アーリグリフの夜は寒い。 昼間からあまり気温は上がらないが、夜になると凍みるような寒さになる。 さらに雪まで降ってくれば、もう寒いとしか言えなくなってしまう。 ほしくずのよる 「…寒」 宿屋の一室にあるソファーに深く座り込んで、ネルはそうつぶやいた。 任務で来ていた時はそんなこと言っている場合ではなかったから口に出さなかったけど、やっぱり寒いものは寒かった。 ネルは少し前にソファーに座り、そして、暖炉に近いその場所の心地よさにそこから動けずにいた。 多分、他の仲間達はもう眠っているだろう。 明日の出発は特に早いというわけではないけど、早く寝るに越したことはない。 そろそろ寝ないと、と頭では思うのだが、体が動かなかった。 ベッドはすぐそこなのに。ソファーから立ち上がって二、三歩歩けばいいことなのに。 そう思うが、やっぱりもう少しここにいたかった。 ネルは何をするでもなくぼんやりと、暖炉の中で爆ぜている薪を見ていた。 時折パチパチと音がして火花が飛ぶ。 しばらくそのままぼうっと眺めていた。 …本当にそろそろ戻るか。そう思って、立ち上がろうとする。 すると、部屋の扉の向こうから、つまり宿屋の廊下から声がした。 「…おい」 聞き覚えのある、低い声。返事を待たずに扉が開けられる。 ネルはゆっくりと振り向く。 いつもと変わらない表情のままアルベルが立っていた。 「なんだい?…夜這い?」 ネルは首だけ後ろを向いたまま、何かを含んだような笑顔でそう聞いた。 「…阿呆。今日は違う」 アルベルは表情を変えないまま答えた。 「え?じゃあなんなのさ」 てっきりそうだと思ったのに。というか、それ以外の理由でこいつが訪ねてくるなんて珍しい。 ネルはそんなことを考えた。 アルベルはそんなネルに、少しだけ言いにくそうにこう問いかけた。 「…お前はまだ寝ないのか」 今まさに、寝ようかと思ってたところだったんだけど。 ネルはそう言おうとしたが、アルベルが何故そんなことを訊いたのかが不意に気になった。 「…何でそんなこと訊くんだい?」 「………」 何気なく訊いたが、アルベルは何故か視線を逸らして黙り込む。 ネルは訝しげにアルベルを見る。 しばらくして、アルベルは口を開いた。 「…まだ寝ないんなら…来い」 「は?」 微妙に変で唐突な台詞に、ネルは思わず聞き返す。 「いいから来い」 アルベルはそう言って、先にすたすたと部屋を出て行く。 「え、ちょっと」 ネルはわけがわからないままアルベルの後を追った。 階段を下りてアルベルを追うと、アルベルは宿屋の出入り口の所に立っていた。 そのまま宿屋の外に出ようとする。ネルはあからさまに嫌そうな顔をした。 「…ちょっと!どこに連れていこうってのさ、こんな雪が降ってる寒い夜に」 「普段あんな格好しといてよく言うな」 「あんたには言われたくないね。で?どこへ行くのさ」 「…いいから、来い」 アルベルはそう言って会話を強引に終わらせ、またネルに背を向けて歩き出した。 宿屋の扉を開けて、先に外へ出て行く。 「…ったく」 ネルはそうつぶやき、後を追った。 あいつが強引なのはいつものことだ。 もういい加減慣れてしまっていた自分に苦笑しながら、ネルはしょうがなく宿屋の外に出た。 宿屋の外は、思ったとおり寒かった。 室内、しかも暖炉のあった所とは気温差がすごくて、ネルは思わず身震いした。 アルベルはというと、宿屋を出てすぐの大通りのど真ん中に立ってこちらを見ていた。 もう夜も遅いためか、人通りはなかった。 通りは暗かったが、立っているアルベルはかろうじて見えた。 ネルが寒そうに後を追うと、アルベルはまたくるりと背を向けて歩き出す。 ネルは自分から呼んでおいてなんなんだ、と思いながらも早足になって後を追う。 仕事上、夜も動き回らなければならなかったので暗い所は慣れているし、人よりも夜目は利くほうだ。 さくさく、と地面に積もった雪を踏みながらアルベルの隣に並んだ。 「あんたねぇ、少しくらい待ってくれたっていいんじゃないかい?それに、本当にどこに行くつもりなんだい?そろそろ教えてくれたって」 隣に並んで歩きながらネルは不満そうにそう言った。 アルベルは歩く速度を落とさないまま答える。 「細かいこと気にすんじゃねぇよ」 「細かくなんかないだろう」 相変わらずの答え方に、ネルはため息をつく。ついたため息は白くなり、そしてすぐに消えた。 この、自己中なものの言い回しも、悲しいかなすっかり慣れてしまっていた。 言う気はなさそうだし、訊いても無駄だな。 …まぁ、よくはわからないけど付き合ってやるか、そう思ってまたネルは苦笑する。 二人はそのまま少し歩いて、アーリグリフ城の城門の前に着いた。 門の前には普段、二人の門番が立っている。が、今は深夜の所為もあってか一人しかいなかった。 アルベルはその兵士がこちらに気づいて何か言う前に、口を開く。 「こんな夜中までご苦労」 「おや、アルベルの旦那じゃないですか。…それと…ネル様!?」 眠そうにそう言った兵士は、アルベルと、その隣にいるもう一人を見てかなり驚いた。 「…どうなさったんですか、旦那」 ネルとアルベルを交互に見ながら、兵士が訊いた。 「…少し城内に用がある。入っても構わねぇか」 「あ、はい、もちろんです!」 兵士がそう言って門を開ける。アルベルは何も言わずに門をくぐって中に入った。ネルも続く。 そのまま城内に入っていった二人の背中を見ながら、門番をしていた兵士はぽつりとつぶやいた。 「…こんな時間に何しに来たんだろう、旦那」 しかも、ネル様と二人で。門番の兵士は不思議そうにそんなことを考えていた。 城に入って左に曲がった所にある扉を開けて、アルベルは中に入る。 てっきり、王か誰かに用があるのかと思っていたネルは少し面食らう。 …まぁ、こんな時間に王に会う必要はないだろうとは思ったけど。 ネルはほんとに何のつもりだこいつ、と思いながらアルベルの後を追う。 アルベルは扉を開けた所にある螺旋階段を上っていった。ところどころ雪が積もっている。 ネルはアルベルの後ろを歩きながら、そういえばこの先に行くのは初めてだったかも、と思う。 しばらく、お互い無言で階段を登る。 アルベルのゆらゆら揺れる後ろ髪をぼんやり見ながら、猫の尻尾みたいだなーとかこいつもいつ見ても変な髪だなーとかぼんやりと考えて、引っ張ってみようかなーとかネルが思う頃、ようやく階段は終わった。 円形の、見張り台のようなところに出る。 舞っている雪と冷たい空気で、屋外に出たんだなと認識できた。 ネルは暗い周りを見回しながら、ぼんやりとつぶやいた。 「へぇ、こんなところがあったんだ」 「知らなかったのか?」 「まぁね」 ネルはそう答えて、アルベルに向き直った。 「さて。こんなところまで連れてきて、一体どういうつもりなんだい?くだらないことだったら斬るよ」 「…物騒な女だな」 「あんただけには、言われたくないね」 あんただけには、というところを強調してネルが言った。 アルベルはさして気に留めずに、数歩歩く。 見張り台の回りを丸く囲んでいる塀にもたれながら、こう言った。 「…上。見てみろ」 「え?………あ」 ネルは言われて空を見上げる。 そして、息を呑んだ。 まるで世界中の宝石をばらまいたような。 そんな風にしか言い表せないような、文字通り見渡す限りの星空があった。 本当に、きらきら、ぴかぴかと音が聞こえそうなくらい、星々が輝いている。 今にも零れ落ちてきそうなくらい、星が近くに見えた。 「…すごい」 ネルの口から、無意識のうちに声が漏れた。 「言ったろ?あんな作り物の夜空より、アーリグリフの夜空のほうが綺麗だってな」 「え」 ネルは言われて当惑する。 …そういえば、この間ジェミティの"夏祭り"というらしいイベントに参加した時。 こいつは。 "俺はアーリグリフの夜空のほうが綺麗だと思うがな" 確かに、そう言っていた。 「…じゃあ、もしかして、これを見せるために、わざわざ…」 ネルは呆然としながらつぶやく。 アルベルはそっぽを向きながら、 「ああそうだよ」 早口にそう言った。 ネルはその答えに目を見開く。 「…覚えてたんだ」 「お前は忘れてたのか」 「そういうわけじゃないけど…まさか、あんたがきちんと覚えてるだなんてね」 ネルはその会話を忘れていたわけではなかった。 が、まさかアルベルのほうからこんな行動を起こすなんて思いもよらなかった。 「…俺は一度言ったことを覆すのが嫌いでね」 アルベルは照れているのか、そっぽを向いたままつぶやく。 子供のような仕草に、ネルは思わず笑った。 アルベルの隣に来て、同じように塀にもたれながらネルはまた星空を見上げた。 「綺麗だね。ものすごく」 ネルはアルベルのほうを見ながら言った。 アルベルも塀にもたれたまま、そっぽを向いたままこう答える。 「そりゃ良かったな」 「ああ、良かったよ。こんなものが見られるなんてね」 ネルはアルベルから視線を逸らして空を見上げながら言った。 …どうして、気づかなかったんだろう。ここに来るまでの間に。 ネルはふと思う。 何で、ここに来るまでまったく気がつかなかったんだ? 確か、ここに来るまでは、アルベルがほとんど先に行ってたから、追いつくのが大変で… そこまで考えて、ネルははっとなる。 …まさか、空に目が行かないように、わざと先に行ったりしていたのだろうか。 …まさかね。 しばらく、無言のまま時間が流れた。 ネルは立っているのがだるくなってきたのか、その場に座り込んだ。 アルベルは怪訝そうな顔をする。 「おい、そろそろ戻るぞ」 宿を出てから、結構時間が経っている。 そろそろ戻らないとさすがに明日に響くだろう。 仮にも毎日戦闘ばかりこなしている身なのだから、ある程度の睡眠は必要だ。 ネルはまだ星空を見上げたまま、口を開く。 「いいじゃないか。もうちょっとだけ、ここにいようよ」 そう言いながら、アルベルの腕を引っ張って強引に座らせる。 アルベルはやれやれといわんばかりの顔をしながらネルの隣に座った。 「…ねぇ」 「…なんだ」 「…今思えばさ、あんたが、ここに連れてきてくれたおかげで」 ネルは相変わらず空を見上げたまま言葉を続ける。 アルベルはよく飽きないもんだな、と感心しながらネルの言葉を待つ。 「こんな…すごいものが見れたんだよね」 ネルはそこまで言ってアルベルのほうへ振り向いた。 微笑みながら口を開いた。 「…ありがとう」 「…別に」 アルベルは素っ気なく返す。 が、ネルにはアルベルが照れていることがすぐわかった。 「…ふふ。相変わらず素直じゃないねぇ…」 「悪いか」 「悪くないよ」 アルベルが照れ隠しで言った言葉に、ネルは楽しそうに言った。 アルベルは憮然とした表情でネルを見る。と、ネルはこてんとアルベルの肩にもたれてきた。 「…なんだよ」 「…たまには、いいだろ?誰もいないし、さ」 「…」 「…まだいんのか」 「…うん」 「…そろそろ戻るぞ」 「…嫌だ。もうちょっと」 「…ガキみたいなこと言うんじゃねぇよ」 「…それでも…もうちょっと」 「…ったく」 「…いいじゃないか」 「…風邪ひいても知らねぇぞ」 「…いいよ。あんたの所為だって言うから」 「…人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ」 「…本当のことだろう」 「…あのなぁ。…おい、お前眠いんだろ」 「…なんで。そんなことないよ」 「…お前が緩慢な喋り方する時は眠いか疲れたか風邪引いたかのどれかだ」 「…よく、わかってるじゃないか」 「…まぁな」 「…もし寝ても、寝込みを襲うんじゃないよ」 「…阿呆。今日は違うって言っただろ」 「…まぁ、あんたはそんなことしないってわかってるけどね」 「…そうかよ」 「………」 ネルから返事はない。変わりに、すぅすぅと規則正しい音が聞こえてきた。 「…おい?」 まさか。 そう思ってアルベルがネルの顔を覗き込む。 彼女は幸せそうな顔をして目を閉じていた。 寝てる。 …そんなことないとか言った傍からこれかよ! アルベルはそう叫びたいのをとりあえずこらえた。 仮にも深夜だ。 「おい!寝るんじゃねぇよ阿呆女、起きろ」 肩をつかんでがくがくと揺さぶる。 ネルは顔をわずかにしかめたが、起きなかった。 …こんなところで熟睡してやがる。 アルベルは深い深いため息をついた。 ネルは寝起きはいいが、一度深い眠りにつくと非常事態の時以外絶対に起きないのをよく知っていたからだ。 幸せそうに眠っているネルを見て、アルベルはもう一度大きなため息をついた。 「…幸せそうに寝やがって…襲うぞ、阿呆女」 口ではそう言っても、寝ている人間を襲う趣味はアルベルになかった。 しぶしぶと、眠っているネルを担ぎ上げる。 肩に担ごうとすると、寝ているはずのネルが身じろぎする。 急に動かれて思わずバランスを崩しそうになって、アルベルは少し焦った。 なんとか体制を立て直してもう一回担ごうとしたが、また嫌そうに身じろぎされてアルベルは困り顔になる。 「…寝てるくせになんなんだよ、こいつは」 体勢的に、担がれるのが嫌なんだろうか。…確かに寝にくいかもしれないが。 アルベルは本日三度目の深いため息をつきながら、今度はネルを横抱きに持ち上げた。 ネルは今度は大人しかった。安らかな寝息をたてている。 …相変わらず軽いな、とアルベルは思う。 「…寝ても起きてもめんどくせぇ女だな」 言いながら、アルベルは螺旋階段をゆっくりと下りていった。 頼むから誰にも会うな、と祈りながら。 その後。 アルベルは門番の兵士以外なんとか誰にも会わずに宿屋まで来た。 途中、兵士に 「なにやらかしたんですか旦那!」 とえらく切羽詰った顔で訊かれたが、 「こいつが勝手に寝たんだよ阿呆!」 とだけ答えてさっさと戻ってきた。 ネルの部屋のドアを足で蹴り開け、中に入る。 暖炉の火はもう消えていたが、部屋はまだほのかに暖かかった。 寝ているネルをベッドに横たえて、しょうがなく布団もかけてやる。 気持ち良さそうに眠るネルを見ながら、苦笑して。 「じゃあな。阿呆女」 やれやれやっと終わった、世話の焼ける女だ。 そんなことを思いながら立ち上がる。 が。 「…痛っ!」 頭を引っ張られるような感覚を覚えて、思わずネルのほうを見る。 見ると、アルベルの後ろ髪の一本をネルの手が握っていた。 …いつの間に!? アルベルは狼狽しながらそんなことを思う。 だが当のネルは相変わらず幸せそうに寝息を立てている。 「ふざけんな!おい、放せ!」 そう言っても、やっぱり起きない。 手を引っ張ってみても、何故か外れない。 アルベルはがくぅと肩を落とした。 結局、その場から動けずにアルベルは床に座ったまま一夜を明かすことになった。 …あー。いっそのことこの髪切ろうかな。 アルベルはその夜、そんなことまで考えたらしい。 |