「あら」 「うげ」 顔見知り以上ギリギリ敵未満の坊やに会ったのはまったくの偶然だった。 背中にベルゼ様をくっつけた不良高校生は私の姿を見るなり思い切り顔をしかめて半歩後ずさる。失礼ねぇ。 「ごきげんよう、ベルゼ様。あなたもこんにちは。お久しぶりねぇ」 「ダ…」 「…何の用だよ」 ベルゼ様の人間界の親である男鹿辰巳くんは、明らかに私を警戒しながらそう答える。ベルゼ様が何か仰られようとしたのを遮った上に第一声が喧嘩腰だなんて本当に失礼な男。 「別にあなたに用なんてないわよぉ? 偶然会っただけなのに、そんなに警戒しなくてもいいじゃない」 「前殺されかけたんだから警戒して当然だろーが。それにお前には気をつけろって言われてんだよ」 くすくす笑いながら言うと、彼はほんの少しだけ警戒を解いたようで、だがやはりこちらをうかがうように睨みつけながら口を開く。 主語を抜かれた言葉におや、と思う。 「あらあら、あの高慢で高飛車で、ベルゼ様以外関心のない女のいう事を素直に聞いてるの? 素直というか、可哀そうな人間ねぇ…」 「…」 もし私が戦闘態勢を取ろうものならすぐに対応できるよう身構えているのだろう、間合いを取っている彼の目つきが鋭くなったような気がした。 焔王坊ちゃまにも鋭いとお墨付きを頂いた私の女の勘が、彼は自分自身が馬鹿にされたからではなく、ヒルダを馬鹿にされたから怒ったのだと告げる。 そういえば、初めて会った時も、下品な登場をしたあの女が魔力は空っぽのボロボロの状態であることに気づいて動揺していた。 …ふぅん、あの黒髪の娘に興味がなさそうだと思ったら、そういうこと。まったく、なんて悪趣味な。 別にヒルダの色恋沙汰に首を突っ込むつもりなんてカケラもない。反吐が出そうだ。だけど、あんな女に好意を寄せるこの男が哀れで、少しからかってやりたくなった。 「あなたも大変ね、あんな女がベルゼ様の侍女だなんて。どうせあなたの事も当然のようにこき使っているのでしょう?」 「…別に、もう慣れたし」 そうだ、この男が滑稽で哀れだから。それだけだ。 あのベルゼ様以外眼中にない、視野の狭い女を見ているこの男が可哀そうだから。それだけ。 「あらあら、あの女と違って心が広いのねぇ。もし私達が侍女だったら、もう少しはまともな待遇だったでしょうに」 反応を窺いながらくすくす笑ってみせると、彼はこちらを真っすぐに睨みながら、口を開いた。 「確かにヒルダは口うるせーけど、お前みたいなねちっこい事言ってくる女より100倍マシだっつの」 ぴしり、と体が固まる。 この、男、私が、一番、言われたくない、事を、あっけなく、言い放った。 「へぇ。誰が、誰より、マシですって?」 「は…?」 「イザベラは、あなたと協力する事も吝かではないと言っていたから、もう殺そうとは思ってないつもりだったけれど。殺さなければいいのよねぇ?」 「…、」 男が身構える。もう遅い。ベルゼ様には傷一つつけないように加減しないといけない。それだけ注意していればいい話だ。 下ろした手に得物であるモップを呼び出して握る。ゆらりと魔力が黒い影となって揺らめいた。 あんな女に情が移って、さらに私を女の下に見たこの哀れな男を、さてどうしてやろうかと考えた途端。 「坊ちゃまっ!」 今一番聞きたくない声が聞こえて、次の瞬間男の前に一番見たくない女が降り立った。 上空に影が踊る。アクババか。こんな女に飼い慣らされるなんて可哀そうに。 「ヒルダ…」 男が女の名前を呼ぶ。安心したような、それでもどこか焦ったような声で。 複雑そうな顔をした男を意に介した様子もなく、ヒルダはこちらを睨みつけている。 いい気味だと思った。女の視界に入らない男も、男の視線に気づかない女も。 そう思うとほんの少し溜飲が下がって、口元に笑みを浮かべる。 「あらあら、怖い顔しちゃってどうしたの? それにしても、あなたは品のない登場しかできないのねぇ」 「…何をしにきた、ヨルダ」 こちらの嫌味は無視か。相変わらず気に食わない女だ。 「別に、何もしてないわよ? 久しぶりにお会いしたベルゼ様と、そっちの契約者くんと少しお話をしていただけ」 「よく言うぜ」 男が吐き捨てるように呟く。どうだっていい。 だけどヒルダは一瞬だけ後ろの男を横眼で見遣った。違和感を覚えるが、考える前にヒルダが口を開く。 「そうか。ならばこのまま立ち去るがいい」 「あら…いきなり出てきて失礼な事を言うのねぇ。私の方こそあなたにこの場から消え去ってほしいんだけど」 その前にやる事がある。ヒルダの後ろにいる、禁句をあっさり言ってくれた坊やにお仕置きが必要だ。 「そこの坊やにお礼をしないといけないのよねぇ」 にっこりと笑ってみせてから、ちょうどよく吹いたそよ風に乗るようにして自分の体を転送した。 ごく短距離の、だが人間から見れば瞬間移動のように見えるであろう次元転送の行き先は、ベルゼ様をおぶったままの無防備な男の背中だ。 「ダブっ」 「てめっ…」 ベルゼ様の声に気づいて男が振り返る。大丈夫ですよベルゼ様、少しこの口のきき方をしらない坊やにお仕置きするだけですから。 振り向いた男の鳩尾あたりに魔力を込めた一撃でも入れてやろう。気絶はするだろうが死にはしないはずだ。 薄く笑ってモップを逆に構えた、次の瞬間。 「男鹿ッ!」 聞いた事もない、焦りと怒りの感情を表したヒルダの声に、一瞬だけ動きが鈍った。 人間の反射神経では到底間に合わない速度で繰り出したはずの得物は、男の前に立ちふさがった女の剣であっさりと弾き返された。 アスファルトの上で硬質な音を立てているモップを目で追って、私は敵が目の前にいるという状況にも関わらずどこか呆然とその宿敵に視線を戻した。 「この男が何をしたのかは知らんが、坊ちゃまを危険な目に巻き込もうとするのなら容赦はせん」 ああ、いつも通りのヒルダだ。だって一番危険な立場にいたあの男の事なんて気にもかけてない、いつも通り、ベルゼ様の事にしか興味がない、世界が狭くて可哀そうなヒルダだ。 …でも、先ほどの、感情の籠った声で呼ばれたのは、誰の名前だった? 「…うるさいわねぇ。失礼な事を言ったのはその坊やよ。少しお仕置きしようと思ったけれど、これ以上あなたを視界に入れるのも精神衛生上良くないものね。今日の所は引き下がってあげる」 呆然としながら、それでも口はぺらぺらと勝手に言葉を紡ぎだしていた。 「…?」 私の様子に気づいたのだろう、ヒルダが不審そうな顔をした。後ろの男も、ベルゼ様ですらもきょとんとこちらを見ていた。 少し離れたところに落ちているモップを魔力を伸ばして拾い上げる。ヒルダが背中にかばっている男を一度睨みつけてから、ベルゼ様に向かって小さく会釈する。 最後にヒルダを見てにっこりとたっぷりの嫌味を込めて笑ってやってから、その場から立ち去った。 先ほどいた道からさほど離れていない、ビルの屋上を行き先に選んで舞い降りる。 この距離ならば魔力を遮断すれば気づかれないだろう。わざわざ気配を消してまで、視界に入れるだけで虫酸が走る女と、最も言われなくない禁句を言った男を見下ろした理由はよくわからない。 声は届かないが、見下ろした先には私が消えた事を確認したものの剣はまだ収めていないヒルダと、私が消えた場所をじっと眺めて(睨んでいるのかもしれない)いる男鹿辰巳。 それからしばらくして、ヒルダが詰め寄るような形で何かを言って、それに男鹿辰巳も何かを言い返している。男鹿辰巳がベルゼ様をヒルダに手渡して、ヒルダはベルゼ様を抱きしめて無事を確認しているようだ。 男鹿辰巳は後頭部を掻きながら何かを言って、ヒルダが噛みつくようにまた何かを言い返した。男鹿辰巳は少しからかうように笑って、ヒルダは言葉に詰まったように顔を逸らす。それを見てまた男鹿辰巳が笑った。 普段は腹の立つくらい動じないヒルダは、遠目から見てもわかるくらい思い切りそっぽを向き、男鹿辰巳を背にして歩きだす。男鹿辰巳は肩をすくめてヒルダの後を追い、やがて二人は自然に並んで同じ歩調で歩いて行く。 私は何も言わないまま、何もしないままただそれを見ていた。 ベルゼ様を抱き、男と並んで歩く女は、私の知っているヒルデガルダではなかった。 「…っ」 気づいてしまう。気付いてしまった。 ヒルダの視界にいるのは、今はベルゼ様だけではないことに。 ヒルダの世界には、ヒルダを見ているあの男がいて、そしてヒルダもあの男の事を見ていることに。 どうしてこういう時にもいつも通り勘が働いてしまうのか。 以前は焔王坊ちゃまに褒めて頂き、そしてヒルダよりも優れている点の一つとして誇らしく思っていた勘の鋭さが、今はこんなにも恨めしい。 ヒルダはベルゼ様以外眼中にない、狭い世界にいる可哀そうな存在であったのに。あったはずなのに。 ある意味、ヒルダの弱みを見つけたと言えるのに。ヒルダの得たものはきっとそれ以上なのだろうと理解してしまって、ぎりりと歯を噛みしめる。 「気に入らないわっ…、ああもう、本当に気に入らない…!」 無意識に呟いた言葉は、当然誰の耳にも届くことなく、もちろん背を向けて男の家へと帰路についているあの女の耳にも届かない。 閉塞世界のゆるやかな崩壊を見る ------------------------------------------------------------ いろいろな方の影響で、ヨルダがヒルダさんに抱く思いはちょう複雑で愛憎入り混じったとんでもねぇカオスなのがいいなぁと思うようになりました。 ヨルダが片思いして告白して付き合えた人に、「ごめん、実はヒルダさんが好きで、よく似た君なら好きになれると思ったけどやっぱり無理」とか言われて静かに狂気を抱き始めるヨルダ…とかだったら滾るな! たぶん本編では「なんかキャラかぶってるむかつく同族嫌悪」の一言(?)で済ませられる気がしますがね…。 |