その日は春の陽気という言葉がしっくりくる、暖かい日だった。
暦の上ではもうすっかり春になり、暖かい日も増えてきた。そんな中、薄着でも丁度良い、むしろ心地よいくらいの過ごしやすい暖かな昼下がり。
彼はリビングの床の、夏場よりも毛足の長いラグの上に寝転がって、読み終わった漫画を枕にしてうとうととまどろんでいた。
先ほどまで何やらよくわからない歌のようなものを口ずさんでいた幼い魔王は、いつの間にか彼の腹の上ですやすやと寝息を立てている。
彼は腹の上の暖かい重みが寝付いてしまった事に気づいて、少し考えてからぐるりと首をキッチンの方へと向ける。
「ヒルダー」
幼い魔王を起こさないように、だが相手に聞こえるよう声量の加減に気を遣いながら、キッチンでおやつを作っているはずの彼女を呼んだ。
かしゃかしゃ、と何かをかき混ぜていたらしい音が止まり、数秒もしないうちにエプロン姿の彼女が顔を覗かせる。
「…坊ちゃまは寝付いてしまわれたか」
「なんかかけるもん取ってきて。オレ動けねーから」
幼い魔王を起こさないように、体勢にも声量にも気を配っている彼を見て。
「わかった」
彼女は足音を立てないように、だが早足でキッチンを出る。
一分もしないうちにブランケットを持ってきた彼女は、そのままの体勢を維持していた彼を見て、少し考えてから幼い主をゆっくりと抱き上げた。
「おい」
彼が咎めるような声を出すと同時に、幼い魔王はうにゅうにょと不明瞭な声を出したが、彼女がぽん、ぽん、と優しく背中を叩くと、起きる事もなくまたすやすやと眠りに落ちて行った。
気持ち良さそうに眠っている主を見て彼女はふふ、と微笑んで、寝ころんだままの彼の隣、彼がうっかり寝返りを打っても潰してしまわない程度の距離を開けて、幼い主をラグに寝かせる。
彼女が持ってきたブランケットを主のお腹の上にかけると、ずっと同じ体勢で寝そべっていた彼がようやく身を起こした。
「貴様は寝ないのか?」
「んー、何か、目ぇ覚めた」
「そうか」
幼い魔王を起こさないよう、いつもより少し抑えめの声で二人が会話する。
自分が幼い主の為にそうするのは当然だが、目の前の父親代わりの男も幼い魔王の為に自然に気配りができていることを認識して、彼女はほんの少しだけ表情を柔らかく緩めた。
本当にほんの少しの変化だったが、それに気づいた彼はふと、前にも同じような事があったような、と既視感を覚える。あの日も確か、家には自分達しかいなくて、暖かい日で。
初めてこの女にキスした日の事か、と、思い当った彼は、無意識に隣の彼女を抱き寄せていた。
抵抗もなく腕の中に収まった彼女が僅かに首を動かして彼を見る。
至近距離にある彼女の唇に、彼は何を言う事もなく自分の唇を重ねた。
「…なんだ」
顔が離れての第一声に、特に何の意図もなかった彼はそのまま理由にもならない理由を告げる。
「したかったから」
「なんだそれは」
呆れたように彼女が笑う。最近は以前よりも見る事の多くなってきた彼女の柔らかい表情を見て、彼は胸のあたりにむずむずするものを感じながらもう一度彼女に口づける。
今度は先ほどよりも短かったが、二度目を要求されることは珍しかったのか、目を開けた彼女は不思議そうな顔をしていた。
いつも気を張っているかのように硬い表情ばかりしている彼女が、気の抜けた、もっと言えば気を許したかのような無防備な表情を見せている事に気づいて、彼は無言のままでぎゅううっと腕の中の彼女を抱きしめた。
「…おい。今日の貴様はおかしいぞ」
そう言いながらも素直に体重を預けてくる彼女の声に、んー、と適当な声を返しつつ、ああなんかすげーいい気分、と彼はぼんやり考える。
今週のジャンプ面白かったし、涼しいのにあったけーし、ヒルダ柔らかいし素直だし。
彼女の髪からふわりといい匂いが鼻を掠めて、はぁ、と彼は満足そうに息をついて、また彼女を抱く腕に力を込める。
「こら、苦しいぞ。本当に、今日の貴様はどうしたというのだ」
不思議そうに、だが決して嫌がっているわけではない彼女の声音にまた満足して、彼は思った事をそのまま口にした。
「お前の事好きなんだなぁって思ったら、こうしたくなったから」

「…は?」
目をいっぱいに見開いた彼女が、止まる思考をどうにか働かせてようやくそれだけ口にした。
「あ? ああ、そーいや、お前に言うの初めてか」
「な、に…を」
「だから、オレがお前のこと好きだって話」
あっさりと言い放った彼は、だが冗談を言っているようにも見えず、彼女は困惑を通り越して固まったまま、彼の顔を見ていた。
まるで息をする事すら忘れてしまったかのように動きを止めている彼女を見て彼が声をかけようとすると、彼女は唇を戦慄かせて、でもなんとか言葉を口にする。
「…くだらない、冗談を、言うな」
「はぁ? 冗談じゃねーし」
「うそだ、きさまは、いったい、なにを言って、」
まるでうわごとのように、呆然としたまま震える声で呟く彼女の様子がおかしいと思いつつ、自分の言葉を否定された彼はむっとしながら言い返す。
「嘘じゃねーっつってんだろ。信じられねーならもう一度言ってやる。お前が好きだ」
彼女が息を飲む声が聞こえた。



次の瞬間、彼はリビングの壁に背中を叩きつけられていた。



背中に受けた衝撃と鈍い音。一瞬何が起きたかわからず呆然とする彼の視界に、先ほどまで自分のいた場所で両手をこちらに向けて突き出している彼女の姿が映る。
それでようやく彼女に渾身の力で突き飛ばされた事を理解して。
「てめっ、いきなり何しやが、」
思わず上げた文句の声は中途半端なところで止まる。
彼の視界にいる彼女は、まるで今にも泣きそうな顔をしていた。
「…ヒルダ」
ぽつり、小さく名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように彼を見て、一瞬すまなさそうに眼を伏せた。
が、本当にそれは一瞬の事で、顔を上げた彼女はいつも通りの無表情だった。
「フニー…」
一瞬落ちた沈黙を消したのは、ぐずるような幼い魔王の声だった。
はっとなって二人が眠っていたはずの幼い魔王を見る。彼が壁にぶつかった音や、その直後に上げた声は、快適な睡眠を邪魔するには十分過ぎた。
目を醒ましてしまった幼い魔王に二人は慌てて駆け寄った。彼女がそっと抱き上げて頭を撫でると、泣きだしそうだった幼い魔王は少しぐずったが、やがて落ちついたようでまたすやすやと眠りに落ちて行った。
ほっと息をつく二人だったが、幼い魔王に駆け寄った為に自然と近づいた距離に気づいて、彼女は無言で彼から離れる。
気づいた彼は、先ほどから様子のおかしい彼女をじっと見る。軽く睨みが入った視線に気づいて、彼女は居心地の悪そうに少しだけ顔を逸らした。
「なぁ、…突然どしたの、お前」
「…」
彼女は答えなかった。答えないまま、無言で立ち上がる。
「おい、」
呼びとめようとする彼に構わず、彼女はブランケットを拾い上げて器用に幼い主をくるみ、いつも通りの平坦な、感情の読めない声で答えた。
「坊ちゃまを部屋に寝かせてくる」
それだけ言って、彼女は彼の方を見ようとしないままリビングを出て行った。
「…」
ぽつんと取り残された彼は、たった数分の間に起きた出来事が何だったのかわからずに呆然としていた。



終わりを告げる始まりの話



次の日から、というよりその日幼い魔王を部屋に連れて行ってからの彼女の態度は、普段通りだった。
幼い主や彼の家族に見せる態度もいつも通りで、登校後に古市やアランドロンに対する接し方も、いつも通りだった。
ただ、彼一人を除いては。
「………」
明らかに、というより誰がどう見ても不機嫌そうに見える悪友を見て、古市はこの数日何度もかけた質問をため息混じりにまた投げかけた。
「お前、本当どうしたんだよ。ヒルダさんとケンカしたなら早く仲直りしろって言ってんじゃん」
「…」
無言のまま弁当をもくもく食べている彼を見て、古市はこの場にいない金髪の侍女悪魔を思い浮かべながらまたため息をつく。
彼と彼女の態度が突然おかしくなったのは三日前のことだ。彼女は彼を視界に入れようとしないし、あからさまに避けている。彼はそんな彼女を何か言いたそうな目で見ている事が多かった。
幼い魔王の世話があるから二人とも会話や簡単なやりとりはしているが、以前と比べるとあまりにも素っ気なかった。特に彼女の方が。
お互い言いたい事を遠慮なくぶつける為、今までもケンカすることがないわけではなかった、いやむしろケンカばかりしていた二人だったが、こんなに長引く事は珍しい。
ヒルダさんはいつも通りを装ってみたいだけどなんとなく元気なさそうだし、ベル坊まで気落ちしているように見えるし、何より不機嫌オーラ全開の男鹿は精神衛生上いろいろと良くない。普通、苛々していると真っ先に手や足が出るのに、最近の男鹿はそれすらしない。それが逆に怖い。
不機嫌というより、落ち込んでいるらしい悪友をとりあえずなんとかしねーと、と古市は言葉を選んで彼へと声をかけた。
「なぁ、ベル坊もヒルダさんも元気ないしさ、お前が謝って済むことならそうした方がいーんじゃねーの」
「…謝ったりなんてしねーよ。オレ間違った事なんてなんも言ってねーし」
「じゃあなんでへこんでんだよ。なんかやらかして謝るに謝れないとかじゃねーの?」
そう言いつつも、目の前の悪友は明らかに自分に非があるのに謝罪をしないような男ではないことを古市は知っている。
指摘が外れていても、実際のところを聞き出す糸口になればいい、と考えての質問に、彼ははぁー、と肺の中の空気をすべて追い出すような長いため息をついて。
「…三日もヒルダに触ってない」
忌々しそうに口を開いた彼の台詞が一瞬理解できずぽかんとした古市は、数秒後素っ頓狂な叫びを上げた。
「はあああ?! ちょ、何言ってんだオイイィィ!」
「てめーが言ったんだろ。なんでへこんでんだって」
「いや確かに聞いたけど! ってか、三日もってことは前はしょっちゅう触ってたのかよ!」
「触ってたっつーか、手は出してねーぞ。キスしたり抱きしめたりはしてたけど」
「十分出してるじゃねーか! あーもーわかってるよそうだよな! 前フツーに一緒に風呂入ったとか言ってたし! あーあー夫婦喧嘩ならよそでやれよそで!」
一気に文句を並べた古市は、普段ならうるせーよ!と殴ってくる悪友が静かな事に気づいて少し驚く。
「…で、へこんでる理由はいいとして。何が原因でケンカになったんだよ。お前、間違った事言ってないって言ったけど、何かヒルダさんを怒らせるようなこと言ったんだろ?」
少し落ちついた古市が再度彼に問う。彼は不機嫌そうな顔のまま少しだけ黙り込んで、一つため息をついて口を開く。
「好きだ、って言った」
「は…?」
きょとん、とした古市は、よく回る頭を回転させながら不思議そうに首を傾げる。
「何だよそれ。キスとかしてたなら、そんなん今更だろ? それでなんでヒルダさんがお前の事避けるようになるんだよ」
「今更じゃねーんだろうな。オレにとっては今更だけど」
「?」
「口に出して言ったの、初めてだったからな」
古市は怪訝そうな顔をして、それから少しだけ彼を非難するような口調で呟く。
「お前さ…。順番違くね? しかもその言い方、軽くぽろっと告ったんだろ」
「…まあな」
あっさり肯定した彼は、ふー、とまた息をつく。その表情はどこか後悔しているように見えて、いつも前しか見ていない彼にしては珍しい、と古市は目を僅かに見開く。
彼は視線を下げて影の伸びたアスファルトをじっと見つめている。が、男鹿が本当に見ているのは屋上の床なんかではないんだろうな、と古市は思う。
どうやら本気で落ち込んでいるらしい悪友を見て、古市はやれやれと思いつつもどうして彼女が彼を避けているのか、本腰を入れて考え始める。

好きだと伝える前からキスしたりだとか抱きしめたりだとかしてたらしいけど(ちくしょう羨ましい)、男鹿の言い方だと無理矢理というわけではなさそうだ。ヒルダさん同意の上での事だろう。第一同意がなければたぶん男鹿は今頃骨の一本や二本折れてるだろうし。
それに今までの二人、もっと言うとベル坊込みでの三人でのやりとりを見ていると、正直これで付き合ってないっておかしいだろっていうレベルの夫婦っぷりだった(ちくしょう羨ましい。大事な事なので二回言いました)。だから、ヒルダさんは男鹿が嫌いで、好きだと言われて嫌悪感から男鹿を避けている、という事はまずありえないだろう。それならそもそもキスされることを許しはしないだろうし。
嫌い、ではないはずだ。ということは、近しい相手にキスされても拒まないというのは、好き、もしくは、どうでもいい。このどちらかだろう。
正直後者の場合、男鹿に同情せざるを得ない。が、それなら好きだと言われても、私は貴様などどうでもいい、と一蹴で終わっていただろう。あからさまに避けるだとかそういった事にはならないはず。
悪魔と人間の恋愛観が違うのかはわからないが、一般的に告白されて避ける、というのはどう接していいかわからず戸惑っているとか照れているとかそういう事だろう。
でも彼女の場合、少し違うような気がする。
古市はちらりと横に座っている彼を見る。
頭の上の幼い魔王が心配したように彼の頭をぽんぽんと叩いて、彼はそんな幼い魔王の頭をお返しにぐしゃぐしゃ撫でる。心配するな、とでも言いたげなその仕草は乱雑にも見えるが、本当の父親のようだった。
すっかり彼に懐いてしまっている幼い魔王を見ながら、古市はこの小さな魔王とその侍女である彼女がこの町にやってきた直後のことを思い出す。



―――坊ちゃまにお仕えする以外に、私の存在理由などないのだ。



そう、真剣だとか本気だとしか言いようのない様子で、はっきりと言い切った彼女の言葉を、最近まで古市は忘れていた。
だけどあの台詞はきっと彼女の本音で、今までの彼女を形作ってきた礎なのだろうな、と古市は思う。
今回、彼に対していつも冷静な彼女らしからぬ避け方をしているのは、もしかしたらそれが原因なんじゃないだろうか。
むしろ、男鹿の事を嫌いだとかどうでもいいとかではなく、真逆だからこそ避けているのではないか。



「男鹿。…多分さ、ヒルダさんがお前の事避けてんのは、お前の事怒ってるとか、そーいうんじゃねーと思う」
結論を出した古市の答えに、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「ヒルダさんには訊いてみたのか? 避けてる原因」
「…何度も訊こうとしてっけど、理由付けてうまく逃げんだよ、あいつ」
ため息混じりの彼の答えに、古市は少し考えてから口を開く。
「たぶん、オレが代わりに訊いても意味ねーと思うから。お前が訊け」
「…」
彼はしばらく無言のまま何も言わなかったが、やがてため息混じりにそうだな、と答える。
らしくもなくため息を連発する悪友の様子に驚きながらも、なんとかなればいいな、と心の中だけで古市は応援の言葉を投げかけてやった。



下校中もいつもより格段に口数の少なかった彼女は、帰宅後も彼の部屋に居たがらなかった。
だからと言って幼い主から離れるわけにもいかないので、ここ数日、おやつがあるからだとかごはんくんのアニメを大きなテレビで見た方が楽しいだとか、幼い主が嫌がらない程度にあれこれ理由を付けて部屋から連れ出して自身と彼との距離を取っていた彼女だったが。
「ねぇヒルダちゃん、たつみとケンカしたんでしょ? あいつ、なんか話したいって言ってたよ。ベル坊はあたしが見とくからさ、話だけでも聞いてやってくれない?」
先手を打たれてしまい、彼女は結局彼と二人きりで部屋に留まらざるを得なくなった。
「ヒルダ」
「…何だ」
彼が静かに声をかける。彼女は彼を見ようとしないまま、淡々とした声音で答えた。
「何だ、じゃねーよ。人の事シカトしまくっといて」
「…」
「ベル坊も困ってんぞ、オレらの様子が変だって。いつまでもこんなんじゃベル坊にも悪影響だろ、話くらい聞けよ」
幼い主の名を出されて、彼女は逃げる事を諦めたように彼の方を向いた。彼女にも、幼い主に心配をかけている自覚があったのだろう、俯きがちに申し訳なさそうな顔をしている彼女を見て、彼は彼女が逃げなくなった事に安堵すると同時に落胆する。
そんな顔をさせてしまっている事や、幼い魔王の事を引き合いに出さないと会話もできない今の状況が、心底歯がゆかった。
「…そんなに嫌だったのかよ、オレに好きって言われたの」
俯いていた彼女が顔を上げて、何かを言おうと唇が動く。が、結局彼女の口からは何も言葉が出てこないまま、彼女はぐっと押し黙ってしまう。
「オレの近くにいんの、嫌になったか」
「…そうではない」
久しぶりにまともに答えてくれた彼女の声とその内容に、彼は内心ほっとする。
逃げる事は諦めたようだが、扉のすぐ近くに立ったまま、彼へ近づこうとせず座ろうともしていない彼女を見て、フローリングに座っていた彼が立ち上がる。
ゆっくりと彼女に近づいて、手を伸ばせば触れられる位置に立つ。微動だにしない彼女を見て、以前のように突き飛ばされるようなことはなさそうだと判断し、彼はまた口を開く。
「じゃあ、なに。…まさか、オレが何かするかもって警戒でもしてんの」
「…」
彼女は無言で首を横に振る。彼が再び安堵するが、質問して否定される度、ますます彼女が自分を避けている理由がわからなくなって。
「なら、…なんでだよ」
力なく問いかけた彼の声音があまりにもいつもと違って、彼女はほんの少しだけ表情を緩めて苦笑した。
「貴様がそこまで落ち込むとは思っていなかった」
「なんだそれ。まさかお前、まだオレが言った事冗談だと思ってんの」
さすがにこれにはかちんと来たようで、彼は目を眇めて彼女を睨む。
彼女は少しだけ俯いて、寂しそうに笑った。
「そうであれば良かったのに、とは思っている」
「…なにそれ」
「冗談であれば、…今まで通りの距離でいられたからな」
「…」
これからはもうあの穏やかな距離には戻れない、と言外に含ませた彼女の言葉に、彼が目を見開いた。
彼女はもう俯かず、彼を真っすぐに見ていた。自分の言葉で、明らかに動揺した彼を見て、少しだけ悲しそうな顔をして。
「この数日、不自然な態度を取ってしまってすまなかったな。もう腹は決まった。これからは今まで通りに接するし、避けることも逃げる事もしない」
「は…?」
「だが、…もう、抱きしめたり、キスをしたり、…ああいったことは、できない」
途中、言い淀みつつも、最後にはきっぱり言い切った彼女の言葉を、彼は眼を見開いたまま聞いていた。
「男鹿。私は、貴様の思いに応える事は、できない」



呆然とした彼を見て、彼女は辛そうにぐっと歯を噛みしめる。だが先ほどの言葉を訂正も取り消しもしなかった。
「…なんで? オレの傍にいんの、嫌じゃねーんだろ」
「…ああ」
「じゃあ、なんで」
彼の再度の問いに、彼女は眼を伏せて、言葉を選ぶように何かを考えた後、顔を上げる。
「私は。私のすべては、坊ちゃまの為に在る」
「…」
「坊ちゃま以外の事を考えている余裕など、…貴様の事を思う余地など、ない」
「…なんだそれ。ベル坊がどうとかじゃなくて、お前はどう思ってんだよ」
不満そうに、そしてそれを隠そうともせずに彼が尋ねる。彼女は一瞬言葉に詰まり、視線を彷徨わせた後に口を開く。
「貴様のことは…。嫌いでは、ないよ」
嫌いではない、そう彼女は繰り返し呟いた。一度目の言葉は彼へ向けたものだったが、二度目の言葉は、彼女自身に言い聞かせるような、そんな声音だった。
「だが、…恐らく、貴様の気持ちには一生応えられない」
「…ベル坊が原因で?」
もし彼女が肯定したら、きっと彼はベル坊の所為にすんな、と怒っていたであろう質問を、彼女は首を振って否定する。
「違う。私自身の問題だ」
手を伸ばせば届く距離にいる彼に、しかし彼女は手を伸ばす事も近づくこともせず、距離を保ったまま告げる。
「貴様に限らず、誰かを想うということは、坊ちゃま以外の事を考えてしまうということだ。坊ちゃまよりも大きな存在が出来るなどということが、あってはいけない」
「そんな事知ってるっつの。お前がベル坊命でベル坊第一な事なんてわかりきってるし」
「そうか。ならば、私の事は諦めろ」
「簡単に言うんじゃねーよ。諦められねーからこーやって何度も何度もなんでだめなんだって訊いてんのに」
非難の目を向けられて、その視線で彼が本気で言っていること、本当に諦める気などさらさらないであろうことを悟ってしまい、彼女がいたたまれないように視線を下げる。
「なあ、…本当にだめなの」
彼の、滅多に聞かない神妙な声音につられて顔を上げた事を、彼女は少なからず後悔した。
真っすぐに自分を見てくる彼の目から、数秒目が逸らせなかった。
「…。駄、目だ」
絞り出すように小さな声でなんとか否定した彼女の答えを聞いて、彼はしばらくの間無言でいたが。
「…あーあ、なんだよてめー、オトコ作んの無理とか言うなら、あんな簡単にキスとかさせんなよ」
少しの間の後、ため息混じりのぼやきはいつものだるそうな彼の声音だった。彼女は少しだけ安心しながら、自身も普段通りの声音になるように言葉を返す。
「貴様に言われたくはないな。恋仲になりたいのかと聞いたらわからないなどと答えたくせに、簡単にキスしおって」
「まーそうなんだけど。でもオレ、あん時は気づいてなかったけど、多分あの頃からずっとお前の事好きだった」
「…」
困ったように、返す言葉を探している彼女を見て、彼は後ろ頭を掻きながら、小さな声であー、とぼやく。
「明日からは、前みたいにいつも通りにしろよ」
「ああ」
「…それと。キスしたり抱きしめられたり、されたくねーんなら。ベル坊が寝たりとかして二人きりになった時、オレの傍に近づくんじゃねーぞ」
「…」
彼女は答えないまま、彼を見た。彼も彼女を見ていて、その表情はいつも通りの無表情に見えて、いつもよりも寂しそうな顔だった。
彼らしくない表情を見たくなくて、彼女は無意識に顔を逸らす。逸らした自分の顔も、彼女らしくない沈んだ表情になっていたことに、彼女は気づかない。
彼は、どうしてか彼よりも辛そうな顔をしている彼女を見て何か言おうとして、結局何も言わずに口を閉ざした。



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