それは不幸が重なって起きてしまった事故、と言えば事故と言えるかもしれない。



「午後からの戦闘に備えてのクリエイション中、アルベルさんが機械のドリルでケガしたみたいで、何か回復アイテム探してたんですよ」
困ったように苦笑しながら、ソフィアがそう証言した。
「んで、それなら今クリフ達が調合中だし薬でいいと思って、緑色のタグがついた袋の中のヤツならどれでも好きなの飲んでいい、って教えたんだよね」
フェイトが微妙に苦い顔をしながら、そう証言した。
「…だがなぁ、その時失敗作で後でコッソリ処分しようと思ってた薬を間違ってその袋に入れた直後だったんだよ」
薬の製作者その一であるクリフが、フェイトと同じく苦笑しながらそう証言した。
「…そして、大雑把絶対O型なアルベルは、薬のラベルを見ずに適当に取って飲んでしまった…それが運悪くクリフ達が作ったばかりの失敗作だった…そういう事よね」
神妙な、というかどちらかというと困惑した顔つきでマリアがつぶやく。
「その結果が、…これ、ってことなのかい」
複雑そうな面持ちのネルが見遣った先は、何もない空間。
「…てめぇらなぁ…」
…のはずが、仲間達皆が聞き覚えのある声が返ってきた。
何もない虚空から。
「こんなことになるなんてなぁ…ちっ、失敗作と言わず特許取っておきゃよかったよ」
「なにがちっ、だこの野郎!」
その声と共に、クリフの頭の上あたりからごん、と鈍い音がして。
「痛っ!」
クリフがまるで何かに殴られたかのように声を出した。
まるで透明な何かに殴られたかのように。
「…本当に透明になっちゃったんですね、アルベルさん」
「透明人間になるなんて、本当アルベルって波乱万丈な人生歩んでるよねー」
その様子を見ながら、ソフィアとフェイトがぽつりとつぶやいた。
何もない空間だが、何故か不機嫌そうにぎろりと睨まれた気がした。



透明人間のゆううつ



「まさか飲んだ人が透明になる効果、っていうか副作用?が起こるなんてね…驚いたよ」
「ある意味大発明でしたよね、気づいていれば。お約束で着てる服や髪の毛も透明になってますし、カンペキに透明人間ですよね」
「あーあ、特許とってりゃイイ線いったかもしれねぇのになぁ」
空になった薬の瓶を見ながら楽しそうに会話する三人に、マリアが困ったように告げる。
「それはいいけど、どうするのよ。アルベルがこのまま戻らなかったら戦闘に支障を来たすし、なにより旅を続けるのが難しくなるわ」
「そうだね、確かに姿が見えなきゃ敵には見つからずに好都合だろうけど、仲間が施術や紋章術を使うときも気づかないから巻き込んじまいそうだしね」
「紋章術の発動時以外でも、うっかり敵の前にいたアルベルを誤射したなんてコトあったら困るし…今日は午後からレベルアップの予定だったけど、アルベルには大人しくしててもらわないと」
「一応主戦力のこいつが抜けるのは痛いね…。解毒剤とかないのかい?」
冷静に告げるマリアとネルに、クリフは気まずそうな顔で答える。
「いやー、適当に作っちまったから、戻す方法はちょっとわからねぇな。それに俺というより、ルイドとパフィが主に作業してたからなぁ」
「…ある意味恐ろしいメンバーね…」
「…どうしてそのメンバーでライン組んだのよ、フェイト」
「いや、単純にレベルの関係で。クリフは余り」
「………」
さりげにへこんでいるクリフを尻目に、どんどん会話は進んでいく。
「じゃあ、パフィさんかルイドさんに訊けば、何かわかるんじゃない?」
「あの二人は少し早い昼休憩で飯食べに行ってるよな。探してくっか?」
「あ、大丈夫。テレグラフ使ってウェルチさん経由で連絡取ってみるよ」
「なるほど、確かにクリエイターなら全員そのテレグラフ持ってるものね」
フェイトがテレグラフを作業し始めて、皆の視線が集まる。
「あ、ウェルチさんこんにちは。クリエイターのパフィと連絡とれます? あ、はい。よろしくー。…あぁ、パフィ? さっき君達が作った薬のことについて訊きたいんだけどさ…うん、そう。うん、ふーん…あ、そうなんだ。ありがと。じゃあまたね…え? 次は食事の時間帯を外して連絡しろ? ラーメンが冷めたうえ伸びた? うぁごめんごめん、気をつけるよ。じゃあねー」
かちり、とフェイトがテレグラフの通信を切って、また口を開く。
「えーとまず、解毒剤を作るには材料が足りなくて無理だそうで。ただし、薬の効き目はもって一日だから、一晩寝て明日になれば戻るだろうって」
「あら、そうなの。じゃあ宿屋で大人しくしててもらえばさほど問題ないわね」
「良かったですね、すぐに効き目が切れる薬で。もし解毒剤作るまでずっとこのままだったら大変でしたもん」
「まったくだね」
とりあえず皆がほっと胸を撫で下ろしたところで、
「…良かねぇよ」
不機嫌そうな、いや実際不機嫌な様子が聞いただけでわかるような声が低く響いた。
皆が視線をそちらに向けるが、あいにく不機嫌全開であろうアルベルの表情は誰も見えなかった。
「何? もしかして一生効果が切れて欲しくなかったの?」
「んなわけあるか!」
茶々を入れるようなフェイトの台詞を全力で否定しながら、アルベルの声が叫ぶ。
「今日一日こんな状態でいろってのか冗談じゃねぇぞ!しかも俺だけ大人しくしてろっつうのかよ!」
「だって…しょうがないじゃない、戦闘中に広範囲紋章術に巻き込まれたりうっかり仲間の武器で怪我したりしたくないでしょう?」
「そのくらいテメェらが気ィ回せばいいだろうが!」
「ただでさえ神経を使う戦闘中に、必要以上の気を遣う余裕なんかないわ。…まぁ、どうしてもって言うんなら、まだ練習段階で不安定だけど私のアルティネイションでなんとかするしかないわね。でももし失敗して透明化する以上に酷い結果になっても私は知らないわよ」
さらりと返されアルベルが無言になる。
「………」
押し黙ったアルベルから、はぁ、と小さくため息が漏れた。
それを渋々ながらの了承と取って、フェイトが苦笑する。
「…ま、災難だったけど、いい息抜きだと思って午後から宿屋でゆっくりしててよ。その間に僕達はお前の分まで戦ってくるから、さ★」
サワヤカ笑顔で言い放つフェイトに殺意を覚えながらも。
「…ふん」
アルベルは一応食ってかかることはせずにそう一言返す。
恐らく姿が見えていたならば最大級に不機嫌な視線を投げつけられていただろうが、フェイトは気にせず笑顔で口を開いた。
「じゃ、僕らは予定通り午後からはレベルアップと資金稼ぎを目的に代弁者狩りね。まぁアルベルは悪いけどさ、宿屋で大人しくしててよ」
「………」
「しょうがないじゃないか、あんたもその姿で外に出たらいろいろと不便だろう?」
表情は見えないものの不満に思っているのは雰囲気でわかったのか、ネルが宥めるように言った。
ふん、と鼻を鳴らしはしたが反論しようとしないアルベルと、あっけなく彼をなだめてしまったネルを、仲間達が面白そうに見つめて。
「…ん?」
にこにこ、もしくはにまにまと笑いながら視線を向けられて、ネルが不思議そうに皆を見回す。
「相変わらず、ネルさんってアルベルさんの操舵術に長けてますよねv」
「え?」
「あぁ?」
きょとん、とした表情と、ぎろり、と剣呑な視線(恐らく)を向けられても、ソフィアはにこにこと微笑んだまま。
「いえ、なんでもないでーす。じゃあ、とりあえずお昼まではクリエイション続けましょうか。まだ足りないアイテムもありますし」
「そうだね。じゃあとりあえず各自今まで取り組んでた作業再開して。ただしクリフは調合禁止。適当なラインに混ざって作業始めて」
「へーい…」
失敗作を作ってしまった前科があるので、クリフは大人しく空きのあった鍛冶のラインに混ざる。まぁ負い目の有無に関係なく、腹黒リーダーフェイトの指示を無視する事はよほどの事がない限りあり得ないのだが。
「ちょっとびっくりハプニングがありましたけど、まぁ気を取り直して料理再開しましょうか」
「そうだね」
ソフィアとネルが料理に戻る。同じラインに入っていた殺人シェフは、今も厨房で食材を切り刻んでいた。
「…じゃ、僕らも気を取り直して機械作業に戻ろうか」
「そうね」
「アルベル、お前もちゃんと参加しろよ。クリエイションなら支障ないだろ?」
「………」
アルベルは何も答えない。が、小さなため息が聞こえたので、一応肯定はしているらしい。
「もう、機嫌悪くなるのはわかるけど、そんなにあからさまに態度に出さないでよ。長い人生にハプニングはつきものじゃない」
「いやマリア、こういうハプニングって普通なら例え二百年生きても体験しないと思うんだけど…」
「そんな常識、私達には通用しないでしょ?」
「…それもそうだね」
当然のように言い放つマリアとあっさり納得したフェイトに色々と突っ込みたいところもあったが、アルベルは少し考えて口を閉ざした。
この二人に余計な事を言うと何倍返しされるかわかったもんじゃない、と今までの経験でよく知ってるお陰か。
大人しく器具を手にとって黙々と作業を続けるアルベルをさほど気にせず、フェイトとマリアも各自作業に戻ろうとする。
…が、不意に視界に入った光景に、フェイトが少しの間固まった。
「…。…なんだよ」
「え?」
電源を入れたばかりの電動ドリルを持ったままのアルベルが、怪訝そうに顔を上げる。
「何凝視してんだ、気が散るだろうが」
「あ、いやちょっとね」
「何?どうしたのよ」
作業を始めていたマリアがフェイトの視線を辿り、そしてきょとん、と目を見開いて。
「?」
そっくりな二つの顔に視線を向けられて、アルベルがまた表情を歪める。
「お前ら二人して何なんだよ」
「ん、あー…」
「いえ…ちょっとね」
「…はぁ?」
いつもならばサボるなだの早く手を動かしなさいだのうるさい二人が複雑そうな表情をしながら手を止めているなんて初めてのことで。
アルベルが(周りからは見えないが)怪訝そうな顔をすると、フェイトが苦笑しながら口を開いた。
「や、だってさぁ…アルベル、体は透明だけど手に持ってる電動ドリルは透明じゃないだろ?」
「あ? あぁ」
「まるで電動ドリルがふわふわ浮いて仕事してるように見えて、不思議な光景なんだよね」
言われて、改めてアルベルは自分の状況を再確認する。
もちろん、自分の目から見てもアルベルは透明なので、持った物だけが宙に浮いているようにしか見えない。
「…。あぁ、確かにな」
「あはは、ミョーに面白いね。たまにはこういうフシギ現象もいいね」
「…人の不幸を面白がるんじゃねぇよ」
「不幸って程の不幸じゃないでしょ?」
「俺は今十分に不機嫌だ」
むすっとしながらアルベルが答える。が、その姿が見えない事もあってまったく二人は気にしない。
「ポルターガイスト現象ってこんな感じなのかしらね?」
「あー、怪奇現象の一つだっけ? 確かにそうなのかもね、物が勝手に浮いたり、移動するんだし…、」
フェイトはそこまで言ってから、何か悪戯を思いついたようににやり、と笑った。
「………」
その不穏な空気を感じ取ったのか、アルベルが嫌そうに顔を歪める。が、やはりフェイトは気にせず何か含んだように笑いながら口を開いた。
「なぁアルベル、ちょっとそのままドリル持っててね」
「は?」
「いいからいいから。おーいみんな、注目ー!」
フェイトが声を上げて、作業していた他の仲間達が視線を向ける。
フェイトはアルベルが持っている電動ドリルの上にそれっぽく両手をかざして、
「空中浮遊手品ー。ほーら何もしていないのにドリルが浮いてまーす」
「あはははは、フェイトうまーい!」
「おーおー、上手くやるもんだ」
「まったく、奇想天外な現象をそうやってネタに変えるのが好きなんだから」
辺りにほのぼのとした空気が流れる。
が。
ひとり、無言だったネルがぽつりと口を開く。
「…あのさ…」
「ん? どうしましたかネルさん?」
「手品の真似事も確かに面白いと思うんだけど…あんまり調子に乗りすぎるとまずいと思うよ?」
「え?」
フェイトが呟いた直後。
「っ、わ、ぎゃー! ちょっと待っ、確かに悪ノリしたのは悪かったけどそんなことで怒らなくても、ってアルベル今は体見えないし気配だけでしか動作がわからないんだからちょっとは手加減うわ、わ、わー!」
大人しく宙に浮いていた電動ドリルがフェイトに突き刺さらんばかりに飛んでくる。
「てめぇら黙ってりゃ人の不幸を好き放題ネタにしやがって…」
「きゃーアルベルさんが怒ったー!」
「って、おいアルベル、俺は何もしてねーだろーが!」
「ちょっとフェイト、こっちに逃げてこないで頂戴! 巻き込まれるでしょ!」
「うわーちょっと待てって、せめてドリルの電源切ってから、うぎゃー!」



「…やれやれ」
少し前まで静かだった工房が、あっという間に姿の見えない鬼との命がけの鬼ごっこの舞台になってしまったのを眺めながら。
ネルは困ったように、だが少し楽しそうに、ため息をついた。





「………」
「まだ拗ねてるのかい」
「…拗ねてねぇ」
「…眉間に皺寄ってるよ」
「…? お前、何で見えたんだ?」
「おややっぱり皺寄せてたんだ。言ってみただけなのに」
「………んなことだろうと思った」
宿屋の一室。
二人の会話が聞こえるものの、傍目から見ればその部屋にいるのはネル一人だけだった。
ソファに座って紅茶を飲んでいるネルの向かい、ベッドの不自然に一部分だけ沈み込んでいる部分に座っているアルベルは、やはりまだ透明なままだった。
相変わらず声と気配だけでしかそこに居るということを認識できないアルベルを見て、ネルが苦笑する。
「…まぁ、あんたにとって戦う事は生き甲斐にも近しいものだしねぇ。それを取り上げられちゃ不機嫌になるのも無理はないけどさ」
苦笑したままネルが言って、アルベルはふん、と小さく鼻を鳴らした。
姿が見えなくてもわかるそんな小さな動作からも、アルベルの不機嫌具合が垣間見られて。



―――アルベル、多分宿屋で大人しくしてろって言ったって、じっとしてなんかいられないと思いますから。
―――悪いわねネル、あなたもアルベルのお守りの為に宿屋に残ってくれるかしら?
―――宿屋抜け出して街や街の外に出ちまったらいろいろと面倒ごとになりそうだし、ひとつ頼まれてくれよ、な?



先ほど、申し訳なさそうに告げてきた仲間達の声が、ネルの頭に浮かぶ。



「(…確かに、厄介な状況になっているからといって大人しく待っているような奴ではないけど)」



―――だって、ネルさんが見張っててくれれば、アルベルさんそう簡単に逃げ出したりしませんよね?



ネルの事を「アルベルさんの操舵術に長けている」と称したソフィアが、にこにこと告げた台詞でもはや反論ができなくなってしまい今に至るのだが。
不機嫌さを隠そうともせず、少しでも目を離せば姿が見えないのをいい事に本当に宿屋を抜け出しそうなアルベルを見ていると、やはりここに残って良かったかもしれない、とネルがまた苦笑した。
「…なんだよ」
ずっと苦笑し続けているネルを見て、アルベルがつっけんどんに訊いてくる。
ネルはアルベルが座っていると思しき方向を見て、口を開く。
「ん? いや、あんたの様子見てると、ここに残って良かったなと思ってさ」
「は?」
「だってあんた、見張りがいなきゃ今すぐにでも脱走してフェイト達に見つからないように魔物倒しに行きそうだもの」
「………」
アルベルが押し黙る。
「図星?」
ネルが笑った。
アルベルは答えない。
「…まったく。あんたは一応今のメンバーで主戦力だけどさ、それでも一人で戦闘に行ったりしたら危険に決まってるじゃないか。あれで皆も心配してるんだよ?」
「どこがだ」
「もしあんたが一人で外に出たとして、魔物の大群に会ったりしたらどうするんだい? アイテムや精神力が切れたら? 透明な姿に関わらず気配を感知できる魔物だったら?」
「………」
「例えあんたでも、死ぬよ」
ネルがさらりと告げる。
アルベルはやはり無言のまま。
「もしくは、瀕死になって意識を失ったりしたら、あんたが倒れているのを見つけて助ける事だって難しいよ。一刻を争うような重傷を負って動けなくなったらいったいどうするつもりなんだい?」
「………」
答えないアルベルをさほど気にせず、ネルがふぅ、と小さく息をついてまた口を開いた。
「まったく。…あんたはさ、もう少し自分の事、考えた方がいいよ。皆、あんたの事それなりに心配してるんだから」
「…ふん」
素っ気無い返事が返ってくる。
が、ネルにはどこか照れ隠しのように聞こえて。
「…素直じゃないんだから」
「うるせぇよ」
ネルが小さく笑うと、またもや素っ気無い返事が返る。
その声もむすっとはしているがそれほどの不機嫌さは感じられず、またネルが笑った。



そこで会話が途切れ、ネルは荷物を持ってきて整理を始め、アルベルは腰掛けていたベッドにごろんと横になった。
ネルから見ると布団が不自然に沈んでいるようにしか見えないが、昼寝でも始めたのだろうとまた荷物整理にと戻る。
元からきちんと整頓してあった荷物は整理にもそれほどの時間はかからず、ネルはものの数分で作業を終えた。
膝の上に置いていた荷物を元あった場所に戻して、ネルはまたソファに戻ろうとしたが。
「………」
少し考えて、アルベルが寝転がっているベッドの方へと足を向けた。
眠っているのかただ横になっているのかまではわからないので、眠っていた場合を考えてネルはゆっくりとベッドに腰を下ろす。
「アルベル?」
腰掛けた振動は多少なりとも伝わっているはずなので、反応がなかったということは寝ているのかもしれない、と確認の意味もこめてネルが呟いた。
「…なんだ」
が、どうやらその読みは外れたらしく。いつも通りのぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「起きてたんだ」
「…まぁな」
「ならずっと黙ってないで、何か話してくれたらいいのに」
「俺が用もないのに自分から口を開くことがあったか?」
問われたネルは一瞬きょとんとして。
「…そんなになかったね」
「だろうな」
アルベルはそう答えて、また口を閉じた。
その様子が見えるわけではなかったが、それ以上何も話さないアルベルが口を閉ざしたことがわかったのか、ネルが面白くなさそうに表情を少し歪ませた。
「…ねぇ」
「ん?」
「別に。呼んでみただけ」
「あぁ?」
怪訝そうな声を上げるアルベルの表情はネルには読み取れなかったが、口調と同じく怪訝そうに半眼になっているのだろう。
そんな、実際には見ることの出来ない様子を思い浮かべながら、ネルは少し機嫌の悪そうに答えた。
「だって私が呼ばないとあんたは口すら開かないじゃないか」
「は?」
「あんたがそこにいるって認識できるのはあんたが寝そべってるベッドの沈み具合と、気配と、あんた自身の声しかないってのにさ」
何故か不機嫌そうなネルの口調に違和感を覚え、アルベルが不思議そうに視線を上げる。
「…見えないのは姿だけで、あんたはそこにいるんだって、頭では一応わかるけど。でも、実際目で認識できないのって、結構不安になるんだよ?」
いつもはきちんと目を合わせて話しかけてくるネルが、今は相手の位置が曖昧にしかわからないために虚空を眺めていた。
「………」
「今はまだ、乗ると沈み込んで大体の位置がわかるベッドの上だからまだいいけど。何もない床に立ってる時とか、壁に寄りかかってる時とか、沈み込みのない木の椅子に座ってる時とか…。気配でしかあんたを感じられないんだよ」
先ほどまでは不機嫌そうだったネルの声がだんだんと沈んできて、アルベルが何か言おうとするが。
先にネルが口を開く。
「…あんたが、いなくなったみたいに、本当に消えてしまったみたいに見えてしょうがないんだ。…だから、」
ネルはそこで少しだけ言いよどんで。
ほんの少しの間を置いてから、言う。
「声くらい、聞かせてよ。あんたがそこにいるんだって、消えてなんかいないんだって…。ちゃんと、わかるように」



そう、ネルがつぶやいた直後。
アルベルが動いたのか、ネルが座っているベッドがきしりと軋んで小さな衣擦れの音が聞こえる。
ネルが不思議に思ってぱちり、と瞬きをひとつした時、
「え、」
見えないアルベルに急に抱きしめられる。
アルベルが動いた事はわかったが、抱きしめられるとは思わずネルが小さく驚きの声をあげる。
透明である故目の前には何も見えないが、抱きしめられている感触は触れている場所越しに感じられて。
「…びっくりした…。なんだい?」
どこか気恥ずかしさを感じながらネルが尋ねると。
「これでわかるだろ」
「え?」
「俺は、ここにいる」



「―――…」
「消えてなんかない」
さら、とネルの髪に触れながら、アルベルがもう一度呟いた。
「俺はここにいる」





ああ。
髪に触れるごつごつした骨ばった手のひらとか。
細い割に締まった体とか。
頬に触れる硬い髪質の、でもさらさらした髪の毛だとか。
低くてぶっきらぼうで、でもいつも耳に心地よい声だとか。
その声が途切れてすぐに自分のそれに重ね合わせてきた唇だとか。



こんなに優しかっただろうか。





「…、おい?」
唇を離した後すぐに、無言のままに首に抱きついてきたネルにアルベルが声をかける。
ネルは目を閉じたまま、抱きつく腕は緩めないままにしばらく無言だったが。
「…ここにいるんだね」
「ん?」
「あんたは、ここにいるんだよね」
やがて呟いた声が心底嬉しそうで幸せそうで。
アルベルは一瞬目を見開いて、それからくく、と笑った。
「…あぁ」
「良かった」
ネルもくすくすと小さく笑いながら、そう一言だけ呟いた。





「早く戻るといいね」
「あ?」
互いの距離は相変わらずに、ぽつりとネルが呟く。
「透明になっちゃったの。早く、戻るといいねぇ」
まるで世間話をするような口調でネルがつぶやいて、アルベルが"透明になった"の言葉に一瞬不機嫌そうに表情を歪めたが。
すぐに表情を緩めてふっと笑って、口を開いた。
「…そうだな」
「あんたも早く戦いに行きたいだろうし? そのままだといろいろと不便だろうしねぇ」
「まぁな…」
「それに周りの人間にしたって色々と困るし」
「は?」
ネルが笑って、アルベルの腹部辺り―――と思しき部分、を指差す。
「だって、あんたが手に持ったものとか、つまりはあんたの体や服以外は透明にならないんだろ?」
「多分そうだろうな」
「もしその状態で食事したら、食べた物を噛み砕く様子や胃に入って消化されて残りが腸に溜まる様子がリアルに見えるんじゃないかい?」
「………」
アルベルの顔が一瞬ひきつった。ネルには当然見えなかったが。
「あ、でもあんたさっき料理のつまみ食いしに来たけど食べた物見えてないね。なら大丈夫か。良かった、食物消化の一連の流れが自分の目の前で繰り広げられるところだったよ」
「…気色悪い事考えるんじゃねぇよ」
「思いついたこと言ってみただけじゃないか」
ネルは一瞬不機嫌そうな顔をしたが、恐らく仏頂面をしているだろうアルベルの雰囲気を察したのか、すぐにくすくすと笑う。
「…まぁ、その点以外の理由でも、あんたには早く元に戻って欲しいと思うけどさ」
「その点以外の理由?」
「早く元に戻らなきゃ、あんたつまらないって暴れだしそうだしねぇ」
やはりくすくすと機嫌良さそうに笑うネルに、アルベルが不機嫌そうな顔をした。
そんなアルベルの頬付近にネルが手を伸ばして、触れた手のひらをゆっくり滑らせる。
指をアルベルの眉間辺りに滑らせながら、不機嫌そうな顔をした故にその場所に寄っている皺をほぐすように触れる。
「やっぱり眉間に皺寄せてた。…そんな仏頂面ばかりしてたら本当にそんな顔になっちゃうよ?」
「知るか。俺は元々こんな顔だ」
「あはは、そうだね。いつも無表情なのに不機嫌そうな顔、してるもんね」
ネルは笑いながら、でも、と呟く。
「あんた、早く元に戻るといいね」
「あ?」
それさっきも聞いたぞ、と言おうとしたアルベルの頬に、またネルの手のひらが触れる。
「いつもの、無表情で不機嫌そうで仏頂面な顔でも、いいから―――あんたの顔、早く見たい」



―――それに。
大体いる位置が分かれば、抱きついたり触れたりはできるけど。
顔のかたちや位置がわからなきゃ、私からキスできないだろう?



…さすがにこの台詞は恥ずかしいから、言わずにおいて。





「…そうだな、早く戻るといいな」
「うん、そうだね」
目には見えない、でも確かにそこにあるアルベルの肩口に、ネルがゆっくりと頭を乗せて目を閉じた。