腕の中にいる彼女の感触をなんだか懐かしい、と思ってしまって、彼は無意識に苦笑した。
何を笑っている、と問いかけた彼女に、なんでもねーよと軽く答える。
本当にたいしたことではなくて、ただ、一週間と二日彼女に触れていなかっただけで懐かしいという感想を持つほどに、彼女が傍にいることが日常化している事がくすぐったかっただけだ。
正確には、離れていたのは一週間で、二日は態度が変貌した彼女との距離を測りかねていて触れられなかっただけなのだけど、心情的には一週間と二日ぶりだ。
「ヒルダ」
声をかければ、彼の胸に背中を預けていた彼女が振り返る。
右手を彼女の頬へと移動させると、指先が彼女の金色の髪にさらりと触れた。
彼が何をしようとしているか察したらしい彼女が、ふ、と微かに笑って、横目でベッドの上を見遣る。
お腹の上にタオルケットを乗せた幼い魔王がくーくーと平和な寝息を立てていることを確認して、彼女は彼へと視線を戻す。
彼と視線が合うと、それが合図だったかのように彼女がゆっくりと目を閉じる。
彼女に顔を近づけようとした時、ふと彼は少し前の一悶着を思い出した。



お願いキスで目を醒ましてほしいの



―――ズバリ王子様の口づけというやつですねー
―――いつの時代も、お姫様を正気に戻すのは愛する者の口づけと相場が決まっているのです

―――もしかして、王子様の口づけって
―――ベル坊!?



「………」
ものすごーく複雑な気持ちになった彼が無言のまま動かずにいると、一向に近づいてくる気配のない事に気づいた彼女がぱちりと目を開けた。
何やら複雑そうな顔をしている彼を見て、彼女は不審そうに問いかける。
「どうした?」
「…いや、ちょっと」
あの時、さんざん彼女に「だんなさん」扱いされていたり、勘違いした周りがはやし立てて追いかけまわされたり、いろいろと要因はあったのだけど。
だけど、彼女の記憶を戻す"王子様"が自分だと思い込んでしまっていたのはまぎれもない事実で。
記憶喪失中のことだ、彼女は何も覚えていないはずだし、彼も何も言っていないのだから、彼女が知らないことだとはいえ、なんだか気まずくて無言のままでいた彼を見て、彼女はしばらく不審そうな顔のままだったが。
「何を躊躇しているのかは知らんが、何もしないのなら離せ。読書に戻れぬだろう」
「は? なんもしねーとは言ってねーだろ」
「ならば何を考えこんでいる」
そう至近距離から問われたが、考え込んでいた内容を伝えるとすれば、今まであまり話題に出さなかった記憶喪失の間の事について触れることになる。
彼は一瞬悩んだが、ラミアから大体のことは聞いたらしいし、と彼は口を開いた。
「お前さ、記憶が戻った時のこと覚えてるか」
「ああ覚えているぞ。貴様が私の作った飯がまずいと言ってのけた時の事だな」
即答した彼女の目つきが一瞬で鋭くなったのを見て、彼は少し視線を逸らしながら話を続ける。
「…お前を元に戻したのはベル坊だったけど、そん時の事についてちょっと思い出しただけ」
「は?」
きょとん、と目を見開いた彼女を見て、彼もつられたように不思議そうな顔をする。
「坊ちゃまが、私を?」
「は? そこんとこは覚えてねーのかよ。ベル坊とキスしたから記憶戻ったんだろ」
それを聞いた瞬間、彼女の顔色がさあっと青くなって、そして一瞬後にはぼぼぼ、と真っ赤に染まった。
「わ、たしが、坊ちゃまと…!? そんな恐れ多い事を、いくら記憶を失くしていたからとはいえ…!」
「しょーがねーだろ、そうしねーとお前の記憶戻らないとかってあの細目エラ野郎が」
「な…! どうして私などの記憶を戻す為に、坊ちゃまがそのような…!」
私は何と言う事を坊ちゃまにどうお詫びをすればよいのかと土下座せんばかりの勢いで(だが幼い魔王を起こさないように小声で)後悔しているらしい彼女を見て、彼はやれやれと呆れながら口を開く。
「ベル坊だってお前に思い出してほしいと思ってたんだし、赤ん坊の頃のキスなんてノーカンだろ」
「そういう問題ではない、貴様は事の重大さをまったくわかっておらん!」
「なんだよ、嫌だったのかよ」
「嫌なわけなかろう! だから、そういう問題ではないと言っておる!」
再びぶつぶつと後悔やらお詫びの言葉やら術者である細目笑顔の柱将に対する恨みの籠った言葉やらを呟き始めた彼女を見て、少し前まで穏やかな雰囲気だったはずなのにどうしてこうなった、と彼はため息をついた。
そもそもの発端は彼にあるのだが、それは棚に上げて目の前で呪詛を吐いている彼女をどうしようか、と彼が考えていると、急に彼女が顔を上げて彼を睨みつけた。
「第一、記憶を戻す方法がキスだったのなら、貴様がすれば良かっただろう!」
「…は?」
「よりにもよって何故坊ちゃまと、ああ私は本当に何と言う事を…」
文字通り頭を抱えて激しく狼狽しつつ落ち込んでいる彼女を、彼はしばらく無言で眺めていた。



きっと彼女の中では、敬愛してやまない幼い魔王とキスするなどとんでもなくとんでもない話で、それを回避する手段の一つとして思い当った事を口走っただけなのだろう。
自分が言った言葉がどういう意味を持つのか、それを聴いて彼がどう思うか、そこまで考えが及ばないほどに狼狽していたというだけなのだろう。
だが、どういう状況下であったとしても、彼女が何気なく言った一言は、彼のもやもやした複雑な心境を晴らすには十分だった。



「なあ」
彼はまるで子供が悪戯をしかけるような、楽しそうで意地悪そうな笑みを浮かべて彼女に声をかける。
「続きすんぞ」
「…は?」
相当にうろたえていた彼女が少し落ち着いて、彼の方を見た。からかうような意地悪い表情を崩さないまま、彼が彼女の呟きに答えを返す。
「だから、さっきの続き。お前もしてほしいみたいだし?」
彼女は一瞬、何の事だかわからなかったようで眉根を寄せたが、数秒も経たないうちに何かに気づいたように僅かに目を見開いた。
「…もう遅いだろう。第一、今は正直そんな心境ではない」
「オレはそういう心境なんだけど」
「やめろと言っている。私は坊ちゃまにしてしまった事の重大さに打ちひしがれている最中だ」
言葉通りに、彼の腕の中にいなければ膝をついて崩れ落ちてしまいそうな彼女を見て、彼は少しだけ呆れたようにため息をついてから、口を開く。
「んじゃ、もしまた記憶喪失になったら、その時はオレが戻してやるから安心しろよ」



誰かが彼女にキスしなければならない状況で。
それはきっと自分であると思った彼と。
それなら彼がすればいいと思った彼女。



彼は王子でもなんでもないけれど。
もうひとつの条件はきっとクリア済みだ。
だから、きっと。



「…ふん、そもそも記憶喪失になることなど、もう有りえはしない」
「まぁ、そーだな」
「坊ちゃまの事すら忘れてしまうなど、私自身が許せないからな。何があっても、たとえ他の事はすべて記憶から消え去ろうとも。私はもう、坊ちゃまの事を忘れはしない」
少しいつもの調子が戻ってきたようで、そう意志の強い声ではっきりと言い切った彼女を見て、彼が笑う。
「そうだな。さっきは戻してやるとか言ったけど、記憶喪失とか、んな事はもうさせねーよ」
同じように、そうはっきりと言い切った彼を見て、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。



「たつみ」
「ん?」
あ、こいつまた名前で呼んだな、と彼が思った直後、彼女がすっと目を閉じた。
彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに合点が言ったようで再び彼女の頬に手を伸ばす。
先ほどまで相当な落ち込みようだったが、どうやら大分回復したらしいな、と考えながら、彼が彼女に顔を近づけて。
そしてしばらくの間、部屋に静寂が訪れた。





はずだったが。
「…え…、たつみ、さん?」
重なっていた唇が離れて、ゆっくりと目を開けた彼女の第一声に、彼は目をまん丸く見開いて。
「は? …はああああ!?」
隣で幼い魔王が健やかにお昼寝していたことも忘れて、驚愕の声を上げることになる。



(何があっても忘れないとか言ったそばからこれかよ!)
(え、いえ、あの、でも、大丈夫です、今までのことは忘れてませんし、坊ちゃまの事ももちろんわかります!)
(なんだそれややこしっ!)





----------------------------------------------------------------------------

もいちどちゅーしたらデレヒルダさんにチェンジしたら面白いんじゃないかなーと思った妄想。
多分もうちょっと続きます。