秋晴れの空が青く綺麗な至って平和な昼下がり。
買出し行くなら荷物持ちにフェイト呼んできます!とソフィアがぱたぱたと階段を上がっていったのが数分前の事だ。
壁に掛かっている掛け時計を見やる。ただ人を呼びに行くだけにしては長すぎるだけの時間が経っていた。
呼びに行く、と部屋へ向かった際も待たせまいと早足で階段を駆け上がっていたソフィアが寄り道をしているとも考えがたく、何かあったのではなかろうかと赤毛の彼女は腰かけていた椅子から立ち上がった。



ポンコツ正常学習能力



先ほどソフィアが辿ったのと同じように階段を上がり廊下を歩き、フェイトに割り当てられていた宿の一室の前まで辿り着いた時。
「ああ〜もう、どうしよ…」
ノックをしようと扉の前に手を振りかざしたところで室内から困り果てたようなソフィアの声が聞こえて、彼女は不思議な顔をしつつも止まっていた手で三度ノックをした。
「ソフィア? フェイトはいなかったのかい?」
「あっ、ネルさん!」
声をかけるとすぐに返って来た声は、先ほどの困ったような声と一転して安堵が幾分か混じっていた。
「うう、いたにはいたんですけど…。って、あ、どうぞ入って下さい! と言うかお願いですから来て下さい!」
「? うん、じゃあ入るよ」
訝りを表情に混ぜてドアを押した彼女の視界には、ベッドの上で気持ち良さそうに寝息をたてているフェイト。と、そのフェイトの下敷きになってばたばたもがいている困り顔のソフィア。
「すみません待たせちゃって…。あの、でも、ちょっと、助けてくれませんか。フェイト寝ぼけてるみたいで、離してくれなくて」
この状況からして、ほんの少しの時間とは言え彼女を待たせたのはソフィアが原因ではないだろうに、それでも謝りつつ懇願のように助けを求めてくるソフィアに彼女の口から苦笑が漏れた。
ソフィアも自力で脱出するかフェイトを起こして離してもらおうとしていたのだろう。かろうじて自由だった左手でぽかぽかとフェイトの背中を叩いているが、当のフェイトは起きる気配もない。
彼女から見ればなかなかに微笑ましい光景なのだが、下敷きにされたまま抱きつかれているソフィアが困り果てている様子だったので(それにさすがに少し苦しそうだった)、彼女は一応起こさないように力加減を考えながらフェイトの腕を外してソフィアを解放した。
「ふええ〜…。ありがとうございましたネルさん、助かりましたよ…」
フェイトの体の下から這い出てきたソフィアが疲れたような苦笑いを浮かべながら大きく息をついた。掴んでいた腕を離して、ぽふ、と間抜けな音と共にベッドの上に落としても起きないフェイトを見て彼女も苦笑する。
これじゃ荷物持ちを頼むのは無理みたいだね、と呟く彼女にソフィアが叩き起しますよと提案したが、疲れてるだろうし気持ちよく眠っているのだから、との彼女の意見に結局は同意した。
部屋を出て階段を降りながら、大したものは買わないし荷物持ちはなしでもいいか、という結論に達して、もう一度すみません余計なお時間取らせちゃって、と謝ってきたソフィアに彼女が微笑んだ。
「そんなに気にしないでいいよ。寝ぼけてる人間を相手にすると大変だよね」
「ですよね…。まったくもう、これが初めてじゃないんですよ、フェイトが寝ぼけて抱きついてくるのって」
「その時はどうやって離してもらったんだい?」
「耳元で大声出したり、ひっぱたいたりすると大抵起きるんですけど…ここ宿屋ですし窓も開いてたからあんまり大声出せなくて。軽く叩いても今日はすぐに起きてくれないし…。もー、おかげでネルさんに無駄な時間取らせちゃうし、困りものですよほんと」
口では怒った風に言っているが、ソフィアの表情からは「しょうがないなぁ」とある程度許容した上での苦笑が見えた。
「それだけソフィアを信頼してるってことじゃないかい? 気を許してる証拠だよ」
「うーん、そうでしょうか? いい方に考えればそういう事なんでしょうけど…」
「誰かが傍にいる状況でぐっすり眠れるってのは、余程相手に気を許してるんだよ。フェイトも、元いた星ではどうだったかわからないけど、ここに来てからはいきなり環境が変わった所為で眠りが浅くなったって言ってたしさ」
だからある意味、ここまで熟睡させられるソフィアはすごいと思うよ、と彼女がほんの少しのからかいと大部分を占める本心をそのまま伝える。
ソフィアはえ、と言葉を詰まらせてから照れたように(実際その通りなのだろう)視線を逸らした。逸らしたままにでも、とかいえ、とかごにょごにょと呟いていたが。
「で、でも信頼してくれてるみたいなのは嬉しいですけど、やっぱり今回みたいにネルさんを待たせちゃったりするのは困りものですよ! もー、頭はいいのになんでこう学習能力ないかなぁ」
その発言は照れ隠しにしか見えなかったが、あえて彼女は追及はせずに話を続ける。
「そんなに頻繁にあるのかい? さっきもこれが初めてじゃない、って言ってたけどさ」
「もー昔はしょっちゅうでしたよー、さすがに毎日ではなかったですけど自宅だとやっぱり気が緩むのか注意しても文句言ってもまた繰り返すんですよ。ほんっと生活面に関しては学習しないんですから」
他にも服適当に放っておくしゲームしたまま電源も空調もつけたまま寝ちゃうし、と愚痴り出したソフィアに、彼女はうーん、と唸って少し考える素振りを見せてから、こう切り出した。
「他の事についてはまぁ置いておいて、朝起きなかったり寝呆けたりするのは困るよね」
「ですよねぇ…。そういえば、ネルさんもいつもアルベルさん起こすのに苦労してる、って言ってましたよね」
「ん、ああ、まぁね…。あいつも寝起き悪いから。殴るとさすがに起きるけど、さすがに毎回だとこっちの手も痛いしねぇ」
「あ、私もフェイト相手だとよく引っぱたきますよ。でも声かけただけで起きてくれる時もあるからさすがにいきなりそうするわけにもいかないし、かと言って近づいて声かけるとたまに抱きつかれて起こすどころの話じゃなくなるし…」
はぁ、とため息をついたソフィアは、あ、でも、と呟いて少しだけ声のトーンを落とした。
「抱きつかれて身動きとれなくなると、フェイトもだけど私自身も学習能力ないなぁって思っちゃうんですよね。よく考えたら、何度も抱きつかれてるんなら事前にそれを察知して避けるとか、抱きつかれそうな時を見分けるとか、できそうなものなのに」
「うーん…。それも、なかなか難しいと思うけど」
「でも、ネルさん前に寝てる人の眠りが浅いか深いか見分けるコツがある、って言ってましたよね。そういうのを見つける努力とかを私はしてなかったなぁって。これじゃフェイトの事言えないですよね、私だって学習能力ないんですもん」
しゅんとなってしまったソフィアを見て、自分に非があるわけではない部分についても頭を悩ませられるのはソフィアの長所だねと思いながら彼女はどう答えを返そうかと考えて。



(それは、ソフィアの学習能力がないわけじゃなくて)



("抱きつかれる可能性がある"と学習していても、無意識に"まぁそれでもいいか"とか"嫌ではないから少しくらい許してあげよう"と結論を出しているんじゃないだろうか)



ふと思いついた考えが口をついて出そうになったが、少し考えた後に彼女は結局それを口に出すことはせずに。
「ソフィアが悪いわけじゃないと思うよ。本来なら起こされる立場なのに起きない相手に非があるとも言えるんだからさ」
「そうでしょうか…」
「うん。それに殴っても蹴っても起きない事もあるような誰かさんに比べたら、フェイトはまだ可愛い方だと思うけど」
「ええっ、アルベルさんそこまで寝起き悪いんですか? ネルさんも苦労してるんですねぇ…」
それから話題は別のものに変化していったので、彼女はふと思いついて言わずに置いた内容を口にする事はなかった。
言う機会もなかったので彼女自身もそのまま自然に言わないままの考えを忘れていったのだが。



「朝だよ、起きなってば…、…ちょっ!」
「うるせ…」
「…」
「がッ…」
「…あんたも本当に学習能力のない男だね」
「………」
次の日の朝、同じような状況に出くわした彼女は鳩尾を抑えてベッドの上で無言で悶えているぼさぼさ頭を呆れ顔で見下ろした。
「お前…もう少しマシな起こし方できねぇのかよ」
ようやく復活したのか恨めしそうな顔で見上げてくる紅い目の彼を呆れ混じりに見やる。
「それで起きてくれる相手なら喜んでそうさせてもらうよ」
しれっと答える彼女だが、何も彼女だって早朝から物騒な真似をしたいわけではない。言わずもがな誰かを殴れば殴った彼女の手や肘もそれだけ痛いわけだし、朝っぱらから大声で怒鳴る真似だってもちろんしたくなんかない。
彼の耳にタコができるほど言っているので今回また繰り返し文句を口にすることはしなかったが、せめてもの皮肉に彼女はわざとらしく溜息をついてみせる。
「他の皆は起こさなくても起きてくるのにね。このパーティではどちらかと言えば年長者に入るあんたが一番手がかかるってどういうことだか」
「うるせぇ」
「はいはい、文句言う暇があれば早く起きて手を動かす。まったく、昨日ソフィアが愚痴ってたけど、寝起き悪いって言われてたフェイトもあんたに比べれば可愛いものだよ」
「…あ?」
文句だけだった彼女の口から違う話題がするりと出た事に反応した彼が、伸びをしながら視線を彼女へ向けた。
「買出しについてきてもらおうとしたらフェイトが昼寝してて、起こそうとしたソフィアが困ってたんだよ。フェイトもあんたみたくよく寝呆けて周りのものに抱きつくんだってさ」
「…別に周りにあったものに抱きついてるわけではないんだが」
「え?」
「別に。なら俺と変わらんだろうが」
自分で言ってからフェイトと同類だと発言してしまった事が癪に障ったようで彼が顔を顰めた。
「時間のない朝にそれをしないだけフェイトの方が賢いだろう。まぁ、たまに寝呆ける事に関してはソフィアも学習能力ないって困ってたけどさ」
そこまで話すと否が応でも昨日の記憶が蘇ってきて、そういえば、と彼女は表情に微笑を混じらせながら口を開く。
「ソフィアは本当に可愛い娘だよね。学習能力がないのはフェイトだけじゃなくて自分もだって悩んでたんだけどさ」
「あー」
聞いているのかいないのか適当に相槌を返した彼に、慣れている彼女は気にせず話を続ける。
「多分それってソフィアがフェイトに気を許して甘やかしてるから、抱きつかれる可能性があるって学習しても"別にちょっとくらい許してあげよう"って 結論に達してるからだと思うんだよね」
「…」
「ちょっと、聞いてるのかい」
肩をぐるぐる回して体をほぐしていた彼が今度は相槌を返さなかったので、さすがに彼女が抗議の声をあげると珍しい答えが返ってきた。
「…それはお前の考えか、それともソフィア本人が言ったのか?」
「え? いや、私がそうなんじゃないかなって思っただけだけど。それを言ったらソフィアが妙に意識するんじゃないかって思って言わなかったけどね」
「ほぉ」
納得したような納得していないような、判断のつかない顔の返答があった。覚醒直後であまり頭の働いていない彼から何某かの質問が来る事も珍しいのに(何と言っても彼女の話を聞いているのかすら怪しい)、と彼女がほんの少しだけ不思議そうな表情をする。
彼女の表情から疑念を察したのか、彼女が何も言わないうちに彼が口を開いた。浮かぶのは口の端を上げた人をからかうような笑み。
「そういえば…。フェイトが学習しない、とかいう話が出たが」
「え? ああ、そんなような事を言ったような気もするけど…それが何だい」
「あいつも阿呆じゃねぇからな、学習能力が欠けてるわけではないだろうよ。ソフィアと同じく"抱きついたら文句を言われる可能性がある"事は学習しても"それでも別に構わない"と結論を出してる。だから傍目から見れば学習していないように見える。どうせこんな事だろうよ」
「………」
いつも相槌に沈黙も多様するのはどちらかといえば彼女より彼なのだが、今回言葉に詰まったのは彼女の方だった。
「…何、どうしたんだい? 人間観察とか人の心理を解析するとかまったく興味なさそうなあんたがそんな事言うなんて」
明らかにおかしなものを見るような目を向けられて彼が一瞬だけ目を細めたが、すぐにまた口の端を上げてにやりと笑う。



「確かに他人が何を考えて行動しているかを考えるような面倒な事はしないが」
「だから、どうして」
「自分と同じような事を考えているであろう相手の行動を読むことはそこまで面倒でもないからな」
「は?」



彼女がまた眼を見張る。
表情を変えないまま、彼の紅いふたつの瞳がじっと彼女を見ている。
瞬きすら忘れて目を見開いている彼女に、彼がふっと笑った。
「お前、本当こういう話になると頭の回転鈍くなるよなァ」
語尾をわざとらしく上げてからかうように言った彼に、いつもの彼女なら声を上げて反論していただろうが。
あいにく今の彼女は彼の言うとおり言われた事を理解するのに、というより止まっていた思考回路を動かすのに一生懸命で何かを言い返す余裕はなかった。
彼女が彼曰く"こういう話になると頭の回転が鈍くなる"のは言葉足らずでわざと遠まわしな発言をする彼にも原因が多分にあるのだが、彼女はそう文句を言う余裕もなく。
しばらくしてから、ややこしい彼の言葉を理解したらしく。
「…やっぱり、あんたが馬鹿だってことには変わりないじゃないか」
ようやく彼女が返した照れ隠し交じりの言葉は、ほのかに染まった頬のお陰で反論としてはまったく威力がなくて彼が笑った。



ソフィアが言っていた通り職業柄"眠りが浅いか深いか見分けるコツを知っている"はずの彼女が、覚醒しかけて抱きつかれる可能性のある状態の彼に普通に近寄ってしまい、さらに何度も繰り返されているはずなのに察知して逃げる事もせず彼の腕の中にまで収まっている理由が何かと言うのは結局明かされる事のなかったが。



偶然とは言えフェイトと同じような思考回路をしていたと思うと癪だ、とぼやく彼を、その話はもういいから早く支度しな!と言い置いてから部屋を出た彼女が。



「…結局私も馬鹿だったって事か」



誰にも聞かれない小さな声でぽつりとつぶやいた事は、誰にも聞かれなかったので当然誰も知らない。