ネルが酒場へ行ってみようと考えたのは、文字通り「単なる思い付き」だった。 特に何かに影響されたわけでもなく、ただなんとなくお酒が飲みたくなった、それだけだった。 ただアルコールを摂取するだけならば荷物の中にある、アイテムとしての効果は低いけれどせっかく作ったのだから、と捨てずにストックしてあるお酒を貰ってきて部屋で飲むという選択肢も、宿屋の軽食堂をかねた酒場で飲むという選択肢もあり、普段の彼女ならばそのどちらかを選ぶ事が多いのだけれど。 あえてそれらを選ばず、宿屋から少し離れた場所にある酒場に足を向けた理由も、「ただなんとなく」だった。 どうせなら一緒に行こうと黒と金の髪の彼の部屋へ寄ったのは、思い付きではなかったけれど。 結局彼の部屋には誰もおらず、それでもまぁたまには一人でもいいかと酒場へ足を向けたのも、やはりただなんとなく、だった。 だから、足を向けた酒場に金髪を後ろで三つ編みにして束ねている彼女の後姿を見つけた時、ネルは珍しい偶然に素直に驚いた。 似た者同士とない物ねだり 「あら?」 ネルの視線に気づいたのか、ミラージュが振り向いた。背中で編んだ三つ編みが動きに合わせて揺れる。 「珍しい所で会ったね」 ミラージュが座っているカウンター席に近づきながら、ネルが笑顔を向ける。 「そうですね。お一人ですか?」 ミラージュも笑顔を向けて、頷いたネルに隣の席を勧めた。 ネルはありがとう、と礼を言いながら勧められるままにミラージュの隣に腰掛ける。 メニューを開いて適当な酒を注文したネルにミラージュが声をかけた。 「よく、このお店に一人でいらっしゃるのですか?」 「ん? いいや、一人で来るのは今日が初めてだね」 「それは偶然ですね、私も同じですよ。マリアやソフィアさんに付き添いで来た事は、何度かありますけどね」 「なるほどね」 そういえば自分も、あの二人に誘われて飲んだことが何度かあったなとネルは記憶を辿る。 「他にも、飲んだくれて酒場に迷惑をかける大人気ない人を迎えに来た事もありましたけど」 くす、と笑うミラージュの、婉曲で曖昧な言い回しなのにすぐに誰の事だかわかる台詞に、ネルもつられるように笑った。 「あぁ、そうだね。私も同じような事が何度かあったよ」 「そうですか? アルベルさんは、クリフと違って手がかからない方だと思っていましたけど」 「そうでもないよ。酔って眠りこけることはないけど、放っておくと意識がはっきりしてるのに黙々といつまでも飲み続けるし。ある意味、クリフよりもタチが悪いからさ」 「お酒を飲むのも、明日の出発に響かない程度ならばいいのですがね」 「それにパーティのお金だって無限じゃないのにね。まぁ、確かに今は闘技場での修行のおかげでパーティの財布も潤ってるけどさ」 苦笑したネルの前に注文した酒が置かれる。グラスの中のロックアイスがからんと小さく音をたてて揺れた。 酒場で飲む際に交わす会話は、自然に共通の話題となることが多いものだが。 「飲むだけではなく、おつまみや軽食もそれなりに食べますからね、あの人達は」 「そうそう。夕飯もかなり食べてるのに、いったいどこに入るんだろうっていつも思うよ」 「クリフは見ての通りの体格ですから納得もできますが、アルベルさんは体の細さに見合わない量を食べてらっしゃいますからね」 「あいつは燃費が悪いんだよね。まぁ、戦闘中それだけ運動してるって考えれば納得も行くんだけど」 出身も境遇も違う彼女達の共通の話題は、自然と冒険中の、さらに限定するならばパーティ内の特定の人物についての内容に行き着く事が多かった。 「運動量を考えると、食べていないと持たないのでしょうね。まぁ、一日中クリエイションをしていた日も同じだけ食べているのを考えると、少し矛盾に思いますけど」 「あはは、まぁ、クリフもあいつも鍛冶や機械を担当する事が多いし。戦闘しない日でもそれなりに力や体力を使ってるとは思うよ」 「そうですね。力仕事は、どう鍛えても男性の方々の方が得意分野でしょうから」 微笑んだミラージュの言葉に、ネルが菫色の瞳を瞬かせた。 いつも穏やかなミラージュの微笑が、どことなく残念そうな響きを持っていた。 「…そうだね。やっぱりどれだけ鍛えても、腕力や筋力ではどうしても負けてしまうよね」 「ええ。残念な話ではありますが」 苦笑するミラージュの台詞にネルは頷いて。でも、と口を開く。 「あんたはそんなハンデを別の面できちんと補ってるじゃないか。戦闘中のあんたを見てると、確かにクリフと力の差があるのは事実でも、瞬発力やスピードで言えばあんたのほうが上だろう?」 何気なく言ったネルに、ミラージュは僅かながら空色の瞳を見開いた。 ネルの観察力やそれを可能にするだけの戦闘能力を評価しながら、ミラージュはにこりと微笑む。 「そう言って頂けると嬉しいですね。紋章術の方面は残念ながら不向きだったようなので、それを補わなければと鍛えた甲斐があります」 「あぁ、そういえばクリフも施術関係はさっぱりだって言ってたね。アーリグリフにフェイトとクリフが落ちて来て間もない頃…だったかな? 簡易攻撃施術を誰が覚えるかって軽くもめたのを思い出したよ」 「ふふ、そんな事があったんですね。仰るとおりクリフも私も、と言うよりクラウストロ人…私達の種族は紋章術に関しては不得手なんです。ですから、紋章術…いえ、施術に長けたネルさんが羨ましいですよ」 「そうかな? 私としては、体術をそこまで極めてるあんたの方がすごいと思うけど」 「施術、便利でしょう? 物理的な攻撃が効かないモンスターも中にはいますし、傷の回復も気功術より効率的ですし」 「うーん…。私は何かあった時に詠唱なしですぐ攻撃出来る体術や格闘術の方が使い勝手が良さそうに思えるんだよね」 互いに正反対の事を言い合って、ふと顔を見合わせる。 数秒目が合って、そして二人揃って苦笑した。 「ないものねだり、かもしれませんね」 「そうだね。お互いに」 同じような表情を浮かべながら、二人顔を見合わせる。 「隣の花は赤いといいますが、やはり自分以外の方が持っていて自分が持っていないものはどうしても良く見えてしまいますからね」 「へぇ、あんた達の星にはそんな格言があるんだね。なるほど、よく言い得てるよ。自分にも誇れる部分があるかもしれないのに、まったく気づかずに他人の長所ばかりを羨んでしまう事はよくある事だから」 「ええ。誰しも、謙遜しているつもりはなくても自分を過小評価してしまう事はありますものね」 「うん。あ、でも、たまに何するにも自信満々で謙遜なんてどこ吹く風なヤツもいたりするけど」 台詞とは裏腹に表情を柔らかくするネルに、ミラージュは組んだ両手で頬杖をついて口を開く。 「確かにアルベルさんは謙遜されることは滅多にないでしょうね」 「そうなんだよ…。…て、私別にあいつだなんて一言も言ってないよ」 「あら、違いましたか?」 にっこりとミラージュが微笑む。ネルは一瞬詰まって、僅かに頬を赤く染めて視線を逸らす。 「…違わないけど…」 照れ隠しだろうか、今まで話が弾んでいたおかげであまり手の着けられていないグラスに手を伸ばし、口へ運びながらネルが小さく呟く。 ミラージュはくすくすと微笑みながら、同じくあまり減っていないグラスに口をつけた。 そんなミラージュを横目で見ながら、ネルは自分の目の前に置いたグラスを眺める。酒の鮮やかな色に彩られたグラスが、ネルの顔を映していた。 「…また、ないものねだりだってことは、わかってるんだけどさ」 「はい?」 ミラージュが視線をネルへと移す。ネルはグラスを見つめたまま続けた。 「やっぱり私はあんたが羨ましいよ。いつも落ち着いてるところとか、感情を必要以上に表へ出さないところとか」 「…そうでしょうか」 控えめに相槌を返したミラージュに、ネルはうん、と小さく頷いて見せて。 「私は隠密になった時から、ずっと自分の感情を表へ出さないようにって心がけてたつもりだったんだ。でも、やっぱり肝心なところで私情を優先してしまったり、感情に左右されて行動してしまったり」 「…」 「だから、いつも冷静でいざとなった時躊躇いもなく行動できるあんたが本当に羨ましいよ」 沈んだ声音のネルが、顔を上げて困ったように苦笑する。 ミラージュは苦笑いするネルを見ながら、やはりこちらも困ったように笑みを作る。 「…いえ。私の性格は、正直褒められたものではないですよ」 「え?」 「何かの任務に着いている時は、それでも良いのでしょうけど。ですが一人の人間として、それではいけないのだと思います」 「…」 今度はネルが黙る番だった。 ミラージュは沈んでいるとまではいかないまでも、若干トーンが落ちた声で続ける。 「ですから私は、逆にネルさんが羨ましいんですよ。優しくて自分より他人を思いやる、倫理的に理不尽な任務に悩んで葛藤して、でも自分の意志を貫こうとするあなたが」 そう言ってミラージュは困ったように笑んだ。 先ほどネルが、「羨ましい」と言った時と良く似た表情だった。 「…また、ないものねだりだね、私達」 ネルがぽつりと呟いた。その表情は先ほど自分の性格を悲観していた時とは違う、ただの困ったような苦笑だった。 「…そうですね。お互いに、相変わらずですね」 ミラージュも小さく苦笑して、同意を示した。 「…でも」 「ん?」 ぽつりと呟いたミラージュの声に、ネルが顔を上げた。 ミラージュは困ったような苦笑でも沈んだような微笑でもない、いつもの彼女の穏やかな笑みを浮かべて。 「欠点もある性格ですけど。私は私なりに、自分の事を気に入っているんですよ」 「………」 無言になるネルに、ミラージュはにこりと微笑んで。 「私の性格を気に入っていると言って、そばに置いてくれる方がいますから」 そう告げたミラージュの表情はとても優しくて。ネルは一瞬目を見開いた後、ややあってからつられるように微笑んだ。 「そっか。それは、とても幸せな事だね」 微笑んで、ついでのように一言零す。 「クリフもなかなか言うじゃないか」 この場にはいない相手をからかうように笑ったネルに、ミラージュは微笑みを返して。 「ですが、アルベルさんも中々に直球に殺し文句を仰るらしい、と前マリアから聞きましたけど?」 「…、あー…。まぁ、あいつはね…。でも、私の性格を気に入ってる、とか、そんな事は言われた事ないよ?」 「そうですか? 口にしていないだけで、実際似たような事を思ってらっしゃると思いますけど」 「んー…、そうかな?」 「ネルさんの性格や考え方を悪く言われたり、否定されることはないでしょう?」 「いや、それなりに鋭い指摘はしてくるよ。あいつに言われて自分の落ち度をようやく認識できた事もあったし。…でも」 ネルは少し考え込むが、ややあってからぽつりと口を開く。 「それでも…。私はこのままでいい、って、言ってくれた事はあった、かな」 呟いたネルに、ミラージュがくす、と微笑む。 「アルベルさんも、十分良い事を言ってらっしゃいますよ」 「そうかな?」 首を傾げるネルに、ミラージュは笑いながらええ、とだけ答える。 「…まぁ、思った事をそのまま口に出してるふしがあるから、嘘は言ってないと思うんだけどね」 「アルベルさんらしいですね。嘘や誤魔化しがないというのはとてもいい事だと思いますよ。きまりが悪いと誤魔化したり適当な事を言ったりする誰かさんにも見習って欲しいです」 「あはは、クリフはたまにそういう時があるよね」 「あら。私、クリフだなんて言ってませんよ?」 「じゃあ違うのかい?」 「いえ、違いませんね」 つい先ほど聞いたような会話を、二人してわざと繰り返す。 二人、顔を見合わせて。悪戯が成功した子供のように声を上げて笑う。 「おーおー、盛り上がってんなー」 いきなり背後から、間延びした低い声が聞こえて。 笑い止んだ二人は揃って後ろを向く。 振り向いた先には、 「よっ」 にかっと笑って片手を上げるクリフと、 「………」 そんなクリフの数歩後ろで無言のまま立っているアルベル。 いきなり現れた二人に驚く事も無くミラージュがにっこりと笑う。 「あら、クリフ。それにアルベルさんも。あなた方もお酒を飲みに?」 「んー、まぁそんなトコだ」 へらりと笑うクリフに、後ろから低い声がかかる。 「俺は飲みに来たわけじゃねぇぞ」 「ん、そうだったか?」 からからと笑うクリフをじろりと睨んでから、アルベルはすたすたと歩みを進め。 「え?」 カウンターに腰掛けたネルの腕を掴み、口を開く。 「帰るぞ」 「は? いきなり現れて、突然何言うのさ」 「お前、今日ずっと一軍入りして戦闘しっ放しだっただろうが。いつまでも飲んでないでとっとと宿屋帰って寝てろ」 珍しい事を言うアルベルにネルがきょとんとしていると、隣のミラージュが微笑みながら口を開く。 「そうですね。ネルさんも今日はお疲れでしょうし。お名残惜しいですが、そろそろお休みになられてはいかがです?」 「ミラージュまで…。別にまだそんなに飲んでないし、そこまで遅い時間でもないじゃないか」 「俺がそう言ってもいつも問答無用で連れ戻すのはどこの誰だ」 「あんたは迎えに行かないと本気で帰らないだろう…って、ちょっと、引っ張るんじゃないよ!」 まだ渋っているネルの腕を引いて強引に立たせると、アルベルは顔なじみらしい酒場の主人に目をやって。 「こいつが飲んだ分、俺の分でつけとけ」 「ちょっ…そのくらい自分で払うよ」 慌ててカウンターを振り向くネルだが、初老の酒場の主人はにっこりと笑い。 「はい、承知しました。アルベル様」 「いや、私が払うから…」 ネルはまだ言い募るが、店主と目が合った矢先、 「いやいや。こう言う時くらい、男に恰好つけさせてやってください」 にこりと笑ってそう言われ、ネルが返す言葉に困っていると。 「…行くぞ」 「あ、ちょっと…」 有無を言わさずアルベルに引っ張られ、結局ネルは酒場の出口へと向かう事になる。 「あ、…ミラージュ! 楽しかったよ、また機会があれば一緒に飲もうね」 振り向きながら言ったネルに、ミラージュはにこりと笑顔を返す。 「はい、是非」 そう言って片手を振るミラージュの隣で同じくひらひらと手を振って二人を見送りながら、クリフが店主に声をかける。 「マスター、空気読んでるじゃねぇか」 「はっはっは。伊達に何年も酒場の店主はやっておりませんよ」 店主はそう言い置いてから、先ほどまでの落ち着いた口調や表情をがらりと一変させて豪快に笑う。 「いやーはっはっは、それにしてもあのアルベル様にあんな可愛い恋人ができるなんてなぁ! 本当ならお祝いでカノジョが飲んだ分全部タダだ!とでも言いたかったんだが、やっぱりああいう時は男に花を持たせてやらんとなー」 「余計な事言うんじゃねぇ!」 今まさに酒場から出ようとしていたアルベルが怒鳴り返すが、恐らく慣れているのだろう、店主は気にした様子もなく笑っている。 ちっ、と舌打ちしながらアルベルは酒場を出て行く。引っ張られたままのネルも後に続いた。 酒場の扉がばたん、と閉まると、クリフはひらひらと振っていた手を下ろし、ミラージュの方へ視線を向ける。 「お前はまだ飲むんだろ?」 ミラージュも酒場の出口から視線を戻し、クリフを見る。 「そうですね。クリフが飲むと言うのなら、お付き合いしますよ」 「よし、決まりだな」 にやりと笑って、クリフがミラージュの隣、先ほどまでネルが座っていた椅子とは逆側の席にどかりと腰掛ける。 ネルが飲み終えたグラスを片付けている店主に慣れた様子で声をかけ、注文するクリフを見ながらミラージュが口を開く。 「クリフはよくこちらでお酒を頂いているみたいですね」 「ん? ああ。アーリグリフの酒はうまいしな」 「そうみたいですね。いつも夜遅くなって迎えに行くと、幸せそうに眠ってらっしゃいますし」 笑顔のまま言ったミラージュに、クリフは後ろ頭をかきながら苦笑を零す。 「いや、悪かったよ、いつも世話かけちまって」 きまりが悪そうに苦笑いするクリフをちらりと見て、ミラージュは残り少ないグラスの中身を呷る。 「分かって下されば、いいんですけどね」 「いや、分かってるって。もう飲み潰れて眠りこけたりしねーからよ」 「…それもありますがね」 「ん?」 小声でぽつりと零したミラージュの呟きにクリフが反応するが、ミラージュはいいえ何も、とすました顔で返す。 会話が途切れた時にタイミングよくクリフが注文した酒がカウンターに置かれ、クリフがグラスに手を伸ばした。 「そういや、お前が酒場で飲むなんて珍しいな」 「私も、たまにはお酒を飲みたくなる時があるんですよ」 「はは、そうだな」 「ネルさんとお会いしたのは偶然でしたけどね。彼女もお一人でこちらへいらしていたようですが」 「ほー、そりゃ面白い偶然もあったもんだな。んで、女同士の話題に華を咲かせてたっつーことか」 声を上げて笑い合っていた二人を思い出したのか、クリフが何気なく呟く。 ミラージュはやはり笑顔のままに、答える。 「ええ。ネルさんと二人で飲むのは初めてでしたが、一緒にお喋りさせて頂けて楽しかったです」 「そりゃ良かったな。お前、いつもマリアやソフィアの付き添いくらいでしか飲みに行かねぇだろ? ちゃんと息抜きできてんのかってたまに心配になるんだよな」 クリフの珍しい台詞に、ミラージュがゆっくりと瞬く。 「って、そう言うんなら俺が自分で誘えよ、って話か。でもよ、ほら、俺に対する不満や愚痴とかも、そりゃあるだろうしな。女同士の方が言いやすい事とかも多いだろ」 苦笑するクリフをじっと見つめてから、ミラージュはふっと微笑んだ。 「…あなたが誘ってくれたとしても、十分息抜きになると思いますよ?」 「お、そうか?」 「ええ。ネルさんや、マリア、ソフィアさんと飲むのも、もちろん楽しいですけど。でもあなたと飲むのも、同じか、それ以上に私は楽しいですよ」 「………」 クリフは一瞬、呆けたように口を開けたまま固まった。 が、ややあってから照れ隠しにがしがしと自分の頭をかいて、ミラージュから視線を外しながら口を開く。 「そうか。なら、これから機会があればいくらでも誘ってやるよ」 「はい。楽しみにしています」 微笑むミラージュに、クリフもへらりと笑い、ようやく自分のペースを取り戻したかのようににっと笑う。 「んじゃ、とりあえずは今飲み交わす時間を楽しもうぜ」 「ええ、そうですね」 「おいおい、グラス空になったまんまじゃねぇか。ほら、追加で頼め頼め。アルベルの真似じゃねーけど、今日は俺がおごるからよ」 メニュー表をずい、と差し出してきたクリフに、ミラージュは珍しく僅かに目を見張る。 「よろしいんですか?」 「あぁ。いつも世話んなってるしな、たまには俺にもカッコつけさせろ」 だからほら頼め、とメニューを強引に手渡され。ミラージュは口元に指を当てて微笑みながら、大人しく受け取る。 「ありがとうございます、クリフ」 「んぁ?」 「いえ、何も」 クリフが不思議そうにミラージュを見るが、機嫌良さそうに微笑んでいる表情を見て何も言わずにに、と笑った。 やがてミラージュの前に置かれたグラスに、クリフは自分のグラスをかちりと当てて。 「かんぱーい」 「はい、乾杯」 高い小さな音が、ささやかな夜のひと時の幕開けを告げた。 「…ねぇ、ちょっと! そんな引っ張らなくてももう戻ったりしないってば!」 酒場から出て数十秒後。 ネルがそう言った時、ようやくアルベルはネルの腕を開放した。 そこまで強い力で握られていたわけではないが、いかんせん掴まれて引っ張られていた時間が長かった為にネルの細い手首に赤い痕が残る。 「まったく…強引なんだから」 ようやく自由になった手首に視線をやりながら、ネルが困ったようにぼやく。 「…いつもの仕返しだ」 ずっと無言だったアルベルが、ここで久々に口を開く。 「はぁ?」 ネルが怪訝そうな顔を向けると、アルベルは振り向いて意地悪く笑う。 「飲んでる最中なんつぅ事はおかまいなく連れ戻される気分が味わえただろ」 「なっ…だ、だから、それはあんたが夜遅くまで戻らないからじゃないか」 むっとなって言い返すネルだが、今日のアルベルは簡単に言い負かされてはくれなかった。 歩きながら、首だけ振り向いて用意していたようにアルベルの反論が始まる。 「今日のお前も同じだろう。いつまで飲んでんだ」 「いつまで、って、第一そんなに遅くなんて…」 「お前が俺を連れ戻すのは大体こんくらいだぞ」 「それは、次の日が朝早かったり、あんたがその日怪我したりみんなよりも多く戦闘してたりしてたからじゃ…」 「今日のお前にも大体当てはまってるだろその条件」 「………」 言い返す言葉が見つからなくなって、ネルが閉口する。 悔しそうに睨みつけてくるネルに、アルベルは喉の奥で笑いながら口を開く。 「まァ、これで少しは有無を言わさず連れ戻される事の強引さを学べただろ」 「…まぁ、ね」 そっぽを向きながら答えるネルの反応に満足したのか、アルベルは後ろに捻っていた首を戻し、ネルの数歩前の距離を保ったまま歩く。 ネルは悔しげにその背中を睨んでいたが、何も言い返しはしなかった。 しばらく、数歩の距離を空けたまま二人何も言おうとせずに宿屋への道を歩いていたが。 「…まったく。そんなくだらない仕返しの為にわざわざ迎えに来るなんて、本当いい性格してるよね」 ぽつりと呟いたネルの声が聞こえたのか、アルベルがまた振り向く。 「…なんだ、期待したのか?」 「は?」 「俺がお前を心配して迎えにきた、とでも思ったか?」 「なっ…!」 思わず声を上げそうに、いや実際少し大声を出してしまったネルだが、今が深夜に近い時刻だとすぐ思い出して慌てて口を閉じる。 「…そんな期待、するわけないじゃないか。あんたなんかに心配してもらっても嬉しかないよ」 一部を除いて静まり返った街に気を遣ってか、心持ち小声になってネルがぼそりと呟く。 小さな声だったが、夜の冷えた空気はその声をきちんとアルベルの鼓膜まで伝えたようで。 「あぁそうかよ」 「当たり前だろう」 「心配して損した」 「だからあんたなん、か、に…?」 威勢よく言い返そうとしたネルの台詞が、不自然に区切られながら発音された。 思わずぽかんとしたネルの目には、前を向いたままふん、と鼻を鳴らすアルベルが映る。 「お前、普通の酒には強いがアーリグリフの酒には弱いだろうが。いつもの感覚で飲んで潰れてんじゃねぇかと思ったが」 「え、」 「それに最近は減ったがガラ悪ぃ酔っ払いもまだ多いんだよ、お前一応女だろうが、ちったぁ警戒しやがれ」 「私はそこまで弱くなんか、」 「目覚めがいいからって休息を疎かにしていいわけねぇだろうが、いつも俺にとやかく言うならまずお前が実践してからにしろ」 「………」 ことごとく台詞を遮られ、ネルが押し黙る。 アルベルももう何も言おうとしなかったので、自然と沈黙が流れるが。 「…あははっ」 唐突にネルが笑い出して、アルベルが条件反射のように振り返る。 「何笑ってやがる」 「いや、だってさ。あんたにこんな事で説教されるだなんて思いもしなかったから」 「…」 何気に失礼な事を言われた気がするが、夜闇の中でぼんやり見えるネルの表情が嬉しそうな苦笑だったので。 アルベルは怒鳴り返す事はせず押し黙る。 「…悪いか」 「いいや、全然。それにしてもあんたがねぇ…」 「しつこいぞ」 「それだけ意外で驚くべき事なんだよ、これは」 くすくす笑うネルにアルベルはむっとした顔を向けるが、拗ねているようにも見えるその表情はまったく迫力がなかったのでネルはさらに笑った。 「…でもさ、それなら私の気持ちもわかったんじゃないのかい?」 「あ?」 唐突に笑い止んで口を開いたネルに、アルベルが短く聞き返した。 いつの間にかアルベルの隣に並んで歩いていたネルは、少し怒ったような顔をしてアルベルを軽く睨む。 「いつまでも宿屋に戻ってこないあんたを、心配、して迎えに行く私の気持ちも、わかったんじゃないのかい」 「………」 わざと一部を強調して言われたネルの台詞に、今度はアルベルがぽかんとする。 「ガラ悪い酔っ払いがまだいるんだろう。あんた血の気多いから大喧嘩になって怪我してんじゃないかとか」 「…んな奴らに負けるほど俺は弱か、」 「人一倍戦闘好きで、最近は殊勝な事にようやく仲間を気にする事もなんとか身につけてきたあんたが、体力消耗してないわけないんだし」 「…」 「これからアーリグリフはさらに寒さが厳しくなるんだ、酔って帰り道で眠りこけて凍死なんてことになったら大変だし」 「…おい」 最後のは違うだろう、と反論しようとするアルベルだが、先にネルが口を開く。 「まぁとにかく、これでわかっただろう。私があんたを毎回毎回迎えに行ってる気持ち」 今度はネルが悪戯の成功した子供のようににやりと笑う。珍しい表情にアルベルが一瞬瞬くが、やがてふ、と息で笑って。 「…少しはな」 「だったら、これから少しは自重することだね」 「へいへい」 先ほどまで言い負かされて悔しそうな顔をしていたネルが得意気に言うのを見て、アルベルは思わず苦笑いしながらおざなりに返事をした。 |