ギィィ



小さく聞こえた、扉の開くかすかな音。
夜の静けさに響いたその音は、ゼシカの耳に届いて。
ゆっくり、赤銅色の瞳が開く。
音は彼女の寝ていた部屋の右隣から聞こえてきた。
続いて廊下を歩く小さな足音と、階段を降りる規則的な音。



ゼシカは今日の部屋割りを頭に思い浮かべる。
グルーノという老人の好意で泊めてもらっているこの家。
構造もまだ正確には憶えていないけど、部屋割りくらいなら憶えている。
右隣の部屋を使っているのは―――ティリス。



そこまで理解したゼシカは、むくりと起き上がった。
ひやり、夜の涼しい空気が肌に触れる。
とりあえず、上着になるようなものを羽織って。
彼女も静かに部屋を出た。



キミと僕。



外は、静かだった。
聞こえるのは自分の足音と、吹く風が木々や草木を揺らす音。時折強めの風が吹いて、崩れかけている小さな岩をかたかたと揺らした。
彼女は無言で歩きだした。きっと、外に出ているであろう彼を探す。
左右を見回しながら歩いていると、やがて見慣れた背中が見つかった。
先程までいた家の目の前だが歩いていくには少し遠い、橋のように架かっている岩で出来た道。彼女に背を向ける形で座っていた。
座っている彼の視線の先には、夜空に浮かぶ真ん丸の、大きな満月。



「…ティリス」
控えめに、声をかける。
「―――っ」
少し離れているその場所からでも目に見えてわかるほど、彼の肩がびくりと跳ねた。弾かれるように彼が彼女の方に振り向く。
彼の黒い澄んだ瞳が彼女の姿を捉えて、表情がほっとやわらいだ。
「…なんだ、ゼシカか…びっくりした」
「なによもう、お化け見たような反応して」
いつもの、気の強い彼女の声が彼に届く。
「どうかした? こんな夜更けに」
「それはこっちの台詞よ…あ、ちょっと待ってて、今そっちに行くから」
少し距離のあるままでは話しにくくて。
彼女は言うが早いが早足で岩の階段を駆け上がり、彼の座っている岩の橋のところまで来る。
「…どうかした、はこっちの台詞。先に外に出たのはティリスでしょ?」
彼の隣に座りながら、彼女がもう一度問いかける。
彼は苦笑して、口を開く。
「ごめん、起こしちゃったかな?」
「え…ううん、それは大丈夫よ」
「それならいいんだけど」
ほっとしたように呟く彼を見て、彼女が少し悲しそうな顔をした。
「…私の心配してくれるのは嬉しいけど…。ティリスは平気なの?」
「え?」
彼が顔を上げる。
彼女は前を向いたまま、意図的に視線を外したまま答える。
「…グルーノおじいさんや、この村の人達は、なんだかティリスのこと知ってるみたいだったし…。尋ねてみても、曖昧に答えられてうやむやになっちゃって、結局わからず終いだったし。…そのこと、気になってるんじゃないの? だから、何か思うところがあったから、眠れずに外に出て来たんじゃないの?」
「…そんなこと、ないよ」
彼の力無い声が、控えめに夜闇に響く。
「嘘。じゃあどうして、こんな夜更けに外に出たの?」
「…トーポを探そうと思って…」
「昼の明るいときですら見つからなかったのに、満月とはいえこんな夜中に見つけるなんて無謀じゃない?」
「………」
彼が押し黙って、沈黙が流れて。
やがて観念したように彼が肩をすくめた。
「ゼシカには敵わないな…お見通しかぁ」
「当然でしょ? …何か不安なことがあったら、言ってくれて構わないんだから。私達、仲間でしょ? …仲間って、そういうものでしょう?」
「………」
悲しそうな顔をした彼が再度、口をつぐんで。
ややあって、口を開く。



「…不安なんだ」



「不安?」
聞き返す彼女に、彼が小さく頷く。
「うん。…自分自身じゃまったく憶えてない、僕の素性を知るのが不安なんだ」
「…どうして?」
彼は揺れる瞳で、でも表情はいつもの微笑のままで続ける。
「…物心付いたときから、家族も兄弟もいなくて。気づいたらトロデーン城にいて、生活して、いつの間にか兵士になって…。そんな毎日が、楽しくなかったわけじゃなかったけどね。でも…。僕はどこで生まれて、本当の親は今どうしてるのか、ずっと知りたかった」
「…うん」
「なんとなくは感づいてたんだ。自分は普通の人とは違うんじゃないかって…。だって呪いにかからないし、小さい頃の記憶はまったくないし。…こんな、普通に生活してたら絶対来ないような所で知るなんて思わなかったけどね」
「………」
いつになく、静かで神妙な面持ちの彼を見て、彼女は何と声をかけていいのかわからなくなる。
「僕は…一体、何者なんだろうね? 人間なのかな? それとも…竜人なのかな? もしくは、…それ以外の、何かなのかな」
「そんなこと…」
「ねぇ、ゼシカ」
彼の声の調子が変わって、彼女が思わず彼を見る。
彼は俯いたまま、呟いた。
「…僕の正体が…何であったとしても、これからも仲間でいてくれる?」



「―――当たり前じゃない!」
急に大声を出した彼女に驚いて、彼がきょとんと目を見開く。
「何言ってるのよ! ティリスの正体や過去を知ったとしても、ティリスはティリスでしょ? 何が変わるわけでもないわ。例えティリスが実は竜でした、って言われたって、私は前と同じようにティリスと一緒に冒険したいって思うわ! そんなの、ずっと、ずっと変わらないわよ!」
「―――…」
ぽかん、としている彼に、彼女は睨み付けるような視線を向けて口を開く。
「…もう、そんな事で不安になってたの? 大丈夫よ、誰もあなたを拒絶したりなんかしない。ヤンガスもククールもトロデ王も、ミーティア姫だって…皆、あなたが大好きなんだから」
―――それに、私も。
この言葉は言わずにおいて。
「だから、不安になる必要なんかないわ」
彼を元気付けるように、彼女が笑った。



「…ありがとう」
彼が、呟いて。
「僕は、僕だよね」
それはいつもの、彼の優しい声で。
彼の声がいつも通りになったのが嬉しくて、彼女の表情が晴れる。
「元気、出た?」
「ゼシカのお陰でね」
「そっか…良かった」
二人、笑い合って。
顔を見合わせた。



「ふぁ…」
彼が小さく欠伸をして。
彼女が呆れたように肩をすくめる。
「もう、こんな夜遅くまで起きてるからよ。明日も早いし、もう寝ましょう?」
「あー…うん。そだね」
欠伸によって涙の浮かんだ目をこすりながら、彼が立ち上がる。
彼女もスカートに付いた砂埃を払いながら立ち上がって、彼の隣に並ぶ。
「帰ろうか」
「うん」
並んで歩いて、もと来た道を辿る。
「明日も早いね」
「うん」
「…竜人王を倒したら、グルーノじいさんは僕の出生の詳細を話してくれるんだったよね」
「…うん」
彼はそこまで言って、立ち止まった。
「ティリス?」
彼女も立ち止まって、彼を振り向く。
彼は彼女の顔を見た。
「…明日も、一緒に頑張ろうね」
言って、彼は微笑んだ。
真っ直ぐな笑みだった。
つられるように、彼女も微笑む。
「うん!」



「大丈夫、もう不安になんかならないよ」
「えっ?」
グルーノじいさんの家に入る、数歩手前。彼がぽつりと呟いて、彼女が訊き返した。
彼は笑って、彼女の耳元で、
「―――ゼシカがいるからね」
そう言って。
彼はくるりと彼女に背を向けて、先に家へと入っていった。後に残されたのは、真っ赤になったまま固まっている彼女。
そんな彼女を見ているのは、空に浮かんだ大きな満月だけ。





そして―――
いつもは早起きな二人が、その日に限って二人揃って寝坊した事を昨夜何かあったのかよとククールにからかわれるのは、次の日の朝。