここんとこと同じで午前から」 「そうか」 なんだただの確認かよ、なら自分でシフト表見ろよなとフェイトが内心毒づくが、それを文句として口に出す前に彼が口を開いた。 「明日は来なくていいぞ」 「え?」 「緊急に大量の書類が舞いこんで来ない限り、恐らく今日中に片がつく」 さらりと、やはり書類から目を離さないままに彼が告げた。 そのあまりのいつも通りの口ぶりに、フェイトが一瞬混乱して口を開く。 「は? え、それって明日の分の書類も今日中に終わる、ってこと?」 「そうだが」 やはり当然そうに返される。 驚いている自分の方がおかしな反応をしているのではないかとフェイトが一瞬疑う程、至極当たり前そうに。 確かにここ数日の彼の書類処理のペースは速かった。いつもよりも猛烈に速かった。 だが彼女のいない分、二倍に増えている彼の仕事量は半端になく多かったはず。 なのに予定よりも一日早く終わるだって? フェイトがその疑問を口にしようとした瞬間、執務室のドアが開いてソフィアが中に入ってきた。 「アルベルさん、今日はあとこれだけみたいです」 両手に抱えて持ってきたのは三束の書類。 それらを執務机の空いている場所に置いてふとソフィアが視線を上げると、どこかぽかんとしているフェイトの顔が目に入った。 「フェイト?」 「…ん、ああ。ごめん、何?」 「何…って、フェイトがなんだかぼーっとしてたから」 どうしたのかなって思って、そう続けるソフィアに、フェイトは苦笑いともとれる微妙な表情をしながら、一言。 「…明日、僕らバイト休んでいいってさ」 「へ?」 「明日の分も今日中に終わりそうだからって」 「………」 ソフィアもぽかんとなって、目を見開いた。 「…アルベルさん、熱でもあるんじゃないですか?」 「あぁ?」 さすがに今回は彼も書類から視線を上げる。 ぎろりと結構に鋭い視線を向けられるが、ソフィアはまったく気にせず続ける。 「だって、ただでさえネルさんがいない分書類の量増えてて、さらに最低限の家事もアルベルさんちゃんとこなしてるんでしょう? 布団叩きどこいったか探すアルベルさん見られるなんて思いませんでしたよ…って話逸らしちゃった、とにかく、その真面目君っぷりはどうしちゃったんですか?」 「………」 「そうそう、いつものアルベルからじゃ考えられないよね。ネルさんがいないと生活も書類処理もままならないって思ってたのにさ、なかなかどうしてちゃんとできるんじゃん」 「………」 「ネルさんが一週間もいなくなるって聞いて、アルベルさんヘコんで仕事も手につかなくなるかと思って書類処理終わらないの覚悟してたのに、びっくりですよー」 「うんうん、魂抜けたみたいに死にそうになってるんじゃないかと思った。だって前ケンカして三日間まともに喋れなかった時だってアルベル死にそうになってたしさー」 「だよねー、じゃあやっぱりこんなしゃかりきに頑張ってるのはネルさんがいなくてつまらないのを紛らわす為なのかな?」 「あー、あとネルさんが帰ってきた後のこと考えるとサボったりできないんじゃない? なぁそこんとこどうなんだよアルベル?」 どんどん目の前で進んでいく会話を急に振られて、彼は小さくため息をついて口を開く。 「…まぁな」 「あ、やっぱり? そうだよねー、ネルさんが帰ってきたとき書類がたんまりあったらどうなるかなんてわかりきってるもんね」 けけ、と笑いながらフェイトがからかうように言って。 彼はまた小さくため息をついて、また書類に目を落としながら呟く。 「わかってるっつの…生真面目で自分省みねぇあいつのことだ、どーせ人一倍の魔物倒してその上疲れた素振り見せようとせずに帰ってくるのなんざわかりきってる」 「…」 その台詞に、フェイトとソフィアが同時に目を見張ったのに彼は気づかない。 「んな状態で仕事残したらあいつがまた無茶するって言いたいんだろ? だから明日の分まで今日終わらせようとしてんじゃねぇか、お前らに言われなくてもそうするっつの」 言って、彼は会話しながら目を通し終えていた書類を一枚めくって。 無言のままの二人に気づいて顔を上げる。 どこかぽかんとした、二人の視線と目が合った。 「…なんだよ」 「…いや…。だってさ」 「言いたい事があるんなら早く言え」 促され、フェイトはぽかんとしながらもどこか苦笑しながら、口を開く。 「アルベルってさ…」 「あ?」 「本っ当に、ネルさんの事大切なんだねぇ」 「…」 「だよね、だってそこまでしゃかりきに仕事終わらせようとするなんて、ね」 「…お前らだってあいつが帰ってきたとき書類が溜まってたらどうなるかわかりきってる、とか言ってただろうが?」 怪訝そうな顔をする彼に、フェイトはにっこり、とどこか含んだ笑みを浮かべて、一言。 「だって僕、ネルさんが帰ってきた後書類溜め込んでたら、怒られてまた口聞いて貰えなくなる事なんてわかりきってるよね、って言おうとしたんだけど?」 「…あ?」 「だから、アルベルが渋々ながらもそこまで頑張ってるのは、ネルさんに怒られるのが嫌なんだろうなって思ってたんだよ」 「………」 「だけど、お前ネルさんの体調とかの事第一に考えてたんだろ? だから驚いた」 「………」 「…優しくなったねぇ、アルベル」 くす、と笑ったフェイトと、つられるように微笑んだソフィアの笑顔が。 いつものようなからかいを含んだものではなくて。 「…ふん」 悪態をつく気にもなれずそう返し、照れ隠しなのか視線も逸らす彼を見て。 フェイトとソフィアがまた笑った。 「明日、ネルさんびっくりするだろうなー。いつになく書類処理頑張ったもんね、アルベル」 「だよねー、しかもそれがネルさんの為、なんだもんね。ネルさん喜ぶだろうなぁ」 「僕ら明日バイトなくて正解だったかもな、だって一週間会えなかった分いちゃこらしちゃうんだろうし?」 「うんうん、前アルベルさんが出張でいなかった時も、ネルさんお帰りなさいのちゅーとかしてくれてたみたいだし?」 「それにアルベルもお返しでただいまのちゅーとかしちゃってたんだろうし?」 「…おい、何でんなこと知ってんだ」 「えっうわ本当に? カマかけただけなのに」 「うわー、本当だったんだ! いやーんネルさんってばかーわいーv アルベルさんもだいたーんv」 「………」 「ちょっと待った抜刀はやめろって」 「きゃーアルベルさんが怒ったー!」 彼女が帰ってくる前日は、思いの他賑やかに終わった。 七日目。つまり、彼女の帰宅予定日。 「仕事も無いしお前も真面目に起きてるみたいだし、さすがに襲撃しないでおいてあげるよ」 とフェイトが決めた故に静かな朝だったのだが。 「………」 彼はきっかり八時に目を覚ましていた。 ここの所、昨日までに書類を終わらせようとして睡眠不足気味だったというのに、何故超絶低血圧の自分が起きられたのかは、 「…」 悔しいので彼は考えない事にしておいた。 欠伸を噛み殺しながらむくりとベッドから起き上がり、着替えや洗顔を済ませてリビングへと降りる。 冷蔵庫を開けて適当に飲み物とたまたまあった林檎を一つ取り出して、歩きながら簡単な朝食を採る。 ふと、自分は昔朝食を採らずに生活していた事を思い出す。 朝が弱かった事もあって朝昼兼用で食事を採る事が多く、体の方もそのリズムに順応していた。 一日二食、下手をすれば一食で不健康に過ごすことが当たり前で。 当たり前の事が当たり前でなくなったのは、 「…あいつが来てから、か」 ぽつりと彼が呟く。 当たり前ではない事が当たり前になるのも、その逆も。 彼にとっては嫌な思い出がありすぎて嫌いだったのだけれど。 「…悪くないか」 そう、つい言葉に出して言ってしまうくらいには。 今は、そうでもなくなっていた。 それから彼は何をするでもなくぼんやりとリビングのソファに腰掛けた。 無意識に、玄関の外や門の辺りが窓からよく見える場所に座った事に彼は気づかない。 窓から近い場所に腰掛けた所為で、座ったその場所は穏やかな陽射しにちょうど良く暖められていて。 彼はまたふわ、と欠伸を漏らす。 彼女が帰ってくるのは何時頃なのか、彼にはわからない。もしかして十分後に帰ってくるかもしれないし、十時間後かもしれない。 あいつが帰ってくるまで昼寝するかそれとも起きて待っていようか、と彼がぼんやり考える。 考えているうちに陽射しの所為か、彼の瞳がとろんと閉じそうになった時。 ぎぎぃ、がたん。 門が、開く音がした。 「、」 彼は沈みかけた意識を一瞬で浮上させて、がばりと顔を上げ窓の外を見る。 見慣れた女性の姿がそこに見えて。 一瞬、緩む自分の表情を本気で自制できなかった。 門から玄関へと歩いてくる彼女の姿をぼんやりと見つめて。 ふと、彼女の隣に他の誰かが歩いているのにようやく彼が気づく。 銀髪の、にこにことした笑顔をたたえた女性。 思わず彼が顔を顰める。 その間に玄関が開く音がして、荷物を下ろす音や先ほど見えた銀髪の女性のお邪魔します、という声が聞こえて。 座ったままの彼が、どうしてクレア・ラーズバードがここにいる、と疑問に思う間に。 「…アルベル様、ここにいらっしゃったんですか」 リビングに入ってきた彼女の声が、彼の耳に響いた。 座ったままに顔をそちらに向けると、一週間ぶりに見る彼女が立っている。 「ただいま戻りました。…ところで、今もしかして居眠りしてらっしゃいました?」 「は?」 「窓越しに、私が門を開けた瞬間に慌てて顔を上げるあなたが見えたように思うのですが。ちなみに書類処理の方は大丈夫ですか?」 「………」 久々に会ったというのに、いきなり書類の心配をする彼女が相変わらずで。 彼は思わず無言になったが、それを書類の山が溜まっている故の逃げの肯定と取られるのは嫌だったので、渋々返事をする。 「…終わらせた」 「…全てですか?」 「今日の分まではな」 「…」 彼女が、彼からもわかるほどに目を見開いて。 その反応は予想済みだったが、彼は何故か癪になってぶっきらぼうに呟いた。 「信じられないんなら自分の目で確かめてこればいいだろ」 「…それもそうですね」 失礼します、と断って、彼女はくるりと背を向け、廊下にいるのであろう銀髪の女性と何事か会話した後、ぱたぱたと執務室へ向かっていった。 「………」 何故か物凄く不機嫌な気分になって、彼はいつもの仏頂面をさらに歪めたが。 「お久しぶりですね、アルベルさん」 ひょこ、とリビングに銀髪の女性―――クレアが顔を出して、ぺこりと頭を下げる。 「…何故お前がここにいる?」 リビングの入り口に立ったままににこにこと笑顔をたたえて、クレアが答える。 「彼女を送りに来たついでに、大切なネルを一週間もお借りしてしまった事のお詫びを、と思いましてね」 どこか悪戯っぽく笑うクレアに、彼はぶっきらぼうに一言。 「…まったくだ」 その言葉にクレアがまた微笑む。 「…ところで、お前があいつを送りに来たっつう事は、お前も任務に参加してたのか」 「ええ、そうですよ。お送りした書類にも書かれていたと思いますが?」 「…」 見た瞬間握りつぶした、とは言えず。 彼が黙り込むと、クレアがまた微笑む。 「任務とはいえ、久々にネルと過ごせて嬉しかったです。お忙しいにも関わらず、大切な人材でもあるネルをこちらの任務に就けて下さったアルベルさんには御礼を言わなければなりませんね」 「………」 あぁそうか。 クレアにとって久々の再会なら、彼女にとっても久々の再会だ。 任務とはいえ親友と久しぶりに会えたのだから、彼女にとって出張任務の間はそれなりに楽しい時間を過ごせたのだろう。 屋敷で書類をひたすら裁いている日常よりも。 そんな事を考えて、また彼は不機嫌そうに表情を歪める。 それを見たクレアが、僅かに苦笑して。 「…もしかして、さっきネルが素っ気無かったの、気にしてらっしゃるんですか?」 尋ねてくるクレアに、彼は反論できず無言を返す。 それを肯定ととったらしく、くすくすと笑いながらクレアが口を開いた。 「大丈夫ですよ、そんなに不機嫌にならなくても。アルベルさんは十分ネルに愛されてますから」 「あ?」 相変わらず微笑みながらのクレアの台詞に、彼が思わず怪訝そうに聞き返す。 ガラの悪い彼の視線にも動じず、クレアは笑顔のまま口を開く。 「ネルには言うなと言われていましたけれど。いずれ報告書に目を通される事になるのでしょうし、隠しても仕方がありませんから」 「…何のことだ」 「今回の任務の事ですが。予想よりもかなり多くの魔物が巣食っていて、本来ならば倍の日数かかる程の量だったんですよ」 「………」 彼が、クレアの顔を見る。 温和な笑みをたたえてはいたが、冗談を言っているようには見えなかった。 「でも、ネルが"魔物なら予想外に多かった分は私が倒すから日程通りに調査を進めて欲しい"って。実際誰よりも、もちろん私よりも多く魔物を倒して、無茶しすぎだって私や周りが止めても聞かなくて」 「………」 「あまりにも頑なだったから訳を訊いてみれば、"目を離したくない、放っておけない人がいるからできるだけ早く終わらせて戻りたい"と」 「………」 無言のままの彼を見て、クレアがまた微笑む。 「そして本当に倍近く日数がかかるはずの任務を、きちんと一週間で終わらせて。周りのギルドメンバー達も驚いていたんですよ。もちろん、私も」 「…」 クレアが笑って、告げる。 「ネルが、あなたの所へ戻るために、あなたに早く会うために。どれだけ頑張って任務をこなしてきたか、おわかりになりました?」 だから、十分愛されてる、って言ったんです。 そう言い残して、 「では私はこれで。ネルによろしく伝えておいてください」 終始笑顔のままだったクレアは、やはり去り際もにこにこと笑いながら屋敷を出て行った。 一応その背中を見送った彼は、くるりと玄関に背を向けて執務室へと向かった彼女の後を追う。 階段を急ぎ足で上って執務室の扉を開ければ、その勢いに彼女が驚いて振り向いた。 「アルベル様?」 そう呟いて、彼女がきょとんと目を見開く間もなく傍に行って距離を縮めて、 「な、どうしたんですか、いきなり…」 彼が引き寄せるように彼女を抱きしめる。 苦しいのか照れているのか軽く抵抗して身じろぐ彼女の、一週間ぶりの感覚に、彼が懐かしさすら覚えながら力を緩めた。 無茶しやがって、とか。 お前がいなくてつまらなかった、とか。 とりあえず言いたい事は山ほどあったけれど。 「…ご苦労」 抱きしめたままに、彼はぽつりとそれだけ言って。 腕の中の彼女が思わず苦笑した。 「…それは…私の台詞ですよ。書類、本当に全て終わらせられたんですね。本当にお疲れ様でした」 「お前の無茶に比べれば大したことねぇだろうが」 「いえ…、…え?」 無茶って…、と僅かに驚く彼女に、彼は呆れたように軽く彼女を睨んで。 「俺なんざ数日放っておいても死にゃしねぇよ、この心配性が」 「え…」 「銀髪女から聞いた。無茶しやがって」 軽く睨まれ、彼女がう、と唸って視線を逸らす。 クレア…言うなって言ったのに…、と彼女が小さくぼやくが、また彼に睨まれて口ごもった。 「…だって」 どこか小さくなりながら、彼女が呟く。 「会いたかった」 「…、」 「あなたに、会いたかったんです」 そこまで言って、彼女は顔を上げて彼の顔を見て。 「…悪いですか」 拗ねたように呟く彼女に、 「阿呆」 彼が笑った。 「俺も同じだ」 その返答に彼女が笑って。 本当に嬉しそうに笑って。 その笑顔すら一週間ぶりで、懐かしいと思う間もなく彼の手が彼女の頬に触れる。 きっと"お帰りなさい"や"ただいま"だけではない様々な想いが込められて、ゆっくりと唇が重なった。 |