※先に46.敵?味方?を読んでいただくと話がわかりやすいかと。
※少し流血表現があります。






避けようと思えば、簡単に避けられたはずだった。
が、強い感情を宿した、その菫色の瞳が。
憎しみのこもったその瞳が、誰かに似ていて。
思わず、動きが止まった。





憎しみ





シランドの町の中央に通っている広い道。
そこに一人の男が立っていた。
黒と金色の混じった妙な色の髪と血のように真っ赤な瞳を持つ、黒ずくめの男。
男は何をするでもなく、通りの真ん中にある塀にもたれてただぼんやりとしていた。
通りを行きかう人々はそんな男を特に気に留めた様子もなく通り過ぎていく。
男はふと、自分を見上げている少女がいることに気付いた。
少女はまだ十歳を過ぎないくらい。長い黒髪を後ろで一つにまとめて束ねている。
菫色の大きな瞳で、男を見上げていた。
「…ねぇ、あなたはアーリグリフの人なの?」
「…あ?」
少女がそう問い、男は怪訝そうな顔でそう答えた。
「ねぇ、あなたはアーリグリフの人なの?」
少女は男の鋭い視線に怯んだ様子もなく、同じことをもう一度問いかけた。
男は少女を見ながら、口を開く。
「…ああ」
少女はその答えに一瞬目を見開き、また問いかけた。
「…"いがみのアルベル"?」
「………」
「さっき、道を歩いてたひとが言ってたの。いがみのアルベルがここにいたって。あなたがそうなの?」
少女は男を見上げたまま、真剣な顔でそう訊いてきた。
男は少しの間押し黙り、口を開いた。
「…ああ」
少女の瞳を見ながら、男がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺が"歪のアルベル"だ」
だからなんだ、と男は少女に聞き返そうとする。
が、少女の大きな瞳に憎しみの色が宿り始めたのを見て、目を見張る。
少女はそんな瞳を隠すように、うつむいた。
「…あなたが、いがみのアルベル、なんだ」
少女はうつむきながら肩で息をしている。そして、うめくように、確かめるようにそう言った。
きっ、と男を見上げる。



「…あなたが!あなたがわたしのお母さんを殺したんだ!」



「あなたさえいなければ、お母さんはわたしのところに戻ってきたんだ!」



「あなたさえいなければ、お母さんは死なずにすんだんだ!」



少女はそう言い放つ。
男は無表情のまま、それを聞いていた。
周りを歩く人々が、立ち止まって少女を見る。
少女はそんな様子に構わず、さらに叫ぶ。
「あなたさえ。あなたさえいなければ…!」
少女が服のポケットから、何かを取り出す。それは、小さな、だが鋭そうな護身用の短剣だった。
周りで見ていた人の中から、小さな悲鳴が聞こえた。
少女はそれを握り締め、憎しみに満ちた瞳で男を睨んだ。





避けようと思えば、簡単に避けられたはずだった。
自分に向けられる、白い刃。
が、強い感情を宿した、その菫色の瞳が。
憎しみのこもったその瞳が、誰かに似ていて。
思わず、動きが止まった。





周りにいた人の中から、悲鳴があがる。
少女を制止する声も、聞こえた気がする。
避けなければいけない。頭でそう思っているのに。
自分に向けられる刃も、町人の声も悲鳴も、人事か何かのように感じられて。
何故か、体は動かなかった。





紅い血が、シランドの通りに舞った。








少女の握っていた短剣の刃を、男の右手が握っていた。
手袋をしているだけの手から、紅い血が流れ出す。
―――ぽたり、ぽたり
紅い血が、短剣から伝って少女の手に流れてきた。
「…あ、あ…」
少女の顔がみるみるうちに凍りつく。
目に涙が浮かび、体はがくがくと震える。
男はそんな少女を無表情のまま見る。少女がその視線に気付いてびくり、と怯える。
「…気が済んだか?」
男は呟く。そして、刃を握っていた手を離した。
力が抜けた少女の手から、短剣が滑り落ちた。
短剣は舗装された道に落ちて、かつん、と硬質な音をたてる。
男は血まみれの手をだらんと力なくさげて、口を開いた。



「…俺が」



流れ続ける血を見て、少女の目から涙が溢れ出す。
さっきまで憎しみしか見えなかった瞳に、怯えが混じる。
男は構わずに続けた。



「…こうやって、血を、流しても」



男は一旦下げた手をもう一度少女の目の前に出した。
開かれた手のひらから、紅い血が流れ続ける。
少女は息を飲み、一歩後ずさる。
男はそんな少女に、はっきりと、こう呟いた。





「…お前の親は、戻ってこねぇぞ」





ぺたん、と少女が地面にへたりこむ。
男はそんな少女を無表情のまま見下ろす。
血は止まらず、男の手から地面にぽたぽたと落ちていた。








「―――アルベル!!」



通りの向こうから、声が聞こえた。
男はゆっくりと、そちらを見る。
紅色の髪に菫色の瞳の女が、男を見ていた。



「…」
アルベルと呼ばれた男は、無言のままに紅色の髪の女に視線を遣る。
女はいつのまにか男の回りにできていた人だかりを押しのけて、男の近くまでやってきた。
地面に座り込んで泣きじゃくっている少女と、その近くに落ちている血まみれの短剣、そして男の手から滴り落ちている血を見た。
女は自分の荷物から布を取り出して男の手に巻く。
「…。とりあえず、宿に行くよ。あんたの傷の手当てをしないと」
女は男の腕を引っ張って、人だかりを抜けて宿屋に向かった。
男は無言で言われるがままについていく。
女はふと立ち止まり、へたりこんで泣きじゃくる少女を見ながら周りに向かって声をあげた。
「…誰か、あの子を家に連れていってやってくれないかい」
女の言葉に、周りにいた者達がはっとなって少女に駆け寄る。
女はその様子を横目で見て、また男の腕を引っ張って宿屋へ向かった。





宿屋の一室。
明るく、開放的な間取りになっているその部屋のベッドに、男と女が座っていた。
女は男の血まみれの手に包帯を丁寧に巻いている。
男はくるくると包帯が巻かれていく自分の手をぼんやりと見ていた。
お互い無言のまま、しばらく時間が過ぎる。
「…ねぇ。何で、こんな怪我したんだい?」
女が男の顔を見ずに訊いた。
「………」
男は答えなかった。



「どういう状況だったかは、なんとなくしか理解できないけど。…あんただったら、あの子の刃なんか簡単に避けられたはずだ」



「………」



「いや、避けなくても、その刀を抜いてあの子に斬りかかることだって、あんたにはできたはずだ」



「………」



「なのに、どうして?」



「………」





女の問いに答えないまま、男は手当てされる自分の手をぼんやり見つめている。
「…ねぇ」
痺れをきらしたのか、女がつぶやく。
「…一応俺だってアーリグリフの名前背負ってんだ、ここで揉め事を起こすわけにはいかねぇだろ」
「嘘だね。だったら、避けることくらいはできただろう。こんな、―――こんな怪我したりしなかったはずだ」
久しぶりに男が発した言葉を切り捨てるように否定して、女はさらに問い詰める。
男はめんどくさそうに、口を開いた。
「…。あのガキに、現実ってヤツを知らしめてやったんだよ」
「…なんだって?」
「一度で聞き取れ、阿呆が。あのガキに、現実ってものを突きつけてやったんだよ」



「…でも、あの子は…ちゃんと現実を見てたじゃないか。お母さんが亡くなったんだろう?それをちゃんと理解してたじゃないか」
「阿呆。その"原因"であるらしい俺に何かしようとした時点で、現実を見てねぇんだよ」
「…」





「現実を受け入れ難いから、その"原因"に刃を向けようとする。…復讐なんてくだらねぇことだ」



「復讐は何も生みださねぇし、何も残さねぇ」



「…実際、んな事したって何がどうなるわけじゃねぇ」



「あんなガキなら、尚更だ。ただ自分の手を汚すだけだ」



「…死んだ人間は、もう何をしようとも生き返りはしねぇんだよ。例え、原因である俺を殺したとしてもな」



「だから、それをわざわざ身をもって教えてやったんだよ」





「…その結果が、この怪我だっていうのかい?」
「…あぁ」





「…まぁ、理由はそれだけじゃねぇけどな」
「…え?」
女は包帯を巻く手を止めて、男の顔を見る。
「似てたんだよ。あいつの目が」
「…誰に?」
「お前に」





「…え?」
「お前も、同じ目をしていたよな」



「…憎しみに満ちた瞳だ」



「…」





「…当然じゃないか。私は、私の部下を傷つけた、あんたを許せないんだから」
女は搾り出すような声で、そう言った。
男はその台詞に鼻で笑い、口を開いた。
「…部下ねぇ。あのクソ虫どもが小賢しく人質にした、あいつらか?」
「そうだよ。…あんた、彼女達を傷つけただろう」
静かに言い放つ女に、男が呆れたような口調で言った。



「阿呆」
「…なっ…!」
唐突に言われた台詞に、女が反応する。



「"彼女達を傷つけた"?んなこと、お前が言えた義理か」
「…何が言いたいんだい」
「じゃあ訊くが、お前は確かあいつらを助ける為に、独りであの場所まで来たんだったよな」
「…そうだけど」
「それで、後から追いかけてきたフェイト達に助けられて、あいつらを取り戻せた、違うか」
「違わないよ」



「…フェイト達がもしも追ってこなかったら、お前はどうなっていた?」
「…さぁね」
女は目を伏せながら答えた。
男はすぅ、と目を細めながら続ける。
「…部下も救えずにむざむざと殺されてたんじゃねぇのか」
「…」
「それを、捕らえられたあの二人が望んでいたとでも思ってんのか」
「…それは」



「"足手まといになるようだったら、遠慮なく斬り捨てられる"」
「"個人よりも全体を優先しなきゃいけない時がある"」



「…お前は確か、前にそう言ってたよな」
「…ああ、言ったよ」
「だったら訊くが、お前一人の戦闘能力と、捕まってたあいつら二人の戦闘能力。どっちが勝ってんだ」
「…」
「俺が見る限り、どう見てもお前のほうが上だ。例えあの二人が一斉にお前にかかっていっても、お前は容易く返り討ちにできるだろうな」





「だったら、斬り捨てるべきなのは一体どっちなんだよ。考えなくてもすぐにわかるだろうが」



「お前の甘い考えで判断し、行動して、人質にされたあの二人が喜ぶとでも思ったか」



「…あいつ等のことを考えてねぇのは、誰なんだよ」



「お前は隠密には向いてねぇ。自分を殺しきれてねぇからな」



「…優しすぎるんだよ、お前は」





女は黙っていた。
男はうつむいたままの女を見ながら、口を開く。
「…ったく…どいつもこいつも、甘ったれたお人好しばかりだ」
男は少々うんざりした口調で呟いた。





「…ごめん」
しばらくして、ずっと黙っていた女が口を開いた。
「あ?」
「あんたの言うとおりだ。…私が言えた義理じゃ、なかった」
女はうつむいたまま、そう言った。





「あのさ…」
またしばらくして、女が口を開いた。
「なんだよ」
「さっき、どいつもこいつもお人好しばかりだって言ってたけどさ…あんたも十分、お人好しなんじゃないかい?」
「…あ?」
「だって、あの女の子に、"わざわざ"現実を教えてあげたんだろう?」
女が言った言葉に、男は一瞬口ごもる。
「…それは」
「それに、私の甘い部分を叱ってくれたじゃないか」
「…お前が不甲斐なさ過ぎて、見てられねぇからしょうがなく言ってやったんだよ」
「…ほら、やっぱり。十分お人好しじゃないか」
女は薄く微笑み、男の手に再び包帯を巻き始めた。
「あんただって。…十分優しいよ」





「はぁ?」



「だって」



「さっきの女の子を無視して、何も言わず立ち去る事だってできたはずだよね」



「なのに、あんたはそうしなかった」





「…」



「違うかい?」





「それに」



「私が甘かろうが隠密に向いていなかろうが、はっきり言ってあんたは困らないじゃないか」



「…なのに、あんたはわざわざ、私を叱って諭してくれた」



「私はさ、他人の間違いを笑って許してくれる人よりも、叱って正そうとしている人のほうが、優しいと思う」



「………」



「…そう、思わないかい?」





「…さぁな」
男は女から視線をそらし、半分どうでもよさそうに言った。
女はそんな男に苦笑して、男の手に巻いている包帯を巻き終えて、軽く、だがしっかりと結んだ。
「…はい。これでおしまい」
女はそう言って、男の手を離した。
男は丁寧に包帯が巻かれた右手を開いたり握ったりしている。
「多少生活に不便かもしれないけど、治るまではそれで我慢するんだね」
「…ふん」





「あ。そういえば、さ」
ベッドから立ち上がった女が、思い出したように男を見た。
「さっき、あの女の子の瞳が私に似てたから躊躇した、みたいなことを言ってなかったかい?」
「あ?」
男はベッドに座ったまま、女を見上げる。
女は少し下にある男の顔を見下ろしたまま、こう続けた。
「…どうしてだい?」
「………」
「…ねぇ」





「…さぁな」
「なんだいそれ。ちゃんと答えなよ」
「…俺にもよくわからねぇんだよ。ただ…」





「傷つけたく、なかったんだよ」





「…え……?」



「…何でかはわかんねぇけどな」





女は目を軽く見開いて、固まる。
男は言わなければよかった、と後悔しながらそっぽを向いた。





「…え、ちょっと、それってどういう意味」
「さぁな」
「さぁなじゃなくて」
「自分で考えろ」
「考えてわかんないから訊いてるんじゃないか」
「わかんねぇからわかんねぇんだよこれ以上訊くな」
「…わけわかんないね」
「…わけわかんねぇよ」
言葉遊びのような会話にうんざりしたのか、男が立ちあがる。
一瞬で自分の視線よりも高いところまできた男の顔を見ながら、女が訝しげな顔をする。
男は少し困ったような顔でまた視線をそらす。
そんな男の様子が面白くて、女は少し笑った。








「…あぁっ!」
唐突に、女が大声を出した。
「なんだ」
男が不思議そうに問いかける。
女は明らかに焦っている表情で、こう言った。
「私、あんたを呼びに来たんだった」
「は?」
「フェイト達が、これからのことを決めるから、アルベルを呼んできてくれって。…忘れてた」
女は壁にかかっている時計を見た。
…もう、かなりの時間が経っていた。





二人は少し沈黙して。
そして同時に部屋を飛び出て全力で走り出した。





「阿呆かお前!何でんな肝心なことすっかり忘れてんだよ!」
「しょうがないじゃないか!あんたの手当てしなきゃいけなかったんだから!」
「それにしたって呼びにきた事最初に言えば、手当てなんぞこれからの計画立てる時にでもできたじゃねぇか!」
「うるさいね!元はといえばあんたが怪我なんかしたりするから!」
「何だとてめぇ!」
「何だはこっちの台詞だよ!」








シランドの町を、一組の男女が口喧嘩しながら走り抜けていく。
一人は黒と金色の混じった妙な色の髪と、血のように真っ赤な瞳をもつ、黒ずくめの男。
もう一人は、紅色の髪に菫色の瞳の、同じく黒を基調とした服を着た女。
通行人が何事かと振り向くくらい大声で言い合いながら、二人はシランド城まで一目散に走っていった。








走りながら男と激しい言い合いをしている、女のその菫色の瞳には。
もう、憎しみの色はなかった。