月なきみそらのお月見会 「あら、可愛い」 私が初めてその色を身につけて言われた台詞は、幼い頃の記憶を限界まで手繰り寄せ物心がついた頃へ遡って思い出す限り多分、それだ。 言ってくれた人は申し訳ないが覚えていない。だけど台詞自体を鮮明に覚えているのは、幼い私がそう言ってもらえたことを嬉しく思って喜んだからだ。 人間は嬉しい事をよく覚え悲しいことを早く忘れようとする。幼い頃の記憶というただでさえも覚えていることが難しい事の取捨選択方法に採用されたのはそんな簡単な法則だった。だからこそ私は何てことない、もしかしたら小さな女の子にかけられるただの社交辞令だったかもしれない一言をここまで鮮明に記憶していた。 「うん、似合ってるよ」 恐らく実際に二回目に言われたのはこの台詞ではない。だけど深く印象に残っている台詞、と位置づけて考えた限り、二度目に言われたのは簡潔な、でも気持ちの籠ったこの言葉だった。 これは誰に言われたのか鮮明に覚えている。父さんだ。会えなくなってしまってからもう随分経つけれどいつまでも変わらず私の中で大きな存在で在り続ける父さんが言ってくれた言葉だ。忘れようがない。 買ってもらった、確か今では絶対に着ようとは思わないフリルやリボンがたくさんついたワンピースを身につけた時の事だった。ということは多分、やはりまだ幼い頃の記憶。 別にデザインや色が特別気に入っていたわけでもなかったのに、褒められて嬉しくてそれだけの理由で幼い私の中でそのワンピースは一番のお気に入りになった。だけどまだ服の良し悪しも判断のつかない小さな子供が考える"お気に入り"なんてそんなものかと今になっては思う。 「! ネル、あなたそんな服持ってたのならどうして今までまったく着なかったの? よく似合ってるわ、今まで着なかったのが勿体ないくらい」 次に思い出せるのは、少し前と言うには遠い記憶だけれど、幼い頃の記憶と呼ぶのは相応しくない程には私が成長してからの事だ。 幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた大切な銀髪の幼馴染。予想外の笑顔と珍しくはしゃいだ様子に、似合わない似合わないと思いながらも幼馴染の所望する色を身にまとってきた私は間抜けな顔で面食らったのを覚えている。 ああそういえば、この頃からだったのか。私があの色を自分には似合わない色だと決めつけていたのは。 日陰の世界で生きると決めてから身につける色はおのずと限られてきていたから、いつも身につける色と対極だからというただそれだけの理由で似合わないと私の中で烙印を押していた。その服に、その色にしてみたらいい迷惑だったろうに。 それからの私は、幼馴染と出かける時や私的な理由で一緒に過ごせる時に限って、ごくたまにその色を身につけるようになった。 幼馴染がその度に眩しいくらいの笑顔で喜んでくれるものだから私も嬉しくなって、でもやはり自室で過ごす時など喜んでくれる相手がいない時には変わらず日陰の色を選んでいた。 その事を知った幼馴染には、似合うのに勿体ないわ、と少しだけ悔しそうに苦笑されたけれど。 思えば今まで自分が着たいからという理由で服を選んだ事なんてほとんどなかったなと思いながら、彼女は用意された"浴衣"に袖を通した。 ジェミティで何がしかの催し物がある度に入口で一風変わった格好に着替える事にもう慣れてしまった。疲れている時に窮屈な格好を強いられた時はさすがに少しばかり辟易したものだったが、今では新鮮さも手伝って異国の衣装を身につけることをそれなりに楽しめている。と思う。 「わぁ、ネルさん脚長いですからほとんど裾の調節いらないですね。やっぱり背が高くてスタイル良い人って憧れるなぁ」 どうやら素人ではなかなか難しいらしい"浴衣の着付け"を手伝ってくれているソフィアが楽しそうにそう言って、私とすぐ目の前の大きな鏡を交互に見ながらてきぱきと"着付け"を進める。 ありがとう、と答えるといえいえお安いご用です、私が皆さんの役に立てることなんて少ないですからむしろ嬉しいです、と弾んだ口調で返ってくる。背中側に回って浴衣の中心がずれていないか確かめているらしいソフィアがにこにこ笑顔になっているのが鏡越しに見えた。 「えへへー」 「ん?」 「ネルさんって黒以外も似合うなーって」 にこにことそれはそれは嬉しそうに笑い鏡越しに見上げてくるソフィアに、一瞬苦笑して、でもすぐに微笑んでありがとう、とつぶやいて。 会話を続ける間も手を止めずに着付けをしてくれているおかげで着々と完成に近付いている"浴衣"を見下ろす。 "桔梗"というらしい青みがかった紫色の花に鮮やかに彩られたその浴衣の色は、 「久々に着る色だからね。似合うって言ってもらえて嬉しいよ」 夜闇に映えるだろう真っ白な色をしていた。 「あれっ、ネルさんその浴衣前ここに来た時も似たようなの選んでましたよね?」 「無料で貸してもらえるんだし、たまにはいつもと違う色の服も着てみたら? ほら、これとか薄い色だけど紫ベースだからきっと似合うわよ」 ついさっき、ジェミティの入り口のすぐ横に設けられた衣装貸出所で、特に模様や柄にこだわりもないしと適当に選んだ浴衣を隣であれもいいこれもいい、と悩んでいたらしい二人が選び直してくれた時の事。 自分のことのように真剣に選んでくれている二人に時間をとらせてしまって少し申し訳なくなりながらも、私の為にそこまでしてくれて嬉しいとも思いつつ薦めてくれる浴衣を順に眺めて感想を返していた。 「あれ、…もしかしてまだ浴衣選んでた?」 背後からかけられた声に振り向くと、"甚平"というらしい落ち着いた色合いの涼しそうな格好に着替えたフェイトが困ったような顔で立っていた。後ろには同じく既に着替え終えた男性陣。 「あ、うん。ごめんね待たせちゃって」 「いや、いいよ。女の子の服選びや着替えがゆっくりだってのは今までの体験で身にしみてわかってるつもりだからさ」 苦笑するフェイトに悪いね、と片手を上げて告げる。 「二人は厚意で私の浴衣選んでくれてるんだけど、肝心の私が決めかねてる所為で遅くなってるんだ。だからあまり責めないでやってくれるかな」 「ああいえ、ソフィアもマリアも、もちろんネルさんだって責めるつもりなんてないですよ。ゆっくり選んでてください」 そう言って笑うフェイトにありがとう、と答える。後ろでクリフがその代わり後で浴衣姿拝ませてもらうから気にすんな、と笑っているのには曖昧な苦笑で返す。 「アルベルさんはどう思いますか? 今、これと、これとこれで悩んでるんですけど…」 私がフェイト達と会話している間に、今まで発言のなかった男性陣の最後の一人にソフィアは意見を求めていたらしい。驚いて振り向くと三着の浴衣を目の前に突きつけられている仏頂面が目に入った。 「…どれでもいいだろ」 「もう、真面目に答えてよね。あなただっていつもと違った雰囲気のネルが見てみたいでしょ?」 「別に」 「えー、そんな天の邪鬼なこと言わないでちゃんとどの浴衣が似合いそうか考えて下さいよ。ほらっ、全部ネルさんが普段あまり着ない色をチョイスしたんです。どれが一番似合うと思います?」 腕に掛けた浴衣の生地を、色や模様がよく見えるようにできる限り広げて差し出しながらソフィアに再び問いかけられ。 「…じゃ、それ」 渋々と言った様子で面倒くさそうに指さされたのは、今ソフィアがまさに広げて見せていた白地に青紫の花があしらわれた浴衣だった。 「ちょっと、今適当に選ばなかった? 真面目に答えてって言ったじゃないの」 迷う様子もほとんどなく、今目の前にあったからという理由で選んだのだと思われてもしょうがない彼の態度に対してマリアが文句を言ってくれる。 不服そうな顔になったマリアに、いいよ、こいつがこんな態度なのは相変わらずなんだから、と声をかけようと口を開きかけた時。 「どれだって大して変わらねぇだろうが。何選んでも同じ事だ」 「何選んでも同じだなんて、そんな事ないですよ!」 とたんにむっとした顔になって言い返したソフィアも、そうよそんな言い方はないわ、と援護するように言ったマリアも、仲裁しようとしていた私も。 「どうせ何着ても似合うだろうが」 あいつのこの一言でぴたりと静かになった。 可愛いと称してくれた人は記憶の遥か彼方に。 似合うと褒めてくれた人は遠い空の上に。 勿体ないと言ってくれた人は次元も世界も違う場所に。 白い服を着る理由になっていた人達は今ここにいないのに、どうして私はあんなにおざなりな態度で適当に選ばれた 真っ白な浴衣を選んでしまったのだろうか。 「本当、わからないもんだよね」 自分の考えや嗜好ってさ。 彼女が本来そう続けられるべき台詞を途中で止めて完結させると、隣で寝転がっている彼が怪訝そうな声を返した。 「は?」 冬にこの街の同じ宿屋に立ち寄って以来気に入っているらしい"タタミ"なる床に気持ちよさそうにごろりと寝転がっている彼が視線だけを彼女に向けた。 彼女は今回のイベントの醍醐味?らしい、空に浮かんだ真円の月から視線を外し、寝転がる彼を見下ろす。"障子"という変わった窓の格子の影が灯りのない室内へ伸びている。 「何でもないよ。それはそうと、そんなところで寝そべってないでこっち来たら? "オツキミ"は"エンガワ"でするものらしいよ」 「要は月を見てりゃいいんだろ。ここからでも十分見える」 「そう? なら別にいいけど」 寝心地いいからってまたそのままタタミの上で寝るんじゃないよ、彼女はそう釘をさしておいてからまた視線を月へと戻した。 「映えるな」 「ん?」 振り向いた彼女に彼はもう一度呟いた。 「よく映える」 「何が? …ああ、あの月か」 主語が抜かれた彼の一言に、彼女は夜空に映える淡く白く輝く満月を再び見上げるが。 「月"が"じゃなくて月"に"だがな」 「はぁ?」 この場合は夜空が月に映えてるんじゃなくて、月が夜空に映えてるんだろう? 彼が言葉の使い方を間違えたのだと疑いようもなく断定している彼女に、彼は彼女に気づかれないよう口元だけに笑みを浮かべた。 密かに笑った彼の視線の先には、月の光を受けてそれ自体が白く発光しているかのようにも見える浴衣を着こなしている彼女。 「ならそういうことにしておいてやるよ」 疑問符を頭の上に浮かべる彼女の不思議そうな視線をまったく気にした様子もなく、彼は畳の上で寝返りをうった。 畳の上で寝そべりながら空を見上げていた彼の視線がまったく月には向いていなかった事に、まだ彼女は気付かない。 ―――まあ要するに、世の中には月なんかがなくてもお月見ができる人間がいるのだ、という事。 |