※猫物語最終話。猫がわからない方は先に42.過ぎ行く時間を読んでくださいマセ。





薄紅色の花びらがひらひらと舞って。
その様子は、まるで空から舞い落ちる雪のようで。
本当に綺麗でした。



生まれてからすぐに舞い上がって地面に落ちてゆくその薄紅色の花を。
可哀想だな、と思ったことがありました。
誇らしげに咲いているのに、強い風が少し吹けばはらはらと散ってしまうその様子を。
儚いな、と思ったこともありました。











その日は暖かくて、日差しも柔らかく風も心地よい、とても良い日でした。
ついうとうととしてしまいそうなその日、私は乾いた風の吹く街にいました。
春という穏やかな季節に入ったばかりで、辺りの木はほのかな桃色の花を咲かせています。
その花達から風に乗って運ばれてきた、甘い香りが心地よかったのを、とてもよく覚えています。



私はその見事な桃色の花や、漂ってくる香りや、舞い落ちる小さな花びらを眺めながら歩いていました。
戦争が終わった今、敵国であったこの街を私が歩いても、誰も気にする事はありませんでした。
一歩踏み出す度に、足元の花びらがふわりと僅かに舞い上がります。
慌しい日々が続いていたお陰で、そんな風に季節の変わりを楽しむ余裕もなかったので、そんな小さな事がとても久しぶりに思えました。





咲き乱れる桜を楽しみながら、私はある場所に向かっていました。
この街に来た時絶対に一度は立ち寄る、あまり人に知られていない場所です。
それは町外れにある大きな木で、木漏れ日が優しい素敵な場所でした。



いつも一緒にその場所へ行く、金と黒の髪の彼は今日は隣にいません。
声をかけようと部屋にいったらいなかったので、もしかしてもうすでにその場所に行っているかもしれません。
別に絶対に一緒に行く事もないし、もしその場所へ行く途中に会ったら声をかけようかな、と考えながら、私は道を歩いていました。





私が、正確には私と彼の二人がその場所へ行くのは、一匹の猫に会うためでした。
その子はこの街に住み着いている野良猫で、彼にとてもよく懐いていました。
この頃は私にも懐いてくれているみたいで、私も嬉しく思っていました。





私は右手に、小さなボールを持っていました。
それは仲間の中でも飛びぬけて猫好きな茶髪の少女が、よかったらあの子に持っていってあげてください、と言って渡してきた物でした。
柔らかい素材でできていて、揺らすと小さな鈴の音がします。色は橙色で目に優しい可愛らしい色です。
彼女は猫用のおもちゃです、と言っていたので、猫がじゃれついて遊ぶものなんだな、と思いました。



相変わらず舞い落ちる桜並木を通り抜け、いつもの場所が見えてきました。
町外れにある大きな木は、例に漏れず淡い桃色の花を存分に咲かせていました。
あぁ、この木も桜だったんだ。そんなことを思いながら、その木に近づきました。
遠目に見た限りでは、ここにいるかなと思っていた彼の姿は見えませんでした。





大分木に近づき、舞う花びらが髪にかかる位の距離になった時、私は木の裏側に見慣れた物を見つけました。
白い布でぐるぐると巻かれた、金と黒の入り混じった、尻尾のような後ろ髪。
彼の変な髪だというのは容易に想像がつきました。





「やっぱりここにいたんだ」



私はそう声をかけて、幹に片手をつきながら木の裏側を見ました。
思ったとおりに、そこには彼があぐらをかいて座っていました。



「…あぁ」



彼が小さな声で答えました。
その腕の中には、あの小さな猫がいました。
猫を抱きかかえている様子を見て、少々不思議に思いながら、私はまた口を開きました。
…その時、すぐに気づくべきだったのかもしれません。
彼の、ほんのちょっとした違和感に。



「珍しいね、あんたがその子を抱いてるなんて」



彼は何も答えませんでした。
俯いた表情は長い前髪に隠れて、よく見えません。
様子がおかしい?そう思った時。
―――何かに、気づきました。





彼の抱いている猫は、ぴくりとも動いていませんでした。
いつもはゆらゆらと動かしている二又の尻尾も、座った彼の足の上にだらんと力なく垂れ下がっています。





「―――え?」





口から、無意識に声が漏れました。



同時に、とてつもない嫌な予感が、頭をよぎりました。





「その子…どうしたんだい」
「…見てわかんねぇのか?」



私の目から見たその猫は、ただ眠っているようにはとても見えませんでした。
彼の口調はいつも通り淡々としていましたが、どこか悲しげな声音だった気がします。
その彼の口調が、よぎった嫌な考えを肯定しているようで。
私は彼の横にしゃがんで、恐る恐るその猫に手を伸ばしました。





触れたその体は、―――まるで氷のように、冷たく、硬くなっていました。





「―――っ、」





思わず、絶句しました。








その、冷たい温度が。





この子が死んでしまった事を。
この子の命が、すでにこの世に無い事を。





何よりも如実に物語っていました。








手に持っていたボールが、無意識のうちに滑り落ちて、地面に転がりました。
その事に気づいたのはボールが転がって鈴の音がしてからだったので、本当に無意識の行動だったのだと思います。








「…今日の朝、嫌な予感がした」



彼が、呆然としている私に向かってぽつりとつぶやきました。 顔は俯かれたままでした。





「予感が当たって欲しくもなかったが、もしかしてと思って見に来た」



「…この頃、カルサアに小動物の疫病が流行ってるらしい」



「案の定その病気にやられてやがったみたいだな」



「…俺が来た時には、もう遅かったよ。死んでから間もないみたいだったがな」





いつも通りのようで、いつもとは少し違った声音の彼の言葉を聞いて。
信じられないと思っていた現実を、突きつけられたような気がしました。





この子が死んでしまったのだと。
もう、一緒に過ごせる事は、二度と無いのだと。





改めて痛感しました。





心に、ぽっかりと穴が空いたようでした。








「…そう」



私はなんとかそれだけ言いました。
彼の腕の中の猫を見て、そっと腕を伸ばしました。
冷たく固くなっている猫をゆっくりと撫でると、ごわついた感触がしました。
その感触に、ぬくもりはまったくなくて。
涙が出そうになりました。





「…せっかく、心を開きかけてくれたみたいだったのに…」



その、零れそうになった涙を紛らわそうと、私は口を開きました。



「これから、前よりも頻繁に会いにこれると、思ったのに」



「…もう、この子と一緒に過ごせる時間は、ないんだね」



彼は何も答えません。





「…お墓。作ってあげなきゃ」



が、私が次にこう言うと、無言のまま頷いて。
抱えていた猫を私に差し出して、立ち上がりました。







しばらくして、桜の木の下に、小さな墓が出来上がりました。
少し盛り上がった土の上に、墓石を置いただけの簡素な物でした。



私はその小さな墓の上に、折った桜の枝を乗せて、手を合わせました。
彼は隣で、何をするでもなくただ墓を見ていました。





「命って、さ。本当に簡単になくなってしまうものなんだね」
「…そうだな」





思った事をそのままぽつりとつぶやくと。
今日、あまり口数の多くなかった彼が、珍しく相槌を返しました。



「…今まで、数え切れないくらいの命を葬ってきた私が、こんなこと言うのもおこがましいかもしれないけど」
「…」



苦笑してそう言うと、彼は私の方を見ました。
相変わらず、傍目には感情の読めない紅い瞳が、こちらを見ています。
その瞳が、…悲しげに歪んでいるように見えたのは、私の気のせいなのでしょうか。





「あっけない、モノだよね。…少し前まで、一緒にいて、一緒に…過ごしてたのに」



「こんなに、簡単に…突然別れる時が来るなんて」



「…誰かと出逢ったら、遅かれ早かれ、別れる時が必ず来るのは、理解してたつもりだったけど―――」



「…やっぱり、辛いものだね」





桜の花びらがひとつ、墓の上に舞い落ちてきました。
風で飛ばされてそこへ舞い降りた花びらは、少しも経たないうちにまた風で飛ばされていきます。
それを視線で追って、ふと隣の彼を見ると。
…やっぱり、悲しそうな瞳をしていました。





彼の表情はいつも通りの無表情で、でも瞳は何故か悲しげに見えました。
瞳が悲しげに見える、ということは、実際には起こり得ない事かもしれません。
なのにどうしてそう思ったのかは、私にもよくわかりませんでした。



でも。
そんな彼の瞳を見ていると、私まで涙が滲みそうになって。
それを紛らわそうと、私は口を開きました。





「…命、って、桜に似てると思わないかい?」








「…あ?」



彼は私の唐突な台詞に、怪訝そうに振り向きました。



「桜?」
「そう、桜」



私は頭上に広がる、薄紅色の満開の桜を見上げながら、続けました。
そうやって言葉を続けていないと、本当に涙が零れてしまいそうでした。



「桜、っていうより、花、かな」
「…似てるのか」
「うーん、なんとなく、そう思っただけなんだけどね…」



「果敢なくて、脆くて…でも、綺麗で」



「咲いてから、散るまでの間…生まれてから、死ぬまでの間」



「頑張って、精一杯咲き続けてる」



「頑張って、…精一杯、生きてる」





彼は私の言葉を、ただ無言で聞いていました。
賛同しているのか、否定しているのか、それともどうともとっていないのかは、私にはわかりませんでした。



例え否定されても構わないと思っていたので、私はそのまま続けました。





「…でも」



視線を下げて、真新しい小さな墓を見て、



「…絶対に、散る時が来る」





「死ぬ時が、必ず来る」





ふわり、と風が吹きました。
舞う花びらが多くなり、墓の上にもいくつか落ちてきました。





「風が吹いても、吹かなくても」





「絶対に、―――散ってしまうんだ。いつか必ず」








そう言い切って、彼を見ると。
珍しく、彼の唇が開きました。





「―――そうだな」





肯定した彼の声音は、普通の、いつもの彼の声でした。








「だが、な」



また、彼が言葉を紡ぎました。
てっきり、また沈黙が流れるかと思っていたのに。
何を言うのかと彼の顔を見ると、…どこか、吹っ切ったような表情をしていました。
多分、今回は気のせいでは、なかったと思います。





「ただ、咲いて散っていくだけじゃ、ねぇだろ」



「…え?」



彼の言葉に、私は目を見開きました。
彼は頭上に広がる薄紅色の桜を見上げながら、言いました。





「桜…つぅか、花は、次の命に繋ぐために、咲いてんだろ」



「春が過ぎて、夏が来て、秋が来て、―――いずれ、冬が来て」



「また春が来た時、命を咲かせる為に」



「次の命に、繋ぐ為に」





「次の命に、何かを残す為に」





「……」





彼の口調は、まるで歌うようなゆったりとした響きを持っていました。
それでいて、心に突き刺さるような、そんな言葉でした。





「そして、」



「また、"頑張って、精一杯、生きてる"命の為に」





―――咲いてるんだろう?








「―――……っ」





その、言葉を。
彼の、…言葉を聞いて。








命の、尊さや大切さを。
それを失ってしまうことが、どれだけ悲しいことかということを。



改めて、感じました。



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