戦争も終わりアーリグリフの民である彼が使者としてシランド城を訪れても誰も不思議に思わなくなった頃。
そして使者として来たはずの彼が用件を済ませた後、相変わらず仕事仕事な彼女の部屋に当然のようにあがりこんでいる事もほとんど誰も疑問に思わなくなったある日。
「…なぁ」
「なんだい」
彼は目の前に出された上品な造りのティーカップを見ながら、よく見ると疲れたような表情をしながら、一言。
「なんで俺の茶だけこんな熱いんだよ」



「さぁ? あんたの気のせいじゃないかい」
彼に出された、もうもうと湯気をあげているカップとは別の、湯気がほとんど出ていない恐らく適温であろうお茶を一口すすってから、彼女はさらりとそう答えた。





このお茶が冷めるまで





彼が使者としての用を済ませた後、彼女の部屋に寄ってからアーリグリフに帰るようになってもう随分経つ。
お互い多忙の身である彼らが会える機会は少ないし、一緒に過ごせる時間も輪をかけて少ない。
なので使者として訪れた彼が彼女の部屋に寄って少しだけ休憩していくほんのわずかな時間は結構貴重であったりするのだけど。
「………」
彼にとっては息抜きにもなる貴重な時間に沸騰寸前の温度そのままのお茶を出されるのはどういうわけなのか。
彼が熱いお茶を好むどころかかなりの猫舌である事を当然彼女は知っている。事実、今まで彼が彼女の部屋を訪れたに時は飲みやすいようにと少し冷まされたお茶が出されていたのだが。
「お前のは普通じゃねぇか」
「そうだね」
「なら何で俺のだけこんななんだよ」
「あぁ、言ってなかったね。そのお茶は入れるお湯が熱いほどおいしいんだよ」
「聞いてねぇよ。つかお前さっき気のせいだとか言ってなかったか」
「そんな事言ったっけ?」
と、彼女に訊いてもはぐらかされるので彼の疑問は解決しないままだった。
結局、彼は今日もお茶が飲める温度になるまで口をつけられずにいた。
「…熱い方がうまいとか言ってたが、お前のは普通じゃねぇか」
「私もいつもは熱くして飲んでたけどね、たまには普通に飲もうと思って」
「…」
嫌がらせとしか思えねぇじゃねえか、俺なんかしたか?と思いつつも、目の前の彼女の様子は怒っているようにもそれを隠しているようにも見えなかったので、彼は結局その疑問を口にしなかった。
そんな風にお茶が冷めるまで他愛もない事を取り留めもなく話して。
時間をたっぷりかけて彼がようやく一杯飲みきる頃には、ゆっくり休憩していくには短いが一服していくには長いくらいの時間が過ぎていた。
そろそろ帰るか、と彼が立ち上がると、彼女は一度彼の顔を見上げて、数秒の間を置いてから口を開く。
「そう、じゃあまたね」
そう言ってから彼女は視線を戻して彼が飲み終えたティーカップをお盆の上に片付け始めた。
「ああ」
彼もそう答えて、部屋を後にした。



それから十数日後の、雨季手前のある日の事。
「………」
雨季前に存在を強調したいのかと思えるほど、太陽が眩しく輝き遮る雲もないそれなりに暑いその日、彼の前に出されたのはやはりゆらゆら湯気の立ちのぼる熱い熱いお茶。
「飲まないのかい? あーあ、せっかくの美味しい茶葉なのにねぇ」
すまし顔でそう言って適温のお茶をすーっと飲む彼女を見つつ。
「嫌がらせじゃねぇか」
口調にトゲを存分に含ませて彼がぼやいた。
「別に? こっちが仕事中でも構わず押し掛けてくる誰かさんに嫌がらせしようだなんてそんなこと思ってないよ」
口調にからかいとわざとらしさをそれなりに含ませて彼女が答えた。
「…」
憮然とした面持ちの彼に彼女はくすくすと笑う。
「冗談だよ。まぁ、そのお茶が熱い方が美味しいってのは本当だから、飲める温度になったら飲みなよ」
そう言われては反論もできず、さらに彼女が“嫌がらせ”する理由も心あたりがありすぎるので、彼はふん、と鼻を鳴らしてほんの少し冷めたティーカップに手を伸ばして、
「…」
陶器のカップ越しでもわかる熱さに無言のまま手をひっこめた。



それから彼女は彼が来る度に熱々のお茶を出すようになった。
もはや文句を言う気も起きず、ゆっくり冷ましてから飲むお茶に彼が慣れて来た頃。
「…?」
目の前に出されたお茶を見て、彼は不思議そうな顔をして彼女に視線を向けた。
「…ん、あぁ、お茶の事かい? さすがに暑くなってきたし、メイドに別に入れてもらうのも申し訳なくなってきたしね」
彼女は少し残念そうに答えて二つのグラスを見遣った。
先ほど運ばれてきたお盆の上には、程よく冷やされたアイスティーの入ったグラスが二つ。
夏が近付いており熱いお茶を飲む事も少なくなってきた今の時期に出される飲み物としてはしごく当然なのだが。
「…妙に落ち込んでるように見えるが、俺に嫌がらせできなくなったのがそこまで悔しいのか?」
彼女がひどく残念そうな顔をしているので、軽く呆れながら彼が呟いた。
彼女は少しばかりむっとした表情をして、だがいつもよりも随分力ない声でぽつりと答える。
「…別に。あのお茶、良い茶葉使ってるのは本当だし私も気に入ってたから少し残念なだけだよ」
そう呟いてから、気温差で水滴の浮いたグラスを手に取ってアイスティーを飲む彼女を見て、彼はしばらく不思議そうな顔をしていたが。
「………」
やがて彼もグラスに手を伸ばして一口飲む。
上品な良い香りのするそのお茶は以前出されていたものと種類は違っても同程度に良い茶葉が使われているはずなのに、彼は何故か不思議な気分になった。



「…それで、その勝負は結局ソフィアが勝ったらしいよ。メールで戦利品の限定ショートケーキの写真が送られてきたから」
「…この前フェイトから来た愚痴はそれが原因か。阿呆らしかったから無視したが」
それから二人はいつも通り、近況報告やら共通の話題であるかつての仲間達の話をしていたが。
「…ま、あんたの性格ならやりそうだね。でも一言くらい返事出せばいいのに」
「こっちだって暇じゃねぇんだ、んな事に時間割いてられるか」
「…そうだね、頭脳労働は専門外なあんたにも仕事が回って来るくらいだから、忙しいんだろうね」
「お前も似たようなもんだろうが」
「まぁ、そうだけど」
やがて、会話の途中しばしば彼が手を伸ばしていたグラスが空になった。
「…あ」
気付いた彼女が小さく声を漏らした。
彼が視線を向けると、気のせいだと言われても一目で嘘だとわかるくらいに彼女が残念そうな表情をしていて。
「…おい」
彼が声をかけると、軽くうつむいていた彼女がのろのろと顔をあげた。
落ち込んでいるらしい理由は聞かずに彼は自分のグラスを手に取って、
「…ん」
空のグラスを彼女にずいっと差し出した。
「…え?」
不思議そうな顔の彼女に、彼は催促するように再びグラスを押し付けるように差し出して。
「二杯目」
ぶっきらぼうに呟いた彼の台詞に彼女が目を見開く。
思わずグラスを受け取ったものの、まだぽかんとしている彼女に。
「まさか次は一杯しか飲ませねぇとか言う嫌がらせか?」
「え、いや、そんなことないけど…。あんたがおかわりするなんて珍しいと思って」
「こんなクソ暑い日に使い走りにされりゃ喉も渇くっつの」
「…」
ぼやくようにそう言って彼が視線を向けると、彼女はまだ不思議そうに彼を見ていた。
意図せずに二人の目が合って。
「…あ、ごめん、二杯目だったね。今誰か呼んで持って来てもらうから」
彼女が少し慌てた風にそう言って、壁際のテーブルに置いてある呼び鈴を鳴らそうと彼に背を向けた。



「別に冷めるのに時間がかかる熱い茶なんざ出さなくても、お前が一言言えば帰る時間先伸ばしにするくらい簡単なんだがな」



彼に背を向けたままの彼女がぴたりと動きを止めた。
「…な、何言ってるのさ、私がいつあんたに帰ってほしくないなんて言ったんだい」
明らかに動揺している彼女の様子に彼がくつくつと笑う。
「の、割には顔赤いじゃねぇか。図星だろ?」
「だ、だからあんたがいきなりわけのわからない事言うからじゃないか」
「表情に出やすいお前の事だ、本当に心あたりがないんなら怪訝そうに"は? 何の事だい"とでも言うだろうに」
「…」
言い返せずにいる彼女に、彼は平然とした顔で口を開く。
「つうわけで、二杯目早くしろよ。…いや、この場合はゆっくり持って来させた方がいいのか?」
「…もう」
観念したのか、言い返しても無駄と悟って彼女は小さく苦笑した。





それから、今まで暗黙の了解でお茶を一杯だけ飲んで帰国していたはずの彼が、冷めるのに時間のかかる熱いお茶を出されていた時よりも彼女の部屋にとどまる時間が延びている理由は―――推して知るべし。