久しぶりに会った幼馴染の顔色が優れない事に、クレアは怪訝そうな顔をした。 「ん? どうかしたかい」 クレアが僅かだが眉根を寄せたのに気付いたのだろう、アイスティーに入れたミルクをかき混ぜていた彼女がマドラーを持った手を止めた。 そういえば、たった今彼女がかき混ぜていた紅茶も、出してから大分経つのにまだほとんど口を付けられていない。今日は夏が終わりかけているとはいえ、外を歩けば汗ばむ程度には暑い日だったというのに。 「ネル、あなたもしかして体調でも崩してるんじゃないの?」 「え?」 目に付く違和感を疑問として口にしたクレアに、彼女は手にマドラーを持ったまま不思議そうな顔をする。半分以上アイスティーに浸かっているマドラーが、解けかけの氷に当たってかちんと小さな音を立てた。 「顔色が良くないわよ。いつもより口数も少ないし…。風邪ひいてるのに無理してここまで来たんじゃないでしょうね?」 いつも自分の体調や都合を軽視、というよりも後回しにしている彼女なら有り得る、と考えたクレアの心情が口調にも出ていたのだろう。半分ほど詰問のような口調になってしまった問いかけに、彼女は少し慌てたように首を横に振った。 「いや、風邪とかじゃないんだ。ちょっとね、最近虫歯になったみたいで」 無意識にだろう、左顎当たりに手を伸ばして彼女は苦笑してみせる。体調不良を隠していたわけではないと知ってクレアも少し安心したが、判明した原因に少しばかり顔をしかめた。 「それは…ある意味風邪をひくよりも厄介ね」 「まぁね…。でも割と初期段階で気付いたし、自覚した翌週に休みがあってすぐに治療に行ったからね。我慢できないほどの痛みってわけではないからさ」 そう言って笑ってみせた彼女に、クレアもようやく安心したように微笑んだ。 「そう…なら良かったわ。でもアイスティーにあまり口をつけてないってことはまだ治療中? きちんと治さないとダメよ」 「あー…。うん、そうだね」 「ネルったら、忙しさを理由に行くべき時に治療に行かずに後回しにしそうなんだもの。完治させないと悪化してもっと治すのに時間がかかるんだから」 「…治療しに行った時、部下にも同じこと言われたよ。放置して悪化する前に来てくれて良かったってさ」 気まずそうな顔をする彼女にクレアが笑う。つられたように彼女も苦笑して、またアイスティーをかき混ぜ始めた。 彼女の中で、自分というものの優先順位がかなり低いのは今に始まった事ではない。 隠密という立場や、元々の性格もあったのだろう。彼女に近しい者は皆憂いていたが、当人の中ではもはや優先順位というものはほぼ確立してしまっているものらしく、彼女は意思を曲げる事はしなかった。 それが最近、徐々に変わり始めている。彼女自身がどう思っているかはわからないが、少なくともクレアはそう思っている。 戦争が終わり気を張り続ける必要がなくなってきたお陰か、共に世界の為に冒険し、様々な体験をしてきたからか、それとも。 「今回の虫歯の件もそうだけど…。ネル、だんだん自分を大事にするようになってきたわね」 穏やかに微笑まれてそう告げられ、彼女は困惑したような申し訳なさそうな微妙な表情をする。 彼女の身に染み付いた自己犠牲精神は、治す気はないにしても自覚はあったようで。クレアが嬉しそうにしている理由を感じ取ってしまったらしい彼女は少しばつの悪そうに苦笑した。 「…そうかな?」 「ええ。私が言うんだから間違いないわよ。別に虫歯の件に限った事じゃなくて、こうやってきちんと休みを取ってゆっくり過ごしてる事もね」 思い当たる節はいくらでもあったようで、彼女の苦笑が色濃くなる。あれだけ言ったのに、やっぱり戦争が終わった後も私の知らないところで休みを返上して動き回ってたのね、とクレアは内心思うが、口には出さないでおいた。 「…部下を信じて任せるのも上に立つ者の務めだ、って陛下も仰っていたしね。それに私が動いてるのを見ると申し訳なくて休んでいられない、って部下にも言われてさ」 言われた光景がありありと想像できてクレアがくすりと笑う。相変わらずばつの悪そうな顔をしている彼女はようやく氷の溶けたアイスティーを一口飲んだ。 「それに…何ていうんだろうね、心配してくれてる人がいる限り、私の体は私だけのものじゃない、って言うか…。最近少しだけそう思うようになってきて」 最近になってようやく気付いたの、と思いはしたが、やはり口には出さずにクレアはそう、とだけ呟く。 あれだけ頑なだった彼女が、考え方を改める事になったきっかけが何であるか、はクレアは聞かずにおいた。 彼女の言う"心配してくれる人"が以前からも大勢いたはずで、さらには彼女自身もそれに気づいていたはずなのに、彼女の意思は変わらなかった。 ならば彼女が変わった原因は、以前からずっと共にいたクレア達ではないのだろうから。 「…そうよ、無茶するあなたを見て、今までどれだけ心配したと思ってるの」 頑固な彼女が考え方を変えた原因が自分ではないことなんて、大分前から気付いていたけれど。 彼女が無茶をする事だけではなく、悪い虫がつかないように心配していた身としては少し悔しくて、今まで内心で留めていた不満を少しだけ口に出したクレアに、彼女はまた申し訳なさそうな顔をする。 「まぁ、ネルがそう思うようになってくれたのはいい事ね。私も少し安心したわ」 せっかく幼馴染と過ごす穏やかな時間に困り顔ばかりさせていては可哀想だと、クレアはさりげなく話題を終わらせた。 ほっとしたように表情を緩める彼女を見ていると、氷の溶けきってしまったグラスが視界に入る。 「でも、虫歯の事最初に言ってくれれば冷たい飲み物は出さなかったのに。まぁ、最初からぬるめの飲み物を出してほしい、だなんて言いにくいでしょうけど」 「あぁ、それは気にしなくていいよ。冷たい飲み物が飲みたくないわけじゃないしね」 まだまだ陽射しの強い窓の外をちらりと見て彼女が笑う。 「そうね、この暑さだとね…。でも、冷たいものが歯にしみた時の痛みって、そこまで大げさな痛みでもないけれど痛いでしょ?」 「うん、そうだね。今まではあまり気にしてなかったから、うっかり虫歯だっていうことを忘れて冷たいものを飲んだ時とかもう、ね」 話しながら思い出したのか、口元に手を当てて彼女が顔をしかめる。過去に同じ痛みを経験した事のあるクレアはうんうんと頷き、ふと気付いて口を開く。 「そういえば、ネルって今まで虫歯になったことなかったわよね?」 「あぁ、そうだね。まさかこの年になって初めて虫歯になるとは思わなかったよ。最近になって歯磨きを怠ったつもりはないんだけどねぇ」 「…」 不思議そうに、本当に純粋に疑問に思っている様子で彼女が小首を傾げている。 無言でそれを見ていたクレアは、彼女が疑問に思わない程度の間少し何かを考えて。 「話は少し変わるけど、アルベルさんって甘いものが好きだって前言ってたわよね」 「え、うん。どちらかっていうとそうらしいよ。見た目に似合わず作るのも上手いんだよね、意外にも」 名前を出した途端、目に見えて雰囲気が変わった彼女を見ながら、クレアは穏やかな微笑を崩さないままにさらに質問を投げかける。 「ふうん…。なら、その甘いものをいつも作って食べてるアルベルさんって、よく虫歯になってそうね」 「あぁ、うん。子供の頃に痛い目に遭ってからはすぐに治療に行ってる、って言ってたっけ」 「それで、あなた冒険の最中も終わってからも、アルベルさんとよく一緒にいたのよね」 「? うん、まぁ…よくってわけじゃないけど」 唐突な話題転換と質問に彼女は不思議そうな顔をしながら答えたが、言い終わった直後にあ、と声をあげた。 「あぁそうか、あいつの作るお菓子ばかり食べたから虫歯になったのかもしれないね…。なんだかあいつが原因だと思うと複雑な気分だけど」 納得したような、それでいて少し照れくさそうにしながら呟く彼女に、クレアはうーん、と何かを考える素振りをしてみせてから。 「まぁ…。アルベルさんが原因であるのは、間違いじゃない気がするんだけど」 「いや、多分確定だよ。悔しいけど帰ってきた後も甘いもの食べる頻度が増えてるし」 この間もケーキ屋の前でつい立ち止まっちゃって、と、失敗とも言えない失敗談を語る彼女は、クレアの穏やかなにこにこ笑顔がどこか含みを持っている事に気付いていない。 ネルの考えを変えてくれたひとなんだから、感謝しなければいけないと思っていたけど。 恐らくその日はまだまだ遠そうだ、とクレアははああとため息をついた。 「?」 目の前の彼女にももちろんそれは見えていたので、唐突に浮かない表情をしてため息までついたクレアに彼女は不思議そうな顔をした。 「ねぇ、ネル」 「なんだい?」 「虫歯の原因っていろいろあるみたいだけど、虫歯の菌が口内にいないと虫歯にはならないらしいの」 「? うん」 「それでね、生まれた時には菌は口内にいないから、人から知らず知らずのうちに移されて虫歯になるんですって」 「へぇ…」 「それでね、」 恐らく何も気付いていない彼女にこれを告げるのはほんの少し躊躇われたが、悪戯心が勝ってしまったクレアは、にっこり笑顔のままに口を開いた。 「キスでも虫歯は移るらしいわよ?」 一拍置いてから、表面温度が2〜3℃上がったのではないだろうかと思えるくらいに真っ赤になった彼女を見て、彼女は微笑ましげにくすくすと笑う。 何言ってるんだい、だからって別に、と慌てながらもごもごと呟いている彼女を眺めながら、クレアはすっかりぬるくなってしまったグラスに手を伸ばした。 次に彼女が彼と会うときに喧嘩にならなければいいけれど、とのんびり考えながら。 見えない密かな影響力 |