「あんたは後悔してないのかい?」 宇宙船ディプロの中、自室に戻ろうと廊下を歩いていたアルベルは、壁にもたれかかって彼を見ているネルにいきなりそう問われて怪訝な顔をした。 ただ廊下ですれ違っただけなのに、急に脈絡もないことを問われれば誰もがそうなるだろう。 「はぁ?」 「聞こえなかったのならもう一度言うよ。…エリクールを出て、ここに来たことに後悔はないのか、って訊いてるんだよ」 ネルは壁にもたれて、しかしアルベルの顔から視線を外さずにもう一度問いかけた。 理由 「何故そんなことを訊く?」 「はぐらかさないで。答えなよ」 視線をそらさず、真っ直ぐに目を見て聞いてくるネルに、アルベルはさらに怪訝そうな顔をする。 「んなもん、あるわけねぇだろ。あんな所に未練も何もあるか」 当然のように言い放った。 それを聞いて、ネルは絡んでいた視線をふっとそらし、明後日の方向を見る。 「…そう。ま、あんたならそう言うと思ってたけどね」 そこでアルベルは普段と何か違うネルの様子に気付く。 「あぁ?…じゃあ、お前はどうなんだ?」 「え?」 ネルはきょとんとしてアルベルの顔を見た。 その様子があまりにも無防備で、アルベルは少しおかしくなる。 「何笑ってるんだい」 どうやら顔に出ていたようで、ネルはむっとなる。 「ああ、気にすんな。それで、お前はどうなんだよ。俺に訊いてきたってことは、お前も何かしら思うところがあるんだろうが」 「え…別に何もないさ」 「嘘吐け」 間髪いれずに斬り捨てるように言われ、ネルは一瞬驚く。 アルベルは初めて逢った時のような、意地の悪そうな笑みを浮かべている。 「まさか、戻りたくなったなんて言わねぇだろうな」 「…そんなわけないだろう!?」 普通の会話だが何故かバカにされているように感じて、ネルは少し声を荒げる。 「そりゃ、寂しくないって言ったら嘘になるだろうさ。確かに、クレアやタイネーブ、ファリン、それにシーハーツのみんなともう会えないってのは、寂しいことだよ。でも」 「でも?」 「私のあの国での役目は、もう終わったと思ってる。…だから、次はあいつ等の、結果的にあの国を救ってくれたフェイト達の役に立つ番だと思うから」 「へぇ」 「…だから、私はここにいるんだ。後悔はないよ」 「……なるほどな」 アルベルは相変わらず口の端をつり上げた顔でネルを見ている。 ネルはその表情が気に入らない。 元は敵同士であったし、命を懸けての戦いもしたことがある。だが、今は対等の立場のはずだ。 なのに、どうもこちらを見下しているような気がしてならないのだ、このアルベルという男は。 「それだけか?お前がここにいる理由ってのは。はっ、くだらねェな」 「…何だって?」 「くだらねェって言ったんだよ。そんな理由で故郷を捨てるなんて、お人好しにも程があるぜ」 ほら、やっぱり。 今もまさにバカにしたようなセリフを吐いている。 会ったときから感じてはいたが、この毒舌には腹がたってくる。 …そう思った時、ふと、こいつに趣向返しを食らわせてみたくなった。 もう立ち去ろうとしているのか、こちらに背を向けたアルベルに、ネルは思い出したかのように言った。 「…あぁ、もう一つ理由があるね」 ネルは悪戯を思いついた子供のようににやりと笑んだ。 そんな表情に気付いているのかいないのか、面倒くさそうにアルベルは振り向く。 もしネルがここで言葉を発さなかったら、アルベルはとっくに自室へと戻っていたのだろう。 我ながらタイミングが良かった、とネルは思う。 「なんだ?言っておくがくだらねェ理由だったら聞かねぇからな」 アルベルは相変わらず面倒くさそうだ。 だが、最初から聞かないと言われないだけマシなのだろう。 少しは打ち解けてきた、と解釈していいのだろうか。 「いいや、くだらなくなんかないよ。立派な理由さ」 「へぇ」 ネルは先ほど問うた時のように、相手の目を見据える。 アルベルも視線を逸らす事無くネルの目を見る。 そういえば、すぐに目線を逸らす人は心に何か疚しいことがある人間だと聞いたことがある。 アルベルは以外にも何も疚しいことは持ち合わせていないようだった。 ネルはにこりと笑い、そして言ってやった。 「あんたと一緒にいたかったからさ」 一瞬、相手が何を言っているか理解できなかった。 不覚にも、固まってしまった。 何を言われたか理解できなくて固まった、なんて見透かされたくなかった。 普段からの無表情が功を奏してそんなに表情は変わっていなかったと思うが。 「は?」 そんな事を考えながら口から滑り出たアルベルの言葉は、無意識だった。 が、さっきまで射るようにアルベルの目を見据えていたネルは、笑いを堪えるかのように口元に手をあてていた。 いや、実際込み上げてくる笑いを堪えているのだろう。 「…てめぇ」 アルベル自身、それほど間抜けな顔をしていたつもりはないが、強気な性格の割に普段静かなネルが笑いを堪えているのだから余程のことだろう。 「っくくく、冗談に決まってるじゃないか、はははっ」 とうとう堪えることもせずに笑い出したネルを、アルベルは少々据わった目で睨んだ。 からかわれたのだとわかると静かな怒りが込み上げてきた。 「ふふっ、悪い悪い、そんな顔されるとは思わなかった」 まだ笑いを噛み殺しきれないといった風のネルに、アルベルは誰にともなく、阿呆が、と小さくつぶやいた。 ちょっとした悪戯は、思いの他効果があったようだ。 まさか、本当にアルベルが固まってくれるだなんて思いもしなかった。 せいぜい怪訝な目で睨まれるか、 「何をバカなこと言ってんだ、阿呆が」 と罵られるかと思っていたから。 いつも見ない表情が見れただけで十分に仕返しはできた。 ネルが笑いを堪えながらちらりとアルベルを見やると、苦虫を噛み潰したような表情で、 「…阿呆が」 と小さくつぶやいていた。その姿も少し笑えてくる。 さっき言ったことは、あながち冗談でもなかった。確かに半分冗談だったが。 その言動や態度は腹が立つ事この上なかったが、"歪のアルベル"の剣の腕は認めているし、賞賛に値するだろう。 初対面ではなんて偉そうな奴だ、と思ったがいざ仲間になってみると以外とさばけた性格をしていて、一緒にいても別に嫌とは感じなかった。 それに、なかなか現実的な考えを持っているようで言っていることはほとんどが正論だ。 何度か、彼の言葉に気づかされたこともある。 最初こそ敵だったから馴染めなかったが、ネルは今彼を心の底から嫌っているというわけでもなかった。 …さて、十分楽しめたし、相手の機嫌がこれ以上悪くなる前に退散するとしようか。 「そんなに怒ることないじゃないか。じゃあ、また明日ね」 ネルはもたれていた壁から背を離し、アルベルに一言言って自室に戻ろうとした。 アルベルは何も言わないままに一歩ネルに近づき、ネルの進路を阻むようにして壁に乱暴に手をついた。 ドン、と音がしてネルは反射的にぴくりと一瞬体を強張らせる。 ネルの顔のすぐ左横にアルベルは右手をついている。 そんなに怒らせたのか、とネルはアルベルの表情を伺おうとする。 と、その時。 「俺もだ。って言ったらどうする?」 至近距離で耳元に、低い声が響いた。 手を置かれている方とは逆の耳に、さらり、とネルのものではない髪が触れた。 自分とは違う髪質の、少し固めの髪がネルの頬にもはらりとかかる。 我に返ると、自分の顔のすぐ右にアルベルの意地悪そうな笑みがあった。 何かを喋れば吐息が頬にあたるくらいの至近距離に。 「なっ…!」 顔に血が上って、頬が熱いのが自分でもわかった。 振りほどこうとして手を動かそうとすると、その前にアルベルのほうから体を遠ざけた。 「…本気にしたか?」 アルベルの顔は、さっきとかわらぬ意地の悪そうな顔。 「そっ…んなわけないだろう!」 「今回は俺の勝ちだな、阿呆め」 さらりとそう言って背中を向けて立ち去ったアルベルに、ネルは何も言えなかった。 …これじゃ、バカにされてるのはこっちじゃないか。 不覚にも赤くなってしまった顔を直そうとするが、そうすぐに戻るわけもない。 アルベルが早々に立ち去ってくれて助かった。 何も言えなかった悔しさから、立ち去っていくその背を思い切り睨みつけてやる。 と。 アルベルがこちらを振り向いた。 そして、唇の動きだけで何かを言った。 俺は別に、本気にしてもらっても構わないぜ。 確かに、そう言ったように見えた。 「え………」 ネルは己の見たことが信じられずに、固まったままアルベルの立ち去ってゆく姿を凝視していた。 もう彼は振り向かなかった。 ネルはしばらく唖然としていた。アルベルの姿が見えなくなって、やっと我に返る。 「…どういう、意味だい」 つぶやいても、答えを返す者は誰もいない。 どういう意味なのか。もし、そのままの意味だったら。 さっき言っていた、「俺もだ」っていうのを本気にしても構わない、と。 俺も、っていうのは、さっき自分が冗談交じりで言った、「あんたと一緒にいたかったから」というセリフを指していて。 と、いうことは…―――。 「………」 あいつも、私と一緒にいたいと少しでも思っていた? 何言ってるんだ、あいつは…阿呆はあんたのほうだ。 心の中でつぶやく。 少し赤みがとれてきた頬をそっと撫でる。 さっき、アルベルの髪が触れた場所。 …柄にもなく、胸のどこかがもやもやしていて変だった。 「私も…別に、まったくの冗談だったってわけじゃないよ」 ぽつりと、つぶやいた。 明日あいつに会ったら、この言葉を言ってやろうか。 またあの無防備で呆けた顔が見られれば、まぁよしとしてやろう。 そうすれば、このもやもやする胸も、きっと晴れるだろうから。 |