ばたばたばた、と、誰かの慌しい足音が聞こえて。 暖炉の前に座っていた黒と金が交じり合った髪の彼―――ラナの父親である彼は、何気なく視線をそちらにやった。 見ると、ラナが顔を伏せたまま階段を駆け下りてくるところで。 その様子がいつもと違って、彼は声をかける。 「おい、ラナ?」 だがラナはその声も無視して、不思議そうな顔をしている受付嬢の前をすり抜けて扉を勢い良く開けて外へ飛び出していってしまった。 「………、」 コートも着ずに、自分の声も無視して飛び出していったラナの様子が尋常でない事に気づいて。 彼は追いかけようと立ち上がる。 が、少し前にラナがいたはずの部屋へ、彼女が向かっていた事を思い出して。 彼は急ぎ足で階段を上がって部屋へと向かった。 「おい、何かあったのか?今、ラナがすごい勢いで外に―――」 扉を開けてそう声をかけた彼の目には、ベッドに腰掛けて憑き物が落ちたように項垂れている彼女が映った。 「…!? おい、ネル!」 彼が彼女に駆け寄って肩を掴んで揺らす。 彼女は力無い動作で顔をゆっくりと上げた。 「…アル、ベル……」 その顔がひどく悲しそうで辛そうで。 「何があった?」 彼は彼女の瞳を正面から見て再度尋ねる。 彼女は彼を見て、力無い表情のまま口をゆっくりと開く。 「…ラナ、に…」 「…何だ?」 「…お母さんの、子供じゃなきゃ、良かったって…」 「…!」 彼の目が、見開かれた。 「言われた、んだ…」 彼女の目から、涙が零れ落ちた。 「今、まで…私は、何も気づかずにいたんだ…ずっと傍にいたのに、あの子の傍にいたはずなのに…なのに、何も…」 彼女の手が、彼の服をぎゅっと掴む。 「あの子は…私が、アーリグリフの人間を殺した、私が、母親だってだけで、きっと、今まで…あの子自身には謂れのない事をたくさん言われて…それなのに、一人で抱え込んで…」 彼女がぐす、と鼻をすすった。 「元気がないのにも、気づいてたのに、私は、何もできなくて、何も、してやれなくて…ラナに…言われるまで、罵倒されるまで気づかずに、あの子を追い詰めてしまって…」 そう、思いつめたような搾り出すような声で彼女が言って。 しばらく沈黙が流れた。 「…悪かったな」 彼の腕が彼女の背に回る。 「え…?」 嗚咽を上げていた彼女が、顔を少し上げた。 「…もし…ここがシーハーツだったなら…。ラナに罵倒されたのは、シーハーツ人を殺した、俺だったはずだ」 「…そんな、事…」 彼女が彼を見る。 彼も、辛そうな顔をしていた。 「言ったじゃないか。二人で、二人で今まで犯した罪を背負っていこうって…。善悪関係無く考えれば、あの戦争で犯した罪は、アーリグリフもシーハーツも変わらないんだって…」 彼女が言って、 「…そうだな」 彼が苦笑した。 「だが…ならば、お前だけがラナに罵られる謂れもないだろう…?」 「………」 彼女が押し黙って。 「…いいや、私の方が、ラナと一緒にいる時間は多かった。…なのに、気づかなかったんだから…。やっぱり、私の方が責任は、重いよ…」 「………」 「ねぇ、アルベル」 彼女が力無い声で、呟く。 「…ん?」 「私は…。やっぱり、人の親なんかになる資格なんて、なかったのかな…」 「…、」 「人の親になんか、なっちゃいけなかったのかな…」 「阿呆」 彼が彼女の髪を、軽く握る。 「お前まであいつの存在を否定する気か」 「………」 彼女の目が、軽く見開かれる。 彼は彼女の耳元に口を寄せたまま、呟く。 「親になった以上…後悔なんかするんじゃねぇよ」 「………」 彼女が、少しの間沈黙して。 「…そう、だ、ね…」 そう呟いて、頷いた。 彼女は鼻をすすって、ごしごしと零れた涙を拭う。 顔を上げて彼を見上げた彼女の瞳には、凛とした光が戻っていた。 「…泣いて、弱音吐いてる場合じゃないよね。ラナを捜しにいってくるよ」 「…あぁ」 彼女の声にいつもの調子が戻っている事に安堵して、彼が頷く。 「あんたはここにいて。もしかして…あの子が戻ってくるかもしれないし」 「…。…そうだな」 彼は少し気の進まなそうにだが、了承して頷いた。 「じゃあ、行ってくるね」 彼女はベッドから立ち上がって、すぐ傍の椅子にかけられたラナのコートをとって。 ぱたぱたと急ぎ足で部屋を出て行った。 「………」 その後姿を見送った彼が、ふと気づいて眉根を寄せる。 ラナのコートは持っていった彼女。 当の彼女のコートは、暖炉の前の小さな椅子にかけられていて。 「あいつは…」 苦笑して、ため息をつきながら彼は立ち上がった。 宿屋から飛び出して、どこへ行く当ても無くラナは走って。 走っている間も自分がどこへ向かっているのかよくわからない。 ただ、気づいたら彼女の"秘密基地"である、寂れてもう使われなくなった古い教会にいた。 随分前にアーリグリフに来た時に友達に教えてもらった、誰もいない教会。 アーリグリフの街外れにあり、あまり人が来ない場所。 ここなら見つからないと思っていたのだろうか、ラナは自分の無意識の判断に少し感謝した。 ぎぎぃと重い音をたてながら、扉を開けてすぐに閉める。 そこにはやはり誰もいなくて、薄暗い教会の中は何故かラナを落ち着かせた。 歩いて教会の中へ入り、ここが使われていた時と同じように並べられている長椅子の一つに腰をおろして膝を抱えた。 抱えた膝に顔を埋めてため息をつく。暖かい吐息が服越しに膝に当たって、そしてすぐ冷めた。 「………」 その体勢のまま、ラナはただただ後悔していた。 ひどいことを言ってしまった。 たぶん、母親にとって、最も言ってはいけない言葉だったに違いない。 …お母さん、すごく、悲しそうな顔してた…。 ラナの脳裏に、母親の傷ついた表情がよぎる。 どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。 どうして…。 ラナの目から、涙が零れ落ちた。 声や嗚咽は、漏れなかった。 ただ涙を流して、ラナはずっと泣いていた。 ―――ぎぃぃ… しばらくして、扉が開く音が聞こえて。 ラナははっとなって、涙を拭うのも忘れて顔を上げた。 「…ラナ」 扉を開けたのは、母親である彼女。 「…おかあ、さん…」 絶対に見つからないと思ったのに。 呆然とそう呟いて、ラナは自分が泣いている事を思い出して慌てて顔を伏せた。 「…」 彼女はラナを悲しそうに見つめて。 扉を閉めて、ラナが座っている椅子に近づいた。 「………」 ラナはぎゅっと身を縮めるように膝を抱えて、顔を上げずに近づいてくる彼女の足音に身を竦めている。 彼女はラナの隣に座って、ラナにコートをかける。 「…どう、して…ここが…」 ラナが顔を伏せたままに尋ねた。 彼女は苦笑して、答える。 「大体は、雪に残った足跡でわかったよ。それと、もうここが使われなくなったって言っても、中に入れることも、知ってたからね」 「………」 ラナがまた、押し黙る。 彼女はそんなラナを見て。 ぽつり、と口を開いた。 「それに…、もしかして、ここじゃないかって、なんとなく思ったんだ…」 「…?」 不思議そうに、ラナが少しだけ顔を上げる。 彼女はラナの隣に座ったまま、目を閉じて。 しばらくしてから彼女はゆっくりと閉じた目を開いた。 「お母さんね…」 「…」 「ここで、初めてお父さんと出逢ったんだ…」 「…え」 ラナが思わず顔を上げた。 彼女はラナではなく、古びて使われなくなった教会を眺めながら、懐かしむように呟く。 「ラナより、少し小さいくらいの年の頃だったかな?シランドに住んでたお母さんが、初めてこの街に来た時のことだったよ。その日も雪が降っていて、お母さんはお母さんのお父さん…ラナにすると、おじいちゃんだね。その人に連れられて、ここにやってきた。その時は、真っ白で雪の降り積もるこの街が。本当に綺麗だと思ったよ」 「…今は?」 ラナが尋ねて、彼女は微笑んだ。 「もちろん、今もそう思っているよ。この街は本当に美しいって」 「………」 「それでね。お母さんはおじいちゃんのお仕事が終わるまで、この街の中を散歩してたんだ。はしゃいでいろいろ回ってたら、いつのまにか迷子になっててね。怖くなって、とりあえずこの教会に入ったんだ」 「………」 「その後、どうしようって泣きそうになってたらね…ラナのお父さんが、私を見つけてくれたんだ。…それが、お母さんとお父さんが初めてあった時の話」 「………」 彼女はまた微笑んで、視線をどこへともなくやりながら、続ける。 「それから、少し経って、お母さんとお父さんは、また出逢った。今度はアリアスで、お互いの父さんの仕事で、偶然出会ったんだ。その時一緒にいられたのは五日間だけだったけど、でも、とても楽しかったな…」 「………」 そうつぶやいた彼女の表情が、本当に幸せそうで。 ラナは何時の間にか引っ込んだ涙のことも忘れて、彼女の話を聞いていた。 「これは、後から思い出した事なんだけどね…。お母さん、その頃から…」 彼女が照れたように笑って。 「お父さんのことが大好きだったんだ」 「………」 「…どうやら、さ。実はお父さんもその時から、好いててくれたらしいよ?」 くす、と笑って、彼女が言う。 「だからね、」 彼女がラナを見る。 「これだけは、知ってて欲しい。お母さんとお父さんは、"政略結婚"で無理やり結婚させられたんじゃない。お互い好きになって、それでお互い望んで、結婚したんだって」 「………」 ラナの表情が、少し変わった。 「それにね。…正直言うと、結婚するかどうか、お互い決めかねてたんだ。もちろん、お互いに嫌いになったんじゃないよ。ただ、お母さんとお父さんは…お互いの国の人をたくさん殺してしまった。これは、変えようも無い過去で、事実だったから…」 「………」 「でもね。…そんな時に、ラナがお母さんのお腹の中にいることがわかったんだ。そのお陰で、お母さんとお父さんは、結婚する事ができた。…ラナはそのきっかけになってくれたんだよ」 「………っ、」 ラナの瞳に、引っ込んでいたはずの涙が浮かぶ。 「忘れないで。…ラナは、望まれずに生まれた子なんかじゃない。現に、あんたが生まれた時、本当にたくさんの人が喜んでくれたんだ。お母さんの友達も、お父さんの友達も、そして、戦争を望まない、シーハーツの人もアーリグリフの人も…。もう、戦争は起きないんだって。二つの国は仲良くなったんだって…。たくさんの人が、本当に喜んでくれた。ラナは、二つの国を仲良くさせた、すごい子なんだよ」 「………」 ラナの瞳から、またぼろぼろと涙が溢れた。 彼女はそんなラナの頭を撫でる。 拭っても拭っても溢れてくるラナの涙が止まるまで、二人はそのままずっと無言でいた。 「…お、かあさ、ん」 ようやく涙が止まりかけた頃、ラナがぽつりと呟いた。 「ん?なんだい?」 彼女が優しく問い掛けて。 「…ひどい事言っちゃって、ごめんなさい」 彼女は涙を拭いながら謝ったラナに、笑顔を向ける。 「ラナは悪くないよ」 「…でも…」 「こっちこそ、気づいてあげられなくて、ごめんね。…ラナはいつも我慢してくれてたんだよね」 「………」 悲しそうに微笑む彼女の顔を、滲んだ視界の中で見て。 ラナは涙を拭って、口を開く。 「お母さん」 「ん?」 「わたし、強くなるよ」 「…え?」 ラナが彼女を見上げた。 彼女のそれに良く似た、凛とした光を湛えた菫色の瞳だった。 「お母さんやお父さんのことの所為で、何か言われても。そんなことない、ってちゃんと言える様に。強くなるよ」 「………」 「もう、泣かない。…強くなる」 彼女が一瞬絶句して。 そしてくしゃりと顔を歪めて、ラナをぎゅっと抱きしめた。 「お母さん?」 「………」 彼女は答えず、ただラナを抱きしめる。 「どうしたの、お母さん?」 不思議そうに首を傾げるラナに、彼女はぽつりと言った。 「…ありがとう」 「え?」 「…あんたが生まれてきてくれて、本当に良かった」 「………」 ラナが一瞬目を見開いて。 そして笑って、答えた。 「わたしも、お母さんとお父さんの子供に生まれてくることができて、本当に嬉しいよ」 「…ありがとう……」 感情のこもった彼女の声が潤んでいた事に、ラナは気づかなかった。 「さ、帰ろうか。…お父さんも待ってるよ」 しばらくして、彼女がゆっくりと立ち上がった。 「うん!」 ラナも立ち上がって、彼女の隣に並んで歩き出す。 二人で並んで手を繋いで教会の扉を開ける。 教会の外に一歩踏み出すと、 「…話はついたか」 突然声をかけられて、ラナは肩を跳ね上げて驚いた。 「うわ!」 「…急に声かけるんじゃないよ」 対照的に、彼女は驚く素振りも見せずに声の主に言った。 教会の扉を開けたすぐ隣の壁に、ラナの父親である彼が凭れて立っていた。 「ラナが驚くだろう?それに、宿屋で待っててって言わなかったっけ」 彼女が彼に言って、彼は呆れたように肩をすくめて。 手に持った彼女のコートを見せた。 「あ…」 「ラナのコート持っていったはいいが、自分の忘れてってどうすんだよ阿呆」 言いながら彼が彼女にコートをかける。 「………」 その様子をぼんやり眺めていたラナに、彼が視線を遣った。 「ラナ、お前もだ。何でせっかく持ってきてもらったコート、ちゃんと着てねぇんだよ」 そういえば羽織ったままだった、とラナが気づいて、慌ててボタンをつける。 「…心配かけさせやがって」 「悪いね」 「本当に悪いと思ってねぇだろう」 「…あ、ばれた?だってあんたが心配してくれるなんて珍しいし、嬉しいじゃないか」 「……阿呆」 頭の上で交わされるやりとりをラナがぽかんと見つめて。 「…あははは!」 そして急に笑い出す。 「…なんだい?」 「…なんだよ?」 同時に二人がラナを見て、そのそっくりな様子にまたラナが笑う。 「…どうしてだろうねぇ」 「ん?」 「お父さんとお母さん、こーんなに仲良しなのに。どうして、お互いしょうがなく結婚したんだなんて思っちゃったんだろうね、わたし」 「…は?」 事情がまだよく飲み込めていない彼が怪訝そうな顔をして。 「なーんでもないっ」 ラナが言って、そして彼女と繋いでいない方の手で、彼の手をきゅっと握った。 「お母さんもお父さんも、大好き!」 笑いながら言った。 アーリグリフの街を、彼と彼女の手を両手に繋いで、ラナが楽しそうに歩いていく姿が見られるのは、数分後。 |