それから一週間程の時間が過ぎた。 一見、彼と彼女のやりとりはいつも通り、以前通りに戻ったかのように見えたが。 「なぁ、男鹿…」 「なに」 「や、…なんでもね」 古市がつっこむことを躊躇いつつやめる程度に、彼は覇気がなく、ぼんやりすることが増えた。 「ダブ」 「坊ちゃま? どうされましたか」 「アー…」 幼い魔王が小さく戸惑う程度に、彼女も元気がなく、何かを考えるように遠くを眺める事が増えた。 何より、以前は登校途中だろうが教室だろうが屋上だろうがお構いなしに繰り広げられていた口喧嘩がぴたりとなくなった。 以前ならば幼い主と片時も離れる事のなかった彼女が、昼休みに彼と、そして彼から離れることのない幼い主と共に昼食を取らなくなった。 幼い魔王の世話をしている最中、ふと手が触れ合った時。彼女は驚いたように手をひっこめて、彼はしまった、と言いたげな表情をして、わり、と気まずそうに目を逸らしていた。 そんな光景が続いていれば、何かあったと周りが勘づくのも当然で。離婚か別居か家庭内冷戦か、と噂が尾ひれをつけまくりながら流れ出した頃。 「ヒルダ姉様」 「…む? どうした、ラミア。学校まで来るとは珍しいな」 「えっと、なんだか急にヒルダ姉様のお顔が見たくなっちゃって!」 昼休み、中庭の木陰にあるベンチでお弁当を広げていた彼女を見つけて、こっそりと様子を見に来ていたラミアは思わず駆け寄って声をかけていた。 彼女はラミアを見て、ふ、と笑う。いつもの優しい彼女の笑みがどうしてか寂しそうに見えて、ラミアはぎゅっと両手を握る。 いつもならば幼い魔王と、そして彼と一緒に屋上でお弁当を食べていることをラミアは知っている。その場所には大抵、今回彼女が元気がないことと、その原因であろう彼とのやりとりをラミアに伝えた古市もいたのだから。 古市に教えてもらうまで姉様の元気がない事を知らなかったなんて、と悔しく思いつつも、一人きりで静かに食事をしている彼女を見て一瞬目を伏せてから、ラミアは思い切って口を開く。 「あの、…姉様が元気ないのって、あの男とケンカしたから…ですか?」 箸を持つ彼女の手が一瞬止まる。中途半端に上げられた箸を下ろしてから、彼女が静かに口を開いた。 「元気がなさそうに見えたか?」 「あっ…えっと、その」 ここで肯定すれば、彼女は気を遣わせまいと無理に気丈な振る舞いをするのではないか、そんな懸念が頭をよぎって、ラミアは答えに困る。 が、うろたえているその様子が何よりの肯定だったようで、彼女はふう、と小さく息をついた。 「普段通りに振る舞うと決めたはずなのにな」 自嘲するように笑う彼女を見て、ラミアはとっさに何か言おうと口を開く。 「ヒルダ姉様が落ち込む必要なんてないですよ! あの男に何て言われたかはわからないですけど、あんなヤツの言う事真に受けちゃだめです!」 古市は、彼女と彼の間でちょっといざこざがあったみたいで、と肝心な部分を教えてくれなかった。 だからきっと、あの男が姉様を落ち込ませるような事を言ったんだろう、と検討をつけて文句を口にしたラミアだったが、悲しそうに苦笑した彼女を見て、予想が外れた事に気づいてぎくりとなった。 「…そうだな。何を言われても相手にせずに、真に受けずにいれば、良かったのかもしれないな」 「…」 目を伏せる彼女を見て、これはただ事ではない、とラミアは再認識する。そもそもあの口数の多い古市が、困ったように言葉を濁していた事や、いつも凛としている姉様がこんなにも気落ちしている事からして、ただのケンカではない、とは思っていたが。 「…ヒルダ姉様。その…、男鹿に、何て言われたんですか? 私で良ければ、愚痴でもなんでも聞きます」 自分が踏み込んでしまうことで、姉様を傷つけるかもしれない。でも、自分が話を聞く事で、ふさぎこんでいるらしい姉様の傷を癒すことができるかもしれない。 どうか後者であれ、と祈るような気持ちで恐る恐る口にしたラミアに、彼女は目を伏せて視線を落したまま、地面を見つめながら答えた。 「好きだ、と言われた」 「へっ…? な、なんっ…!?」 カケラも予想していなかった答えが帰ってきて、目をまん丸にして驚くラミアを見て、彼女はおかしそうに笑う。 「そ、それで、姉様はなんて」 「ああ、…当然、断ったよ。私は坊ちゃま以外の存在を想うわけにはいかない」 「…」 以前から、姉のように慕ってきた彼女が、幼い主に生涯尽くすと決めている事を、ラミアは当然知っていた。 だから、彼に好きだと告げられた彼女の答えは、予想できるはずだったのに。 なぜだか寂しいような切ないような気持ちになって、ラミアはまた口ごもった。 正直、強さは認めるが粗暴で適当で高貴さのかけらもない男の事は好きではない。…体を張って助けようとしてくれたことは、一応感謝しているが。 大好きな姉様や大切なベルゼ様に対してぞんざいな扱いをしている男を蹴っ飛ばしたことは二度や三度の話ではない。 だけど、二人がまるでただの知人か他人のようなやりとりをしていると聞いて、ほっとするよりもらしくない、そんなの変だ、と思う気持ちの方が強かった。 この状況をなんとか打破できないかと思って、今日ここまで来たのだから。 「私は」 珍しく、彼女から口を開いた。考え事をしていたラミアははっとしたように顔を上げる。 「坊ちゃまの為に生き、坊ちゃまと共に在る。今までもそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。それはずっと変わらない。坊ちゃまのお傍にいる事が、私にとっての幸福だ」 そこで一旦言葉を止めた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。つられたようにラミアも視線を追う。 彼女の視線の先には、彼女の仕える主とその親代わりの彼がいるであろう屋上があった。彼女とラミアのいる位置から見上げてもその姿が確認できたわけではないが、彼女は屋上を眺めながら口を開く。 「私は坊ちゃまのお傍にいたい。…そして、できる事ならば、坊ちゃまと、男鹿の、傍にいたい」 ラミアは目を見開いた。二人の距離が縮まっていることは薄々感づいていたが、彼女の口からはっきりと告げられて、まるで自分が告白されたかのように心臓がどきんと鳴った。 「だから、あやつの気持ちに答えることはできない。恋愛事にうつつを抜かして、侍女悪魔失格と見なされるわけにはいかないからな。…あやつに言われたからとはいえ、一時の間だけだとしても坊ちゃまから離れてしまっている自分など、既に侍女悪魔として失格かもしれんが」 ずっと屋上を見ていた彼女が、視線を下げる。 一瞬だけ見えた辛そうな表情の後、何かを吹っ切るかのように息をついた彼女を見て、ラミアは思う。 ああ、姉様は、私の大好きな姉様は、あの男のことが本当にすきなんだ。だからこそ、その想いを一生告げずにしまっておくつもりなんだ。 誰かが誰かを好きになって、お互いに同じ想いだとわかったら、それは素敵で、幸せな事だろう。だけど目の前の彼女は、まったく幸せそうには見えなかった。 だけど、無責任に侍女悪魔失格なんてそんなことないです、と言える程、ラミアは子供ではなかった。それは、一つ間違えば侍女悪魔として生きる事に誰よりも誇りを持っている彼女の今までの人生と、これからの人生のすべてを否定しかねない。 それに、悲しい事にベルゼ様よりも自分の主君に手柄を、と考える輩は魔界に山ほどいる。侍女としてとても有能で、強さも申し分のない彼女を邪魔だと思う輩も同じようにいるはずだ。ラミア自身も大いに巻き込まれた、焔王の取り巻き共との一件がいい例だった。 少しでも付け入る隙を見せれば、彼女は彼女自身が危惧して恐れたように、大切な主君や傍にいたいと思える存在から引き離されてしまうかもしれない。 引き離されてしまうだけではなく、最悪の場合、彼女と彼、どちらかが、この世から欠けてしまうかもしれない。 「ヒルダ、姉様」 「ん?」 何を言えばいいかわからなかったが、何も言わないままいる事は嫌で。 「何があっても、…私は、ベルゼ様と、ヒルダ姉様の味方です」 なんとか絞り出すように伝えた本音に、彼女はふふ、と笑う。 「…ありがとう」 彼女は笑ってくれたが、やはりその笑顔はどこか寂しそうで、何かを諦めたようで。 ラミアは彼女にこれ以上心配をかけないようにえへ、と笑って、気づかれないようにぎゅうっと自分の着ている白衣を握りしめた。 「おい、起きろこのドブ男」 「…は…? ヒル、ダ?」 「何をしている、早く起きんか。朝食を食べ損ねても知らんぞ」 次の日から、彼女は彼の前でも以前のような振る舞いをするようになった。 突然元の態度に戻った彼女を彼は戸惑ったように見ていたが、やがて彼も徐々に以前のようなぞんざいな、だるそうな態度に戻っていく。 以前に比べれば軽いが、口喧嘩をする事もぽつぽつとあって、幼い主が安心したように久しぶりのはしゃぎ声を上げた。 それを見て、彼女はほっとしたように息をつく。 これでいい。少しずつ以前のような関係に戻れるだろう。きっとあやつも、以前のように目を輝かせて喧嘩をするようになるはずだ。私の事を気にかけて、困ったような寂しそうな顔をすることもなくなるだろう。 そうなることは喜ばしいはずなのに、何故だか悲しくなって、彼女は誰もいない部屋の中で一人ため息をつく。 彼女は今まで通りに振る舞うようになったが、その代わりに、誰もいないところでぼんやりと何かを考えるようになった。 誰かの、特に彼のいる場所では、普段通りであるように努めて気を張っていた彼女は、家族全員がリビングに行った事を確認してからふぅ、と息をついて食後の皿洗いを始めた。 ぼんやりと考え事をしながらも、彼女は淀みのない手つきで食器の汚れを落としていく。やがて物思いにふけっている間に洗い物は片付き、布巾で水気を拭き取っていた彼女は手に取った一枚の皿を見てふと思う。 彼女が作ったコロッケが載っていた皿だった。自分の作った料理が、魔界とは勝手の違う料理事情があるとはいえ、あまり美味しいと呼べるものではないと彼女は自覚していた。最近は、口に入れた瞬間誰もが青ざめる程の破壊力ではなくなってきたとはいえ。 だが、練習も兼ねてそれなりの量を作っていたはずなのに、今自分は空になった皿をこうして洗っている。大部分を誰が食べたかなんて、考えなくてもわかっていた。 帰り途、歩きながら美味しそうにコロッケを頬張る顔を見るのは、嫌ではなかった。 自分が作ったものを食べて、同じように満足そうな顔をしてくれればいい、と、そう思っていた。 「…」 がしゃん。 気を抜いた一瞬、彼女の手から皿が滑り落ちて、気付いた時には床と衝突して派手な音を立てて割れていた。 「ヒルダ!」 真っ先に聞こえた、焦りを含んだ声と慌てたような足音。 焦りと心配を混ぜ合わせた表情の彼と目が合った瞬間、彼女はびくりと肩を揺らして逃げるように顔を逸らしていた。 「ヒルダちゃん!? やだ、大丈夫!?」 彼の隣をすり抜けてリビングからすっ飛んできた美咲を見て、はっとなった彼女は慌てて頭を下げ、床にしゃがみ込む。 「申し訳ありません、考え事をしていて…」 「いいよそんなの、あ、そんな急いで拾わなくていいから! 怪我したら大変でしょ。たつみ、掃除機持ってきて!」 同じようにしゃがみこんで大きい破片を取り除きながら美咲の口から出た名前を聞いて、彼女の手がぴくりと反応して止まる。 思わず顔を上げると、先ほど目が合った瞬間から動かずにいた彼も、はっとなったように反応して掃除機を取りにリビングへ引き返すところだった。 「…」 せっかく最近、以前のような振る舞いができてきていたのに。あやつも徐々に前の態度に戻ってきていたのに。 気を抜いてしまったことを心底悔やみながら、彼女は割れた皿の破片を拾い上げる。粉々になった皿を見て、なんだか今の自分や、今の自分と彼の関係を見たような気がして、彼女はまた自嘲気味に笑った。 「では、私は部屋へ戻る。坊ちゃまの様子に何か異変があればすぐに呼ぶのだぞ」 あれから、いつも通りであるように気を引き締めながら振る舞っていた彼女が、幼い主が無事すやすやと寝付いたのを確認し、彼の部屋を出ようと立ち上がった時。 「待てよ」 ずっと何か言いたそうにしていた彼が、だがそれに気付かないようにしていた彼女に、ぽつりと声をかける。 「…」 彼は無言のままの彼女を見ながら自分自身も立ち上がって、再び口を開く。 「訊きたい事があんだけど」 「…二人きりになるなと言ったのは貴様の方だろう」 「近づくなって言っただけだろ。オレが言いたい事ある時はいーんだよ」 「…なんだそれは」 勝手に自分ルールを作って簡単に例外を認める彼に、彼女は呆れたように笑う。 少し、いつもの調子を取り戻したかのように見えた彼女だったが。 「…なんで、振ったお前の方がへこんでんだよ」 次に言われた台詞に、彼女は目を見開き、後ろめたそうに顔を逸らした。 「…気のせいではないか」 そう言いつつも、彼女は彼の目を見る事ができない。何より、今まさに困ったような辛そうな顔をしていることに自覚がないらしい彼女を見て、彼ははぁ、とため息をつく。 「んなわけねーだろ」 彼女がそんな顔をしている事、そんな顔にさせている原因が自分の発言であるだろう事に、やり場のない怒りと歯痒さを感じながらも、彼は口を開く。 「ヒルダ」 「…何だ」 「侍女悪魔は、恋愛しちゃいけねーって決まりでもあんの」 彼女が顔を上げる。驚愕したような悲しそうな、複雑な表情をしていた。 「…そんなものはないが」 「じゃあ、大魔王様とやらが恋とかすんなって言ったのか」 「そんなわけなかろう。大魔王様はそのような不寛容な方ではない」 「じゃあ、…お前が恋愛する事で、お前にとってベル坊以外の事を考えたくない、って以外になんかまずいことでもあんの」 静かに、だが有無を言わさない口調で質問を重ねてくる彼を、彼女は眉を顰めながら睨みつける。 「先ほどからいったい何のつもりだ。貴様は私にとって、坊ちゃま以外の事を考えてしまうということがどれだけ大ごとかを理解していないようだな」 少々の怒りを込めた彼女の視線に、彼はさらに上回る憤りを感じながらぎりり、と歯を噛みしめる。 「じゃあ、本気でベル坊の事だけ考えてればいいじゃねーか! なんで最近元気ねーんだよ、なんでオレの事見る度に辛そうな顔してんだよ!」 彼女は目を見開いた。彼に言われた事、彼が気づいていた事、そう言った彼の憤るような辛そうな顔。それらすべてが胸に突き刺さるような気がして、心臓がずきりと軋んだような気がした。 「…っ、き、さまには関係な、」 「んなわけねーだろ! 言ったじゃねーか、オレはお前が好きだって! お前がオレの所為で悩んで辛そうな顔してんのに、ほっとけるわけねーだろ!」 先ほどよりもさらに大声で言い放った彼は、言った後ではっとなったようにベッドで眠っている幼い魔王を見遣る。 どうやら今日は熟睡しているようで、幼い魔王はすぴすぴと小さな寝息をたてていて、ほっとしたような顔をした彼が再び彼女を見た。 少し落ちついた彼は、押し黙ったままの彼女を見て小さく息をつく。 「…なんで黙ってんだよ。前みたいに、無駄に偉そうにしてりゃいーんだよ、お前は」 いつもよりも距離が遠く、人二人分ほどのスペースを開けて立っていた彼女に向けて、彼が一歩踏み出した。 一歩分の距離を開けて目の前に立った彼が、歯痒そうな辛そうな顔をしているのを見て、彼女の心がずきんと痛む。 いつもだるそうな、喧嘩以外に興味のなさそうな顔をしているくせに。そう言いたい気持ちを彼女はぐっとこらえる。 彼にそんな顔をさせてしまっている原因がなんなのか、痛いほどよくわかっていた。 「お前さ、オレのこと、本当はどう思ってんの」 「…」 「オレの気持ちに応えられない、とは言ってたけど、…なんとも思ってねーんなら、そんな顔しねーよな」 彼女は奥歯を噛みしめる。答えられずに黙っている間も、彼は彼女を真っすぐに見ていた。 じっと見つめてくる彼の視線を感じながら、彼女は先ほど彼の尋ねた質問とその口調から、一つの可能性に思いあたってしまう。 彼は、彼女の本当の気持ちに、既に勘づいてしまっているのではないか。 一瞬、何かを言おうと口を開いて、彼女は慌てて何かを口走りそうになった自分を抑える。 そうであったとしても、彼女は自分からそれを口にする事だけはできなかった。 「なぁ、ヒルダ」 「…」 「…好きだ」 「…!」 普段、眠そうな顔をして何を言うにも気だるそうにしている彼の、静かな低い、真剣な声が届いて。 何かに耐えかねたように顔を上げた彼女は、気づけば彼の胸倉を掴みながら口を開いていた。 「やめろ。これ以上、これ以上私の中に入ってくるな。これ以上私に、貴様の事を考えさせるな!」 「…」 「これ以上貴様の事を考えるようになってしまえば、私は侍女悪魔として、為すべき事ができなくなる」 「…なんでだよ。オレの事好きになったからって、ベル坊そっちのけでオレの事しか考えられなくなるような恋愛脳じゃねーだろ、お前」 「普段の生活ならばいい、だがもしも坊ちゃまと貴様、同時に危機が迫り、どちらかしか救えないとしたら? どうすればいいかなど明白であるというのに、このまま貴様を心の中に留めておけば、私はきっと一瞬であっても迷ってしまう! もしも、その結果どちらともを救えなかったら? そうならぬ保証はどこにもない!」 絞り出すように告げて、彼女は自嘲気味に笑う。 「…そうでなくとも、今の私は坊ちゃまから離れたり、坊ちゃま以外の事で頭を悩ませてしまっている。私を疎ましく思う輩が、貴様を私の弱点だと見なして、貴様の命を狙うようになるかもしれん。…余計な火種を持ちこむような真似は、したくはない」 「お前…」 「安心しろ。もう大分心の整理もついてきている。少し時間はかかるかもしれんが、今まで通り振る舞うことは可能だ。もう、貴様に心配をかけて煩わせる事はしない」 彼の胸倉をつかんでいた手を離して、彼女が手を下ろす。何かを諦めたような顔をして、彼女は笑う。 その手が下りきる前に、彼の手が彼女の手を掴んだ。 「…おい」 彼女の非難の声を聞きながら、手は離さないままに彼は昼間の出来事を思い出す。 ―――ヒルダさんは、ベル坊がすべてだ、って言ってたんだろ? お前は軽くとらえてるかもしれねーけど、たぶんヒルダさんにとってはそうじゃねーんだよ。 ―――ヒルダ姉様の立場も考えなさいよ! 自分が言ったことでどうなるか、どう影響が出るのか一瞬でも考えた? アンタは自分の一言で、魔界の勢力一個が動きかねないって事、いい加減自覚したらどうなのよ! 昼間、まったく別々のタイミングだったけれど、古市とラミアが自分に言ってきた言葉を、彼は何度も思い返した。 確かに自分は考えなしに思った事をすぐ言動や行動に移すことがある。だけど、決して嘘は言っていないし、もし自分の行動でなにかまずい事が起きたら、それをなんとかするために全力を出してどうにかしてきたのも、まぎれもない自分だ。 彼女を悩ませてしまったのが自分なら、それをどうにかするのも自分しかいないはずだ。 もしも彼女も、自分の事を好いてくれていて。 だけど何か理由があってそれを伝えられず、悩んで苦しんで辛そうな顔をしているのだとしたら。 その忌々しい原因をぶっ飛ばしてぶっ壊してやる。 彼は彼女の、翡翠の色をした瞳を真っすぐに見た。彼女はそれに気付き、俯いて目を逸らす。 「ヒルダ」 「…」 彼女は答えない。彼を見ようとしない。 だが彼は構わずに、彼女の手を離さないままに口を開いた。 「もし、オレとベル坊、両方になんかあったとしても。それで、どっちを助けるかお前が迷ったとしても」 「…」 「オレは自分の身くらいどーにかするし、ベル坊だってオレが助ける」 彼女が逸らしていた顔を上げた。 視線を上げた先には、珍しく真面目な、真剣な顔をしている彼がいた。 「初めてベル坊が来た時だって、ちゃんとベル坊の事護っただろ」 言われて、彼女は彼と初めて出会った日の事を思い出す。 主の危機に、自分よりも速く飛び出して、身を挺して助けようとして。結果危機を退けてしまった彼を、思い出す。 「オレの命を狙うヤツら? そんなのも、オレが全部ぶっ飛ばす。第一、ベル坊の親やってやるって決めたんだから、そんなん今更だ」 彼が笑う。不敵な、怖いものなど何もないと言わんばかりの、いつも通りの彼の顔だった。 「で?」 「…?」 「お前がオレの事、好きだって言えねー理由って、他に何だっけ?」 自信満々な、まるで自分の言った事が真実だと1ミリも疑っていないその笑顔を見て、思わず、涙が出そうになった。 ああ、だめだ。 ここ数日、平静を装おうとして、でもどうしてもできなかった理由。 彼が辛そうな顔をしているのを見て心が痛んだ理由。 気づいていたけれど、一生本人に告げることはしまいと決めていたこと。 たった一人の人間が、無鉄砲にも幼い主を護り、自分の身も護ると言い張っているだけで、本当に実行できるかなんて保証はないはずなのに。 彼の言葉を信じたいと思ってしまった。 自分の気持ちに嘘はつけないと思ってしまった。 彼の言う通り。 彼に、思いを告げられない理由が、なくなってしまった。 「…ふん、そもそも、私が貴様を好きであるという事実など、どこにもないかもしれんぞ」 少しだけ、いつもの調子を取り戻したように不遜に笑った彼女を見て、彼はむ、と口をとがらせる。 「…今までそれについてあんだけ弱気んなってぐだぐだ悩んでたくせに、今更違うってのかよ」 「坊ちゃま以外の事で悩んでいたことは認める。が、貴様の事を好きであるかどうかは関係ないのではないか?」 「てめー…」 恨みがましげに、だが少し焦ったように睨んでくる彼を見て、彼女はくす、と笑った。 「…そうだな。何を弱気になっていたのだろうな、私は」 「…」 彼女は、握られたままだった彼の手を、そっと握り返す。 彼がそれに気づいて何か言おうとする前に、彼女はいつもの凛とした表情で、口を開いた。 「自分が坊ちゃまに及ぼされる危害を増やす原因になってはいけないと考えるあまり、視野が狭くなっていた。私がこのような情緒不安定な状態では、例え危害を増やす事がなくとも、侍女悪魔として坊ちゃまをお護りすることなどできなかったな」 「…そーかもな」 「坊ちゃまの事以外を想うなど、侍女悪魔として失格だと思っていたが…。今後坊ちゃまも誰かに恋焦がれる事があるかもしれない。そんな時に適切な助言をできるようになる為には、私自身にもその経験がなければならないしな。私が成長して、坊ちゃまの事を考える事、別の存在を受け入れる事、両立できるようになればいい話だ」 「…なんだ、結局ベル坊の為でもあるのな。ま、そっちのがお前らしいけど」 く、と笑った彼に、彼女は無意識に表情を緩めた後、真っすぐに彼を見た。 「坊ちゃまや、…貴様に、降りかかる火の粉を増やすような真似をしたくない、と言ったのは、本心だ」 「…」 「私が狙われるのは一向に構わん。だが、私が原因で坊ちゃまや貴様に害が及ぼされるのは、絶対に嫌だった」 「…だから、それはオレがどーにかするって言っただろ」 自分に降りかかる可能性のある火の粉がどれだけ大きいかなどお構いなしに、はっきりと言い切る彼を見て彼女は苦笑する。 きっと、相手がどれだけの強さだとしても、たとえ生身の人間など一瞬で消し炭にできるような強さであっても、この男は同じように自分が護る、と言い張るのだろう。 坊ちゃまと、自分と、…そして、私を。 ある意味途方もなく無鉄砲で命知らずな一人の人間の戯言を、信じてみたいと思った時点でもう選ぶ道など決まっていたのかもしれない。 「…坊ちゃまに、そして貴様に及ぼされる危害が増えるかもしれないという懸念も、私が強くなってそれらを退ければいい。自分を変える事すら考えもしないで、ただ悩んでいるだけだったとは、どうかしていたな」 「ようやく気付いたか、阿呆女」 軽口を叩かれて、彼女はむっとしたように目を細め、軽く彼を睨む。 「ふん。貴様に言われなくとも私が一番わかっている。初めて直面する事とはいえ、これほどまで動揺するとは情けない限りだったな。坊ちゃまにも、貴様にも心配をかけ…、おい?」 神妙に謝罪をしようとしていた彼女は、急ににやにやと笑いだした彼に気づいて怪訝そうな顔をする。 「お前さ、…多分そうだとは思ってたけど、やっぱ誰かを好きになるのってオレが初めてだったんだな」 「な、…!」 かっと彼女の頬に赤みが差した。初めて見る彼女の表情に、彼がますます笑みを深くする。 「だから、誰もそんな事は言っておらんだろう! 第一そう言う貴様はどうなのだ!」 「ん? 誰かを好きになったのも、抱きしめたのもキスしたのも、お前が初めてだけど」 「…」 あっさりと認めた彼に、赤くなってムキになった自分が恥ずかしくなったようで、彼女は赤い顔を見られないように思い切り顔を横に逸らす。 いつも冷静で、滅多な事では動じない彼女の子供のような仕草に、彼はまた笑う。 が、ふと何かに気づいて、にやにや笑っていた表情を収めてから、口を開いた。 「つか、お前さ。そろそろ言えば?」 「何の事だ」 「オレの事、好きだって」 「…」 彼女は逸らしていた顔を彼にゆっくりと向けた。 「さっき、ベル坊にもオレにも心配かけた、とか言ってたけど。オレのこと避けたり顔見る度に辛そうな顔や泣きそうな顔されたりした事の方がオレは堪えたんだけど」 「…すまなかっ、」 「それはいーから、別のこと言え」 焦れてきたのか、少し棘の含まれてきている彼の声音を聞いて、彼女は一つ瞬きをして、彼を見上げる。 彼が握って、彼女も握り返していた手が、ゆるりと解かれた。彼が離された彼女の手を目で追おうとした瞬間、彼女の両手が彼に伸びてくる。 背伸びをした彼女が彼の首に抱きついて、彼が気づいた時には彼女の唇が彼のそれに重なっていた。 「…好きだ」 唇が離れた瞬間、本当に小さな声で囁かれた声が耳に届いた瞬間、彼は至近距離にいる彼女を思い切り抱きしめた。 「ん、…おい、苦しいぞ」 「…」 抗議はするが抵抗の一つもしない彼女の声を聞いて、彼は少し腕の力を緩める。だが彼女から離れようとも、彼女を離そうともしなかった。 「あー…、なんかもー、あー」 「何を言っている」 「わかんね。でもなんか今、…すげー嬉しい」 耳の傍で聞こえる彼の満ち足りたような穏やかな声に、彼女は少しだけ顔を赤くして。 「…わからないでもない」 同じように、穏やかな満足そうな声で、そう呟いた。 「アー…?」 彼と彼女のやりとりの間、ずっとすやすや眠っていた幼い魔王が、彼のベッドの上で不意に目を醒ました。 くるり、と顔を横に向けた幼い魔王は、親代わりの二人が睦まじげに寄り添っている事、とても穏やかな空気が流れている事に気づき、大きな目をぱちぱちと瞬かせて。 「ダブ」 嬉しそうに笑って、またゆっくりと眠りに落ちて行った。 |