ソフィアの甲高い悲鳴が上がったのは、戦闘終了して一息ついた直後だった。 まだ敵が残っていたのか、もしくは何か新たな危険が迫っているのかと一瞬その場の空気が張り詰めたが、それを氷解させたのはまたしてもソフィアの甲高い、ただし叫び声ではなく焦りを多分に含めた声だった。 「ネっ、ネルさんその顔! ど、どうされたんですかああああこれかなり深い傷じゃないですか!」 「ああ、さっきちょっと避け損ねちまってね…。大丈夫だよ、このくらい」 「だ、大丈夫じゃないですよ! ひどい出血じゃないですか、急いで手当てしないと」 何だ何だと皆の視線が向かった先には、わたわたと取り乱しているソフィアと、ソフィアがここまで焦る原因を作った張本人であるにも関わらず逆に落ち着き払っている赤毛の彼女。 何でもなさそうにソフィアに苦笑を向けているその右頬には、決して浅くない赤い線が走っていた。 パーティの中では一番紋章術に、そしてもちろん回復術にも長けたソフィアが、戦闘終了後怪我人がいないか診て回っているのはいつもの事だ。怪我の程度によっては大分怪我や血を見慣れてきたとはいえ、少し前まで普通の女の子だったソフィアが顔をしかめたり思わず声をあげてしまう事もあったのだが。 「いや、もう大分血も止まってきてるし。大した事ないさ」 「そんなことないです、ちゃんと治療しないと! 痕が残ったらどうするんですか」 「別に傷跡くらい、もう体中にあるし今更気にしないよ」 「そんな事言わないで治療させてください、ネルさんせっかくきれいな顔してるのに」 今回ソフィアが皆が驚いて振り向く程の悲鳴をあげる原因となった彼女の怪我は、程度や出血量ではなく怪我をした場所に問題があった。 白い頬に横一文字に傷が走り、まだ止まりきらない血がじわじわとにじみ出ては頬を伝って彼女がいつも首に巻いている布に染み込んでいく。眉尻を下げて慌てているソフィアほどではなくても皆が顔をしかめる程の怪我ではあった。 必死さすら見え隠れする表情で手当てさせてもらえるよう要請してくるソフィアに苦笑しながら、それでも彼女はやんわりと断りの言葉を告げる。 「心配してくれるのは嬉しいけど、本当に大したことないからさ」 「ダメですよ、嫁入り前のお嬢さんが顔に傷跡なんか残しちゃ!」 「あはは、もう私はお嬢さんなんて年でもないよ?」 「そんなことないですよ。それに、ネルさんは傷跡とか、顔の怪我だとかあまり気にされないのかもしれないですけど、私は気にするんです。だってやっぱり女の人のキレイな顔に怪我なんて、見たくないです!」 だから治療させてください、これは私の我侭なんです、とそこまで言われてはさすがの彼女も無下にはできなかったらしく。 じゃあお願いするよ、と苦笑いと共に零れた承諾の台詞にソフィアの顔がぱっと輝いた。 消えた傷痕 「やっぱり女の子だね」 陽が落ちて、窓の外から差し込む光よりも部屋の中の灯りの放つ光の方が強くなった頃、カーテンを閉めようとした彼女が唐突につぶやいた。 お互い違和感を覚える事も無いほどに当たり前のように同室でくつろいでいる彼の耳が彼女の小さな独り言を拾い上げる。 「…何の話だ」 「ソフィアの事だよ」 カーテンを閉め終えた彼女が彼に背を向けたまま答える。軽い布刷れと金属が擦れる小さな音が響いた後、彼女は振り向いた。 「嫁入り前の女性の顔に傷があってはいけない、んだってさ。女の子らしい可愛い発想だと思わないかい?」 彼女の口調はどこか微笑まじりで、実際彼が視線を少し上に上げて視界に入った彼女の顔はくすくすと笑っていた。 その表情からも口調からも、彼女が本気でそう思って口にしているのが伝わってきて、彼は思わず彼女の台詞から感じた違和感を疑問というかたちにして声に出した。 「お前は」 「ん?」 「そうは思っていないのか?」 彼女のくすくす笑いが止まって、二対の紫が彼を映した。視線を向けられた彼はほんの少しだが気まずそうに視線を逸らして。 「お前も女だろうが」 「…そうだけど」 「気にしないのか」 彼はそう尋ねてからちらりと視線を戻した。彼と過ごしている時は比較的表情の変化が豊かになる彼女は、例に漏れず誰が見てもすぐにわかるほど意外そうな顔をしていた。 「何だよ」 「あんたがそんな事気にするなんて、意外だったから」 「は? 俺はお前が気にしてんのかって訊いてんだぞ」 「だから、そういう事を訊くってことは気にしてるって事だろう?」 「妙な理屈で揚げ足を取るな。答える気がないんなら別にもう訊かねぇぞ」 「そうは言ってないだろう。まったく、相変わらず短気だね」 口では呆れたような事を言いつつも彼女の口調は至って穏やかだった。短気と称された彼とは正反対に、そうだねぇ、とのんびりした声が響く。 「気にしてないよ」 間が開いた割にやけにきっぱりと彼女が言い切った。彼はまた彼女の顔をちらりと見てから一瞬の間を置いて、だろうな、と投げやりに答える。 口では予想通りであっただろうことを言いつつも彼はどこか釈然としなさそうな顔をしていたが、彼女がそれを指摘しようとする前にいつもの無表情に戻ってしまったので、彼女は不思議に思いつつも言及する事はせず、元の話題を続ける。 「顔に傷痕が残るのを気にするような年でもないし、第一隠密になるって決めた時からそういう事は考えなくなったからね」 「…んなような事だろうとは思った」 彼女は投げやりな彼の答えに気を悪くした様子もなかったが、その後ぼそりと続けられた、予想通りでつまらねぇな、という小さな呟きにはさすがに眉根を寄せた。 「なら訊くんじゃないよ」 「そうだな」 「そうだなって…。まぁいいや、いつもの気まぐれだろう?」 ソファは彼に占領されているので、彼女は空いているベッドに腰を下ろした。特に意図もないが向かいの位置にいる彼がその所作をぼんやり眺める。 「あ。そういえば、あんたはどうなのさ」 「は?」 「あんたも多少なりとも女の顔に傷があるかどうかを気にしてたんだろう。人に訊いておいて結局あんたは答えてないよね」 「気にしてるなんて言ってねぇぞ」 「そうだっけ。じゃああんたが言ったか言ってないかは抜きにして、実際のところは気にしてるのかい?」 予想外の質問返しに、彼はほんの少しだけど驚いているようだった。自覚の有無はともかく彼の表情を読むことにすっかり慣れてしまった彼女がようやく気づいた程度の変化だったので、傍目からは恐らく彼は無表情のままなのだろうけど。 ともかくも意表を突かれたらしい彼は、視線を僅かに左下に動かしながら何事かを考えて、数秒後口を開いた。 「気にするか気にしないかっつぅ二択なら、気にする方を選ぶだろうな」 「えっ」 思わず漏れた彼女の声は無意識だったようで、彼女は指先を一瞬口元に当てて驚いたような顔をしたが、すぐに彼へと視線を向ける。 彼女のあまりにも意外そうな態度に憮然とした表情になっている彼が何か言おうとするが、一瞬早く彼女が口を開いた。 「あんたが? 本当に?」 「…嘘言ってどうなんだよ」 「だって、あんたがそういうこと気にするなんて意外にも程があるよ。無頓着そうに見えるのに」 じっと視線を、もしかしたら疑いの目を向けてくる彼女を見て、憮然とした表情がさらに色濃くなった彼から文句が出るかと彼女は思ったが、予想に反して彼は何も言っては来なかった。 無言のままの彼に彼女が視線を向けると、彼は彼女の顔を見た後、ソファの肘掛にだらりと置かれていた腕を持ち上げて、緩く開かれた手のひらを上に向け指先をちょいちょい、と動かした。 「?」 手招きと同じく、一般的に"こっちへ来い"といったようなニュアンスを持つその動作に、彼女は不思議そうな顔をしながらも従って立ち上がる。 彼のいるソファは一人掛けのものなので再び腰掛ける場所もなく、ソファの少し手前に立った彼女に彼はやはり無言のまま手を伸ばした。 「…なんだい」 伸びてきた手が彼女の右頬を一度包み込むように触れて、なぞる様に撫でた。少々のくすぐったさに彼女が目を細める。 「痕も残ってないな」 「ああ、昼間の傷の事? 本当に大した傷じゃなかったし、ソフィアがやけに心配してくれてね、傷跡すら残さないほど完璧に治してくれて」 「そうか」 そう一言呟いて彼はもう一度彼女の頬を撫でた。頬をすっぽりと包み込む程には大きな彼の手のひらがゆっくりと動く感触にくすぐったさを覚えながら、突然の行動の理由を彼女が問いただそうとする前に、またもやさえぎる様にして彼が口を開いた。 「別に顔に限った話じゃねぇが」 「え?」 彼がまた彼女の頬に手を滑らせた。その感触に向けられていた彼女の意識が彼へと向く。 「お前に傷がつくのは不愉快だ」 「…は?」 細められていた彼女の目がぱちりと開いた。 「だから気にする、それだけだ」 続けられた台詞を聞いても彼女の見開かれた目が元に戻る事はなく、二、三度瞬いた後彼女は疑念たっぷりの声を彼に投げかけた。 「…何が」 「何がってお前から訊いてきたんだろうが、女の顔に傷がつくことを気にするかどうかとか」 「…もしかして、さっき言ったのってその理由?」 「だからそうだっつってんだろ」 返された彼の声音は至極普通でいつも通りで、表情も普段どおりに少し不機嫌そうにも見える無表情だった。あえて言うならば、何を当然の事を、とでも言いたげな顔をしていたようにも見える。 あまりにも当たり前そうに彼が言うものだから、彼女は彼の解釈が自分の質問が意図していた意味と微妙に違っているらしい事に気づくまでしばしの間を要した。 「あのさ、私が言ったのってそういう意味じゃないんだけど」 「あ?」 「だから、女性の顔に傷があったらその事自体を気にするかって聞いたんだよ」 「…?」 「ほら、…顔に傷痕があるなんて綺麗じゃないから、気にして嫌がる人もいるだろう? 顔に傷痕のある女って一般的にはあまりよく思われないし。そういう意味で言ったんだけど」 「…ああ」 ようやく意図が伝わったと彼女が安心する間もなく、質問の内容を理解したらしい彼の答えは即刻返ってきた。 「んなの、普段顔に限らず怪我なんざ滅多にしない奴らの勝手な理想論だろ。日常的とまでは言わんが怪我する機会が多いっつぅのに今更顔に傷があるからどうこう言うわけもねぇだろうが」 最初に予想していたものとほぼ同じ答えが返ってきて彼女が小さく笑った。 即答した彼の答えは当初彼女が投げかけた質問の意図に合ってはいたが、この回答にたどり着くまでずいぶん回り道をしたなと彼女の微笑が苦笑混じりになる。 「そうだろうね、あんたならそう言うと思ったよ」 「なら訊くな」 「本当にあんたが私の想像通りに答えるとは限らないだろう? 確認の意味で訊いたんだよ」 「あぁそうかよ」 大して意味も無い軽口を叩き合う。程なくして伸ばされていた彼の腕が下ろされて、立ったままの彼女は元いたベッドに戻ろうか迷ったが、結局その場から離れずにいた。 「それにしても、…あんたってたまに変な勘違いするよね」 「あ?」 「女性の顔に、って言ってるのに私の顔だって勘違いしてただろう」 そりゃ確かに私の怪我がきっかけでこういう話題が出たけどさ、と呟く彼女に、彼はほんの少しだけ不思議そうな顔をして一言。 「別に同じような事じゃねぇか」 「全然違うだろう」 「同じようなもんだろ。他の女の顔に傷があろうがなかろうが、特に何とも思わねぇし」 「………」 さらりと言う彼に彼女が無言になる。先ほどまで彼が触れていた頬が僅かに朱に染まった。 「…あんたって本当、そういう事普通に言うよね。しかも普通の会話に混ぜて不意打ちにさ」 「そういう事? …ああ」 恐らく何気なく言ったのだろう台詞が含んでいた意味に思い当たったらしく、彼の口の端が持ち上がった。 「本心だしな」 「またさらっと言う…」 「訊かれた事をそのまま答えただけだ、咎められる筋合いはねぇな」 口調だけ聞けば淡々としているが、彼の表情は面白げに緩められている。気づいた彼女は少し悔しく思いながら意図的に視線を逸らした。 「…あんな事訊くんじゃなかった」 結局答えは予想通りだったんだし、と呟く彼女に、彼は形容するならばにやにやとした表情を崩さないままに口を開く。 「予想通りの返答をしたのはお前も同じだろうが」 「ん? …ああ、あんたも質問返ししてきたよね。最初に質問したのはこっちなのにさ」 そこまで言って、そういえば彼の質問も珍しいというか意外だったなと彼女は思い返す。さらに質問返しをしてきた彼は妙に返答に間を置いたり、予想通りと言いつつも釈然としない顔をしていた事も思い出し、その時は口にすることはなかった疑問を彼女が投げかけた。 「そういえばあんた、私の答えに満足してなかったのかい?」 「は? 別に」 「でも、予想通りでつまらないとか言ってた割にはどこかすっきりしないような顔してたじゃないか」 「…お前、たまに自分が女らしくないだとかうだうだ悩むじゃねぇか。"一般的な"女は顔に傷があるのを良しとしないんだろうに、お前は気にしないっつったからな。また自分は女らしくないとか悩みだすんじゃねぇかと思っただけだ」 まったく予想しなかった内容が彼の口から飛び出てきて、彼女の動きが止まった。彼は動きを止めたままじっと見てくる彼女から視線を逸らす。先ほどのにやりとした笑みはすっかり消え失せていた。 「…そんなこと気にしててくれたんだ」 「別に…」 「それ、さっきも言ったよね」 次第に彼女の顔から驚きが消えて、代わりに現れたのは柔らかい微笑。 「…だって、気にする必要ないじゃないか」 彼女が笑っている事に何故か気恥ずかしさを感じて視線を逸らしていた彼を見て、やはり笑いながら彼女は続けた。 「あんたは私の顔に傷痕があっても気にしないんだからさ」 「………」 「まぁ、さっき答えた時はそう思ってたから、あんたが質問の意味を勘違いして気にするって言った時は驚いたけど」 結局は予想通りだったんだからいいよね。そう呟く彼女の表情は楽しそうに微笑んでいたが、視線を逸らしたままの彼は気づかない。 「…不意打ちはどっちだ」 「え、何?」 「…何も」 口ではそう言いながらも、彼はどう見ても何も無かったようには見えない程度には悔しそうな表情を浮かべていたのだが、彼が顔を逸らし続けているので彼女もやはり気づかなかった。 |