※先に29.思い出を読んでいただくと話がわかりやすいかと。





ここはアーリグリフの宿屋。
星空が奇跡のように綺麗な、そんな夜、ネルは宿屋のバルコニーに出て空を眺めていた。
天気は悪くない。雪は舞っているけど、雲はなく風もない。
ネルはバルコニーの端に立って、無言のまま空を眺める。
黒い空に、白い雪がちらほらと舞う。
舞い散る雪をぼんやりと眺め、ネルはふと視線を逸らし、町の外を見た。
夜闇の中、真っ白な雪だけが際立って見える。
そんな雪が積もっている平原や山が、どこまでも続いていた。



ネルは何も言わないまま、ただ雪景色を見ていた。
辺りを支配している音は、宿屋の中から聞こえるわずかな物音や人の声、ときおり吹き抜ける小さな風の音。
深夜であることも手伝って、あたりは水を打ったように静かだった。
このまま、静寂が続くだろうなとネルは思う。
が。





「…あれ。先客いるじゃん。珍しい」





突然。何の前置きもなく上から声がした。





雪景色





「?」
ネルは訝って声のした方を見上げる。
自分の上には宿屋の屋根しかない。
この宿屋に屋上はあるが、そこに誰かいたら絶対に気がつくはずだ。
なのにまったく気配がしなかった事を不思議に思い、ネルは声の主を視線で探した。
「こっちこっち」
また声がする。
つられて屋根の上を見上げる。
そこにいた"人物"を見て、驚いた。





そこにいたのは、半透明で、向こうの景色が透けて見える不思議な体の人間。
雪が積もる屋根の上にどかりと座っていて、真っ黒で動きやすそうな服を着ていた。
まだ若い青年で、肩までの髪と、何故か一部分だけ長く伸びている後ろ髪。色は濃い茶色で、よく見ると何故か毛先だけ色素が薄い。
闇夜の中、夜風に吹かれて長い後ろ髪が揺れているのがよく見えた。
それよりもネルの目を引いたのは、夕陽の中心のような真っ赤な瞳だった。
その妙な髪の色のバランスも、瞳の色も形も、誰かによく似ていた。
違和感を覚える。





「こんばんは」
彼はネルを見てにかりと笑い、挨拶してくる。
「…こんばんは」
ネルは一瞬戸惑うが、一応挨拶を返す。
「お前こんな夜遅くどうしたの?雪見?」
「…あぁ。そんなところだよ。…ところであんたは幽霊かい?」
「ん?そうだな。端的に言うとそうなるか。あーでも、別に俺は誰かに恨みがあるとかじゃねぇから。安心していいぜ」
彼は楽しげにそう言って、にっと笑う。
その笑顔がやけに親しめる表情だったので、どこか警戒していたネルは少し雰囲気を和らげる。
幽霊を見るのは久しぶりだ。
エリクールでは、幽霊や亡霊は珍しいものではなかった。
戦乱の耐えない星だったから戦死者はそれなりにいるし、その数に比例して幽霊を見たと言う人も増えた。
自分も何回か見たことがある。
だがその幽霊達はどこか恐ろしげで禍々しく見えて、ネルは好きになれなかった。
が、今目の前にいる彼は、透き通っている体を除けば普通の人間に見える。
まぁ、嫌な感じもしないし、悪い人ではないだろう。
こんな幽霊も中にはいるんだな、とネルは感心した。





「雪見るなら、こっちのほうが見やすいぜ?」
ネルは言われた意味が一瞬わからず、目を瞬く。
彼は屋根の上から、おいでおいで、と言わんばかりに手招きをする。
「屋根の上、かい?」
「そう。そこよりはよく見えると思うけど。大丈夫だって、煙突の隣行けば結構暖けぇからさ」
早く早く、と急かされて、ネルは少し考える。
幽霊に呼ばれていると考えると少し変な気分になったが、上にいる彼は悪い感じはしなかった。
それに雪景色を屋根の上から見るのも少し面白そうだ。
ネルはそう考え、来ねぇのかー?と言っている彼に苦笑しながら屋根の上に飛び乗った。
積もっている雪をさくさくと踏みしめながら、彼の近くへ歩み寄る。
「ほらここ、煙突の横だけ雪が解けてるだろ?ここならこの寒さでも暖けぇから」
だからここ座んなよ、とぽんぽんと煙突の隣を叩く。
強引だな、と少し思い、でも彼の言うとおりに煙突に寄りかかるようにして腰を下ろした。
確かにそこは暖かくて、バルコニーに立っていたときよりも寒くなかった。





「ほら。綺麗だろ?」
子供のように笑いながら、彼は遠くを指差した。
彼が指差したのは、今までネルが見ていた山の方。
少し視点が高くなっただけなのに、そこから見る景色はずいぶんと違う風に見えて。
確かにこっちから見たほうが綺麗だった。
「…うん。綺麗だね」
微笑んでそう答えると、彼も笑って。
だろー?と嬉しそうに言って、また雪景色を見た。





「あんたは雪が好きなのかい?」
ネルは彼を見ながら訊いた。
彼は笑って、
「あぁ。大好き」
幸せそうにつぶやく。
その表情があまりにも穏やかで、ネルは思わず理由を訊いた。
「どうしてだい?」
「"どうして"?」
彼はネルの言ったことをもう一度繰り返す。
「そりゃ、雪が降ると雪だるま作れるし雪合戦できるし雪うさぎ作れるし」
「はぁ?」
「嘘だよ」
即答して、彼はくくく、と笑う。
その笑みが誰かに似ていて、ネルはまた違和感を覚える。
そんなネルを気にせず、彼は答えた。
「雪って綺麗だろ?だからだよ」
彼は立ち上がり、その透明な手を雪に向かって差し伸べながら言った。
「触ると解けちまうし、雪かきや雪下ろしはめんどいし、ずっと外にいると顔痛くなるし、気ィ抜いたら風邪ひく。けど…」
彼は穏やかな表情に戻りながら、続ける。
その口調はまるで、何か緩やかな調子の歌を歌っているようだ。
「朝とか夕方とか、真っ白な雪原に朝日や夕日の光が反射してキラキラ光ってるとことか、めちゃくちゃ綺麗だしさ」
ネルは何も言わず、ただ彼の言葉を聞いていた。
「…ま、それに、ふわふわしててつかみ所ねぇし、あっちいったりこっちいったりして危なっかしいし、ゆっくり舞い落ちてくるところがトロくて、誰かさんにそっくりだしな」
「え?」
「いや、こっちの話。ま、真っ白で単調でつまらねぇって言う奴もいるけどな」
彼は付け足すようにこう言った。





「でも、白っていい色じゃないかい?」
今まで黙って彼の話を聞いていたネルが言った。
屋根に再び座りかけていた彼は、え、と聞き返す。
「確かに、白は何もないって感じでつまらない色かもしれないけど。でも、結婚式とか、真っ白な服で迎えるじゃないか。私の国では神官や巫女が見につける色だし、結構良い色だと思うけど?」
何の気なしに言ったネルは、自分を凝視している彼に気付いて戸惑う。
何か変なことを言ったのか、と思った途端、彼は突然笑い出した。
「…っははは!そんな風に言った奴初めてだ」
「え。変かい?」
「いや、全然。…そうだよな、うん。白っていい色だよな」
彼はつぶやき、そして微笑む。
「何もなくて、まっさらで。…白っていい色、だよな」
ネルは雪を眺めたまま、そうだね、と小さく答えた。





雪はまだ止まず、暗い空から舞い降りてくる。
座った横の煙突は、暖炉に燃える火の熱で暖かい。
吐き出される白い煙はゆっくりと浮かび、空へと昇っていった。





「なぁ。…雪の中で死ねたら幸せだ、って思わねぇか?」





唐突に言われた台詞は、今までの彼とは正反対の口調だった。





「え?」
ネルは驚いて聞き返す。
彼はネルの言葉には答えずに続けた。





「真っ白で何もない、雪の中で。白に溶けるみたいに、消えるみたいに、眠るみたいに死ねたら」





幸せだと思わねぇか?





どこか、悲しそうな瞳で。
彼は言った。








「…あんたはどうだったんだい」
彼は一瞬、ネルが言った意味がわからないようだった。
が、すぐに理解したようで、あぁ、と頷く。
「俺は残念ながら、雪の中では死ねなかったな」
「ふぅん…。じゃあ、どうしてそんなこと訊いたんだい?」
彼は少し目を逸らし、そして心底嫌そうに答えた。
「つか、俺大ッ嫌いな物の中で死んだからなー」
「…へぇ、そうなのかい」
「うん。どうせなら、大好きな物の近くで死にたいだろ。お前もそう思わねぇ?」
「うーん」
「あ、大好きな"者"でもいいけど」
彼はいたずらっぽく笑う。
ネルは半眼になって、少し呆れたように訊いた。
「あんたは?大好きな"者"に看取られて死にたいと思わないのかい?」
「…んー」
彼は少し困ったように笑い、そして答える。
「…悲しませちまうからな。ちょっと嫌だったな」
「え?大嫌いな物の中で死んだって言ってなかったっけ」
「あー。まぁ、近くに大切な奴はいたけど。死んだ直接的な原因は大嫌いな物だったから」
彼は曖昧に笑い、言う。





「…そう」
ネルはつぶやき、そして、
「真っ白で何もない、雪の中、か」



確かめるようにもう一度言った。








「嫌だな」



ネルは答えた。





「そう?」
彼は少し残念そうに言った。
ネルは頷き、そして理由を言う。
「だって何もない雪の中で死んだら、誰にも見つけてもらえないし、最後に誰かに何かを言うこともできないだろう?そりゃ、目の前で死んで悲しませるのは嫌だよ。でも…どこで死のうとも、死ぬっていう事実は一緒だ。変わらない。だったら、目の前で…最後に何か、伝えたいこととかを全部言ってから、死んだほうが、幸せだと思う」





「それに、その方が…早く吹っ切ってもらえそうだし」
上手く言えないけどさ、とつぶやくネルに、彼は少し微笑む。
「そだな。俺は、そう考えると、幸せだったのかもな」








「でも」
ネルは言った。
彼は視線を巡らせてネルの言葉を待つ。





「そこで、その中でくたばりたくはないけど。でも、雪は綺麗だよね」





彼は一瞬驚いて。
そして微笑んだ。





「そうだな。…綺麗だな」





そう言った彼は随分と穏やかな顔をしていて。
その表情にまた見覚えのあるものを感じ、またネルは首を傾げた。
さっきも感じたが、このデジャヴのような感覚はなんなんだろうか。





そんなことを考えていると、唐突に眠気が襲ってきた。
こんな時間まで起きていたのだから当然だろう、と思いながら、あくびをかみ殺す。
「じゃ、俺はそろそろ行かなきゃな。こんな時間まで話に付き合ってくれてありがとさん」
彼はそう言って立ち上がり。
ネルの頭をぽんぽんと撫でようとして手を伸ばす。が、その半透明の手はするりとネルをすり抜けた。
少し眠くてとろんとしていたネルはぎょっとする。彼はしまった、といわんばかりに焦る。
「あ、俺人間に触れねぇんだった。悪いな、気色悪かっただろ?」
途端に申し訳なさそうにしゅんとなった彼に、ネルはくすりと微笑んで答えた。
「いいや。気にしないでいいよ。…それにしてもあんた、本当に幽霊なんだねぇ」
「…うるせぇよバーカ」
「なんだい馬鹿って。本当のこと言っただけだろう?」
「俺だって幽霊になんてなりたくなかったよーだ」
拗ねた子供のようにそっぽを向く仕草が面白くて、ネルはくすりと笑う。
「あー笑うなよムカつく」
彼は安心したようにそう言って、そして、
「ま、とりあえず形だけな」
そう言って笑い、ネルのそばにしゃがみこんで頭を撫でる真似をした。





あ。



昔。
誰かに、同じ笑顔で、同じように頭を撫でてもらった気がする。



いつのことだろう?
何かを、思い出せそうな気がする。





―――あんたは、








そこまで考えて。
意識は途切れた。





「…は?おい?おい!? …はァ―――!?寝るんじゃねぇよおーい!お―――い!!起きろこのバカ!寝たら死 ぬ ぞ ー !」
意識が途切れる直前に、そんな声が聞こえた気がした。








パチパチと、暖炉の薪が爆ぜる音が聞こえる。
頬に触れる空気は、暖かく心地良い。
ネルはゆっくりと目を開ける。
そこは宿屋の一室のようだった。
「…。……?」
ネルはむくりと起き上がる。
どうやら自分は寝ていたようで、自分が寝ていたのはベッドの上のようだ。



夢、だったのだろうか?



ギィ、と扉が開く音がする。
扉を開けて部屋に入ってきたのは、見慣れた顔。両手に湯気の立つマグカップを持っている。
「…なんだ、起きてやがったのか」
「…アルベル」
入ってきた、プリン頭の彼の名前を呼ぶ。
アルベルはベッドのサイドボードに二つのマグカップを起き、不機嫌そうな顔でネルを見た。
「この阿呆が」
「…え?」
いつになく剣呑な目つきでぎろりと睨まれる。
ネルはなんのことだかわからなくて聞き返す。
「え?じゃねぇよ。なんでこんな夜遅く、屋根の上なんかで寝てんだよ!」





え。



じゃあ、彼に会ったのは。





―――夢じゃ、なかった?





それを聞いて、あの出来事が夢ではなかったこと、自分は屋根の上で眠ってしまったらしいこと、そして、眠った自分を目の前のアルベルがここまで運んできてくれたことを理解した。





「風邪ひきてぇのかこの阿呆!」
怒鳴られ、そして再度睨まれる。
「―――ごめん。ありがとう」
意外にも優しいアルベルが、心配して怒鳴ってくれたことがよくわかったので、ネルは謝りそして礼を言った。
アルベルはふん、と小さく鼻を鳴らす。
サイドボードに置いたマグカップの一つを、飲め、と言って手渡してきた。
ネルが受け取ってみてみると、ほこほこと湯気の立つそれは暖かいココアで。
「多少は温まるだろ」
どうやら体の冷えていたらしい彼女を気にして、わざわざ作ってきてくれたらしかった。
それに気付いたネルは、思わず微笑む。
「…なに一人で笑ってんだ」
自分用に作ってきたらしいコーヒーを冷ましながら、アルベルがぶっきらぼうに言う。
「あんたが珍しく親切だったからね」
「あぁそうかよ」
そう言って、マグカップを揺らしながらコーヒーが冷めるのを待っているアルベルを見ながらネルはココアを一口すすった。
すすりながら、ふと思って訊いた。
「…あのさ。どうして私があそこにいるってわかったんだい?」
「あ?」
「あんたのことだから、あの時間はもう寝てたんだろう?だったら、どうして気付いたのかなと思ってさ」
そう問いかけるネルに、アルベルは少し不機嫌そうな顔になって言った。
「…夢に…」
「夢?」
「夢に親父が出てきやがって、屋根の上に行けってうるさかったんだよ」





え?





「…あんたの、父さんが…屋根の上に行けって?」
「ん?あぁ。で、行かなきゃ末代まで呪うだのなんだの言ってやがったな」
末代まで呪うって、お前の家系だろうが阿呆め。
とかなんとか言っているアルベルの言葉は、ネルには聞こえていなかった。





じゃあ。
さっき会った、彼は。





「…それでしょうがなく行ってみたら、何故かお前が寝てたからここまで連れてきてやったんだよ。感謝しろ。…って、何呆けてやがる」
ようやく冷めたコーヒーを飲みながら、アルベルがつぶやく。
「…ちょっと…説明できるようなものじゃないよ」
「はぁ?何言ってんだ」
「いや、だから…えーと」
「?」
珍しく、歯切れの悪い物言いをしたネルを怪訝そうな顔でアルベルが見る。
ネルは困ったような顔をして微笑んだ。
「…ま、言い難いんなら無理に話す必要はねぇよ」
「うん…」
きちんと説明できないことを歯がゆく思いながらも、アルベルがそう言ってくれてほっとしながらネルが呟く。
そんなネルを見ながら、アルベルはベッドに座って口を開いた。
「…おい、お前もう少しそっち行け」
「え、あ、うん」
ネルは反射的に頷き、座っていたベッドの奥のほうへ移動する。
それからすぐにマグカップをサイドボードに置いて、空いた場所にごろりと横になるアルベルを見て驚く。
「…ぅえ?」
「俺は眠いんだよ阿呆」
いや、そりゃそうだろうけど、そうじゃなくてさ。
ネルはそう言おうとするが、唐突にアルベルに手の中のマグカップを取られる。
取られたマグカップはすぐにサイドボードに置かれた。
え、と思う間もなく、次は肩をひかれてベッドに倒れこむ。
文句を言おうとするが、
「お前もとっとと寝ろ。あんな所で何してたかは知らねぇが、明日に響くだろうが」
と至近距離で言われて閉口する。
言われてみればそうだ。
まぁ今日はする気なさそうだし。いいか。
そう思いながらアルベルを見ると、早く寝ろ、と言わんばかりに睨まれ、腕を背中に回される。
背中に回された腕が暖かくて心地良い。
その心地良さと共に襲ってきた眠気に身を任せて、目を閉じる。





―――そーやって心配するくらいならちゃんと一緒にいろよな、バカ息子!



どこかからか、そんな声が聞こえた気がした。





目を閉じていたアルベルが、ぱち、と目を開ける。
「…何か言ったか?」
「え?いいや」





訝る彼から、一旦視線を外して。
ネルは窓の外を見た。



カーテンの隙間からわずかに見える窓の外には。
先ほどと変わらず、白い雪が美しく舞っていた。