※先に22.雪景色と26.愛のかたち。を読んでいただくと話がわかりやすいかと。 ※死にネタ含みます。大丈夫な方は下へスクロールして下さい。 そこは暗くて、広さがよくわからない場所だった。 ここはどこなのか、何故俺がここにいるのか、何をしていたのか、一緒に居たはずの仲間はどこにいるのか、何も憶えていなかった。 ただ、分かることと言えば。 俺は右手に血にまみれた刀を持っていること、その刀で切り裂き、息の根を止めたであろう巨大な魔物が目の前に横たわっていること、その魔物にやられたのか、俺の背中からじわじわと血が溢れていること、 そして、 俺や魔物以上に血まみれの、赤毛の女がすぐそばに倒れていること、だった。 涙 魔物が完全に息絶えていることを素早く確認して、俺は女のそばにしゃがみこむ。 女の倒れているすぐ下の地面には―――真っ赤な血溜り。 見ると、肩口から胸元にかけて、大きな爪で引き裂かれたような生々しい傷跡があった。 傷に障らないよう注意を払いながらゆっくりと抱き起こす。 意識はない。が、脈はまだある。 多量の出血のせいで血の気の引いた頬を軽く叩いた。 「…ネル!」 大声で女の名前を呼ぶ。 女はその声が聞こえたのか、薄く瞼を開けた。 「…あぁ、あんたか……」 消え入るような、か細い声だった。 とりあえず、意識が戻ったことに安堵しながら回復呪文を詠唱し始める。 「…ヒーリング」 呪文とともに、薄い淡い光が傷を包む。 が、まだ傷は塞がらなかった。 「…アルベル」 女が何事かを言おうと口を開く。 「喋るな」 それを制し、また呪文を詠唱する。 「…やめなよ」 女が浅い息のまま言う。 無視をして詠唱を続ける。 「…ヒーリング」 もう一度呪文を唱えた。 傷は塞がらない。 また呪文を詠唱しようとする。 「…やめなよ…。あんただって…怪我してるだろう…」 女がまた、制止の言葉をかけてくる。 「うるせぇよ。怪我人は黙ってろ」 先程よりも幾分か強い口調で制す。 「お願い…だから、やめて」 女の口調が少し変わる。 俺は思わず女の顔を見た。 女は相変わらず血の気の失せた白い顔のまま、ゆっくりと微笑む。 「何言ってやがる阿呆、やめたらお前死ぬだろうが」 「あんたの…精神力、もう尽きかけてるだろう…?これ以上呪文を唱えたら…あんたまで死ぬよ」 女に言われ、一瞬ぎくりとなる。 確かに自分の精神力が残りわずかなのは俺自身が一番よく分かっていた。 「黙れ」 「嫌だよ。…最期に言いたいことが山ほどあるっていうのに、さ」 一瞬、血の気が失せる。 何を言っているんだ、この女は。 「何が最期だ…くだらねぇ冗談言うんじゃねぇよ」 「ううん、」 女は首をゆっくりと横に振った。 振ったというより、わずかに動かしたと言ったほうが正しいかもしれない。それほどかすかな動きだった。 「…わかってるんだ」 「何を」 「…もう私は助からないよ。あんたが精神力を使い切るまで回復呪文をかけてくれたとしても、もう無理だよ」 言いながら、女は笑う。 諦めきった、それでいて覚悟がついたような笑顔だった。 その女がそんな表情をするのは、見たくなかった。 「………」 「もうとっくに、致死量の血が流れてる。…自分の体のことは自分が一番よく知ってる。…それに…今まで、何度も出血多量で死んだ人達を見てる…もう、助からないことくらい、わかるよ」 「勝手に決めつけんじゃねぇよ…!」 吐き捨てるように、うめくように言う。 女はやはり笑って、 「…回復呪文は…傷を癒すことはできるけど、流れた血まで元に戻すことはできない。…"治す"ことはできても、新しい血を"創る"ことはできない。…あんただって…わかってるだろう?」 そんなことは十分分かっていた。 が、認めたくはなかった。 女の命が潰えようとしているのを、認めたくはなかった。 絶対に。 「…言った、だろうが」 「…え……?」 女が俺の顔を見る。 「お前を殺していいのは俺だけだ、って言っただろうが!何勝手に死のうとしてやがる!ふざけるな!」 俺は視線を落としたまま、叫ぶように言い放った。 女はかすかに目を見開いた。 「…うん」 女が呟くように言う。 「言ったね。…確かに、そう言った…」 「だったら、」 「でも」 女が俺の台詞を遮る。 「私もあんたに言ったよね。つまらないことで死ぬんじゃないよ、って」 「…」 「…助かる見込みがない者のために精神力を使い果たして死ぬ、なんてつまらない死に方、赦さないよ」 女の口調が一瞬鋭くなる。 「…俺だって赦さねぇよ。俺以外の奴にお前が殺されるなんて」 「うん。ごめんね。約束、守れなくて」 言って、また女は笑う。 「………謝るんじゃねぇよ…」 「うん。…ごめん」 「…」 「…馬鹿。そんな顔、するんじゃないよ」 女がそう言った時、俺はどんな顔をしていたのかわからない。 が、とても情けない顔をしていたのだろうということは、予想がついた。 「私は嬉しいんだよ。最期を看取ってくれたのが、あんたで」 「…」 「…とある人が、言ってたんだ」 「…何を」 女は微笑み、あんたがよく知ってる人だよ、とつぶやく。 「何もない、真っ白な雪の中で…溶けるように、消えるように、死ねたら…」 幸せだと思わないか?ってね。 女が言い出した言葉の意味が汲めず、俺は眉根を寄せた。 もう、今すぐにでも息絶えてしまいそうな細い息をついている女は、さらに続ける。 「私はね、嫌だなって答えたんだ」 「…何で」 女は笑い、言う。 「どこで死んでも、死ぬって言う事実は変わらないから…、だったら、大切な人の傍で、言いたいことをすべて言ってから死ぬほうが、幸せだって」 「…」 「…それに、その方が、早く吹っ切ってもらえるだろうから、って」 「……ねぇよ」 その時俺が発した言葉は、自分でも驚くくらい掠れていた。 「え?」 案の定、聞き取れなかったらしい女が聞き返す。 俺は息を長く吐いて、もう一度、はっきりと言った。 「吹っ切れるわけ、ねぇだろうが…」 「…そんなこと言わないでよ」 女は困ったように笑う。 「…」 俺は何も答えなかった。 いや、答えられなかった。 女の体が、徐々に冷たくなってゆく。 顔色も血の気がひいて白くなってゆく。 …死が、着々と近づいてきているのが手に取るようにわかった。 「…死ぬな」 叶う事のない願いだということはわかっていた。 が、言わずにいられなかった。 「………」 女は何も答えなかった。 代わりに、ゆっくりと重い動きで手を移動させ、俺の手に重ねて握った。 弱々しい動きだった。 冷たい手を、自分の指が白くなるほどに力をこめて、握り返す。 「…ありがとう」 女が幸せそうに笑った。 そして、 ゆっくりと、目を閉じた。 俺の手を握っていた手が、力を無くしてことりと落ちる。 かすかに聞こえていた脈も、今は聞こえない。 命が、目の前でひとつ消え失せた。 「………っ」 思わず、女を抱きしめる。 いつもならゆっくりと背中にまわしてくる手も、 照れたような微笑みも、 照れながら、だが嬉しそうに囁く声も。 何も返ってこない。 女の体は冷たい。 流れ、俺の服を染めた血も、凍るように冷たい。 命が感じられない、冷たさだった。 その冷たさとは対照的な、熱い何かが、ゆっくりと俺の頬を伝っていった。 どれくらい、そうしていたのかはわからない。 一瞬だったかもしれないし、永遠のようにも感じられた。 女の体がさらに冷たくなって。 ゆっくりと硬くなってゆくのが肌で感じられる。 どうしてか。 意識がぼんやりとしてきた。 …あぁ、背中の傷から血が流れた所為か。 ぼんやりとした意識の中で、まるで他人事のように考える。 ゆっくりと、意識が途切れていった。 「………!」 誰かが、何かを言う声が聞こえる。 …誰だ? 何を言っている? 「…ベル、……アルベル!」 その、"誰か"は、俺を呼んでいるようだった。 ぼんやりとした意識の中で、それだけを考える。 「…アルベル!!」 その声には聞き覚えがあった。 妙に聞き慣れた、心地よい声。 同時に、揺さぶられているような感覚を覚える。 「…ねぇ、アルベル!」 この声は、 …この、声は…。 …まさか。 薄っすらと目を開ける。 まず視界に入ってきたのは、 何故か焦ったような、こちらを心配しているような顔をした、 「…アルベル…!」 赤毛の女の顔だった。 「……。…!?」 一気に意識が覚醒して。 勢いよく目を見開く。 目の前にいるのは、やはり焦っているような女の顔。 「…、起きたんだね…。良かった…」 本当に嬉しそうに、女が微笑む。 起きた? 俺が? そんなことを考えながらぼんやりと起き上がる。 そこは、見覚えのある部屋の中だった。 「…俺は」 「…あんた、起こしても全然起きなかったんだよ。いつもみたいに殴っても蹴ってもまったく反応ないし、なんだか魘されてるみたいだったし…」 女が何かを言っているが、俺の耳には届いていなかった。 呆然としたまま、横を見る。 そこには、心配そうな顔でこちらを覗き込む、女がいる。 生きている。 つまり。 あれは。 夢? そう、思った瞬間。 俺はほぼ衝動的に、女を腕の中に抱いていた。 「…え?ちょっと?」 女が驚いて声を上げる。 急にかき抱かれたのだから当然の反応だろう。 が、放すつもりは毛頭無かった。 抱きしめた女の体が暖かく、柔らかく、心地良い。 「…アルベル?」 困ったように女が呟く。 女の、規則的な心臓の音が聞こえる。 吐息が耳のすぐ傍で聞こえる。 俺の名を呼ぶ声が聞こえる。 それだけで。 もう、十分だった。 ついさっきまで険しい表情で眠っていた男に、起きるなり急に抱きしめられて、私は何が起こったのかまだよく理解できなかった。 が、先程までの寝ていた男の様子を思い出し、考える。 嫌な夢を見たのだろう。 彼にとって、相当に嫌な悪夢を。 だって。 彼は魘されながら、泣いていたのだ。 彼の泣いたところを、私は見たことが無かった。 そして、これからも見ることはないだろうと思っていた。 だが。 彼は泣いていた。 そして、うわ言のように呟いていた。 ―――死ぬな、と。 何度も何度も、呟いていた。 昔の、父親を失った時の夢を見たのだろうか。 そんなことを思いながら、自分の肩口に顔を埋めてくる男の頭をそっと撫でる。 まるで子供をあやすように、ゆっくりと。 「………だな」 「え?」 急に、男の口から言葉が漏れた。 私の肩に顔を埋めたままのため、よく聞きとれなかった。 が。 "生きているんだな"と。 確かに彼は言った。 ならば。 今、魘されて泣いていたこの男は。 …もしかして、私が死ぬ夢を見たのだろうか。 私が死ぬ夢を見て、涙を流していたのだろうか。 「…生きてるよ」 ぽつり、と。 私は答えた。 男は何も言わなかった。 「…もしかして、私が死ぬ夢でも見たのかい?」 女が問いかけた。 「…あぁ」 男は答えた。 「…そっか」 女が言って、男は何も答えなかった。 「…泣かないでよ」 「…泣いてなんかねぇよ」 「…さっき、泣いてただろ」 「…」 男は答えず、女を抱きしめる腕にさらに力がこもった。 「…苦しいよ」 女が言う。 男は力を緩めはしなかった。 女は僅かに苦笑して、男の髪を撫でていた手を、男の背中にゆっくりと回す。 「…あんたも、泣くんだね」 「…泣いてねぇ」 「…そうだね。私もあんたの泣くところなんか見たくないよ」 「…」 「…私が死んで、あんたが泣くなら…」 「…」 「私は絶対に死ねないね」 女が言って。 男がゆっくりと顔を上げた。 顔を上げた男の目を見ながら。 女は言う。 「あんたの泣くところなんか見たくないからね」 言って、微笑む。 男もわずかに微笑んで、女の後ろ頭に手を回す。 女がまた微笑んで、目を閉じる。 ゆっくりと、唇が重なった。 唇が離れて、お互いに顔を見合わせて。 「…私は死なない。だからあんたも死ぬんじゃないよ」 「…俺が死んだらお前も泣くのか?」 「…どうだろうね。泣く方に一票」 「…」 「…だってさ。あんたがもし死んだら、って思っただけで、今涙腺が緩みそうになったんだからね」 「…もし俺が死んだら、当然だが泣いたって生き返らねぇぞ」 「当たり前だよ。もしも泣いてあんたが生き返るなら、声が枯れるまで、体中の水分が無くなるまでだって泣いてやるさ」 「…光栄だな」 「…だろう?」 「…なら俺も死ねねぇな。お前の涙なんざ見たかねぇ」 「当然だろう?」 くすくすと、笑いながら言い合う。 そしてまた、男が女の肩に顔を埋めながら抱きしめた。 女もまた、男の背中に手を回した。 女の肩口に埋めた、男の顔には。 もう、涙の跡は無い。 代わりにあるのは、 …彼が普段めったに見せない、 幸せそうな、微笑。 傍にいる彼女でさえも、気づくことは無かったけど。 |