まず目に入ったのは、見慣れた華奢な背中だった。
いつも黒い衣服を纏った、折れてしまいそうなか細い背中。
見慣れているはずのそれが何故か儚く見えて。
今にも消えてしまいそうで。
思わず、手を伸ばす。
これまた見慣れた赤毛の髪に触れる寸前、黒の背中が振り向いた。
振り向いた女の顔は、無表情だった。
「…どうした?」
声をかける。
女の表情は変わらない。どこか空虚な、茫漠とした虚ろな目のまま、ただ立っている。
「おい?」
もう一度声をかけて、表情の失せた女の頬に手を伸ばしてこちらを向かせる。
女がこちらを見て、その菫の瞳に俺が映って。
そこでようやく女の表情が変わった。
「…ふふ」
女は薄く笑って、しかもいつもの笑みではなく、嘲るような笑みを浮かべて。
「あんたは、いつまで続けるつもりだい?」
「は?」
「…こんな、曖昧な関係を、いつまで私と続けるつもりだい?」
多少主語が補われた台詞を、もう一度繰り返される。
だが一瞬その台詞の意味が理解できなかった。
「…どう言う意味だ」
「そのままの意味だよ。私達は、元は敵同士なんだ。戦争を、殺し合いをしていた国同士なんだ。…なのに一緒にいる。恋愛をしている。おかしいだろう?」
「………」
我知らず眉根が寄った。
それを見たからか、女の表情がまた嘲るような笑みに変わる。
「夢から覚めなよ、歪のアルベル」
そう言った女の手には、女の得物である短刀が握られていた。
「私達は、本来殺しあうような関係だっただろう?」
女の短刀が、ぎらりと鋭く煌いた。
「いつまた戦争を始めるかわからないだろう?私達の、お互いの国は」
俺の体は動かなかった。
「それなのに、どうして一緒にいる?おかしいじゃないか」
女の握る短刀が、俺の喉元に突きつけられた。
「…夢から、覚めな。アルベル・ノックス」
休戦協定以来聞かなかった、俺のフルネームを呼ぶ女の声が、響いた。





夢のアト





「………―――っ」
思わず衝動的に起き上がった。
まず目に入ったのは、暗闇。
大きく息をついているうちに目が慣れてきて、見慣れた部屋の内装が目に映る。
ここは、―――昨日泊まった宿屋の一室だ。
そして先ほどの光景は、夢―――
ようやくそれに気づく。
「…うぅ、ん……」
小さな声と共に、寝ていたベッドのシーツが引っ張られる感触。
視線を横にずらせば、夢に出てきた赤毛の女が幸せそうな顔して眠っていた。
何故か、安心した。
認めたくはないが、安心してしまった自分は恐らくあの夢をまだ引きずっているのだろうと思う。





夢は、見た当人が心の中で気がかりになっていること、恐れている事を見るものらしい。
だとしたら俺は、再び二国が戦争になることを内心どこかで恐れているのか。
こいつと、―――再び刃を向け合う事を、恐れているのだろうか。
そう思ってしまった瞬間、自分自身に苦笑がこみ上げてきた。
有り得ないことではないというのに。
想像したら背筋が凍るように寒かった。
俺はいつの間にこんなに弱くなった。
自問自答しても当然答えは出ない。
―――簡単に答えが出たら、そもそも疑問に思わない。



ごろり、と横になる。
赤毛の女のあどけない寝顔が目の前にある。
まだ背筋に残る、嫌な悪寒を振り払いたかった。
もう一度眠ってしまえば、またあの夢の続きを見てしまいそうで、すぐに眠りたくなかった。
そう思った瞬間、気づいたら女を抱きしめていた。
暖かい柔らかい女の体が心地よかった。





「…んん……」
女が顔を顰めて声を上げた。
両腕に力を入れすぎたか。そう思って少し力を緩めた。
が、女は表情を顰めたまま、よく聞き取れないがうめいている。
不思議に思いながらもさらに腕の力を緩めると、女がぼんやりと薄目を開けた。
「あるべ、る?」
寝起きの所為か掠れた小さな声が俺を呼んだ。
普段通りの女の呼び声に、安堵感がこみ上げた。
女はしばらくぼぉっとしていたが、やがて目の焦点を合わせてこちらを見て、
「アルベル」
もう一度俺の名を呼んで、ふにゃりと微笑んだ。
あぁ、寝ぼけている。そう思った。
こいつがこんなにぼんやり無防備に笑うのは珍しいから。
だがいつも通りの、嘲りなど一切含まれていない穏やかな幸せそうな笑みに、また安堵した。
微笑んで、またそのまま寝入るかと思った女が、何を思ったか猫のように擦り寄ってきた。
むにゃむにゃと口を動かして、不明瞭な声を漏らす女を見て、あぁ、やはり寝ぼけている。またそう思う。
「……ゆめ、見たんだ」
「あ?」
「卑汚の風の影響かな…この頃よく悪夢みたいな嫌な夢、見るんだよね」
「…どんな夢だ」
「あんたと私が、また敵同士に戻る夢…」
一瞬、身動きが取れなかった。
寝ぼけ眼の女はそれに気づく様子もなく、また続ける。
「敵同士に戻っちゃって、すごくいやで、嫌だ嫌だって叫んでたら…目が、覚めて、」
また、女がぼんやりと、だが確実に幸せそうに、笑う。
「気づいたらあんたがぎゅーって抱きしめてくれてたんだ。…嬉しかった」
また、ふにゃりと女が笑う。
あぁ、さっきうめいていたのは、そう良くない夢を見ていたからだったのか。
俺と、同じように。



夢から覚めろ、と。
夢の中のあいつは言った。
ならば夢の中の俺が、夢を見ていたということだろう。
夢の中でも、夢は見るものらしい。
―――ならば。
今ここにこうして共にいる事すら夢ではないと、現実なのだと誰が言い切れる?



「…なぁ」
「ん?」
もしも。
もしも俺と同じ恐れを抱いたら、こいつはどうするのだろう。
幸せそうな笑顔を崩すのは忍びなかったが、気づけば口が勝手に動いていた。
「もし、…こうして共に寝ている今すら、夢だったらどうする?」
「え…?」
「現実は、お前が見た夢と同じように俺とお前が敵同士で、ここにいる今が夢だとしたら、…どうする」



女はぼんやりとした目のまま、ゆっくりと瞬いた。
「…そうだなぁ…」
まだ頭が覚醒していないのだろう女は、それでもぼんやりと考えているようで。
「もしも、今こうしているのが夢で、現実ではあんたと私が敵同士だとしても…」
ただ無言で待っていると、しばらくして答えが返ってきた。
「…それでも私、あんたに惚れると思うなぁ」
「…あ?」
「あんたが私の事好いてくれるかはわからないけど、それでも私、あんたに惚れると思うなぁ…」
相変わらず緩慢な口調で呟いた女の言った、台詞が。
「…何故、そんなことが言い切れる」
思いも寄らなくて思わず訊き返したら。
「…だって、」
女が笑う。



「…あんただもん」





その台詞を聞いた瞬間。
女の、幸せそうな笑みを見た、瞬間。





ああきっと俺はこいつに一生敵わない。
そう思った。





やはり眠かったのだろう、うとうとし始めて数分したら寝息を立て始めた女の体を、また包み込むように抱きしめる。
今はもう、あの夢の続きを見る事に恐れを感じなかった。
…もしもあの夢の続きを見たら、夢の中のあいつを今と同じように抱きしめてみようか。
夢の中のあいつはいったいどう反応をするだろう。
敵同士だと言い張るあいつに、先ほどこいつが言った台詞を囁いてみようか。
夢の中のあいつはいったいどう反論をするだろう。
色々と考えていたら、何故か夢の続きを見てもいいような気がしてきた。
…まったく現金なものだ。自分自身にまた苦笑する。





夢のアトも、悪くない。