それから、リウナは家から一歩も出なくなりました。
毎週必ず言っていた買出しにも、行こうとはしませんでした。
心配したスティアが声をかけても、何も言おうとしません。



そしてとうとう、グラオの誕生日―――グラオが焔の継承を受ける日になりました。
リウナは部屋のベッドの上で、布団をかぶって丸くなっていました。
「………」
なんとなく嫌な予感がして、リウナは布団をかぶり直します。
ですが嫌な予感というものは大抵当たってしまうもので。
「リウナ?グラオ君が来てるわよ」
ノックの音と共に、スティアの声がドアの向こうから聞こえました。
「…会いたくない」
「何言ってるのよ、今までさんざん仲良くしてもらっておいて」
「いいから、会わない。帰ってもらって」
「ダメよ。…話によれば、グラオ君今日焔の継承を受けるっていうじゃない」
焔の継承、と聞いて、リウナの動きがぴくりと止まります。
「そんな大切な日にリウナに会いに来たのよ、きっと余程の事よ。会ってあげなさい」
「…いや」
「会いなさい」
「いや」
「………」
ドアの向こうが、急に静かになったかと思うと。
ばきぃ!
大木が折れるようなすごい音がして、リウナは思わずドアの方を見ました。
見ると、鍵のかかっていたはずのドアがスティアの長い足に蹴破られて無残な姿になっていました。
「行きなさい」
にっこりと笑えていない笑顔でそう言われ、リウナは渋々(恐々)頷きました。
「…はぁい」





引き止めるわけにも行かないから応接間には通さなかった、とのスティアの言葉どおり、グラオはリウナの家の前に立っていました。
リウナが俯いたままがちゃりと扉を開けると、グラオが振り向いてリウナを見ます。
「…もう近づかないでって言ったでしょ。何の用よ」
「ごめん、謝るから怒るなって」
苦笑するグラオに、リウナは視線を逸らしながら言います。
「謝って欲しいわけじゃないわ、何の用かって訊いてるの」
「…俺、今から焔の継承受けにバール山脈行くんだ」
「知ってるよそんなこと」
取り付く島も無いリウナに、グラオは悲しそうにまた苦笑します。
「だから、…行く前にリウナに会っておきたかったんだ」
「………」
リウナは思わず無言になって俯きます。
「それと…」
グラオはリウナの眼を見て、そして言いました。
「お前が俺の事嫌いでも、俺は俺で、お前が好きだから」
「―――………!」
リウナが顔を上げようとして、そしてすぐに何かを振り払うようにまた俯きます。
リウナは何かを必死でこらえるようにぎゅっと手を硬く握り締め、自分の足元を見ていました。
「…そんだけだ。じゃあ、行ってくる」
グラオが踵を返す音が聞こえます。
こつ、こつ、と遠ざかっていく足音が聞こえても、リウナは顔を上げませんでした。
やがて足音が大分遠ざかってきて、リウナはようやく顔を上げます。
去っていくグラオの後姿を見て、そして―――



「―――!!!」



息を、呑みました。
同時にリウナの体中から、血の気がざぁっと引きました。
リウナが見た、グラオの後姿の下に伸びている影が、



紅く染まっていました。





「―――待って!!」
思わずリウナは叫んでいました。
勝手に体が動いて、足が動いて、地を蹴って、グラオの元へ駆け寄っていました。
呼び止められたグラオは、驚いて振り向きます。
振り向いたグラオの緋色の双眸には、泣きそうな顔をして走ってくるリウナが映りました。
「リウッ…」
「待って!行かないで!お願い、行かないで、お願い!」
駆け寄ってきたリウナは、振り返ったグラオの服を握り締めて、すがるように言いました。
「なん…、どうしたんだよ急に!落ち着けって、な?」
とりあえずなだめようと、グラオがリウナの肩に手を置いて諭すようにそう言います。
が、リウナはがくがくと震えながら血の気の引いた顔でグラオを見上げています。
「行かないで!行っちゃやだ!行ったら、行ったらあなたは…!」
やがてリウナの目からぼろりと涙が流れました。
それにぎょっとしながらも、グラオが何かに気づいてリウナの顔を見ました。
「まさか…影が…」
「………!」
リウナの肩がびくっと揺れました。
それを見てグラオは確信します。
「やっぱり、そうなんだな」
「………」
リウナはグラオの服を握り締めたままうなだれます。
うなだれたまま、もう一度グラオの足元を見ました。
普通は黒いはずの影は、紅く血の色に染まっています。
「…っ、嫌いだよ!あなたなんか、グラオなんか大嫌い!」
リウナは俯いたまま、グラオの服を握り締めていきなり叫びました。
目をぎゅっと閉じて、リウナの紅い瞳から涙がまた零れます。
「嫌い嫌い嫌い大ッ嫌い!グラオなんて大嫌い!」
驚いているグラオに、リウナは何度も何度も"嫌い"と連呼します。
「嫌い…って、言ってるのにッ…!」
リウナは涙をぼろぼろ流しながら、目を開けました。
やはりグラオの影は染まったままです。
「なんで、なんで…染まったままなの…!なんでっ…!」
「リウナ、落ち着けって!」
「なんでっ!なんであたしなんか好きになったの!」
リウナがきっと顔を上げました。
困ってたようにリウナを見ているグラオを睨むように見て、言いました。
「何であたしなんか好きになったのよ!グラオは生きなきゃいけないのに、死んじゃいけないのに!あたしに近づいたら、あたしを好きになんかなったら、死期が近づくって…!死ぬって言ったのに!」
泣きながら、顔をぐしゃぐしゃにしながらリウナがグラオの胸をどん、と叩きます。
「どうしてっ…!あたしなんか好きになったの、あたしに近づいたの、あたしに関わったの!そんなことしたらっ…あたしを好きになったら、その人は絶対、絶対死んじゃうのに!」
肩をわなわなと震わせてリウナがぼろりと涙をこぼします。
「…まさか、お前…俺に散々嫌いだって言ってたのは…」
グラオが呆然と呟きました。
「…そうだよ、あなたに嫌われるためだよ!このままグラオと一緒にいたら、グラオに好きだなんて言われたら、あたしまでグラオの事好きになっちゃうじゃないっ!そんなことになったら、そんなことになったら…グラオ、死んじゃうのに!」
リウナはまたぎゅっとグラオの服を握り締め、叫びました。
「だから、あたしは誰にも好かれちゃいけないの、誰も好きになっちゃいけないの!」



「誰かに好かれることも誰かを好きになることも許されない人間なんていねぇよっ!」



グラオが叫びました。
雷が落ちたようなグラオの剣幕に、リウナはびくりと身を竦ませました。
グラオは手を伸ばしてリウナの頬を撫でるように涙を拭って、口を開きました。
「…誰かに好かれることも誰かを好きになることも許されない人間なんて、いねぇよ」
もう一度同じ台詞を、今度はゆっくりと静かにグラオは言いました。
リウナはぶんぶんと首を横に振ります。
「そんなことない…だってあたしが誰かに好かれたら、誰かを好きになったらその人は、」
「俺は死なない」
リウナの声を強い口調でグラオが遮りました。
リウナが顔を上げて、悲痛な声で叫びます。
「………!そんなこと、誰がわかるってのよ!」
「それなら、俺が死ぬと誰がわかるんだよ」
「わかるわよっ…!今まで影が染まって見えた人で、死ななかった人なんていないんだから…」
「死なねぇよ」
グラオが言いました。
強い口調で言いました。
「リウナを残して死んだりしない。約束する」
「―――………」





「…もし、俺が無事帰ってきて、死なずに帰ってきて、リウナんとこ戻ってきたらさ」
「………」
「お前に近づいても、関わっても、好きになっても死なないって、証明できたら―――」
グラオは笑って、言いました。
「その時は、心置きなく俺の事好きになってよ」
「……!」
リウナが驚いてグラオの顔を見ます。
いつも通りの、グラオの笑顔がそこにありました。



「…そこまで自信満々に言うんだから、絶対帰ってきてね」
「うん」
「アーリグリフに帰ってきたら、一番にあたしの家に来てね」
「うん」
「…帰ってこなかったら承知しないから」
「うん」
「…お願い。―――死なないで」
「…うん」
「絶対、絶対に、帰ってきて」
「…うん」



グラオは頷いて。
そっ、とリウナから離れました。
「行って来る」
「…うん」
「絶対帰ってくるから」
「…うん…」
そう、言い残して。
グラオはリウナに背を向けて、そして歩いていきました。
リウナはその後姿を、いつまでもいつまでも見送っていました。








陽が落ちて、世界を真っ赤に染め上げました。
見事な夕焼けは、いつもよりも妖しく紅い色をしていました。
やがて紅い光が紫になり、紺になり、そして暗闇になって夜が来て。
朝になりました。



そして。
心配で心配でしょうがなくて、その夜ほとんど眠れなかったリウナの元へ、グラオは帰ってきました。
約束通り、リウナの家に、真っ先にやってきました。
ただし―――



意識不明の状態で、瀕死の重傷を負って。




グラオが運び込まれた一室に、泣きそうになりながらリウナは飛び込んできました。
そこはリウナの家の隣の、ミリオンベル医院の中の病室です。白で統一された味気の無い事務的な部屋の中はすでに人でいっぱいで、誰かの嗚咽がひっきりなしに聞こえていました。
慌しくリウナがその病室に入ってすぐ、リウナの父であるミリオンベル医師が口元に人差し指をたてました。
「静かにしろ、リウナ」
「お父さん!グラオは?グラ…」
リウナは父親に詰め寄って―――そして、部屋の隅の方にある、ひとつのベッドに横たわっている誰かを見て、息を呑みました。
その誰かはもちろんグラオで、生気の無い青白い顔をしてぴくりとも動かずに目を閉じていました。
「―――…っ」
「…彼は、無事継承を成功させたそうだ。実に見事な戦いぶりで、相当大物のエアードラゴンを従えたらしい。だが、その後すぐに同じ儀式を受けた戦友が、儀式に失敗してエアードラゴンに噛み殺されそうになって、それを庇って―――」
「………」
ベッドの脇で、一人の男の子が涙をぼろぼろ流しながらグラオを見ていました。
ミリオンベル医師は、悲しそうな声音で淡々と続けます。
「脊椎損傷、内蔵もいくつかやられた上に折れた肋骨が右肺に突き刺さっている。…出来るだけの治療は施した。…だが、このまま目を覚まさなければ、恐らくは…」
「…そんな…」
リウナの声が震えました。
「…彼は近頃、お前と仲良くしてくれていたそうだな。…残念だ」
そう、言い残して、ミリオンベル医師はその部屋を出て行きました。
「………」
リウナは目を見開いたまま、感情を無くした表情でベッドに横たわるグラオを見ていました。
そしてそのまま、立ちすくんでいました。
嗚咽だけが聞こえる静かな部屋で、ベッドの脇に座っている男の子が搾り出すような声をあげました。
「俺のっ、俺の、所為だ…まだ力不足だったのに、無理に継承を受けたから、その所為でこいつが…!」
「…お前の所為じゃない、そんなに自分を責めるな」
ベッドの脇に立ちながら、目を覚まさないグラオを悲痛な面持ちで見ていたアルゼイが、その男の子の肩に手を置きます。
「―――この女の所為よ!!」
いきなり、甲高い叫び声が部屋の中に響きました。
皆が驚いて声がしたほうを振り向きます。
グラオやリウナと同年代の女の子が、ぼろぼろと涙を流しながら、ぎらぎらした恐ろしい目でリウナを睨んでいました。
「こいつが!こいつがグラオに近づいたから!今までグラオを独り占めしておいて、命まで持っていく気!?ここから出て行きなさいよ魔女!死女神!」
リウナを指差しながら、女の子は恐ろしい形相でそう叫びます。
指を指され、さらにその所為で部屋中の人間から注目を浴びているリウナは、無言のままその場に立っていました。
「…そうよ、この頃グラオ君とよく一緒にいたもの、きっとこの女が死期を早めたのよ」
「こいつ、グラオの命まで持っていく気じゃないか?」
「やっぱり噂は本当だったんだな、人の命を吸う恐ろしい力を持つ悪魔だって」
半狂乱に泣き叫ぶ女の子の台詞に、周りの人達もひそひそと同意しはじめました。
もちろんその声は、同じ部屋にいるリウナの耳にも届いています。
ですが、リウナはやはり無表情のまま微動だにしません。
それがさらに癪に障ったのか、泣き叫んでいた女の子が喚くように言いました。
「ほら!否定しないってことはそうなんでしょう!恐ろしい力を持つ、命を食らう死女神!魔女!人でなし!悪魔―――」
今にもリウナに掴みかからんばかりの女の子が、さらにリウナに罵倒を浴びせたとき、



「―――――違う!」



今までただ黙って立っていたリウナが、今まで誰も聞いたことのない強い口調で叫びました。
一瞬、その場が静まりかえります。
リウナは顔を上げて、泣き叫ぶ女の子に顔を向け、口を開きました。
「あたしは悪魔でも魔女でも、死女神でもない!人間だ!リウナ・ミリオンベルって言う名前の、ただの人間だ!」
初めて聞くリウナの大声に、周りの人達は度肝を抜かれて立っていました。
ですが、一人だけそんな中で声をあげた人間がいました。
「嘘言ってんじゃないわよ!だったら、あんたに近づいた人間が死ぬのはなんなのよ!その、前髪で隠してる両目はなんなのよ!」
さっきの女の子でした。
一歩リウナに詰め寄りながら、リウナに負けないくらいの声と剣幕で口を開きます。
「人間じゃない事を隠すために、瞳を隠してるんでしょう!あんたの持ってる恐ろしい力で、また誰かの命を奪うんでしょう!」
「違うッ!」
「だったら証明してみなさいよ!ほら、そのウザイ前髪切って、今まで町の人間に一度も見せた事ない目を見せてみなさいよ!」
女の子がその部屋の脇、リウナのすぐ傍の棚にある大きな包帯を切るための裁ちばさみを指差しました。
リウナは一瞬口ごもります。
それを見て女の子はあざ笑うように笑いました。
「ほら、見せれないんでしょう?これでわかったでしょ皆、こいつは悪魔よ!グラオの命を、恐ろしい力で獲ろうとしてる死女神よ!」
女の子が言った瞬間、リウナは、
「―――ッッ!!」
ぎり、と奥歯を噛み締めて無言のまま棚に手を伸ばしました。
乱暴にガラス戸を開け、そこにある裁ちばさみを掴んで自分の前髪を鷲づかみにして―――






ざくんっ!





泣き叫んでいた女の子も、それを見ているだけだったアルゼイも、ぼろぼろ涙を流していた男の子も、そしてその周りの人たちも。
微動だにせず、リウナを見ていました。
リウナの足元に、金糸のような髪がぱさ、ぱさ、と何房も落ちました。
「―――これで満足か」
リウナから、恐ろしいほど静かな声が聞こえました。
不揃いにざっくりと切られた前髪の下の血のように真っ赤なリウナの瞳が、物凄い形相で女の子を睨んでいました。
「ひ…」
さっきまで恐ろしい形相だった女の子が、リウナの瞳と、そして彼女の剣幕に怯えた声を漏らします。
「…し、死女神…!?やっぱり、死女神じゃない!血みたいな瞳の、恐ろしい力を持つ、死女神じゃない!」
言われて、リウナはまた口ごもってしまいます。
が、その時―――





―――俺は、



お前の瞳、キレイだと思うけどな





リウナの頭の中で、誰かの声が聞こえました。





「―――違うって言ってるでしょ!」
大声で否定するリウナに、負けないくらいの大声で女の子が言い返します。
「じゃあなんなのよ、その瞳の色は!人の命を奪う恐ろしい力を持った、死女神そのものじゃない!」
「違う!」





―――リウナの力は、誰かを殺したり傷つけたりする為のものじゃない





「あたしの力は、誰かの命を奪ったりしない!」





もちろん、誰かを呪ったりする為のものでも、ねぇと思う





「誰かを傷つけたり呪ったり、酷い目に遭わせる為の力なんかじゃない!」





きっと、さ。リウナの力は、





「あたしの、あたしのこの力は―――」








―――人を助けるためにあるんだよ








「―――誰かの命を助けるために在るんだ!」

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