言葉で人を傷つけるという事は、こういうことなのかと、思った。





Someday,Someplace 〜存在理由〜





それは、ラナが九歳の誕生日を迎えてしばらくしてからのこと。
「最近、何かあったかい?」
「えっ?」
夕食中、ぼんやりと食事を口に運んでいたラナは、唐突な質問に目を瞬かせた。
ラナが顔を上げると、心配そうな顔をした赤毛の彼女―――ラナの母親である彼女が、ラナの顔を覗き込んでいた。
「そうだよ、お姉ちゃんこのごろ元気ないよ」
彼女の隣に座ってサラダを食べているリコリスと、
「そうそう。なにかあったなら言ったほうがすっきりするとおもうぞ」
一口すすったスープの器を置いたクラスターも、そう言って心配そうにラナに顔を向ける。
ラナ達の父親は五日ほど前から出張任務でアーリグリフに行って不在なので、その食卓にいるのはラナを含めて四人。
自分を除く合計三人分の視線を向けられて、ラナは気まずそうに苦笑いする。
「何にもないよ。大丈夫」
そう言った笑顔が、無理をしているように見えて。
彼女は一瞬押し黙って、また口を開く。
「…でも、この頃ため息ついたり、浮かない顔してることが多いだろう?」
「………」
今度はラナが押し黙る番だった。
「何かあったのなら、言っていいんだよ」
優しく、諭すように言う彼女の声に、ラナは数秒の間俯いて、ぱっと顔を上げた。
「本当に大丈夫!ほら、わたし、ちょっと前に三年生になって、勉強する校舎が変わったでしょ?だからまだ慣れてなくて、ちょっと疲れてただけ」
まだ心配そうな顔をしつつも、彼女はその答えに一応納得したようで。
「ならいいんだけど…。あまり無理したら駄目だよ」
「…うん」
答えたラナは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
それきりその話題は出ずに、夕食が終わって。
片付けやその後の風呂の時も、ラナはいつも通りに笑っていた。
だが、その笑顔が無理をして作っているように見えて。
彼女はやはり心配そうに、ラナを見ていた。





蘇るのは、嘲け笑うような、声。



"お前の母親 シーハーツのクリムゾンブレイドなんだろ"



今までも、なんとなくわかっていた。



"アルベル様も可哀想だよな シーハーツの人間と"せいりゃくけっこん"させられるなんて"



裏でそうやって自分の事を悪く言っている人がいると。



"戦争の後でアーリグリフとシーハーツの"わへい"の為に無理やり結婚させられたんだってさ"



でも―――面と向かって、悪意を持って言われたのは、初めてで。



"アルベル様も クリムゾンブレイドも 国のためにってしょうがなく結婚したんだ"



直接罵倒される事は、陰口を叩かれているよりも数倍の痛みを受けると、その時初めて知った。



"本当は 二人とも そんなことしたくなかったんだろうよ"





"お前は望まれて生まれた子じゃないんだ"





言葉で人を傷つけるという事は、こういうことなのかと、思った。





「―――っっ、」
冬の、寒い朝。
ラナはベッドのシーツを跳ね除けるようにして飛び起きた。
心臓がどくどくとうるさくて、真冬であるというのに額から汗が滴り落ちた。
「…夢…」
かすれた声でそう呟いて、ラナは汗で頬に張り付いた長い黒髪を手で払う。
静かな日曜日。
別に学校があるわけでもないのに、嫌な夢の所為でいつも通りに、いやいつも以上に早く目覚めてしまって。
ラナは二度寝する気にもなれずにベッドから降りた。
夢の中で言われた言葉。
数週間前、進級して校舎が変わって―――今まで会うことのなかった上級生と同じ校舎で学ぶ事になって。
いろいろな人がいて、新しい友達もできて、そして―――ラナの事をよく思わない子も、いて。
その中の一人に、嘲るように言われた、言葉。
ラナよりも年上で、少なからず戦争を知っている人間に言われた、言葉。
それは恐ろしいほどにラナの頭から離れなくて。
"お前は望まれて生まれた子じゃない―――"
「…そんなこと、ない。そんなこと、ない…」
自分に言い聞かせるように呟いて。
朝から憂鬱な顔で、ラナはため息をついた。





「ラナ。お母さんは今からお父さんを迎えにアーリグリフに行くけど、一緒に来るかい?」
ラナがいつもより遅めの朝食を取り終えると、居間で何やら書類を整理していた彼女が声をかけてきた。
「アーリグリフに?」
「うん。お母さんも仕事でアーリグリフに行く用事があったから、ついでにね」
そう微笑む彼女の笑顔に、ラナも笑顔になって頷いた。
「うん、行く!わぁ、アーリグリフに行くの、久しぶりだね!」
表情を明るくさせるラナに、彼女は安心したように微笑する。
「あれ?でも、クラとリィは?まだ寝てるよね」
「あぁ、お義母さん…おばあちゃんが見ててくれるって」
「そっかぁ…。おばあちゃん、今日お医者さんのお仕事お休みなの?」
「うん、そうらしいよ」
「じゃあ、お父さんが帰ってきたら、久々にみんなで遊べるね!」
そう言って楽しそうにラナが笑って。
彼女も微笑んで、整理していた書類のうちいくつかをまとめて鞄に入れる。
「コート取ってくるね!」
嬉しそうにはしゃぐラナの後姿を、彼女は安心したように眺めて。
「…これで少しでも、元気出すといいんだけどね」
あいつも帰ってくる事だし。
彼女はぽつりと呟いて、残りの書類を棚にしまった。



けれど―――
その気遣いは、最悪な形で裏目に出る事になる。





雪の舞い散る白い街。
積もった雪の上を歩くと、独特のさくさくした感触が靴越しに足に伝わってくる。
数週間ぶりのその感覚を楽しみながら、ラナが雪降る街を軽い足取りで歩いていた。
母親である彼女は用事があるとアーリグリフ城へ行ってしまったので、ラナは一人で歩いていた。
「アーリグリフは久しぶりだろう?お母さんが戻るまで、自由に遊んでおいで。迷子にならないようにね。時間になったら、宿屋で借りた部屋に戻ってくるんだよ」
そう言われていたので、ラナは意気揚揚とアーリグリフの友達の家へと向かった。
彼女が言うとおり、ラナがアーリグリフに来るのは本当に久しぶりで。
久々に友達に会って遊べることを、ラナはとても嬉しく思いながら雪道を急いでいた。
歩いているうちに、ふとラナは思い当たってぽつりと呟いた。
「そういえば、ひとりでアーリグリフを歩くのって初めてだ」
いつもは、お父さんかお母さんと一緒に歩いていた。
友達の家に行く時も、大抵お母さんが付き添ってくれて。
でも、今日はひとりで。
なんとなくそんなことを考えていたラナの目に、今会いに行こうと思っていた友達がちょうどすぐ傍の店先で雪遊びをしているのが見えた。
「カノンちゃーん!」
名を呼びながら手を大きく振ると、相手も気づいて嬉しそうに手を振ってくる。
「ラナちゃん!久しぶりだねぇ」
「うん!カノンちゃん、元気そうで良かった!」
ぱたぱたと駆け寄りながらそう言うと、カノンと呼ばれた、栗色の髪の少女も楽しそうに笑った。
「カノンちゃん、今日はひとりなの?」
「ううん、お母さんが今お店の中で買い物してるから、待ってるの」
カノンがそう答えて、自分の背後にある雑貨屋を指差した。
「そっか…。じゃあ今はお買い物中?」
「うん。これから八百屋さんと、本屋さんに行くんだ」
「ふーん…」
一緒に遊びたかったけどまた今度にしたほうがいいな、とラナは少し残念に思いながら心の中でつぶやいた。
「でもラナちゃんがいるんなら一緒に遊びたかったなぁ」
カノンも残念そうにつぶやいて。
同じ事を考えていたのだと知って、ラナは嬉しそうに笑った。
「えへへ、そう言ってくれると嬉しいよ。またわたしがアーリグリフに来た時に、一緒に遊ぼうね」
「うん!」
二人で嬉しそうに笑って、約束ね、と指きりをして。
カノンの母親が買い物を終わらせて店から出てくるまで、他愛もない事を喋った。





その様子を、ラナが楽しそうに幸せそうに笑っているその様子を。
悲痛な目で見つめていた人間がいたことに。
ラナは気づかなかった。





カノンと別れてから、ラナはどこへ行くでもなくぶらぶらとアーリグリフの街を歩いていた。
宿屋に戻る事も考えたが、せっかくアーリグリフに来たのだからそれでは勿体無いと考えて。
でも、特にする事も行くところも思いつかず。
結局、ラナはあてもなくぶらぶらと歩くことにした。
雪降る街は白くて幻想的で、いつまで見ていても飽きないとラナは思う。
降り続く雪を見上げながら、ラナはゆっくりと曲がり角を曲がった。
どん!
「わっ!」
出会い頭に誰かとぶつかって、ラナは思わず声をあげた。
「きゃっ…」
相手も驚いたようで、息を飲む声がラナの耳に届く。
ぶつかった衝撃で転ぶ事は無かったが、ラナは慌ててぺこりと頭を下げた。
「ぶつかっちゃってごめんなさい!」
そう言って下げた頭を上げる。ラナがぶつかったのは、ラナよりいくつか年上に見える黒髪の少女だった。
「………」
ラナと同じ黒髪の少女は、ラナを見て無言のまま立ちすくんでいる。
無言で微動だにせずに凝視してくる少女に、ラナは不思議そうに声をかけた。
「…どうかしましたか?」
ラナがそう尋ねて一歩歩み寄ろうとした時。
「…あなた…」
「えっ?」
唐突に少女が口を開いて、ラナが驚いて訊き返す。
「…あなた、ラナ・ノックスよね」
「………」
静かに少女が尋ねてきて。
その表情が、何某かの感情を抑えるように、強張っていて。
「…はい」
ラナは嫌な予感を覚えながらも、頷いた。
その予感が気のせいであることを願いながら。
「………」
だが、嫌な予感と言う物は、当たってしまうもので。
少女は頷いたラナに一瞬目を見開いて、そして俯いた。
俯いてしまった少女の手がぎゅっと握り締められて、その手はわなわなと震えているように見えて。
その震えが、寒さの所為ではないことは傍目から見ても明らかだった。
「…どうして…」
押し殺された声が聞こえた。
「え…?」
「どうして…あなたは笑ってるの…?」
少女が泣きそうな目でつぶやいた意味がわからず、ラナは何度か瞬いた。
「…え、と」
ラナが何か答えようとする前に、また少女が口を開く。
「さっき、雑貨屋の前で、友達か誰かと一緒に、笑ってたでしょう」
「…あ、はい。でも、どうして知って…」
「………」
少女は答えず、ぎり、と奥歯をかみ締める音だけが聞こえた。



「どうして、あなたは笑って、幸せそうにしているのよ」
「…、え、」
「どうして?あたしはこんなに苦しんでいるのに、あなたは幸せそうにしているの?」
「…何を言ってるんで…」
「あなたの親は、あたしのお父さんを殺したのよ!?」



少女の痛切な叫び声が、雪降る街に響いた。



「………」
ラナの菫色の瞳が見開かれて、その顔から表情が消え失せた。
「どうしてあなたは、あなたの親―――紅のクリムゾンブレイドは、幸せになっているの?あたしのお父さんはクリムゾンブレイドに殺された!そのせいで、あたしのお母さんが、あたしが、どれだけ悲しんで、どれだけ辛い思いをしたと思ってるの?今でも―――お父さんがいなくなってから何年も経った今でも、どれだけ苦しんでいると思ってるの!?」
少女が泣きそうな顔で、だがラナを鋭い視線で睨みつけたままに叫ぶ。
「なのにあなたの母親は、あたし達の幸せを奪っておいて―――のうのうと幸せに生きて、結婚して、あなたを生んで、幸せな家庭を持って…笑いながら過ごしていて…どうして?どうしてあたし達が苦しんでいる時にあなた達は笑っているの?どうして…!」
ラナは何も答えなかった。
いや、答える事ができなかった。
「―――あなたが笑ってるだけで、幸せそうにしているだけで…!あたしはその分不幸になるのよ!」
少女はとうとう零れ落ちた涙を拭おうともせずに。
「あなたが存在しているということを認識するだけで、あの女が幸せに生きている事を思い知らされて、どうしようもなく悲しくなるのよ!あなたがっ…」
口を、開く。



「あなたが幸せであることが、あなたが存在している事自体が許せないのよっ!」





そう、言い放って。
少女はぐい、と涙を拭って、踵を返して走っていった。
ラナはその後姿が見えなくなっても、微動だにしないままその場に立ち尽くしていた。
その瞳には何も映ってはいなかった。





降り続いている雪が、僅かに積もってラナの髪や肩を白く彩る頃。
ラナは呆然としたまま、歩き始めた。
表情を無くしたまま、ただふらふらと歩いて。
ラナの足は無意識のうちに宿屋へ向いていた。
宿屋に入って、お帰りなさいませと声をかけてくる受付嬢の声も無視して階段をゆっくりと上がり。
割り当てられた、荷物の置いてある部屋に入って暖炉もつけずにコートを着たままベッドに倒れこむ。
ブーツも脱がず、防寒具もつけたままに枕に顔を突っ伏した。
涙は、何故か出なかった。
どうしてかと考えるのも億劫だった。
ただ、先程言われた少女の言葉だけが、ラナの頭の中をぐるぐると回っていた。



"どうして?あたしはこんなに苦しんでいるのに、あなたは幸せそうにしているの?"



"あなたが笑ってるだけで、幸せそうにしているだけで…!あたしはその分不幸になるのよ!"



"あなたが存在しているということを認識するだけで、あの女が幸せに生きている事を思い知らされて、どうしようもなく悲しくなるのよ!"





"あなたがっ…!あなたが幸せであることが、あなたが存在している事自体が許せないのよっ!"




「………そんなこと、知らないよ…どうしようも、できないよ…」
ぽつり、と。
囁くような、力無い声でそう一言だけ呟いて。
ラナはぎゅっと目を閉じて、そのまま枕に突っ伏した体勢のまま動こうとはしなかった。





それからどれくらいの時間が経ったかは、わからなかったが。
「…ナ、ラナ?」
自分を呼ぶ声が聞こえて。
はっとなってラナは顔を上げた。
首を捻って声のする方を見上げる。
今一番会いたくて、でも一番会いたくなかったラナの母親が、そこにいた。
「…お、かあ、さん…」
かすれた声でそう呟いて、その声の力無さに彼女が悲しそうな顔をする。
その顔から視線から逃げるように、ラナはまた枕に顔を突っ伏した。
「…お父さんは…?」
「あぁ、宿屋のロビーの暖炉の前で丸くなってるよ。明かりが点いてなかったし、まだラナが帰ってきてないと思ってたからね。部屋の暖炉が点くまでここにいるーって。お父さん寒がりだからねぇ」
苦笑する彼女の声にも、ラナは顔を上げなかった。
今、彼女の顔を見たら。
やり場の無い怒りや悲しみを、ぶつけてしまいそうだった。
「…どうしたんだい?コートや靴も脱がずに、寝てるなんて」
言いながら、彼女はうつ伏せになって寝ているラナの着ているコートを器用に脱がす。
「それに暖炉や明かりも点けずに…寒くなかったのかい?」
コートを脱がせ終え、彼女は僅かに湿ったコートを近くの椅子にかける。
ラナは枕に顔を突っ伏したまま、何も言わず顔を背けていた。
「本当に…どうしたのさ?何かあったのなら言っていいんだよ」
その優しい声も、今のラナにとっては苦痛でしかなかった。
ラナは頑なに口を閉じたまま、ぎゅっと目を閉じていた。
「…ラナ?」
「…んでもない、だいじょうぶ…」
なんとか搾り出すように出した声に、彼女はまた悲しそうな顔をして。
「…大丈夫じゃないだろう?」
「………」
「…辛い時は、そう言っていいんだよ。無理したり、我慢しなくていいんだ」
「…っ、」
ラナは奥歯を噛み締める。
その拍子にラナの瞳からぼろりと涙がこぼれて、突っ伏したままの枕に音も無く染み込んだ。
「…だいじょぶ、だからっ…お願いだからあっち、いって…」
「…ラナ…?」
その声が泣き声ということに気づき、彼女は思わずラナの肩を掴む。
「…あっち、いってよ、ほっといて…!」
「放って置けないよ、あんたが泣いてるのに」
「…っ、」
ラナがシーツを、自分の手のひらに爪が食い込むほどに握り締めた。



「…う、してっ」
「…え?」



もう、限界だった。



「どうして…どうしてお母さんは…」



ラナが勢い良く起き上がって。
きっ、と彼女を睨み上げる。





「アーリグリフの人を、殺したの…?」





彼女の顔から、表情が消え失せた。
それでも、ラナは自分の口が動いて言葉を紡ぎだすことを、止められなかった。



「どうして、誰かを苦しめるようなことしたの?どうして、お母さんのした事の所為で苦しむ人がいるの?どうして…、どうしてわたしが幸せになるとその分誰かが不幸になるの?」
ラナの目から、涙がぼろぼろと止め処なく溢れる。
「わたしは、…生きてちゃいけないの?わたしが生きてる事で、誰かが不幸になるの?わたしが…わたしは、望まれて生まれてきた子じゃないから、だからなの?」
「ラナ!どうしてそんな事…」
「だってお母さんとお父さんは、結婚なんてしたくなかったんでしょ?国の為にって、しょうがなく結婚して、しょうがなくわたしを生んだんでしょ?わたしは―――望まれて生まれてきた子じゃ、ないんでしょ!?」
「、」
彼女が何か言おうと口を開く。が、何かを言う前にラナの声が遮った。
「ど、うして…!どうして?わたしが悪いの?わたしが何かしたの?わたしがいるから、いけないの?どうして、わたしばっかり…っ!」
ラナはぐい、と涙を拭って。
「お母さんの…お母さんの、せいだよっ…お母さんが、アーリグリフの人、殺しちゃったりしたから…!」
「―――…、」
「わたしっ…、」



―――それは、



「お母さんの子供じゃなきゃ、良かったっ……」



言ってはならない、一言だった。





ラナはそのまま彼女から顔を背けてベッドから飛び降り、逃げるように部屋を出ていった。
彼女は目を見開いたまま、ベッドに腰掛けた体勢のまま微動だにしなかった。

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