あるところに、一本の木がありました。 その木はとある町の街路樹で、普通の家よりは大きくて豪華な家よりは小さいくらいの大きさです。 木の近くには綺麗に舗装された道があって、そこを通る人で賑わっていました。 突然。なんの前触れもなく、空から雨が降ってきました。 最初はぽつん、ぽつんと雫が葉っぱから滴るような雨でしたが、少しもしないうちにその雨は本降りになってきました。 木の横の道を歩いていた人達は、慌ててその場から移動して、雨を避けられるところへ走っていきました。 ところで、その木は適当な大きさと太さがあり、葉っぱも青々と茂っている立派な木だったので、雨宿りにはちょうどいいくらいでした。 なので、当然その木で雨宿りをしようという人もいました。 あまやどり まず、近くを歩いていた人が一人、その木の下にやってきました。 その人は金色と黒の混じった髪の毛と、真っ赤な瞳を持つ、少々目つきの悪い男の人でした。 男の人は突然降ってきた雨に文句を言いながら、髪や服についた水滴をはらいました。 でも雨が降ってきてすぐに木の下に避難できたので、髪も服もそれほどは濡れていませんでした。 男の人は暗い空を見上げ、雨足がまだ途絶えそうにないことを見て大きなため息をつきました。 そのまま木にもたれかかり、何をするでもなく立っていました。 それから少しも経たないうちに、その木の下のもう一人、人がやってきました。 その人は夕日のような紅色の髪と、菫色の瞳を持つ、意志の強そうな目の女の人でした。 木の反対側でもたれている男の人には気づいていません。 女の人はどうやら、雨宿りできる場所が近くになくてこの木まで走ってきたようでした。 そのせいか、髪も服もびしょ濡れとまではいきませんがかなり濡れていました。 女の人は首に巻いている長いスカーフをとって、タオル代わりにして濡れた髪や服を拭きました。 そして、誰にともなくこうつぶやきました。 「…まったく」 「何が、まったくなんだ」 反対側でもたれていた男の人が、女の人にそう言いました。 女の人は一瞬驚いて、聞こえてきた声が聞き覚えのある声だったことに少し安心しながら木の反対側を見ました。 反対側でもたれていた男の人は、目線だけで女の人を見ています。 「なんだあんたか。驚かせないでよ」 女の人は男の人がもたれかかっているほうへ移動して、隣に立ちました。 「気づかねぇお前が悪いんだろうが。それでよく隠密が務まるな。背中をとられたらどうする気だ」 男の人は表情を変えずに、怒っているでもなく呆れているわけでもない、普通の口調で言いました。 「悪かったね」 女の人は少しむっとなって、でも男の人の言い分ももっともだと思ったのか、反論せずにそう一言だけ言いました。 雨は、相変わらず容赦なく降っています。 木の下にはいくつかの水溜りができ、そのうちのひとつには金色と黒の髪の毛を持つ男の人と、紅の髪を持つ女の人がぼやけて映っていました。 「…なぁ」 少し沈黙が流れて、男の人が口を開きました。 「なんだい?」 あらかた髪や服を拭き終えた女の人がそう相槌を打ちます。 「この辺りはよく雨が降るのか?」 女の人は、男の人の言ったことが意外だったのか、少し目を丸くしました。 そして、何かに気づいたらしく、ああ、とつぶやいて、 「そういえば、あんたはカルサア出身だったね。なるほど、あの辺りは雨があまり降らないから、そう思うのも無理ないか」 と言いました。 「…で?」 男の人が質問の答えを促すように言うと、女の人は少し呆れた口調で言いました。 「まったく、気が短い男だね。そうだよ、この街は晴れる日も多いけど、雨の日も多いんだ。特にこの季節はこうやってにわか雨がよく降るのさ。長い雨じゃなくて、すぐに止むけどね」 「…ほぅ」 「だから、この雨も少し待ってればすぐに止むだろうね」 「そうか」 男の人がそうつぶやいて、また会話はそこで途絶えました。 雨は、変わらず降り続けています。 「…うわぁ!」 しばらく経って、女の人が急に声を出しました。 「なんだ」 男の人が怪訝そうにそう訊くと、女の人は首筋に手をやりながらこう言いました。 「…背中に水滴が落ちてきたんだよ。ああびっくりした」 ああ、と言って男の人が上を見ると、木の葉と葉の隙間からわずかですが水が滴り落ちていました。 それが運悪く女の人の背中に入ってしまったようでした。 「まったく、雨の日は嫌だね」 女の人は曇った空を見上げながら嫌そうに言いました。 雨は、まだ止みそうにありません。 「…あのさ」 「…なんだ」 「あんたさ…もしかして、にわか雨が珍しいのかい?」 「あ?」 男の人は不思議そうな目をして女の人のほうを向きました。 女の人は、まだ止まない雨をぼんやりと見つめたまま、言葉を続けます。 「確か、カルサア出身だって前言ってたよね?アーリグリフもそうだけど、あの辺はあまり雨が降らないだろ?」 「…ああ」 「シランド方面にはあまり来たことがないみたいだったし、にわか雨が珍しいのかと思ってね。あっちの方じゃ、そんなに激しい雨は降らないんだろう?」 そう言うと、男の人は特に何も考えず、ひと言つぶやきました。 「…まぁな」 「ふぅん…じゃあ、急に降ってくる雨ってのはどうだい?」 「…あぁ?」 女の人が言った言葉の意味が汲めずに、男の人が聞き返します。すると、女の人は付け足すように、 「実際に、にわか雨に降られてみて、どう思った?って訊いてるんだよ」 と言いました。 「…うざったい。気が滅入る。頭が痛くなる。予測不能な所がムカつく」 男の人は思ったことをそのまま口にしました。 率直に並べられた感想に、女の人は苦笑します。 「…身も蓋もないねぇ…」 「思ったままのことを言っただけだ」 「ま、そうだろうけど」 女の人はそう言って肩をすくめました。 雨は、少しずつ小降りになってきました。 まるで滝の近くにいるような雨音も、布を静かに引くような音になっていきます。 「…お前は、雨が嫌いなのか?」 またしばらく経って、男の人が口を開きました。 雨音も小さくなってきたので、さっきよりも声が聞き取りやすくなっていました。 「は?」 男の人が唐突に言った台詞に、女の人は少し怪訝そうな顔をします。 「…さっき、雨の日は嫌だ、って言ってたじゃねぇか」 「そりゃあ言ったけど」 女の人は男の人を見ていた視線をそらし、また空を見上げました。 空は少しずつ雲が薄くなってきていますが、雨はまだ止んでいませんでした。 「…でもさ。雨の日は嫌だけど…雨は嫌いじゃないよ」 「あぁ?」 今度は男の人が怪訝そうな顔をしました。 「どういう意味だ」 「そのままの、意味だよ」 女の人は楽しそうに言いました。 一方男の人は、言っている意味がまったくわからないとばかりにさらに不思議そうな顔をします。 女の人は、そんな男の人の様子を特に気にせず、空を見上げたままつぶやくように言いました。 「…確かに、雨は良いことばかりじゃないよ。服が濡れると、体にまとわりついて動きが鈍くなるし鬱陶しい。体力を消耗する。足場は悪くなる。食べ物が痛む。洗濯物は乾かない。下手すれば風邪をひく」 「…十分嫌ってんじゃねぇか」 「まぁ、最後まで聞きなよ」 言っていることとは対照的に、やっぱり楽しそうに女の人は言います。 雨は大分止みかけて、霧雨のように細かい水が降ってきます。 少しずつ晴れてきた雲間からかすかな光が差してきました。 「…でも、さ。やっぱり私は、雨が嫌いじゃないよ」 「だから、何でだよ」 「まぁ、待ちなよ。…さて、そろそろかな」 雨は、完全に止みました。 雲は風に流されて薄れ、太陽が顔を出しました。 「止んだね。言ったとおり、すぐに止んだだろう?」 「あぁ…。それで何がそろそろなんだ」 「ほら。…空を見てみなよ」 「あ?………」 男の人は、言われるがままに空を見上げました。 そして、表情を変えました。 さっきまでの雨が嘘のように晴れ渡った空には、大きな七色の架け橋が架かっていました。 道行く人が思わず立ち止まって眺めてしまうような、とてもとても立派なものでした。 女の人は、木の下から出て日の当たる道の方へ少し歩きました。 空に架かっている大きな虹に背を向けて、男の人の方へ向き直ります。 男の人は視線を虹から外し、女の人を見ました。 「どうだい?」 「………」 「これが、私が雨を嫌わない理由だよ。…綺麗だろう?」 女の人は誇らしげに両手を広げながら、そう言って微笑みました。 少しだけ間を置いて、男の人が口を開きました。 「…ああ。悪くはないな」 「…まったく、素直じゃないね」 女の人は、少し呆れながらそうつぶやきました。 あるところに、一本の木がありました。 その木はとある町の街路樹で、普通の家よりは大きくて豪華な家よりは小さいくらいの大きさです。 木の近くには綺麗に舗装された、ところどころに水溜りがある道があって、そこを通る人で賑わっていました。 さっきまで雨が降っていた名残で、葉っぱは大分濡れていました。時々風が吹いて、葉っぱについた水滴がぱらぱらと落ちてゆきます。 木の下にはいくつかの水溜りがありました。 そのうちのひとつには金と黒の髪を持つ男の人と、紅の髪を持つ女の人と、 そして、大きくて立派な虹が、とても綺麗に映っていました。 |