「お義姉様に聞いたのだが、貴様は夏休みの宿題をいつも最終日まで手をつけず一夜漬けで終わらせているそうだな」
「…あー、まぁ、うん」
「坊ちゃまの手本とならねばならない貴様が、宿題ひとつできなくてどうする! 今年はそのような適当な真似は許さんからな!」
侍女悪魔である彼女に有無を言わさぬ迫力を伴いながらそう言われ。
「ダッ、ダブ、ダッ!」
さらに、大魔王のきまぐれで送られてきた宿題を無事(?)こなした証であるメダルを指差し、次はお前の番だ!と言わんばかりに幼い魔王が胸を張った。
二人分の視線を受けた彼は、机の上に放置された宿題をしばらく眺め、はぁ、とため息をついた。



それから彼は、いつも夏休み最終日に徹夜でとりあえず形だけは終わらせている夏休みの宿題と格闘することになった。
毎年、なんだかんだ言いつつ投げ出さずに最終日に形だけは終わらせていた宿題を生まれて初めて最終日前に終わらせた彼がばたりと床に倒れたのが昨日、つまり8月30日ギリギリの時刻。
久しぶりにとんでもなく頭を使ったが、これで夏休み最終日はゴロゴロ過ごせる、と味わった事のない爽快感と共に眠りに就いた彼だったが。
「起きろ、良い天気であるというのに何をゴロゴロしておる」
いつも通り、いやいつもよりも早い時刻に叩き起こされて、彼は二度寝も許されずいつも以上に不機嫌そうな顔をさらに顰めてしぶしぶ起き上がる。
「あ、おはよー。やればできるじゃない、こんなにゆったりした8月31日初めてでしょ。これもヒルダちゃんのお陰ねー」
「あーそーだなー」
彼女に味方したのか、最終日に一夜漬けの突貫工事をすることを許さなかった姉を恨めしげに見て、彼は適当に返事をする。
あくび混じりに朝食を取り始めるが、にまにまと面白そうに笑っている姉の視線に気づいて彼は首を傾げた。
「なんだよ」
「んー、別に? あ、そだ、誕生日おめでと。いい誕生日になるといいわね」
彼はぱちり、と目を見開いた。今気付いたと言わんばかりの彼の反応に美咲が呆れたように肩をすくめる。
カレンダーを見て、今日の日付を確認して。彼は後ろ頭をぼりぼりと掻いた。
いつの間にか一つ年を重ねていたことに気づいて、だが特に何の感慨もなく彼は朝食の味噌汁をすすった。
そういえば毎年、夏休みが終わり、さらに宿題を終わらせなければいけない日として、あまり誕生日にはいい思い出がなかったような気がする。
こんなにのんびりとした余裕のある心境で誕生日を迎えるのは久しぶりかもしれない、とそこまで考えて、ふと結果的にこの状況を作る原因になった彼女の顔が思い浮かんだ。
そういえば、別に夏休み中に終わらせればいいというのに、妙に最終日前に宿題を終わらせろとうるさかったような気がする。
最終日まで残すような情けないことは許さん、とか言っていた気がするが、もしかして他にも何か考えがあったのだろーか。
「…いやいや、ねーよな」
あいつに限って、と彼は一瞬思い浮かんだ考えを追い出すかのように勢い良く白米をかきこんだ。



「…おい」
宿題も終わらせたしやることもないし、家でだらだらゲームでもしようと思っていた彼は、幼い主を抱いてどうやら出かける準備をしているらしい彼女を見て思わず呼び止める。
「む?」
「どっか行くのか」
「うむ。今日はショッピングセンターで開かれているごはん君のイベント最終日だそうだからな」
「夏休み中何度も行ったじゃねーか…。つか、ベル坊連れてくってことはオレも一緒に行かなきゃならねーだろーが」
「そうだな。それが何か?」
当然そうに頷く彼女を見て、彼は肩を落としながら盛大にため息をつく。
「昨日までぜんっぜんできなかったゲームの続きやりてーんだけど」
「戯け。いつでもできるであろう。ごはん君のイベントは今日で最終日なのだぞ」
彼女の腕の中の幼い魔王も同意するように声をあげて、元々説得しきれると思っていなかった彼は再びため息をつく。
「それに、今日は…」
「ん?」
カレンダーを見やりながら呟いた彼女に彼が驚いたように聞き返すが、彼女は表情一つ変えないままに続ける。
「野菜の日、らしいからな」
「は?」
素っ頓狂な声を上げた彼に、彼女は真顔のまま続ける。
「8月31日、数字の読み方の語呂合わせでやさいの日、なのだろう? 新鮮な食材がいつもよりも安価で購入できるならば行かない手はない」
「…」
「あと、他にも」
「!」
「今日はさーてぃーわんの日、とやらなのだろう? 坊ちゃまがお好きなアイスクリームの店が、店の名前にあやかっていつもよりも割り引いておるらしいからな」
「ダッ!」
「…」
歓声をあげる幼い主に笑顔を向けた後、彼が何とも複雑そうな変な顔をしているのに気付き、彼女は不思議そうな顔をする。
「何だ」
「…いや。お前がサーティーワンの日とか知ってたのが意外だっただけ」
「当然だ。坊ちゃまが過ごされる世界で、坊ちゃまに必要とされるであろう知識を蓄えておかねばならぬからな」
誇らしげに語る彼女を彼はつまらなさそうに一瞥し、いかにも面倒くさそうにソファから立ち上がる。
「着替えるのならば早くしろ。坊ちゃまを待たせるな」
「…ったく、しゃーねーな」
結局今日も、この魔王と悪魔に振り回されるいつも通りの一日か。
そんな事を考えつつ三度目のため息をつきながらリビングを出て行く彼の背中を彼女がじっと見つめていた事は、当然彼は気付かなかった。



昼過ぎに開かれるというごはん君のショーを見て、アイスを食べて食材を買って帰宅。
一日の予定はそれで終わりかと思っていたが、なかなかどうして幼い魔王とその侍女はそれでは満足しなかったらしく、ショーが終わりアイスを食べ終えたその後も彼は二人に付き合っていくつかの店を回ることになった。
幼い魔王が興味を示した店や、
「お義姉様やお義母様から頼まれているのでな」
そう言いながら彼女が彼に幼い主を預けて言いつけられた物を買いに行く事もあった。
「なんで女っつー生き物は買い物が好きなんだろーな」
「ダブ?」
今回買い物をしている彼女は頼まれているだけとはいえ、それを頼んだ我が家の女性陣を思い浮かべながら彼はとりとめもなく幼い魔王を会話をして時間をつぶしていた。
やがて買い物を終えて生活雑貨店から戻ってきた彼女は、幼い主にお待たせしましたと会釈し、彼に立ち上がるように促して歩き出す。
「まだあんのかよ」
彼女の抱えている紙袋に彼が手を伸ばし、彼女は紙袋を渡した代わりに彼の手から幼い主を受け取った。
「いや、これで頼まれたものはすべて揃った。あとは食材だな。野菜の日特売だとチラシに書いてあった事もチェック済みだ」
幼い主を大事そうに両手で抱えながら彼女が答える。
「あっそ。んじゃとっとと済ませて帰ろーぜ」
彼女が誕生日を知っているのかもしれない、という期待はもはや頭から追い出したようで、意外と自分の誕生日はイベントづくしの日だったのか、と開き直って感心している彼を見て。
「…」
彼女はまた何事かを考えた後、結局何を言う事もなく彼から視線を外した。



やがて食材の買い出しも終わり、何事もなく彼の家まで辿りつく。
玄関の扉を開ける寸前、彼は覚えのあるいい匂いがただよっているのに気づいて、すん、と鼻を利かせた。
「お、この匂い、コロッケじゃね?」
そういえば中学の頃は宿題漬けでほぼスルーだったけど、なんだかんだで家族は祝ってくれていたな、と思いながら扉を開けようとする彼だったが、
「ニョッ!? ダ、ダブ、ダッ!」
「んあ?」
後ろから幼い魔王の声がして、コロッケの匂いでいい気分になっていたところに水を差すなとばかりに彼が振り向く。
「さぁ、坊ちゃま」
彼女が何事かを促して、幼い魔王はダ、と呟いてこくりと頷き、彼をじっと見上げて口を開いた。
「ダっ! ダッダ、ダブ!」
「…?」
突然、ビー玉のような目をキラキラさせて何事かを言った幼い魔王を見て頭の上にハテナを浮かべた彼だったが、彼が幼い魔王に訊き返す前に彼女が口を開いた。
「…誕生日おめでとう」
「…!?」
目をぱちりと見開いた彼に、彼女は視線を逸らしたまま続ける。
「そう、坊ちゃまが言って下さっている。有難く思え」
「…」
ぽかんとしたまま彼は彼女の腕の中の幼い魔王を見る。彼の反応を待っているらしい幼い魔王がキラキラと目を輝かせているのを見て、彼はふ、と表情を緩ませた。
「…おー」
とりあえずそれだけ返し、ぐしゃぐしゃと幼い魔王の頭を撫でる。幼い魔王は笑顔になってきゃっきゃとはしゃぐように笑った。
にぃっと笑って幼い主を撫でている彼と、はしゃいでいる主を見て、彼女は少しだけ口元を緩める。
「坊ちゃまにお祝いの言葉を頂けたこと、光栄に思うがいいぞ。それと、今日は貴様の予想通りお義母様の特製コロッケだ。お義姉様もケーキを買ってきて下さっているようだし、楽しみにしているがいい」
そう言って、幼い主を連れて彼女は彼の隣をすり抜け、ただいま帰りました、と挨拶をしながら先に家へと入っていく。
その背中を見送りながら、ふ、と彼が笑う。
まさかあの赤ん坊が自分の誕生日を知っていて、祝おうとするとは思っていなかった。
思ったよりも喜んでいるらしい自分に気づき、なんだ結局自分は誕生日を祝われたかったのか、と少し気恥ずかしい気分になりながら、家に入ろうとして。
「…」
そういえば幼い魔王からは祝われたが、あの侍女悪魔からは結局祝われていないということに気づいて彼は思わず足を止めた。
ある意味祝いの言葉をもらえた、と言えるかもしれないが、あれは魔王の言葉を伝えただけで彼女自身に祝う気があったのかどうかは疑問であるし。
「…別に、どーでもいーし」
どう見ても"どうでもよさそう"には見えないような拗ねた表情と声音で呟いた彼は、どこか釈然としない気分のまま玄関へと足を向けた。



彼女の予告通り、食卓にはほかほかのコロッケが並んでおり、食後にはショートケーキも用意されていた。
さすがに「おたんじょうびおめでとう」と書かれているホールケーキは出てこなかったし年の数の蝋燭を吹き消すこともなかったが、彼は満足そうにたらふくコロッケを平らげ、いい気分のまま部屋でケーキを頬張っていた。
食べるスピードも速く、好物だからと言って味わってゆっくり食べるということもしないのであっという間にケーキを食べ終わり、さてゲームでもするかと床に座った彼だったが、直後に部屋に入ってきた彼女と抱っこされた幼い魔王を見てゲーム機を用意する手を一瞬止める。
「また遊ぶ気か」
「また、って、別にいーじゃねーかここ最近やってなかったんだんだからよ」
「…ゲームをするのはまぁいいが、音量を落とすかヘッドホンでやれ。坊ちゃまはもうお休みになられるそうだ」
言われて顔を上げると、確かに彼女の腕の中で幼い魔王はうとうとと船を漕いでいた。
「なんだよ、早えーな」
「お出かけの際にはしゃいでおられたからな」
優しい手つきで主をベッドに寝かせて上掛けをかける彼女と、むにむにと寝言なのかわからない言葉を呟いているお休み三秒前の幼い魔王を見て、彼は意気をそがれたように準備したゲーム機を結局起動させることなくコントローラーを床に置いた。
しょうがないから漫画でも読むか、と本棚に手を伸ばそうとした彼だったが。
「…男鹿」
控えめに響いた声に振り向くと、少し離れたところにぺたんと座っている彼女と目が合った。
名前を呼ばれて振り向いたはいいが、それから一向に喋らない彼女を見て、彼が怪訝そうな顔をする。
「なに」
「…今日は、貴様の、」
珍しいことにもごもごと口ごもりながら小声でそう呟き、さらに珍しいことに言いかけて途中で止まってしまった彼女の言葉の続きを彼が待っていると、やがて彼女は一つ息をついてから口を開いた。
「…誕生日だったのだろう」
「おー。そうだけど」
彼が軽く答えると、彼女はどこかバツが悪そうに俯いてしまう。
なんだか自分がいじめているかのような気分になってきた彼がおい、と声をかけると、彼女は顔を上げて、彼を見てしっかりと目を合わせて口を開く。
「誕生日、…おめでとう」
それだけ言って、彼女は照れたように視線をそらしてしまう。が、緊張を解いたようにふぅっと大きく息を吐いているのを見て、ぽかんとしていた彼が苦笑する。
「…ありがと。つか、なんでそこまで緊張してんだよお前」
彼女はちらりと彼を見てから困ったように視線を下げ、ぽつりと口を開いた。
「…随分前から、貴様の誕生日が今日である事は、知っていた」
「…」
「坊ちゃまも、貴様の生まれた日を祝いたい、と。仰っていたから、今日一日を無理やりにでも空けさせた。坊ちゃまが祝って下さるというのに、当の本人が宿題を片付けるために缶詰になっていては意味がないからな」
「だからあんだけ宿題終わらせろって急かしてたのかよ」
昨日まで、にやけにこだわっていたのはそういうことだったのか、と納得したように彼が呟く。
「本当は、朝、貴様を起こした時に、おめでとう、と言おうと思っていた」
「ん?」
「それから、朝食後でも、出かけている間でも、いつでも言う機会はあったはずなのにな…。どうしてだろうな、たった一言言う為にここまで気力を使うとは」
「さっき言ってたじゃん。ベル坊が言った時」
「あれは坊ちゃまが貴様にお伝えした言葉だ。だから、…きちんと、私の言葉で言いたかったんだ」
そう言って苦笑いをする彼女を見て、嬉しいようなむず痒いような、なんとも表しがたい気持ちになって。
「お前さ、…本当にオレの事好きなんだな」
彼がくく、と笑う。彼女は眉を顰めて彼を見る。
「何故そうなる」
「だってどーでもいいヤツの誕生日なら、そもそも祝わないだろうし祝うにしたって簡単におめでとうって言えるだろ。そんだけいつ言おうか迷って緊張して気力使うって、相当オレの事好きってことなんじゃねーの」
ずっと前、初めておかえりって言った時も似たような感じだったよなー、と笑う彼に、彼女は反論しようと口を開きかけるが、ぐっと詰まって悔しそうに再びそっぽを向く。
「図星?」
「…黙れ」
「嫌だね。今ものすごいお前に好きって言いたい気分だし」
そっぽを向いていた彼女が驚いたように振り向いた。
その反応が思っていたものと違ったのか、にまにまと笑っていた彼はきょとんとしたように目を瞬かせた。
「え、何それ」
「…いや。なんでもない」
そう答えた彼女の脳裏に、少し前の美咲との会話が蘇る。



―――今月の31日、たつみの誕生日なのよ。そう、8月31日。
いっつも宿題漬けでロクに祝わないからさー、たまにはちゃんとしてやんないとって思うんだよね。今年はヒルダちゃんもいるんだし。
ヒルダちゃん、宿題終わらせるの協力してくれる? え、だって、奥さんとしてはあんなんだけど一応ダンナの誕生日だし、ちゃんと祝ってあげたいでしょ?  ならあたし達もちゃんと祝える環境つくったげたいしね。
それにねー、8月31日って野菜の日とかも言われてるけど、実は、"I love youの日"らしいよ。理由は忘れたけど。英語の分節かなんかが由来だったかな? 
誕生日だし、たまには伝えてみるのもいいんじゃない? アイラブユー。



「…」
突然黙り込んでしまった彼女を見て、彼が不思議そうな顔をする。
「おい?」
「…好きだ」
「!?」
顔を覗きこもうとした途端、滅多に聞けない言葉が彼女の口から滑り出てきたのを聞いて彼はばちりと目を見開く。
「…え、ちょ、なに、急に」
「うるさい。貴様も言いたい気分だったのだろう。私もそんな気分だっただけだ」
そう言いつつもばっちり赤くなっている顔を見られないように俯く彼女を見て、ぽかんとしていた彼はにまりと笑い。
「オレも好きだぞー」
「…」
俯いていた彼女が少しだけ顔を上げて、彼と目が合うとまたぱっと視線を外してしまう。
普段は凛として多少の事では動じない彼女が、照れると少女のような初々しい反応をするのを見てああこいつ可愛いなあとか思いながら彼は彼女に手を伸ばす。
「何だ」
「いや、こーしたい気分だったから」
そう言いながらすっぽりと彼女を腕の中に収めて緩く抱きしめる。彼女はされるがままに彼の腕の中に収まって、彼に体重を預けてきた。



―――いい誕生日になるといいわね。



朝言われた言葉と、言われた時のにまにました様子の姉を思い出し、彼は少しだけ憮然としながら、降参したようにふ、と笑う。
ここ数年で、いやもしかしたら生まれてきてから一番、いい誕生日だったかもしれない、と思いながら、彼は腕の中の彼女の頬に手を伸ばした。



アイスと野菜とアイラブユー