「何読んでんだ」
「あ」
不意にかけられた声に彼女が顔を上げて振り向けば、そこにはいつも通りの仏頂面があった。



偽りビギナーズラック



彼女が座る一人掛けソファの後ろに立った彼は、顔を上げた彼女が先ほどまで見ていたモノ―――気配に敏い彼女が、彼がすぐ傍に来ていたのにまったく気づかずにいるほどに真剣に見ていた本、を覗き込んだ。
膝の上で広げられていた本に書かれて、いや"描かれて"いたのは、まるで適当にパレットから取ってきた絵の具を適当に、ただし恐ろしいほどに均等にぶちまけたような絵。
「…何だこれ」
不思議そうな顔をした彼に彼女が笑う。どこか楽しげな満足げな顔。
「うん、初め見たときは何かって思うよね。私もマリアに見せてもらった時、同じような事訊いたよ」
「んなことどうでもいい、これは何なんだって訊いてんだ」
相変わらず短気だね、苦笑交じりの呟きはいつものことだ。そして相変わらず、と称される程なので彼の素っ気ない受け答えだっていつも通りのことなのだから、彼女は苦笑しつつも気分を害した様子もなく説明を始める。
「眺めてると目が良くなる絵をたくさん載せた本なんだってさ」
「…」
怪訝な顔をした彼の反応は予想通りだったようで、彼女はさらに説明を追加する。
「この模様、一見わけがわからないけどある特別な見方をすると記号や絵が浮かんでくるんだよ。その見方をすると視力が上がるんだって」
彼が眉根を寄せてさらに訝しげな顔をする。何だそれ、わけわかんねぇ。彼が直接口にしたわけではないが、表情を言葉で表現するならばそんなような事を言っているのだろう。
「まぁ、口で説明するより実際やってみればわかると思うよ」
百聞は一見に如かず、彼女は彼に見えるようにと膝の上の本の位置と角度をずらした。
彼は腰をかがめてソファの背に肘をつき、彼女が向けてきたページをしばらく眺めていたが、数秒もしないうちに視線を逸らした。
「妙な模様しか見えねぇんだが」
「そんなことないって、私はちゃんと違うものが見えたんだから。この本を眺めるんだけど、実際はもう少し遠くを見る感じでぼんやり見るといいんだってさ」
「…」
疑い半分の表情のままに彼がまた視線を本に戻す。微妙に顰められた顔のままだったが、それでも彼女の言葉を少しは信じているのか本を眺める事を放棄しようとはしない彼に彼女がほんの少しだけ微笑む。
「…ん」
さらに十数秒ほど本と睨めっこしていた彼が、小さく漏らした声に気づいて彼女が彼を見る。
「見えたかい? 見辛いんならもう少しずらそうか」
「…見る位置変えると見えやすくなるのか」
本格的に興味を示したらしい彼に彼女が頷く。
「うん。慣れるまではね、自分が一番見やすい視点でやった方がいいってさ」
「お前はどの辺りなら見やすいんだ」
「私? そうだね、ええと…、この辺かな」
一旦彼に合わせた位置から移動させ、彼女は再び本を自分の膝の上に置いた。僅かに上部を持ち上げるように角度を調節してから、うん、この辺りだねと呟いて彼女が本の位置を固定する。
彼は反応を返さなかったが、無言のままに本に少し顔を近づけた。
本に顔を近づけたということは、それを膝の上に載せている彼女にも近づいたということで。
突然頬が触れそうな至近距離に彼の顔が近付いてきて一瞬驚いた彼女だったが、この模様から何かしら違う絵を読み取るには本を見る距離や角度の調節も重要だということを知っていたので。
彼女はすぐに気を取り直して、彼に見えやすいようさらに角度を調節する。じっと本を見ている彼の視線と本が垂直になるように彼の顔と本を何度か見比べて本を移動させて、彼が一番見やすいであろう場所を探していると。
「…見えん」
「いやまぁ、それはそうだよ。あくまで私が見やすい位置、なんだから。それに遠くを見る感じの見方も慣れるまでは分かりにくいだろうし」
それにあんたの位置からじゃ私と同じようには見えないだろう?そう投げかけた彼女の声をどう解釈したのか。彼は少し考えた後、おもむろにソファから肘をどかして体を起こした。
「そこ、場所空けろ」
「は?」
次いでかけられた命令口調に彼女は頓狂な声を返してしまうが、彼は気にした様子もなくソファの後ろからぐるりと歩いて正面に移動した。
無言のままの彼に、彼女が少し機嫌が悪そうな顔をして非難の視線を向けた。
「何で私がどかなきゃいけないんだい」
「座って見れば見えるかもしれないだろ」
お前が現にそうだったんだから、と悪びれもなく言う彼に彼女がわざとらしく溜息をついてみせて。
「だからって先に座ってた人を追いやってまで見ようとしなくてもいいのに」
「誰も追いやるとは言ってないだろうが」
「言ってるじゃないか」
一人掛けのソファに彼が座るには、当然先ほどから座っていた彼女が退かなければならないわけで。
渋々といった様子を隠さずに彼女が本を持って立ち上がると、彼は空いた場所にすぐに腰を下ろした。
多少なりとも申し訳なさそうな態度を取ろうとも思わないのかい、まぁこいつに期待するだけ無駄だろうけど、と彼女が内心で小さく愚痴を零していると、ソファに座った彼が彼女へと手を伸ばした。
「…あぁ、本ね。はい」
伸ばされた手は本を渡してほしいのだろうと解釈し、彼女は立ち上がった時から手に持ったままの不思議な模様だらけの本を差し出す。だが伸びてきた手はその本を受け取ろうとはしなかった。
「?」
求める物が十分に届く範囲内にあるのにどうして受け取らないのか、そう思った彼女が彼を見ると同時に、伸ばされた手が本ではなく彼女の手首を掴んで引っ張った。予想外の行動に彼女が驚いているうちに彼は逆の手で彼女の腰を掴んで引きよせ、器用に彼女の体を回転させて向きを変えて。
気づいた時には彼女はソファに座る彼の足の間に座らされていた。
「…何なんだい」
いきなり至近距離に座らせられてほんの少しだけども色づいた頬を見られないように顔を逸らした彼女に、彼は彼女が持ったままだった本を自然に取りながら答える。
「これならお前と同じ視点になるだろ」
当然のようにそう答えて本を開き、さっき見てたのどこだった、と何事もなかったかのように問いかけてくる彼に、彼女が返したのは呆れやら困惑やら何かに対しての諦めやらが存分に入り混じった溜息だった。
やはり当然そうに、視点をできるだけ近づけるためかまた彼の顔が頬が触れそうな位置にまで近づいてきても、彼女は先ほどのように驚くこともなく困ったように苦笑を漏らす。
「…12ページ。右側の絵だよ」
呆れやらの感情を溜息と一緒に体の外に出してしまったのか、彼女はそれらを文句や苦情として声に出すことはせずにそう答えて。
彼女は本をめくる彼の指の下で、彼女が答えた数字を目指してページ数が減っていく様子をぼんやりと眺めた。



「目がちかちかしてきそうなんだが」
「だから、模様を見るんじゃなくてもっと遠くを見るようにするんだよ」
「なんとなく何かの輪郭が見えた気がしたが、それ以上変わらねぇぞ」
「上の方にある二つの点がちょうど三つになるように見るんだよ。見えた? ならそのまま視点を絵にずらしてみなよ」
「…視点を下げた途端に点が四つになる」
「うん、だからそれはちゃんと見れてない証拠だよ。遠くを見るような感じで見てるはずなのにちょっと視点をずらすぐらいで見えなくなるってことは、その瞬間近くを見ちまってるって事だし」
「…」
彼女の助言と彼の沈黙もしくは愚痴が交互に何度も繰り返されたが、結局彼が「見えた」と明言することはなかった。
だるくなってきたのか彼女の肩に顎を載せて本を見下ろしている彼に何度も彼女の文句が飛んだが彼は退こうとはせず、そこまで体重がかけられているわけではなかったので彼女も無理に退かす事はしなかった。
「これ、本当に視力が上がるのかよ。むしろ落ちそうなんだが」
「さぁ…。でもフェイト達の世界で立証されてるみたいだから、上がるんじゃないかい?」
曖昧に答える彼女に彼はそんなもんか、と適当に返す。元々彼がこぼしたのはただの愚痴であって純粋な疑問でもなんでもなかったので、それでも律儀に返答した彼女の答えが曖昧であることは彼にとってさしたる問題でもなかった。
「位置が合ってないんじゃないのかい? あくまでこの体勢は私が見やすい位置なんだから」
「慣れれば位置なんざそこまで関係なく見えるようになるんだろ。だったら先に見えてたお前の位置にだいたい合わせておけば後は見方をどうにかするだけじゃねぇか」
「それはそうだけど。一向に見えてないんだし違う位置で見てみたら? 自分の目と平行になるように見るんなら、座って膝の上で見なくても自分の正面に本を立てて持って見ればいいんだし」
至近距離にある彼の顔を横眼で見ながらの彼女の提案に、彼は少しだけ沈黙をおいてぼそりと答えた。
「…いんだよこのままで。第一同じような視点で見てんのにお前が見えてて俺が見えねぇのは癪だ」
低く小さく、つまりは聞こえにくい要素がふんだんにちりばめられた彼の声を至近距離の彼女はきちんと聞きとって。一瞬だけ間を置いてから、負けず嫌いなんだから、呆れたような苦笑が漏れる。
息だけで漏らされた苦笑に気づいたらしい彼は、僅かに眉根を寄せたが何も言わずにまた本へと視線をやった。



右肩が微妙に重いし首元がくすぐったいし座り心地はあまり良くないし何より体全体が密着しすぎていて気恥ずかしいし(もうだいぶ慣れたけど)、もう何かしら理由をつけてこの場所から移動したかった彼女だけど。



―――同じような視点で見てんのにお前が見えてて俺が見えねぇのは癪だ。



性格も考え方も真逆でいつも意見の食い違いで衝突ばかりしている彼だけど、こんな時くらい"同じ視点"でものを見ようとしても許されるんじゃないだろうか、あの負けず嫌いから出た台詞をそんな風に解釈してしまって、彼女は自分自身に苦笑した。
彼が言ったのは視点や見方を変える事で違うものが見える本の絵についてだという事はわかりきっているのに。
でも例え絵の事だとしても、彼が彼女と同じ視点でものを見ようと思っていること、見たいと思っているらしい事に彼女は少しだけ嬉しくなった。



(そのたった一言であっさりとやっぱりこのままでいたいと思うなんてどうかしてる)



「おい」
考え事に軽く集中していた彼女は、相変わらずの至近距離から響いた声で我に返った。
何だい、と答えると彼は本を凝視したまま答える。
「これ、絵か? それとも記号か?」
問われて彼女が再び本に目をやった。じっと見つめて浮かび上がってきたものは柱が何本も並んでいるような、しいて言えば絵のような模様だったのでそのまま伝えると、彼はつまらなさそうな顔をしてそうか、と答えた。
「その様子じゃ見えてなかったみたいだね」
面白くなさそうな顔をする彼の機嫌が降下しないように、彼女はすぐに見えるよと励ますように言った。
何も答えない彼だったが、視線は未だ本から外れていなかったので彼女は少し安心する。
今のところ、同じ視点でものを見たいと思っていても、きちんと対象が見えているのは彼女だけで彼はまだ見られていないということが少しだけ、残念だったけれど。
たとえ対象が本だったとしても、彼が彼女の視点でものを見たいと思っている、二人同じ視点でものを見ようとしていられるこの時間が少しでも長く続けばいいとそう彼女は思った。



見えた?、見えた気がしないでもない、それ結局見えてないんじゃないか、ぼんやり何かは浮かんできたんだよ、じゃあもう一息じゃないか、そこから変わらない、そんなやりとりを時には彼女の助言、時には彼の愚痴を交えて何度か繰り返した頃。
「…目ぇ疲れた、休憩」
彼がそう一時的な白旗を上げたのは、二人で本を読み始めてから半刻ほど過ぎた頃だった。
挿絵だらけで読むより見ることを重点に置いた本で、さらに彼はこの本を見る上での最たる目的である立体視ができていなかったのならば、半刻の間集中力が持続したことは称賛に値するだろう。
見えないからと言って彼がもういい、と本を読むのを放棄しなくて良かったと内心彼女は安心する。休憩と言ったからには一応今はまだ立体視を再開するつもりのようであったし。
そう考えると、彼がうまく立体視できていないのはこの時間が長く続けばいいと考えている彼女にとっては幸運であったようだ。簡単に見えてしまえば彼はすぐに読破して飽きてしまっただろうし、負けず嫌いな一面のおかげでまだ諦めるつもりはないようだったし。
「そうかい、じゃあ私はもう少し見てるよ。見方が悪いのかまだ見えてない絵もあったからさ」
言葉通り目が疲れたのだろう、目をぎゅっと瞑ったり眉間を指で押したりしている彼にそう声をかけて、彼女はまた膝の上の本に視線を落としてぱらぱらとページをめくった。
「…あんたも、いい加減どいたら? ずっとその体勢じゃ疲れるだろうし、視界にこの絵が入ったらまた目が痛むんじゃないのかい」
「別に。集中して見なきゃいい話だろ」
彼の気のない返事に彼女はそう、と相槌を打ち、先ほど彼に声をかけられた辺りで中断していたページを探し当ててさっそく立体視を始めた。
別に立体視が特別上手なわけでもないが、彼よりは見方を覚えているだろう彼女は割と早いペースでページをめくっていく。
「…本当に見えてんのか?」
一枚の絵にかける時間が少ない彼女に彼がぽつりと呟く。
「慣れれば割とすぐに見えてくるものだよ」
答えながらまたページをめくる彼女に、彼がほぉ、とまた気のない相槌を返した。
彼女が視線だけ右にずらすと、休憩すると宣言した割に彼も彼女がめくるページの先を見ているようだった。
まだ"見る"ことを諦めてはいないらしい彼を少し意外に思いながら、彼女は視線をまた本へと戻す。
やがて軽快なペースでめくられていたページがある場所で止まった。
十数秒に一枚、速い時は十秒足らずで次の絵へ視線を移していた彼女が手を止めたものだから、彼が不思議そうに彼女を見る。
「んー…。私も疲れてきたのかな、この絵はどうもうまく見えないみたいだ」
彼女は少しずつ視点をずらしながら凝視するが、いつものようにうまく立体視ができないらしく結局諦めたように上部を傾けていた本をぱたんと膝の上に置いた。
「これ、難易度とかあんのか」
「ううん、ないはずだけど…。私も目が疲れてきたのかな」
困ったような顔の彼女の視線の先を彼も辿る。彼もぼんやりその絵を眺めていたが、やがてぼそりと一言。
「…波みたいな模様が見えたんだが」
「え」
彼女が彼に視線を向けて、それからすぐに本へ戻した。確かに波のような水色を基調に描かれている絵をじっと見つめる。
「…やっぱり見えないな…。でもこれ、後ろに回答が載ってたから…あ、あった」
ぱらぱらとめくった先に先ほどの水色と同じものを見つけ、さらに回答として描かれている絵を見て彼女は軽く眼を見張った。
「本当だ、波の絵になってる。あんた何でいきなり見えるようになったんだい?」
しかも私が見えなかったのに、と驚いた様子で問いかける彼女に、彼は珍しく困ったような複雑な表情を見せる。
「…さぁな。なんとなく見てたら見えた」
「ふぅん…。まぁでも、最初はそんなものだろうね。良かったじゃないか、ずっと挑戦してた甲斐があったね」
素直にそう答えた彼女にも、彼は別に、と素っ気ない相槌を返した。彼女が僅かに不思議そうな顔をするが、いつもの事かと結局追及せずに終わる。



「不思議な事もあるもんだね。私よりも慣れてないはずなのに。運?」
「ビギナーズラックってやつだろ。別に賭け事じゃねぇけど」
他の絵も見てみたら、と適当なページをめくる彼女に、彼は少し無言になった後ゆっくりと首を横に振った。
「もういい。見えたしな」
「そう? 私は一つ見えた後感動してもっと見たくなったものだけどね」
読みだした本が面白いと少しでも感じると時間を忘れて集中しだす彼にしては珍しい、まぁさすがに疲れたからもう見続けようとは思わないんだろう、と彼女は自己解釈して、自身も目が疲れ気味だったので今日はこれ以上この本を見ることはしないでおこう、とほんの少しだけ名残惜しそうな表情をして本を閉じた。
ぱたん、という紙と紙が当たって空気が追い出される気の抜けた音がして、それを合図にしたように彼が上体を起こして軽く伸びをする。ぱきり、という関節の鳴る音が二、三回聞こえてきて彼女が笑った。そんな変な姿勢でずっといるからだよ、からかい交じりの声に鼻を鳴らす音が返ってくる。
もうあんたも部屋に戻らないと明日の準備に響くんじゃないかい、との彼女の呟きに彼がそうだなと同意を返したので、彼女は本をソファの横のテーブルに置いて立ち上がった。
「これで少しは視力が回復したかもね」
「あのくらいで上がるか。第一俺は大して目は悪くねぇ」
「そうだっけ。まぁ回復しなくても下がることがないなら今の視力維持に役立つんじゃないかい」
同じように彼もソファから立ち上がり、一度大きく伸びをする。
「あんなわけのわからん柱やら動物やら波やらが見えたところで簡単に回復するとは思えんがな」
投げやりな言い方はうまく見ることが出来なかった不満の表れだろうか、そんな事を思って彼女は苦笑しようとして、ふとぱちりと瞬きをひとつ。
「…動物?」
危うく聞き流しそうになったが、彼が投げやりに言った言葉の中には先ほどの模様の中で彼女が種明かしをしていない、彼が見えていなかったはずの単語が含まれている事に気づき、彼女の視線が彼を捉えた。
含まれている感情は、疑念。
「あ?」
部屋から出ようと扉の前まで移動していた彼が、足を止めて彼女の方へ振り向く。
「いや、今、あんた動物って言ったよね。確かにさっきの絵の中に犬みたいな模様が浮かび上がるものがあったけど…。あんた、それは見えてなかったはずだよね?」
彼女の記憶が確かならば、犬のようなシルエットが浮かび上がった絵は本のかなり前半にあったはずだった。まだ彼がひとつの絵を集中して見ようとはしていなかった頃、本の説明がてら彼女自身が見えやすかった絵を見せていた時その中の一つにあったはずだ。
他に動物の絵が浮かび上がるものは思い当たらない。第一思い当ったところでいずれにせよ彼には見えていなかったはずだ、と彼女はますます色濃くなった疑念を表情に出した。
「………」
問いかけられた彼はというと、特に焦りや困惑を態度に出すことはせず、むしろ彼女をからかうようににやりと口の端を上げた。
「何故だと思う?」
「は? …実はその絵は見えてたって事なんじゃないのかい」
「そうだな、その通りだ」
思い当たる可能性の一つを試しに口に出してみた彼女は、あっさりと返ってきた肯定にさらに不可解そうな表情をする。
「えぇ? じゃあどうしてどれもこれも見えないだのわけわからないだの言ってたのさ」
「居心地が良かったから」
「…はぁ?」
主語を省いた、さらに今の彼女の問いに返すには微妙に食い違っている彼の短い返答に、また彼女が怪訝そうに首を傾げた。
「そのままの意味だ」
面白そうに口の端を上げたまま彼はそれだけ答えて、目の前の扉を開いてすぐにその向こうへと去って行ってしまった。
かちゃりと扉が閉まって金具が鳴る音が響いて、その一連の動作を眺めていた彼女は我に返ってまた首を傾げる。



彼はどうやらかなり序盤から立体視を成功させていたらしい。一度成功してコツを掴めば後は楽にできるものだから、先ほど言っていた動物の絵だけ偶然に見えていたということはなさそうだ。ならば何故見えたとすぐに言わなかったのか。
その疑問と先ほどの彼の台詞を合わせて考えた結果、どうやら彼はあのソファの居心地が良かったからわざと見えていないフリをしてその場にいられる時間を伸ばしていたらしい、との結論が出て彼女は思いきり苦笑いを零した。
そういえばあのソファでなくても座った位置から本を見ることは可能だっただろうにわざわざ人を退かしてまで座ってたもんね、あいつも変なところで意地っ張りなんだから、そこまで考えた彼女ははた、と思考を止めた。
あのソファが気に入ったのなら別に彼女を一緒に座らせなくとも良かったはずで、さらに何度か彼女が暗に退こうかと提案してもその都度突っぱねていた彼。
もしかして先ほどの言葉が足りない台詞に本来付けられるべき主語は、"ソファ"ではなくて、
「………」
そこまで考えて彼女は思わず首をぶんぶんと横に何回か降る。誰が見ているわけでもないのに染まった頬が気恥ずかしくて彼女は思わず口元を隠した。



同じ視点でものを見ていなくても、見えているものが同じである場合もあれば。
同じ視点でものを考えていなくても、結局考えている内容や行き着く結論は同じである事もある。



(何がビギナーズラックだい、ちゃんと見えてたんじゃないか!)
今は傍にいない彼に思いきりそう怒鳴ってやりたい気分だったが、嘘を吐かれたはずなのに何故だか嬉しくて、結局彼女がその気分を実行に移すことはなかった。