「アルベル」



「…アルベル・ノックス」



「…あるべる・のっくす」



「あ、る、べ、る」



「アルベル、アルベル、あるべる…」



「…アルベル」





発音を声音を口調を変えて。
何度も何度も繰り返す。



膝を占領して我が物顔で眠っている誰かの名前をまた呼んだ。





きみの こえ





「あるべる」



「…ア・ル・ベ・ル」



「あるべるのっくす、アルベルノックス…」





「…なんだ」



十二回目で返事が返ってきた。
彼女にとっては予想外。
だけどもさほど驚かず、彼女はどこへともなくぼんやりと泳がせていた視線を落とした。
もぞりと動く不思議な色の髪の下から、紅い瞳が覗く。
覗き込む彼女を紅い瞳が見上げる。



「…ううん、別に」
「何も用がねぇのに何度も呼んで人の安眠妨害をするわけかお前は」
「別にあんたのこと呼んでたわけじゃないけど」
「は?俺の名前連呼してただろう?」
「でも、"呼んで"はいなかったよ。むしろ"詠んで"た、かな」
「…?」



不思議な色を浮かべる彼の紅い瞳に、見下ろす彼女の顔が映る。
その場に出来た即席の小さな合わせ鏡が瞬いた。
微妙に発音を違えて発せられた彼女の台詞のその意味を一生懸命考えているらしい寝起きの頭を彼女が撫でる。



「なんとなく、声に出したかっただけ。あんたの、名前」
「…んだそりゃ」
「なんでだろうねぇ。私にもよくわからないよ」
「………」



彼女は笑って、やはりぼんやりとしたまま彼の髪を弄る。
くすぐったさに彼が目を細めて、でも払いのけることはしない。



「…アルベル」
「…それも、"詠んだ"だけか?"なんとなく"?」
「…うん、そう、かな」



答えながらも、何故か思考は他のところへ行っているらしい、ぼんやりとした彼女を。
彼がいささか不機嫌になりながら見上げる。





「あるべる」



「アルベル・ノックス」



「あるべるのっくす」



「…アルベル、あるべる、アルベル」





また、呪文のように繰り返す彼女の声を静止する気も起きなくなったのか。
彼は目を閉じ、紡がれる唄のような彼女の声をただ聴いた。



静かな部屋、彼女の声だけが断続的に途切れ途切れに響く。





―――不思議だ。



特別音の綺麗な名前でもないのに。
特別気に入っている名前でもないのに。



彼の名前を自分が声にして出しただけ。
彼女が声にした自分の名前を聴いただけ。



なのに、





どうして?
こんなにもここちよい。



どうして、
こんなにもここちよい?





自分の声が紡ぐ彼の名前。
自分の名前を紡ぐ彼女の声。



どうしてこんなにも―――





いとおしい?





「どうしてだろうね」
「お互い惚れてるからだろ」
「あぁ、そうか」



…ん?



「…何で私の急な独り言に会話かみ合ってるんだい?」
「…そっちこそ、何で俺の返答に納得してんだ?」
「訊いてるのこっちだよ。あんた実は読心術でも会得してたのかい?」
「お前こそ」



見下ろす彼女と見上げる彼。
不思議な体勢のまま会話を続けて。



「…読心術云々言うっつぅことは…俺のさっきの返答で納得できるような疑問だったわけか」
「…さぁ、ね。とりあえず、かみ合ったんだから良しとしておこうよ」
「…そうだな」



不思議に思いながらも二人はそう結論を出した。





「…アルベル」
「………」
「…アルベル?」
「………?」
「…今のはちゃんと"呼んだ"んだけど」
「…今度は何だ?」
「…ん、いや、今は、ただなんとなく―――呼びたくなった、だけ」
「…そうか」
「…うるさいんだったら止めるけど?」
「いや、いい」
「?」
「別に…止める必要はない」
「あんたさっき安眠妨害だって言ってたのに?」
「…俺も、今は、ただなんとなく―――呼ばれたかっただけだ」
「…そう、かい」
「あぁ」





―――やはり、不思議だ。



大して好きでもない自分の声が。
大して好きでもない自分の名前が。



彼の名前を呼んで紡いだだけで。
彼女の声に紡がれて呼ばれただけで。





たからもののようないとしいものになった気が、した。



不思議だけれども―――嫌な気は、しなかった。
むしろ愛しいと思ってしまって、胸の辺りがくすぐったく暖まった。





不思議なくらい愛しい、きみのなまえと―――
きみの、こえ。