「起きて下さい」
の、一言がすぐに通用することはあまりない。
いや、ほとんどないと言っても差し支えがないほどに、彼女の目の前で布団をかぶって丸くなっている彼の寝起きは、悪い。
「朝ですよ、アルベル様」
彼、というか布団のカタマリを揺り動かしながら覚醒を促す彼女もそれは重々承知で、毎朝繰り返されるその台詞はもはや形式的なものになりつつある。
「早くお目覚めになって下さい。……」
その台詞がきちんと効力を発揮する事は滅多にない。
例に洩れず本日も反応のないご主人様を、彼女は呆れたように見て。
早々に実力行使に移ろうと、頭だけを出して彼がすっぽりとかぶっている上掛けをひっぺがす。
猫のように丸くなっている彼が、彼女に背を向ける体勢で寝転んでいた。
かぶっていた上掛けがなくなった 事で、彼が肌寒そうにもしくは眩しそうに身じろぎをする。
が、身じろぎしてもそれだけで、また丸くなってくーすか眠りだすのが彼の常だ。
―――だけど。
「…んー…」
「え?」
今日はどうやら違ったようで、覚醒間近に近い声が彼から聞こえて。
彼女が目を丸くしていると、彼はごろりと寝返りをうって仰向けになり、やがて瞼をゆるゆると開いた。
珍しい彼の様子を不思議そうに覗き込んでいた彼女の姿が目に入ると、彼は焦点の合わない視線を彼女に合わせた。



メイド・イン・ノックスハウス 〜風邪ひきさんとうさぎ林檎〜



「…朝か」
「え? はい」
寝起き故に掠れた声での呟きに、彼女が反射的に頷く。
その返答にそうかとだけ一言呟いて、彼は緩慢な動作でむくりと上体を起こした。
いつもならば口うるさく言うまで起き上がりもしないのに、と彼女が違和感を覚える。
「珍しいですね、アルベル様がこれほど速くお目覚めになられるなんて」
「…そうか?」
「そうですよ。毎朝毎朝、実力行使でもしないとお目覚めになられないのはどこのどなたです?」
日常茶飯事と言っても過言ではないくらいにいつもの事となっていて、彼も知らないはずはない事なのに。
「あぁ…そうだったな」
彼女に言われるまで本気で思い当たらなかった、と言わんばかりの彼の反応に、そしてどこかぼんやりとした彼の受け答えに、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「…どうかなさいましたか?」
「、あ?」
寝起きとはいえ、不自然な間を置いて彼が答える。
その反応も、やはり違和感を覚え。
「………」
彼女は彼をじっと見たまま何事かを考える。
「…?」
彼は彼女の視線に、どこか居心地の悪そうに表情を歪める。
「アルベル様…もしかして、体調が優れないのでは?」
「は?」
彼が驚きを口に出すや否や、彼女は彼のベッドに一歩近づき、失礼します、と前置いて彼の額に手を伸ばす。
「おい、」
思わずあげた彼の声を気にせず、長い前髪を器用によけて彼女が彼の額に手を当てた。
「………」
しばらくしてから手を離し、彼女が無言のままに彼を見て。
「…やはり、少し熱いですよ。熱があるのでは?」
「あ? 別にそこまで熱かねぇだろ」
彼が確かめるように自分でも額に手を当て、そして怪訝そうに反論した。
それでも彼女は同意せず、念のためです、と言いながらかがんでいた体を起こす。
「少々お待ちくださいね」
彼女はそう言い置いて、部屋を出て行く。
その後ろ姿を彼はぼんやりと見送り、寝起きの頭をはっきりさせようと二、三度首を勢いよく横に振る。
それでもまだぼんやりしている彼に、戻ってきた彼女が体温計を差し出した。
「体調を崩されていてはいけませんし、念の為に」
「さっきお前手ぇ当てて計ってたじゃねぇか」
「そんな曖昧な計り方では実際の温度はわかりませんよ。はい、どうぞ」
ずい、と彼女が有無を言わさぬ口調で体温計を差し出してきて、彼は渋々受け取って計りだす。
それと同時に彼女が時計を見て、時刻を確認する。
やがて五分経った頃に彼女が口を開いた。
「はい、見せてください」
彼が無言のまま、体温計を渡す。
水銀が伸びて示している数字は三十六度七分。
「………」
「ほら、さほど高くねぇじゃねぇか。せいぜい微熱だろ、何も支障ねぇよ」
そう言って、彼が起き上がろうとして。
「…どこが微熱なんです?」
彼女がぽつりと呟いた。
「あ?」
「この数値の、どこが微熱だと言うんですか」
「はぁ? どっからどう見てもその数値は立派に微熱だろ」
しれっと答える彼に、彼女が一瞬無言になって。
「…それは、一般の方々の場合でしょう」
「…どういう意味だ」
「私が何も知らないとでもお思いですか?」
呆れたように彼女が言って。
「アルベル様の平熱は、確か三十五度四分だとお聞きしましたが?」
「………」
彼が動きをぴたりと止めて無言になった。
「…何でそこまで細かく知ってんだ」
「ウォルター様が以前教えてくださいました。風邪をひいても意地を張って無理する事があるから注意してくれ、とも仰っておられましたね」
「………」
彼がバツの悪そうに視線を逸らす。
「意地っ張りは昔からみたいですね」
「うるせ」
もうシラを切りとおすのは無理だと判断したのか、彼がなげやりに答えた。
「まったく…。今日は安静にしていて下さいね。お仕事はスケジュールを調整しますので気になさらなくて結構ですよ」
「…あぁ」
諦めたようにまたベッドに横になる彼を見て、彼女が苦笑する。
「とりあえず、朝食をお持ちしますね。食欲の方はおありですか?」
「…食欲はあるが…別に立ち歩けないほど症状が酷いわけじゃねぇぞ」
「いいんです、安静になさっていてください。では、出来るだけ消化のよいものをお持ちしますね」
彼女が立ち上がり、心持急ぎ足でまた部屋を出て行く。
ぱたん、とドアが閉まるのを横目で見ながら、ベッドに寝転がった彼はぽつりと呟いた。
「…俺の風邪を初見で見破ったのは、母親以来初めてかもしれねぇな…」
しかも、寝起きで風邪を引いているのかただぼんやりしているのか判断のつきにくい状態で、なんて。
彼女の洞察力に密かに感心しながら、彼はゆっくりと目を閉じた。



しばらくしてまた部屋に戻ってきた彼女が薬と一緒にトレイに載せて運んできたのは、果物やスープ、そして飲み物と、風邪をひいた時によく見られるメニューだった。
「お待たせしました。スープはまだ熱いですから、舌を火傷されないように気をつけてくださいね」
「…あぁ」
横になってぼんやりしていた彼が、のろのろと起き上がる。
「お体の具合はどうですか?」
「ん? …あぁ、平気だ」
そう答える声が掠れていて、彼女が僅かに表情を歪めた。
「…何か、食べたいものや必要なものはありますか?」
「んー…」
彼女が運んできたりんごジュースを飲みつつ彼がぼんやり考える。
「…アイスとかゼリーとか、口当たりのいいもの…」
「アイスとゼリー、ですね。材料がありますから昼食の時にでもお出しします。果物等はどうですか? 今このお屋敷にある果物は桃と梨だけですが、他に何かありましたら」
「…苺か林檎」
「わかりました、買出しの時に一緒に買ってきますね」
彼女が時計をちらりと見遣りながら答える。
その彼女の台詞に、彼は皮が綺麗に剥かれ食べやすい大きさに切られている梨を齧りながら数秒無言になった後に、口を開いた。
「…あのな」
「はい?」
「…買出しに行く時ついでに買ってくるのはいいが…街の奴らに俺が風邪だってことバラすなよ」
「え? …あぁ、そうですね。アルベル様の体調不良時を狙って、不穏な輩が襲撃に来ないとも限りませんし」
彼女が神妙な面持ちになって呟いて、だが彼は否定も肯定もせずに視線を彷徨わせた。
どことなく違う彼の様子に彼女は不思議そうな表情をしたものの、別段追求する事もなくまた口を開く。
「とりあえず、私が買い出しに行っている間はセキュリティレベルを高く設定しておきますね。マリア様が設置して下さった装置ですから、効き目は確かですよ」
「…あの、死なない程度の電流が流れるヤツか…」
「はい。まぁ、その効果を発揮する事態にならない事が一番ですけどね」
苦笑しながら、彼女は彼が食べ終えて空になった皿をトレイに重ねて戻す。
「…そうだな」
同意しながら、彼は最後に残ったスープに手を伸ばして一口啜る。
その後ろで、彼女がトレイと一緒に持ってきていた水枕と枕を取り替えた。
「氷がごつごつするようでしたら言って下さいね、水の量を調節しますので」
一応確認はしましたが、と付け加える彼女に、彼があぁ、と答えた。



彼の朝食を片付けた後、彼女はキッチンへ戻って彼が起きる前に作っておいた朝食を採った。
程なくして食べ終わると、彼女は自分の使った食器を洗い、彼の分の朝食を冷蔵庫に入れる。
彼が風邪をひいて寝込むなんて彼女がこのお屋敷に来てから初めてのことで。
彼を起こしに行く前に朝食を作る習慣がついてしまっていた故にいつも通り作ってしまった朝食を冷蔵庫に入れながら、
「…昼にでも食べるかな」
ぽつりと呟いて、彼女は冷蔵庫の扉を閉める。
今日はせっかく彼の好きなフレンチトーストがいい具合に焼けたのに、と残念に思いながら、彼が体調を崩してしまった原因を考える。
季節の変わり目の為に天候が安定せず気温の差が激しい所為だろうか。
それならばまだ良いのだが、先週は激務が続いて彼に一番負担がかかっていた事が原因だったら申し訳が立たない。
彼女だけでなくフェイトやソフィアを呼んで仕事を分担してもまだ捌ききれない仕事量で、ようやく終わってゆっくりできるという時期だったものだから、その可能性は十分にある。
「………」
彼女は我知らず申し訳なさそうに表情を歪めたが、当然その表情を見る者はいない。
しかし、よく考えれば彼にゆっくり休んでもらう良い機会かもしれない。
今は大して仕事量も多くはないし、急ぎの仕事もないのでちょうど良かったかもしれない。
そう思い直し、彼女は彼が言っていたものの他に必要な食材等を確認する為に棚を開いた。
今日の食事は消化の良い体力のつくメニューを作らなければならないな、と考えながら棚の中を見て、足りないものや新しく買い足さなければならない食材を探す。
やがて必要なもののリストアップを終えると、彼女はお屋敷を出る前に一旦彼の部屋に向かった。
「アルベル様、お加減はいかがですか?」
ノックしてから部屋に入って彼女が尋ねると、彼は相変わらずベッドにごろりと横になったまま暇そうに彼女を見た。
「…少し楽にはなった」
「そうですか…それは良かったです」
実際、先ほどより顔色が良くなっている彼を見てほっとしながら、彼女がまた口を開く。
「今から買出しに行って来ますが、何かありましたらすぐに通信機で呼んでくださって構いませんからね」
「…ガキの留守番じゃねーんだから、そこまでしねぇっての」
「万が一という事もありますから」
言って、彼女は彼の私室の壁にある隠し扉を開き、彼と彼女だけしか知らない手順を踏んでセキュリティレベルを上げた。
「では、行って参りますね。出来るだけ早く戻りますので」
「あぁ…。…繰り返すが、俺の風邪は誰にも話すなよ」
「はい、わかりました」
そう返事をして、彼女は彼の部屋から出た。
いつになく、彼が念を押して来たのは何故だろう、と少し不思議に思いながら。



買出しの為に街に出た彼女は、まずいつも利用している商店街へ向かう。
初秋の今日、吹き抜ける風はどこか冷たい。
上着を羽織ってきて正解だった、と自分の判断を少し褒めながら、彼女は商店街へと差し掛かった。
果物が美味しい季節であるお陰か、まず眼に入ったのは青果商の前に並べられている色とりどりの果物達。
それらが目についてすぐに、ふわりとみずみずしい果物の香りが漂ってきた。
いつもならば荷物の量を考えて商店街の入り口付近にある店ではすぐに買い物はしない彼女だが、今日は果物と少々の野菜のみしか買わないしここで買い物を済ませてしまおう、と彼女は青果商の前で足を止める。
「はいいらっしゃい! あら、アルベル様の所のメイドさんじゃないかい」
果物好きな彼のお陰でよくこの店に立ち寄る為、もはや顔見知りになっている売り場の女将さんが笑顔で彼女に声をかける。
彼女もこんにちは、と挨拶を返し、果物の吟味を始める。
彼のリクエストがあった林檎、そして彼に朝食で出した分でちょうど切れてしまった梨、まだあるけれどついでに買っておこうと考えた桃、そして旬ではないので少し値が張った苺。
なるべく新鮮で美味しそうなものを選んで籠に入れ、他にも風邪に良さそうな生姜や葱などを選んでから本来買出しのメインだった足りない野菜をまた籠に入れる。
「すみません、これ下さい」
すべて選び終えてから、結構な量が入った籠を売り場の女将さんに渡す。
「はいはい、ありがとうねー」
女将さんは籠の中身を見てすぐに金額を告げ、彼女が財布から代金を取り出している間に手早く中身を籠から袋に詰め替えた。
彼女が代金を手渡そうとした時、袋に果物を入れていた女将さんがふと気づいて声をあげた。
「おや、もしかして…アルベル様、風邪でもひいたのかい?」
「えっ?」
素直に驚いて彼女が目を丸くする。
「いや、違ったんならいいんだけどね。アルベル様、果物お好きだろう? だから子供の頃からいつも、風邪をひくと果物が食べたいって仰ってたみたいだからねぇ」
「…そうなんですか」
「そうそう。真冬に苺が食べたいってお母さんを困らせてた事もあったっけねぇ」
楽しそうに話す女将さんは、そういえば彼の実家の近所に住んでいたな、と頭の片隅にあった情報を思い出す。
「あぁ、なるほど。私が珍しく苺を買ったから、アルベル様が風邪をひかれたのだと思われたんですね」
「そうそう。今の季節苺は高いから、アルベル様がまた駄々こねたんじゃないかと思ってね」
「ふふ、アルベル様らしいですね」
楽しそうに笑いながら話す女将さんにつられるように彼女も微笑して、相槌を返す。
「そうなんだよ、本当にやんちゃというか捻くれモノでねぇ。林檎をウサギの形に切らないと食べなかったり、薬もオブラードに包まないと飲まなかったり、風邪でふらふらなのに食べさせてもらうのが嫌で自分で食べようとして結局お粥を布団の上にぶちまけちゃったり、いろいろやらかしてたみたいだよ」
その様子が、見たことなんてあるはずもないのに目に浮かぶようで。
微笑を漏らしながら、彼女が口を開く。
「もしアルベル様が風邪をひかれたら、気をつけますね」
一応、現在進行形で彼が体調を崩していることを悟られないように嘘を言いながら彼女が言って。
「あぁ、その時は気をつけなね。今の時期みたいな、季節の変わり目にはたまーに体調を崩してたみたいだから。…おっと、すまないねひきとめちゃって。はい、これ」
他に客はいなかったが、立ち話をしてしまったことを申し訳なさそうに謝る女将さんから袋を受け取りながら、彼女が礼を言う。
「ありがとうございます」
「はい、こちらこそ。それにしてもたくさん買ったねぇ、帰り道重くないかい?」
紙袋一つでは収まらず、結局紙袋二つ分の量になってしまった果物や野菜を見ながら女将さんが尋ねる。
彼女は二つの紙袋を手に提げながら、笑顔で答える。
「大丈夫です、これでも結構鍛えていますから」
「あぁ、そうだねぇ、アルベル様の護衛も立派に努めてるもんね」
女将さんが微笑んで。
「これからもよろしく頼むよ、アルベル様のこと」
真っ直ぐに彼女を見て言われた台詞に、彼女が一瞬驚いて。
「…はい」
嬉しそうに微笑みながら、頷いた。



「戻りました。私の不在中、何かありませんでしたか?」
買ってきた品物を仕舞ってから、新しい飲み物と切り分けられた果物を彼の部屋に運んできた彼女が伺うように尋ねた。
相変わらず暇そうに寝転がっている彼は部屋に入ってきた彼女に視線を向けて、小さく口を開く。
「いいや、何も」
その言葉に彼女がほっとした表情を見せる。
「新しいお飲み物と、果物を少し持ってきましたが、お食べになりますか?」
「…食う」
言いながら彼が上体を起こす。
同時に彼が頭の下に敷いていた水枕がちゃぷん、と水音をたてた。
「はい、どうぞ」
にこ、と笑いながら彼女がサイドテーブルにトレイを置く。
彼女のどこか面白そうな笑みに怪訝そうな顔をしながらも、彼が置かれたトレイの上に載っているものを見て。
「………」
そしてあからさまに眉を顰めた。
「どうかなさいましたか?」
彼女が尋ねる。その表情は楽しげに笑っていた。
「…なんだこりゃ」
彼が不機嫌そうな声で、運ばれてきた果物の皿を見て言った。
「林檎ですが?」
「んなことは見りゃわかる。なんでわざわざこんな形に切ってんだよ」
彼が指して言ったのは、いわゆるうさぎ型に切られた林檎。
彼女はくすくす笑いながら、不機嫌そうな彼に向けて口を開く。
「この形に切らないと、アルベル様はお召し上がりになられないとお聞きしましたので」
「…はぁ?」
「この林檎を売ってくださった青果商の女将さんが教えてくださいましたよ。アルベル様がご幼少の頃体調を崩された時のお話を、他にもいろいろと」
「…お前、俺が風邪ひいてるって言いやがったのか?」
「いいえ、私が果物を買っているのを見て女将さんから仰ったんです。一応否定はしておきましたが」
彼女の台詞に、彼が深く溜息を漏らした。
「…あの阿呆…やっぱり喋りやがったか…」
だから年寄りは嫌なんだとかぶつぶつ漏らす彼を見ながら、彼女がまた笑う。
「…もしかして、風邪であると口外するなと仰っていた一番の理由はそれですか?」
尋ねる彼女に、無言になる彼。
「…図星みたいですね」
「…うるせぇな」
拗ねたように言う彼が可愛らしくて、彼女がまたくすくすと微笑む。
「私は嬉しかったですよ。アルベル様の幼い頃のお話が聴けて」
ぽつりと呟いた彼女の台詞に、彼が何かを言う前に。
「林檎、お召し上がりになられませんか? ならばお下げしますけど」
彼女が果物の載った皿に手を伸ばそうとして、彼が無言でそれを止めた。
「…いる」
小さくつぶやいた彼に、また彼女が笑った。



結局彼女が持ってきた果物をすべてぺろりと平らげた彼に、彼女がぽつりと呟いた。
「…いつか、もっと聞かせて下さいね。アルベル様が幼い頃のお話」
「は?」
面食らったように答える彼に、彼女が静かに続ける。
「今日、青果商の女将さんのお話を聞いていて、とても楽しかったですから」
「…なんで、人のガキの頃の話なんざ聞きたがるんだよ」
「あなただからですよ」
「…は」
冷たいヨーグルトジュースのコップに刺されたストローから口を離して、彼が動きを止める。
彼女は彼を見ながら、もう一度言った。
「あなただからです」
「………」
「あなたの事、もっと知りたいんです。幼い頃の事だけじゃなくて、他の事ももっともっと」
そこまで言って、彼女は少しだけ拗ねたような表情になって。
「…昔からこの街に住んで、あなたと同じ時間を過ごしていた方々には、敵いませんけれど。それでもあなたの事なら、何だって知りたいです」
あなたはきっとそれを嫌がるでしょうし、お嫌でしたら詮索しませんけれど。
「………」
ぽつりとそう漏らして少しだけ寂しそうな顔をした彼女に、彼が無言になった。





「…また、いつか」
「え?」
少し流れた沈黙を破るように呟いたのは、彼の小さな声だった。
「いつか話してやるよ」
照れくさそうにぶっきらぼうに呟かれた台詞に、彼女が驚きに目を軽く見開いた。
その表情はすぐに柔らかい笑みへと変わり、彼女が嬉しそうに口を開く。
「…はい」
嬉しそうに頷いた彼女に、彼は照れ隠しのつもりか何気なく口を開く。
「…その代わり…」
「はい?」
「…お前も、もっと自分の事話せよ」



曰く、俺ばかり話したら不公平だろう、とか。
お前も俺並に自分の事話さねぇじゃねぇか、とか。
クレア・ラーズバードの方がお前よりもお前のことよく話すぞ、とか。
彼はそう言っていたのだけど。
「…驚きました」
「は?」
「あなたが他人の事を知りたがるなんて」
ぽかんとしながら呟かれた彼女の台詞は、失礼な事を言っているとわかりつつも本心で。
「…」
問われた彼が、一瞬押し黙る。
「…そうだな、俺も驚いた」
今更ながらに呟く彼の表情が柔らかくて、彼女が一瞬目を見張った。
今日は驚いてばかりだ、と彼女は思ったが、それを口に出すことはしない。
「…お前だからなんだろうな」
が、その後ぽつりと続けられた彼の一言に。
彼女が目に見えて固まって。
「…今日は驚いてばかりです」
先ほど言わずに置いた台詞を呟く彼女に、彼がなんだよ、と呟く。
「不満か?」
「いえ、嬉しい驚きでしたから」
即答した彼女に、今度は彼が驚いて。
「…そうか」
「はい」
珍しくお互い柔らかく笑んで、顔を見合わせた。