わんわんわん、特徴的で、でも親近感溢れる動物の鳴き声が響く度に彼の機嫌は下降していた。
「アルベルー。犬嫌いらしいのはしょーがないけどさー、んなあからさまに態度に出す事ないだろー」
たまたま彼の不機嫌顔に気づいたフェイトが苦笑混じりに声をかけるが、当然それではいそうですねと機嫌が直るわけもなく、彼は眉間に皺が寄るのを隠す素振りすら見せずにうるせ、と答える。
そんな彼の不機嫌をよそに、またもやわん、と鳴き声が響いた。続いて、ソフィアの黄色い声とマリアの感心した様子の声が上がる。
「すごーい! ちゃんとお返事できるんですね、賢ーい!」
「お利口なのねぇ。さすが、躾が行き届いてるわね」
すごいすごい、と賞賛の言葉を貰っているのは、ソフィアに撫でくり回されている茶色の毛玉と。
「ふふ、ありがとう。でも、これくらいの躾は普通だよ? 軍用犬だったら、もっと厳しく躾けられてるしさ」
言葉ではそう言いながらも嬉しそうな表情をした、話題の的である毛玉の飼い主である彼女。
膝をついてしゃがみ、柔らかい表情で彼女は手を伸ばす。茶色の毛玉は飼い主に優しく背中を撫でて貰えて嬉しそうにくぅん、と鳴いた。
「わぁ、やっぱりこのコネルさんに撫でて貰うのが一番嬉しいんですね。ちょっと羨ましいなぁ」
そっぽを向いていたにも関わらずソフィアの台詞で彼女と飼い犬のやりとりが目に浮かんだのか、やはり彼は不機嫌そうに大きなため息をついた。



似非犬嫌いの治し方



「あ、そういえばさっきクリエイションでちょっと予定より多く作っちゃったパンがあるんですけど、このコにあげていいですか?」
「うん、いいよ。あ、でも」
「え?」
少し言いよどんだ彼女に、さっそく荷物をがさごそ探って目当てのパンを探し始めたソフィアがぱちくりと目を瞬かせた。
彼女はほんの少しの間迷ってから、申し訳なさそうな顔になって口を開く。
「悪いんだけどさ、私や家族以外からエサを貰っても食べないように躾けてあるから、ソフィアの手から食べさせてあげる事はできないんだ。ごめんね」
「あ…、そうですよね、その辺にいる変なもの食べてお腹壊しちゃったりしたら大変ですもんね」
言われたソフィアは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になって、よく見ると少し残念そうな笑顔になって、荷物から見つけ出したパンを紙袋ごと彼女に手渡した。
もう一度悪かったね、と謝ってから、彼女は飼い犬の前に膝を付いて、紙袋から出したパンを鼻先に差し出した。
もし犬が人語を喋れていたのならば食べ物だ!と声を上げていただろう、目に見えて反応した茶色の飼い犬に、しかし彼女はすぐにパンを与える事はしなかった。
「待て!」
パンを持っていない右手の手のひらを犬に向けて、制止の声を上げる。犬はぴたりと動きを止めた。ただし先ほどからぱたぱたと機嫌良く左右に振られている尻尾だけはそのまま動いていた。
「お座り!」
きちんと静止した犬に彼女が次の指示を与えると、犬はきちんと彼女に向かい合うようにして後ろ足を縮めちょこんと座る。
目の前にパンをぶらさげたままにお手を右、左にと一回ずつこなすと、彼女はようやくよし、と声をかけてからパンを食べさせた。
「すごーい!」
一連の動作を目をキラキラさせて見ていたソフィアが感嘆の声を上げた。
そんな事ないよ、躾の一環だから、いいえそれでもすごいです、このコって本当にお利口さん!そう言ってもらえると私も嬉しいよ、と犬を中心に楽しげに会話が弾んでゆく。
だがやはり彼だけは機嫌が悪いのを隠そうともせずに、ねーそのパン美味しい?私が作ったんだよ、いっぱい食べてね!とソフィアに話しかけられている茶色の毛玉を一瞥して再びため息をついていた。



彼は別に犬を毛嫌いしているわけではない。小さい頃に犬に噛まれたり追われたりといったトラウマになりそうな経験もなければ、生まれつきの犬アレルギーというわけでもない。
なのに犬嫌いだとフェイトから言われ、そして周りからも恐らくそう思われているのには深くもなんともないが一応理由がある。
シランドに一日滞在する事になった今日、自由時間となった午後を使って実家へ戻っていたらしい彼女が、たまには構ってあげないと、と飼い犬を散歩ついでに皆の泊まっている宿まで連れてきた。それが事の始まりだった。
きゃーカワイー、犬だーうわーちゃんと触るの久々ーとソフィアとフェイトははしゃぎ、前者の二人ほど騒がなかったがマリアは構いにいきたくてうずうずしていたし、クリフはそんなマリアに苦笑してほれ行って来いよ、と促したりしていた。
そして彼はと言うと、さほど興味もなかったのか一瞥をくれただけでほぼ無反応。
元々彼女と今回も強制的に同室にされていなければわざわざ犬のいる部屋にいる事もなかったような彼なので、その反応はある意味当然の事だったかもしれないが。
さして目立つ反応をしたわけでもないのに回りと違う反応をするとそれだけで浮いてしまうもので、目ざとく見つけてきたソフィアが彼へと声をかけてきた。
「ほらほら、アルベルさんも撫でてみます? すっごくふわふわしてるんですよ、このコの毛並み」
「いらん」
「何でですかー? あ、大丈夫ですよぉこのコお利口ですから、噛み付いたりしませんって」
「誰もんな心配してねぇよ」
「じゃあ何で嫌なんですか? こんなに可愛いのに!」
そう何の迷いも無く尋ねてくるソフィアは、可愛いものは可愛がって当然、可愛がらない方が不思議だという公式がインプットされているらしい。
それを悟った彼は、世の中にはそう思わない人間もいるのだと言う事をきちんと説明してやるほど優しくもなく、かと言って自分が動物を進んで可愛がるような人間ではないという事を伝えるのも面倒だったらしく。
「犬、好きじゃねぇんだよ」
そう簡潔に返した。



可愛いものは可愛がるものだという公式に当てはまらない人もたまにいるという事を理解しているのか、ソフィアはそうだったんですか無理強いしてごめんなさい、とあっさりその場を引き下がった。
表向きの"不機嫌の素"が目の前からいなくなったのだから、本来ならば彼の機嫌がそこまで下降することはなかったはずだ。が、彼は犬の鳴き声が耳に入るだけで忌々しげに眉を顰めたり表情を歪ませたりしていた。
今、犬は芸ができるくらいに賢いと言う事を知ったフェイトやソフィア達に囲まれて、
「この人は、フェイト、って言うんだよ。フェ・イ・ト。わかるー?」
「おいおいソフィア、さすがに言葉を覚えるのは無理じゃないか?」
「そんな事ないよー、だってお手、とかお座り、とかもちゃんと覚えてたじゃない」
「あれは動作と関連付けてたからっていうのもあるだろ?」
という頭上の会話に耳を傾けているのか、お座りをしたまま上を見上げていた。
「そうだね、でも根気強く教えれば、名前くらいは覚えられるかもしれないね」
彼女が再び犬の傍にしゃがんで頭を撫でると、くんくんと鼻を鳴らしながら嬉しそうに顔を摺り寄せる。
鼻先を摺り寄せてくる飼い犬によしよし、いい子だねと答える彼女の声はどこまでも優しい。



そんな声が実はしっかり耳に入っていたらしい彼は、犬が座っている場所から最も離れた位置の椅子に陣取って苛々している様子を隠す事なく指先でとんとんとんとん、と椅子の背を断続的に叩いていた。
「そんなに犬が嫌いなら、他の部屋に移動するとかしたらどうだ?」
見かねたのか声をかけてきたクリフを一瞥し、彼は不機嫌そうな表情を変えないままにぼそりと答える。
「…別に、同じ空間にいるだけで気分が悪くなるほどじゃねぇ」
つーか逃げるみたいで癪だ、という一言を彼は飲み込む。
「の、割には妙に不機嫌じゃねーか」
「そうか?」
「そうだろ」
そのかつかつ椅子を叩いてる指は何だよ、とばかりのクリフの指摘に、彼はむすっとした顔のまま別に、と素っ気無く答えて。
「犬自体が気に入らないわけじゃねぇよ」
「は? お前犬嫌いなんじゃねぇのかよ」
「………」
その辺りは訂正すると後々面倒なことになりそうだったので、彼は肯定も否定もしないでおいた。
代わりに呟いたのは取りようによっては否定にも肯定にもなるが、一応断定はしていない曖昧でどこか的外れな答え。
「…何か気にいらねぇんだよ」



それはとどのつまり犬自体が気に入らないっつー事じゃねーのかよ、と言うまいかクリフは少しだけ迷ったが、そう呟いた彼の機嫌がそれなりに悪そうだったのと、また堂々巡りの問答になりそうだったのと半々の理由でやめておいた。
彼も彼でそれ以上細かい事を言うつもりもなかったようで、さして不自然でもない沈黙がその場に流れる。
会話が途切れ静かになったお陰で、少し向こうで犬を可愛がりはしゃぐ声が自然とその場を支配する。
「そうそう、この子が、ソフィア。で、フェイト、が僕。覚えたかー?」
「わぁ、今フェイト、って言ったらちゃんとフェイトの方向いたよね!賢ーい!」
「うーん、今のは偶然かもしれないけどねぇ」
「そんな事ないですよー。じゃあ、ネルさん! …ほら、ちゃんとネルさんの方向きましたよ!」
「へぇ、この調子なら僕ら全員の名前くらいならすぐに覚えちゃうんじゃないか? おーいマリア、ちょっとこっち来てー」
「この人が、マリアさん、だよ。マリア、さん。覚えたー?」
「あら、本当にちゃんと私の方向いてくれてるのね。すごいわ、まるで本当に理解してるみたい」
「で、あっちのでかいのがクリフ。すっごい不機嫌そうなのがアルベルだよ」
「おいフェイトお前、俺らだけ妙におざなりじゃねーか!」
名前を呼ばれたのが耳に入ったのか、クリフが顔を上げて抗議の声をあげた。同じく名前を呼ばれた彼は知らぬ振りを決め込む。
「しょうがないなぁ、じゃあちゃーんと近くまで行ってしっかり教えてやるよ」
「偉そうだなオイ」
「いやまぁ、さっきのはさすがにカワイソウだったからさ。あれじゃさすがにこいつが賢くても覚えられる物も覚えらんないよね」
「おいちょっとまて、カワイソウなのは俺らじゃなくてその犬か」
「まー細かい事は気にするなよあはは。じゃああっち行こうなー、ほらこっちだぞこっち」
「わ、ちゃんとおいでおいでもわかるんだ、本当にお利口さんだね!」
耳に入ってくる会話に嫌な予感がして、彼が思わず背後を振り向く。
「ほら、こいつがクリフだぞー。ほらクリフ、ご挨拶」
「いやお前それ俺じゃなく犬に言う台詞だろ。…まーいーけどよ、お、こいつ懐っこいなぁ」
「でしょー?」
「おいおいソフィア、お前が威張るところじゃないだろ」
気づけば茶色の毛玉はクリフの足元で白い尾をぱたぱたと上機嫌そうに振っていた。よっこいせ、としゃがんだクリフの大きな手にぐりぐりと撫でられて気持ち良さそうに目を細める。
彼の座っているすぐ隣にいたクリフの足元イコール、彼のすぐ隣に犬がいるわけで。
「あーほらアルベルも、そんな機嫌悪そうにするなよ。ちゃんとこいつにもお前の事教えてやるからさ」
あからさまに眉を顰めた彼にフェイトがそう言って茶化すが、彼は当然のように取り合わずまた視線を横に逸らした。
「あーあ。まったく、別に動物嫌いでもないくせに。本当に天邪鬼なんだから」
呆れたような彼女の声が聞こえたが、彼は反応せずそっぽを向いたまま。この子にも失礼じゃないか、ねぇ? そう彼女が付け足すように、彼には見えなかったが恐らく犬相手に声をかけても無反応。
犬やその周りにいる皆を完全に視界から外している彼を見て、フェイトが何かを思いついた悪戯っ子の顔で笑った。
彼以外に見えるように、彼には見えないように人差し指を口元へ持っていって「しぃっ」と口の動きだけで示し、無言のままに犬を抱き上げて、いい子いい子、と適当に話しかけながらそろりそろりと彼の背後に忍び寄り、
「のわ!?」
犬が痛くない程度に加減しながら、彼の頭と背中の上にぼふりと載せた。
すぐさま振り向いた彼が首をよじったことで犬がバランスを崩さないように支えつつ、フェイトはニコニコ笑顔を貼り付けたまま口を開く。
「ほら、こいつもアルベルと仲良くしたいってさー。犬嫌いって言ってもそんな酷くはないんだろ、いい機会だし犬と仲良くなってみなよ」
「なんで俺が、」
「ネルさんも寂しそうな顔してたんだぞ、可愛い飼い犬がアルベルに嫌われてるみたいだ、って」
「ちょっとフェイト、何言ってるんだい。私がいつそんな顔したって言うのさ」
「まぁまぁネルさん、そう言う事にしといてください。アルベルさんにもわんちゃんと仲良くなってもらいたいでしょ?」
「………」
フェイトに負けないくらいにニコニコ笑いながら、小声で呟いてきたソフィアに彼女は少しだけ納得の行かなさそうな顔をして。
「…そういう事にしたところでこいつが素直にこの子を構うわけないじゃないか」
ぽつりとそう呟いたが、先ほどのようにフェイトにそれ以上前言撤回を求める事はなかった。
「ほーら、そんな不機嫌そうな顔しない。こいつ可愛いだけじゃないんだぞ、大人しいしすごい賢いんだから」
「だから何だっつぅんだよ」
「アルベルが動物嫌うのってどーせ、鬱陶しく纏わり付いてくるからとかバカみたいにひっついてくるからとか思ってるからだろ? こいつは全然そんな事ないから大丈夫だよって言いたいの」
「………」
彼は背中で息を弾ませている茶色の毛玉を見て、それから億劫そうに毛玉を支えて背中から落とさないようにしているフェイトを見て、最後に少し視線をずらしてフェイトの後ろにいる彼女を見て。
「…わかったから、背中からどけろ」
観念したのか開き直ったのか、はぁ、と何度目か分からないため息をつきながらそう呟いた。
それを聞いてフェイトはにぃっと笑い、よーいしょとか言いながら再び犬を持ち上げて今度は彼の背中でなく真正面に犬を持ってきてはい、と渡した。
渋々ながらに彼が受け取ったのを見てよし、と満足そうに笑いながらフェイトが犬から手を離す。
「ほらな、大人しいだろ。はいじゃあアルベルも自己紹介ー」
「阿呆か」
「何で。こいつすごいんだぞ、ちゃんと僕らの言ってる事わかるんだから。ほら話しかけてやれよ」
「理解してるかはともかくとして、んな阿呆らしい事誰がやるか」
「阿呆らしくて悪かったね。私だってその子によく話しかけるけど別にそれがバカらしいとは思わないよ?」
彼が犬を雑に扱わないか気になっているらしく、フェイトの手から彼へと犬が渡ってからずっと視線を向けていたらしい彼女がいつもよりもやや低い声で呟く。
彼は手の中の茶色い毛玉に向けていた視線を一瞬だけばつが悪そうに左上へと逸らしたが、何も答えずにただ茶色い毛並みの中の黒い瞳を見ていた。
「な、ネルさんだって犬に話しかけてるって言ってるだろ。ほらお前もなんか言ってやれよ、自分の名前教えたりとかさ」
続けて声をかけてきたフェイトは明らかに面白がっている様子だったので、彼は感情をほとんど込めずに犬に向かって言ってやった。
「…こいつはフェイトって言う名のただの阿呆だ。よーく覚えとけ」
「おいコラアルベル」
周りは(特にソフィアとクリフは)滅多に聞けない彼の冗談(?)に笑いを見せたが、阿呆呼ばわりされたフェイトは当然笑うはずもなく。
「お前何事実無根な事吹き込んでんだよ」
「事実じゃねぇか」
なぁ? とわざとらしく犬に同意を求める彼の表情は、先ほどまで面白がって彼に犬に話しかけさせようとしていたフェイトのそれとそっくりだった。
「どこがだよ」
「全部」
「悪いけど僕、アルベルに阿呆なんて思われる筋合いないんだけど?」
「はいはい、それくらいにして頂戴。そういえばフェイト、あなた今日の夕食買い出し当番でしょ。そろそろ時間じゃないかしら?」
あっと言う間に言い合いに発展しそうになったところにマリアの制止が割って入って、ついでにころりと忘れていた事実をぽんと思い出させられ、一応フェイトはその場だけは大人しくなったものの。
「ネルさん、アルベルが言った事ちゃんとわんこに訂正しといて下さいね」
やはり少しは根に持っていたらしく、冗談なのか本気なのかわからないような台詞を残して部屋を出て行った。
その背中を見ながら、ソフィアがはっと何かを思い出したように表情を見張らせて。
「あ、ちょっとフェイト、そういえば今日の夕飯、じゃがいもが」
角の八百屋さんで安いみたいだから、と続けながら慌ててフェイトの後を追っていった。
慌しく部屋を出て行ったソフィアを見送ってから、マリアがちらりと壁にかかっている時計を見て、口を開く。
「…さて、と。私もそろそろ部屋に戻ろうかしらね。ありがとうネル、その子と遊べて楽しかったわ」
「ううん、こちらこそこの子を構ってくれてありがとう」
また機会があったら連れて来てね、そう答えてからドアに向かうマリアを見て、そういえば今日ここは彼と彼女の部屋なのだからこのままだと出るタイミングを逃すと悟ったのか、クリフも少しばかり慌てた素振りを見せて口を開いた。
「俺も戻っか。んじゃな、アルベルももーちっとそいつと仲良くしてやれよ」
そんじゃーな、とそそくさ出て行ったクリフを見て、彼女が僅かに苦笑を漏らした。
「本当に。あんたもちょっとは可愛がってやってよ、せっかく連れてきたんだから」
「別にお前は俺に可愛がらせる為にこいつを連れてきたわけじゃねぇだろうに」
「そりゃそうだけどさ」
言いながら彼女は部屋の隅に固められて置いてあった自分の荷物の方へと歩みを進め、エプロンやら髪留めやらを鞄から出し始める。
ちらりと視線を彼女へ向けた彼が不思議そうな顔をしたので、彼女は手を止めないまま口を開く。
「私今日夕食当番なんだよね。その子とももう少し遊んでやりたかったんだけどさ」
残念そうに苦笑して彼女は立ち上がり、髪留めに使っている紐を片手に鏡台へと向かう。
「…それは暗に、俺にこいつを構ってやれ、っつってんのか?」
不機嫌そうな彼から返答がなくてもさほど気にしなかった彼女だが、やや間を置いてからぼそりと声が返ってきて不思議そうに目を見張る。
返答があった事にも、その内容にも驚いて。
片手で後ろ髪を纏め、もう片方の手で髪留めを持ったままの中途半端な体勢のままで彼女が振り向いた。
「そんな事を考えてたつもりはないんだけどね…。あれ、でももしそうだって私が頷いたら、あんたちゃんと聞いてくれるのかい?」
「…お前の方こそ、俺が嫌っつったら聞くのかよ」
口調は相変わらずなのに、実はちゃんと犬を膝に乗せて落ちないように手で支えてやっている彼の姿が妙におかしくて。
「そういう言い方するって事は、ちゃんと見ててくれるんだね、その子の事」
呟いた彼女の声は苦笑混じりだったがとても柔らかい声音だった。
「………」
無言のままの彼だったが、彼女はくすくす笑いながら先ほどよりも随分と機嫌の良さそうな様子で髪を束ね終えた。



「じゃ、頼んだよ。夕食の下準備が終わったら戻ってくるから」
部屋を出て行った彼女を視線だけで見送って、彼は静かになった部屋で目の前の茶色の毛玉を見遣る。
そういえばもうここにうるさいフェイトや加担していたソフィアはいないのだから犬を膝の上から下ろしても何の問題もないのだ、とそこでようやく気づき、彼は犬を両手で抱えて床の上に下ろす。
人間の言葉を話せたならば遊ばないの?遊びませんか?と伺いつつも期待に満ちた視線を向けてくる茶色の毛玉から彼はふっと視線を逸らす。
変わらず期待に満ちた瞳のまま息を弾ませている茶色い毛玉を、またちらりと一瞥して。
別段嫌悪も不快感も感じていない自分に気づき、というより再確認してはぁ、と大きく息を吐いた。
「…阿呆か」
誰にともなく、もしかしたら自分に向けたのかもしれない、小さい小さい悪態を吐いた。





別に彼は犬自体が気に入らないわけではなかった。それは本当だ。
現に今、至近距離に入る茶色の毛玉に対して彼は嫌だとか不快だとかいう感情を何も抱いていない。
なのに何故この茶色の毛玉を認識するだけであんなに機嫌を悪くしていたのかと考えると、



意味不明な不機嫌の原因を思い当たってしまって、彼は浮かんだ考えを吹き飛ばすかのように首を左右に振った。
それから不思議そうに見上げてくる茶色の毛玉をもう一度見て、見上げてくる黒いきらきら光る二つの瞳を見て。
「………」
何だか色々な要因で不機嫌になっていた自分が馬鹿らしくなってきて、彼は誰に対するわけでもなく照れ隠しに茶色の毛玉の頭をぐりぐりわしゃわしゃと撫でくり回した。
くぅん、小さい鳴き声にふと手を緩め、彼は馬鹿らしいついでにと口を開いた。



「…いいか、お前の主は俺のものだからな」
お前のものじゃねぇんだぞ決して、よく覚えとけ。



つい十数分前に"んな阿呆らしい事"と言い捨てたのと同じ口で、彼は茶色の毛玉に向かってぼそりと低い声で呟いた。





ごめんね、たまにしか構ってやれなくって。今から連れて行くのは、私の大切な仲間達のところだよ。皆とてもいい人達だから、きっと可愛がってもらえる。青い髪の男の子がフェイト、同じ色の髪の女の子がマリア、茶色の、そうだねちょうどあんたの毛色と同じくらいの髪の女の子がソフィア、金髪の男の人がクリフ、―――それと、黒と金色の髪のやつが、アルベル。なんだかんだ言って動物を嫌えないやつだから、きっと渋々だろうけど構ってくれる、と思うよ。みんな私の大切な仲間だけど、でも、一番大切なのが、そいつだから、あんたも仲良くしてやってね。



―――あーあ、私犬相手に何言ってるんだか…。





茶色い犬がこの部屋に来るほんの少し前、首輪から伸びたリードを引かれながら呟かれた声。
ご主人様が密かにそう呟いていた事は、人間にすれば数歩後ろ、犬にすれば十数歩後ろの距離を保って歩いていた茶色い飼い犬 しか知らない。