※猫物語第三段。猫がわからない方は先に42.過ぎ行く時間を読んでくださいマセ。






猫という生き物は、大抵は気まぐれなものです。
ついさっきまでゴキゲンで、尻尾をぴこぴこと揺らしていても、次に見た時は超ゴキゲンナナメ、なんてこともあるのです。
本当に気まぐれのカタマリと言った感じで、次に何を行動するかまったくわからないのです。





…だから。



時には。
今まで懐いていた人を、急に嫌いになる、なんてことも。
あったりするのです。



そんな、予測不能な事態が起きたのは。
からっと晴れた、カルサアの町の。
何の変哲もない、普通のいつも通りの昼下がりでした。





わからないなぁ・・・。





「あれ?ネルさん、珍しいものを作ってますね?」
そう言ったのは、茶髪の女の子でした。
茶髪の女の子は、自分の隣で料理を続ける赤毛の女性の手元を珍しそうに覗き込んでいます。
「あぁ。ちょっと、ね」
赤毛の女性は微笑んで、自分の作っているあるモノにまた視線を戻しました。
彼女が作っていたのは、おいしそうな匂いのする魚のムニエルです。
フライパンの上でじゅうじゅうといい音をたてています。
女の人はそろそろかな、と頃合いを見てムニエルをフライパンから皿に移します。
薄い味付けの為されたソースをかけると、レストランで出るような立派な料理ができあがりました。
「わぁ、美味しそうですね!」
「ありがとう。でも、これは私達用じゃないのさ」
女の人が言った台詞に、女の子は首を傾げました。
「この町に野良猫がいただろ?あの子にあげようと思ってね」
「あぁ!あの超超可愛い二又尻尾の子ですねv」
猫、という単語を聞いた途端、目を輝かせて夢見る少女ポーズをとる女の子に、女の人は苦笑しながら答えます。
「ああ。前無理やり風呂に入れちまったしね。悪かったなと思ってさ」
「そんなことないですよ。ネルさんはあの子の為を思ってやったんですから」
「そう言ってくれると嬉しいけど、あの子はそんな事わからないだろうしね」
しょうがないよね、と苦笑する女の人に、ネルさんはやっぱりいい人ですねぇと女の子が感心したように呟きました。
「…おい」
低くて不機嫌そうな声が、二人の背中に呼びかけました。
二人が振り向くと、そこには一人の男の人が、さっきの声通り不機嫌そうに立っていました。
男の人の肩には、先ほど話題になっていたばかりの猫が、行儀良く座っていました。
甲冑もあるのに、器用なものです。
「あぁ、ありがとう」
女の人がお礼を言って、女の子は何のことかわからず頭の上にクエスチョンマークを浮かべます。
「私は手が離せなかったからね、こいつにあの子を連れてきてもらったのさ」
「ったく、いつもいつも人をパシリにしやがって」
「あんた暇そうにしてたしいいだろう?」
図星だったのか、男の人は鼻で笑ってそっぽを向きました。
そんな男の人に、女の人は相変わらずだねぇ、と苦笑します。
「あの、あのっ!その猫、触って良いですかっ?」
キラキラと効果音がつきそうなくらいに目を輝かせて、トライア様も認める無類の猫好きな女の子が言いました。
男の人の肩にいる猫は、あからさまに怯えた様子で毛を逆立てています。
「勝手にしろ」
「わぁい♪じゃあ遠慮なくv」
言うが早いが、女の子は男の人の肩から猫を抱き上げてにこにこしながら毛並みを撫で始めます。
最初警戒心むき出しだった猫も、女の子が自分に危害を加えないことを感じ取って少し警戒を解いたようです。
「さすがだね」
「え、何がですか?」
「いや、その猫人見知りが激しいからさ。私も最初会ったときはひっかかれそうになったよ」
「そうなんですか?私は猫の扱い結構慣れてるから、でしょうかね?」
猫が女の子を引っかいたりしないのは、前回のパーティ総出演の鬼ごっこの時、恍惚とした一種危険な笑みを浮かべていた女の子に恐れを為していたからなのですが、そんなこと誰も知るよしもありませんでした。
「あ、そうそう。さっき焼いたムニエルをあげなきゃね」
女の人はそう言って、香ばしい匂いのする皿を猫の目の前、テーブルの上に置きました。
猫は女の子の腕からするりと抜けてテーブルに載り、ふんふんとムニエルの匂いを嗅いでいます。
やがて、おいしそうな匂いにつられたのか、むしゃむしゃと食べ始めました。
「美味しそうに食べてますねぇ」
「口に合ったかな?」
「大丈夫だと思いますよ。尻尾が浮いてますから御機嫌みたいですし」
そんな楽しそうな会話をしている二人を見ながら、男の人は部屋にでも戻るか、とくるりと背を向けました。





「……痛っ…!」
「ネルさん!?だ、だいじょうぶですか?」



女の人の短い叫び声と、女の子の慌てたような声が聞こえたのは、その時でした。





男の人はまた振り返ります。
そこには、手を押さえている女の人と、あわあわとうろたえている女の子と、ついとそっぽを向いている猫がいました。





「…どうした」
男の人が訊くと、慌てている女の子が答えます。
「えと…この子が…」
そう言った女の子が猫を見て、そして隣で指を押さえている女の人を見ました。
女の人は驚いた顔をして、目の前の猫を見ていました。
女の人の白い指には、痛そうな赤い線が二本。ほんの少しですが、じわり、と赤い血が滲んでいます。
誰がどう見ても、猫の爪でひっかかれた痕です。
「…どうしたの?それ、美味しくなかったかい?」
女の人が気遣わしげにそう言って、猫に手を伸ばします。
猫はそんな女の人を見て、爪を立ててまた女の人の指をひっかきました。
「…つっ!」
「おい」
痛そうに手を引っ込めた女の人を見て、男の人が低い声でつぶやきます。
よく注意して聞かなくても、怒っているとわかるような声でした。
当の猫は不機嫌そうに女の人を一度見て、そしてまたそっぽを向きました。
「そ、そういえば…未開惑星の猫ですから破傷風菌持ってるかも…!消毒、消毒っ!」
女の子が思い出したようにそう言い、ぱたぱたと救急箱を取りに工房の奥へ走っていきました。
その部屋から出る寸前に、
「あっ!今はそれ以上その猫触らないほうがいいですよ!機嫌が悪いと、噛み付くこともありますから!」
そう言い残して女の子は部屋から急ぎ足で出て行きました。





「…わからないなぁ…。どうして急に凶暴になったんだろう?」
女の人が、指の傷をとりあえず水で洗い流しながら、心底不思議そうにつぶやきます。
「お前こいつに何かしたのか?」
その問いに、女の人は心当たりがまったくない、と言わんばかりに首を横に振りました。
「いいや…何も。ただ、ムニエルが熱すぎなかったか心配になって様子を見てただけ」
「じゃあ、なんで手をひっかかれた」
女の人は蛇口を閉めて水を止め、指に着いた水を振って払いながら答えます。
「わからないよ。…やっぱり口に合わなかったのかな?それとも熱すぎた?」
猫ってその名の通り猫舌だからもう少し冷ましたほうがよかったかもね、と苦笑する女の人に、
「…ちゃんと消毒しとけよ」
そう一言だけ言って、男の人は部屋を出て行きました。
そこに、
「わぁっ!」
女の人のすぐ前を横切って、何かが男の人のほうに跳んで行きました。
女の人は急なことなので驚いて、思わず声を上げます。
結構な速さで横切ったそれは、男の人の肩に跳び乗りました。
「…のわっ!」
男の人は急なことなのでやっぱり驚いて、やっぱり思わず声を上げました。
男の人の肩の上には、さっきまでのんびりとムニエルを食べていた猫が悠然と乗っていました。
「おい乗るな」
下ろそうとする男の人の手を、猫は嫌そうに避けます。
「…いいじゃないか。連れてってあげれば」
女の人が言って、男の人が女の人を見ます。
女の人はなんとも言えない表情を作って、そして苦笑します。
ため息をついて、男の人はくるりと踵を返しました。





それからしばらく経って、救急箱を取りに行った女の子が戻ってきました。
「さっき、肩に猫を乗せたアルベルさんとすれ違いましたけど…あの後、猫は大人しくしてました?」
気遣わしげに女の子がそう言って、女の人はあぁ、と曖昧な表情で頷きました。
「どうしたんだろうね。私何かあの子の気に障るようなことしたかな?」
「………」
気落ちしている女の人を、女の子が何か言いたそうに見ていました。
「ん?どうかしたかい?」
「…あの…。いえ、なんでもないです」
女の子はそう言って、救急箱から消毒液を出しててきぱきと消毒し始めました。
右手の人差し指と、同じく右手の甲に残っている真っ直ぐな傷痕は、簡単な消毒を済ませる頃には血が止まっていました。
「はい。これで大丈夫だと思います」
「すまないね」
「いえ、いいんですよ。慣れてますしね」
「…あぁ。そういえば、猫何匹も飼ってたんだっけね」
女の子は、はい、と複雑そうに微笑んで頷きます。
「やっぱり、人に慣れてない猫だとひっかかれることもあるんです。子猫とか特にそうですね。私の家によく遊びに来てたフェイトも、たまにひっかかれてましたよ」
「なるほどね」
ひっかかれたフェイトの手当てをよくしていたから慣れているのか、と納得したように女の人がつぶやきます。
「あ、そういえばさ、猫が嫌がることって何だと思う?」
「え?」
きょとんとした女の子に、女の人は苦笑しながら訊きました。
「ほら、さっき私ひっかかれただろう?しかも二回も。猫の嫌がるようなことを私がしちまったんじゃないかなぁって思ってさ」
「………」
「…やっぱり、逃げるのを追い掛け回したり無理やり風呂に入れたのがマズかったかな?」
女の子は何かを少し考えて、口を開きました。
「ネルさん。あの猫と、初めて会ったのはいつですか?」
「え?…そうだなぁ、あいつが仲間に入ってしばらくしてからだから…あんたが仲間に入る随分前だよ」
「…じゃあ、最初にあの子を拾ったのはもしかしてアルベルさんですか?」
「そういうことになる…だろうね」
「…やっぱり」
どこか納得したような面持ちで女の子がつぶやきます。
「え?やっぱり、って何が」
「嫉妬してるんですよ、あの子。ネルさんに」





言われた言葉に、女の人は軽く目を見開きました。





「え?」
「猫の中には、ご主人様と仲の良い人間にやきもち妬いて敵視しちゃう子もいるんですよ」
「ご主人様…って、もしかしてアルベル?」
「でしょうね。あの子一番アルベルさんに懐いてましたし…」
「…ふぅん……」
女の人はそう呟いて、さっきまで猫がいた場所を見やりました。
そこには、食べかけのまま放置されているムニエルの皿が置いたままになっています。
「………」
女の人は首を振り、ムニエルの皿をテーブルの脇に移動しました。





空の真ん中、一番高い位置にあった太陽が少しずつ沈んで行きます。
やがて青空が紫になり、やがて紫の空が朱色に染まっていきました。



こん、こん
宿屋の一室のドアをノックしたのは、夕焼けに負けないくらい赤い髪の女の人でした。
「…アルベル、もう少しで夕食だよ。あんた当番だっただろ」
そう声をかけても、部屋の中から返事は返ってきません。
女の人はドアを開きました。
中にいる筈の男の人を視線で探し―――すぐに見つけました。
「…寝てるのかい」
女の人が言ったとおり、男の人はベッドの上に座り、壁に背中を預けて眠っていました。
男の人がこうやってうたたねしているのは珍しいことではまったくないので、女の人はそれほど驚かず部屋に入りました。
男の人の膝の上には、さっきの猫が丸くなって一緒になって眠っています。
女の人は猫が寝ているのを見て、良かったような悪かったような複雑な顔をしました。
「ほら、起きな」
女の人はベッドの前に立って、腰に両手をやりながら少し大きめの声で言いました。
寝起きの悪さは筋金入りの男の人は、当然こんなくらいでは起きません。
何もなかったかのように眠り続けています。
かわりに、丸くなっていた猫がゆっくりと目を開けました。
「…あ、悪いね、あんたを起こすつもりじゃなかったんだ」
女の人はそう言いますが、猫はやっぱり機嫌悪そうにぷいと横を向いてしまいます。
それを見て苦笑した女の人は、揺らさないように気を遣いながらベッドに腰掛けました。
「…起きなよ、またサボるつもりなのかい」
男の人の肩を掴んでがくがく揺らします。男の人の頭のすぐ後ろには壁があるので、揺らすたびにがんがんと後ろ頭が壁にぶつかる音がしますが、女の人はさほど気にせず、男の人もぜんぜんまったく起きる気配がありません。ある意味すごいです。
「…ったく。早めに様子を見に来て正解だったかと思えば…案の定起きないときたもんだ」
女の人は呆れたようにそうつぶやきました。
変わらない体勢で眠り続けている男の人を一瞥して、女の人は猫のほうを見ました。
猫は女の人が自分を見たのを感じ取り、嫌そうに視線をそらしました。まるで本当に人間みたいです。
「………ねぇ、あんた」
女の人は猫を見たまま言いました。
猫はそっぽを向いたままです。
「あんたさ…私にそっくりだね」
まるで独り言を言っているかのように、女の人は猫に話しかけました。
猫は女の人が言っていることを理解しているかどうかはわかりません。
もちろん女の人にだって、猫が自分の言っていることを理解しているかなんてわかりません。
「前、あんたを風呂に入れてこいつと一緒に洗った時…私もあんたに嫉妬した」
猫が、女の人のほうを向きました。
「…それと、同じなんだろう?あんたが私をひっかいた、理由は」
女の人は、消毒済みですが傷痕はくっきりと残っている右手を、猫に見せながら言いました。
手を消毒してくれた女の子はその後包帯か何かを巻こうとしましたが、これくらい平気だよと女の人が丁重に断ったので、赤く細く真っ直ぐな傷痕はあらわになっています。
「それに私、前あんたをぐしゃぐしゃ拭いちゃったからねー…。ごめん、お互い様だ」
女の人は笑いながら言いました。
猫はそんな女の人を見ています。
「だからさ。これで貸し借りゼロ。チャラにしないかい?」
にこりと笑って女の人が言いました。
猫は理解しているのかいないのか、特に変化もなくベッドの上に座ったままです。





「…あ。でも、」



女の人は何かを思いついたようにそう言い、少し視線を鋭くしました。





「こいつは私のだからね。あんたもこいつを気に入ってるんだろうけど、私だってそうなんだ」





女の人は眠っている男の人を見ながらそう言って。





「…まぁ、こいつがどう思ってるかは、知らないけどね」
そう付け足します。
猫はネルをじっと見た後、なぁう、と一声鳴きました。
それが、理解した、という返事なのか、嫌だ、という返事なのか、たまたま鳴いただけだったのかは、もちろん女の人にはわかりません。





「ふぅ。…猫相手に、何言ってるんだかね、私は」
女の人はふっと苦笑して、自分に呆れたような顔をしました。
猫を一度見て笑い、
「さて。…そろそろ本気で起こすか」
そう言って、眠っている男の人を見ます。
「ほら、いい加減にしな!」
さっきのように肩を掴んでがくんがくんと揺さぶります。
「……んぁ……?」
少しだけ意識が覚醒したのか、男の人がうめきました。
「起・き・な!」
次に一語一語を強調しながら、しかも耳元でそう怒鳴ります。
普通の人ならここまですれば起きるでしょうが、超絶低血圧の男の人にそんな"普通"なんてものは通用しません。
「…うっせぇ」
「うるさくされたくなきゃとっとと起きな!また夕飯に遅れたら皆に迷惑かかるだろう!」
「…今、何時だよ…」
ぼそぼそと返事が返ってきて、女の人は傍にある時計を見て答えます。
「四時前。夕飯の準備始めるまであと一時間ちょっとってとこかな」
女の人は男の人の筋金入りの低血圧っぷりを見越して、大分早い時間に起こしにきたのです。
「…ならまだ寝かせろ阿呆…」
「ちょッ!?あんた二度寝したらさらに起きないだろうにっ!こら寝るな!」
男の人の後ろ頭から伸びている、尻尾のような後ろ髪を正面からぐいぐいと引っ張りながら、女の人は慌てたように言います。
「…ぅー……」
男の人はうめくように声を漏らし、そして、
「…なっ、ちょっと!」
驚く女の人の肩を掴んで、自分の方へ引っ張りました。
不意打ちに女の人が驚いている間に、女の人をちゃっかり腕の中に収めたまま、また男の人は寝息を立てはじめました。
「寝呆けるんじゃないよ!起きろって言ってるじゃないかこの阿…じゃなくて、馬鹿!」
身動きの取れない女の人が怒鳴ります。が、男の人はもうすでに夢の中へ旅立っていました。
二度寝した直後は、もうどうあがいてもこの男の人が起きないということを身をもってよぉく知っている女の人は、盛大にため息をつきました。
「……はぁ。ねぇあんた、ご主人様を起こしてくれないかい?」
女の人は、完全に忘れ去られていた猫を見て、言いました。
猫は我関せず、と言わんばかりに毛づくろいをしていました。
「………」
女の人は呆れたように首を振りました。
実際、女の人が本気を出せばここから抜け出すのは容易なことでした。
男の人の腕にこもっている力は、頑張れば女の人が振り解けるくらいに弱められています。
それでも力ずくで抜け出そうとしないあたり、自分は本気で末期だなと呆れながら、女の人は男の人の胸にこてんと頭を乗せました。
どうしようもないんならどうすることもできないから、夕食の準備しなきゃならない時間まで眠るのもいいか、と目を閉じます。





少し時間が経って、猫が毛づくろいを終えました。
うーんと伸びをして、そして眠っている女の人を見ました。
正確には、眠っている女の人の膝の上に置いてある、痛そうな赤い線が走っている右手を見ました。
猫はベッドの上をゆっくりと移動して、女の人の膝の上にそぉっと乗りました。
猫も猫なりに、ひっかいたことを悪かったと思っていたのでしょうか。
顔を女の人の、傷が走っている右手に近づけて、ぺろりと舌を出すと―――





「そこまでだ、な」





眠っていたはずの男の人から、声が聞こえました。
それと同時に、女の人の膝の上にあった右手がひょいと上に持ち上げられます。
猫もさすがに驚いて、男の人の声がしたほうを向きました。
意地の悪そうな笑みを顔に貼り付けた男の人が猫を見ています。
「…お前らが仲直りしようが仲違いしようが、俺の知ったことじゃねぇ。が―――」
猫を見たまま、男の人は続けます。
「こいつは俺の所有物なんだから傷をつけるなんぞもっての外だ。それに、」
男の人はにやりと笑いながら、ぽかんとしている猫を見ます。





「こいつにこういうことしていいのは俺だけなんだよ」





そう言って、女の人の右手の傷跡をぺろりと舐めました。





「―――ひゃぅっ!」
男の人の腕の中ですやすやと眠っていた女の人の口から、甲高い声が飛び出ました。
同時に、華奢な肩も跳ね上がります。
それを面白そうに眺めながら、男の人が喉でくくく、と笑います。
「お前、相変わらず指とか手とか弱いな」
「…こ、の馬鹿っ…!」
ぎろりと睨みつけられ、男の人はさすがにこれ以上からかうのはまずいと判断したのか、女の人の手をぱっと離しました。
それと同時に勢いよく女の人が身を起こします。
そして、
「なっ…!もうこんな時間じゃないか!」
時計を見て慌てたように言いました。
時計の針は、食堂に行こうと予定していた時間を二十分ほど過ぎていました。
「あぁ、そうらしいな」
「何を悠長にしてるのさ!ソフィア一人に任せるわけにはいかないだろう、早く行くよ!」
急いでベッドから降り立った女の人が言って、男の人は渋々といった感じでベッドから降りました。
その後を、猫がちょこちょこと着いていきました。





「あ、ネルさんにアルベルさん」
二人が食堂へ入ってすぐに、女の子が二人にそう声をかけてきました。
「すまないね。ちょっとうたた寝しちゃって…」
「あぁ、気にしないでください」
素直に謝った女の人の横で、男の人は無言で立っています。
「あんたねぇ…一言くらい謝ったらどうなんだい」
「うるせ」
相変わらずの仏頂面で男の人が答えます。
「いいんですよ。期待してませんから」
女の子がさらりと笑顔で言って、女の人は苦笑します。
そんな女の人の目に、テーブルの端に置いてある食べかけのムニエルが映りました。
その視線に気づいた女の子が、少し気まずそうに口を開きました。
「あ、あれ…とりあえず、そのままにしておいたんですけど…え?」
女の子の台詞が、変な所で途切れて代わりに驚いたような声が続きました。
女の子と、そして女の人が見ていたムニエルの皿の横に、ひょこりと猫が顔を出したからです。
猫はムニエルの皿にすぐに顔を近づけ、そしてむしゃむしゃと食べ始めました。
「…あ………」
驚いている女の人に、女の子がにこりと微笑みながら声をかけました。
「仲直り、できたんですね!」
「え、…でも、…うーん?」
よくわかっていない女の人を、女の子が楽しそうに見ています。
そんな二人と、美味しそうにムニエルを食べている猫を見て、男の人も少し不思議そうにしていました。








ただ一人不思議そうな顔をしていなかった女の子が、ムニエルを美味しそうに平らげた猫を見て、納得したように頷いていました。
ムニエルをキレイに食べ終わり、少し残ったソースをぺろぺろと舐めている猫を見て、視線を合わせて問いかけます。
「やっぱりあなたはネルさんの事も大好きなんだね。…アルベルさんと同じように」
猫の動きが、一瞬止まりました。
女の子はにっこりと笑って、言いました。
「そうだよね。…さっきは、ちょっとヤキモチ妬いてただけだよね」
猫は知らん振りをしています。
「…もぅ。これからは、ヤキモチ妬いたからってネルさんのことをひっかいたりしちゃだめだよ。ネルさんも悲しいし、アルベルさんに怒られちゃうよ?」
知らん振りを続ける猫に、女の子が苦笑いしながら続けます。





「あなたがアルベルさんとネルさんを好きなのと同じみたいに、アルベルさんもネルさんが大好きなんだから、ね」





―――もちろん、ネルさんも同じだよ?





いたずらっぽく笑いながら、女の子は言いました。





そしてしばらくして。
「…えっ」
野菜を洗うために流し場の前に立っていた女の人が、急に声を上げました。
「んあ?」
隣で皿を出していた男の人が、それに気づいて女の人を見ます。
女の人は、自分の足元を見て驚いた顔をしていました。
男の人が同じように下を向いて、そして同じように少し驚きます。
女の人の足に、猫が擦り寄ってごろごろと機嫌よさそうに喉を鳴らしています。
「…え、こいつの足と間違えてないかい?」
猫はちらりと上を見て女の人の足だとわかっても、またごろごろと甘え始めます。





「…わからないなぁ…。どうして急に元に戻ったんだろう?」
女の人が、夕食の材料の野菜を洗いながら、心底不思議そうにつぶやきます。
「お前こいつに何かしたのか?」
その問いに、女の人は心当たりがまったくないことはない、と言わんばかりに曖昧な表情をしました。
「…いいや…何も」
「…そうか」
二人は揃って不思議そうな表情をして、そして夕食の準備を進めました。








猫という生き物は、大抵は気まぐれなものです。
ついさっきまでゴキゲンで、尻尾をぴこぴこと揺らしていても、次に見た時は超ゴキゲンナナメ、なんてこともあるのです。
本当に気まぐれのカタマリと言った感じで、次に何を行動するかまったくわからないのです。





…だから。



時には。
今まで懐いていた人を、急に嫌いになる、なんてことも。
そして、急に嫌いになった人に、また急に懐く、なんてことも。
あったりするのです。



そんな、予測不能な事態が起きたのは。
からっと晴れていた、カルサアの町の。
何の変哲もない、普通のいつも通りの夕暮れ時でした。